言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

音楽する心と身体

2006-04-25 22:23:59 | ピアノレッスン
ピアノを弾く催しを数日後に控えているので
ここのところ、その備忘録が多くなっている。


ピアノを弾きながら何故か愛情と筋力って似てる(笑)と
考えていた。有ると疑わずに安心しているから
わざわざその事について考えたりしないけれど
いざ失えばその存在の偉大さや大切さがよくわかる。

人間は手術などで失血したりして体力を消耗した状態で
たった1日横たわっているだけで
立つ力を簡単に失ってしまう。

翌朝、直立すると体中の血液が下がり目が回って
簡単には立てない。歩行に慣れるのに1日かかる。
立っている事がこんなに大変な事なのかと感じる。

たとえば女性につきにくい腹筋。
腹筋が衰えるとふらつく。
腰が痛くなったりするし平衡感覚も鈍る。

バレエダンサーのように
まっすぐに美しく立つことを腹筋は手伝う。
ダンスも上手に踊れるし動きも機敏になる。

誰かや何らかの物事との間で
愛情や信頼が相互に行き来し
それが循環していると感じられる時は
無条件に心も身体も調子が良いものだ。


欧米の習慣であるハグっていいな、と思う。
子供が親に抱きしめられたり彼が彼女を、
彼女が彼を、友が友を抱きしめる事で
心身の不安は、少なからず解決するのだ。

そして上手く表現出来た演奏とはそんな風に
「愛情が循環している」状態を思わせる。
揺るがない何かに支えられているように。


演奏の感情表現は過剰過ぎてもいけないし
不足していてもいけないけど
感情表現的な起伏は演奏には不可欠だ。

演奏への疑いは緊張を呼ぶ。

しかし緊張なんて演奏には全く必要ないのだ。
必要なのはむしろ上手く弾けた演奏の
如実なイメージのほうだ。

今日はそんな事を切に感じた
発表会にむけての最終リハーサル録。

<23日:久々に教師A宅@桜上水>

彼女のピアノは数ヶ月前に以前の物と違う
NYスタインウェイのヴィンテージピアノに変わっていた。

前にちらっと触らせてもらって今回は2度目。
作曲家である現在レッスンを受けているB教師の前に
私はこのA教師に2年レッスンを受けていた。


本番の順番通りに3人ずつ部屋に入って練習をする。
今日一緒の2人の人と会うのは今回が初めて。
前回の催しの時には居なかった人たちだ。

現在A教師に習っている彼女達は今日弾くピアノに慣れている。
ちょっと触っておく?と言われ弾いてみる。

発表会のプログラムを手渡される。
私の順番は2部の10人中8番目。大トリは
「ガラスの仮面」の北島マヤを思わせる(笑)本番に
驚異的な実力を発揮する20代前半位の子。

彼女はリストを2曲弾くらしい。凄い…!
そして一部の最後にA教師のソロと連弾、
2部の最後にB教師のソロ演奏がある。

リハーサルの自分の演奏をMDに録音してもらった。
他の二人の曲を聴いてレベルの高さに絶句、、、

最初の人はドビュッシーの「アラベスクNO.1」
次の人はシューマンの謝肉祭OP90-2
大曲、しかも長い!私は3分40秒くらいだけど
彼女達の曲はいずれも5分だ。凄いなぁ、、、

自分の番になって、いざ曲を弾いて弾きながらビビる。
そしてリハーサルなのに緊張しまくる(苦笑)
このNYスタインウェイ、タッチも鳴り方も
B教師のピアノとも私のピアノとも全然違う、、、!

響きや鳴り方は部屋の広さも関係するけど
慣れないピアノをいきなり弾くとこうなってしまう
という典型的な例だった。私の今回の演奏は
割と繊細に仕上げてあって、その音の強弱を
初めて弾いたピアノで表現するのは極めて難しい事を実感する。

で、もう一回りしてみましょう、ということで2度目に弾く。
2度目はさすがに初回よりも随分表現が思い通りになった。
それでも手が空回りすることが多かった。
ただ本番のピアノはこれともまた違うのだ。

あまり微細に表現しすぎず
極端なピアニッシモは避けた方が良いかもしれない。
私が弾いているピアノとは表現力の幅がまるで違う事を感じた。

感情の起伏が繊細でいて激しいから扱いが難しい、、、!
その代わり上手く弾けた時の響きはすばらしい。
しかし会場のピアノがここまで弾き難くないことを願う・・・。

実は出来上がった演奏をA教師に今日
初めて聴いてもらったのだった。
「大人の演奏といった表現ですね」だそうで・・・

本番でこの雰囲気を
100%近く出せるといいのだけど!


<往年の巨匠ホロヴィッツの言葉>

『まず作曲家のすべてを学ぶことから始める。彼の全作品を弾いてみる。
アンサンブル用の曲もとにかく全部を弾く。レコードを聴くんじゃない。
自分で弾くのだ。私は初見の大家だからね。

 全作品を弾くには、理由がある。曲の大小に関係なく、
そこにこめられた作曲家の気分は同じだ。
弾けば、その曲の持つ感情がわかる。その曲の本質が私に語りかけてくる。
つまり、持ち味がわかるのだ。ある作曲家は勇壮をこめ、
ある作曲家は詩的な思い入れをこめる。
自分で弾くのは、レコードには真実がないからだ。

 それに、私はその作曲家のすべてを知ることにしている。
作曲家自身が書いた手紙を読む。時代柄、彼らはじつに
膨大な数の手紙を書いている。それを読めば、作曲家の性格、誠実さ、
好みがわかる。彼がほかにどんな音楽が好きで、
どんな音楽がきらいだったかもわかる。
手紙は本人の精神概念や音楽概念を知る手がかりだ。

 その曲をはじめて弾くときは、ひたすら聴き、ひたすら考える。
そこになにかしら隠されたものがあるからだ。
音符を弾くだけでは、音楽ではない。その真になにがあり、
その曲にどんな感情があり、なにが潜められているか、
そこまで掘り下げなくてはだめなのだ。
だから、はじめて弾いた翌日、私はもう一
度その譜を読んでみる。そして、つぎの二日間はそのまま放っておく。
そして三日日にまた読んで、また二日放っておく。
五日がたち、六日がたつ。すると、いつしか自分が
その音楽に入りこんでいる。楽にすらすら弾けるのだ。

 「弾いているときの私は、誰にも耳を貸さない。
私自身のレコードさえ聴かない。誰からも何からも影響されたくないのだ。
無意識に影響されるのさえいやだ。
選んだ曲には、いつも、初対面のような気持ちで接し、
受け止めていきたいのだ。弾いていて、
ひとつひとつの旋律がはっきり心に染みとおってくる曲、
そういう曲でなければ、私は弾けない。絶対に弾けない。

 「思うに、演奏家にはある程度音楽家の本質がなくてはいけない。
質の良し悪しはともかく、これまでの偉大なピアニストたちは
決まって作曲もしている-一人残らずだ! 
さらに、芸術にはもうひとつの面がある。
 即興だよ。即興なら、私も二時間は弾ける。
私にとって、知性はつねにガイドだよ。決して演奏のゴールではない。
三位一体は必要でも、その中の一つだけが抜きん出ることはよろしくない。

 知性は高すぎてもいけない。音楽家は学者ではないのだ。
感情過多もいけない。センチメンタルになってしまう。
テクニック一辺倒もだめだ。それでは機械と変わらなくなる。
ピアノを使って筋肉強化の体操をしているわけではないのだ。
(一部、略)
著者:ヘレン・エプスタイン 犬飼みずほ
『普段着の巨匠たち』より引用









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FELIX THE CAT

2006-04-16 01:37:08 | ピアノレッスン

今日は4月だというのに風が冷たかった。
陽射しは春だったけど。

2006年4月15日 土曜日

発表会(複数の人々の前で弾くこと)直前の
レッスンの記録@谷中の教師宅


レッスン室には生徒さんが居た形跡がなかった。
もしかしたら自らのコンサートも控えているから
先週に引き続き本来なら生徒への教授は予定に
入れていなかったのかもしれない。

私はたぶん彼が教える生徒の中でも
(8割はプロの音楽家を教えているそうなので)
出来の悪い生徒になるのだろうと推測される、

レッスンの前の恒例の雑談で「マーケティング」についての話題から
今回初めて教師の口から「ノルウェイの森」についてと
「坂本龍一」というキーワードが出て来たのは興味深かった。

この話について個人的に突っ込みを入れたい気持ちもあった、
何故なら坂本龍一と村上春樹は私にとって夫々両極的な存在だからだ(笑)
氏が両者の作品についてどう思ってるのか興味津々だったけど
話が長くなりそうだったのでやめておいた。

初めてお酒の話になる。ビールやワインの話。
師の好みは明確で銘柄名についても明瞭だった。
発泡酒に対する意見は同じだった。
この方はほんとうに芸術家なのだなと思う…良い意味で浮世離れしてる!(笑)

ふと、この師とお酒を酌み交わす事を想像、、、(笑)
もう一人の教師とは叶ったんだけど。
きっと楽しいだろうなと思う、互いの属性を超えたり
それを忘れる程の何かが働けば、、、

前にも書いたけど優れた教師と話していると
上手な人とプレイしているテニスのように
下手なこちらまでテニスが上手になった気にさせられる。
優れた教師というのはそういう力があると思う。

<本日のレッスン録>

ウォーミングアップをしていてください、と言われ弾く。

教師の家にあるピアノは19世紀末のニューヨークスタインウェイで
ピアニストには憧れの楽器だという事は素人である私も知っている。

往年の巨匠達が好んだ楽器でもあったけれど
日本国産の頑丈で画一的な響きの
(トラブルがない優良な国産車のような)
ピアノと比べて、繊細な音と羽根のように軽いタッチで
私が普段家で弾いてるピアノと比較すると
フォルテはフォルテッシモになるし
ピアノはピアニッシモになってピアニッシモは
音が消えてしまうほどに敏感で繊細な楽器。

全てのこのピアノに個々に違った個性があって
扱いにくいことで有名なピアノでもある。そのかわり
微細な表現には長けている、というわけだ。

教師の古いピアノは当然ながらワシントン条約で
象牙の取引や扱いを禁じられる以前のものなので、
美しい象牙鍵盤の感触を楽しめる。

じつは私が使っているピアノも国産の古いものなので象牙鍵盤だ。
象牙の鍵盤は滑りやすいので乾いた手とは相性が悪いそうだ。
幸い私の肌はドライスキンではないし
手の温度も高いのでさほど乾いていないせいか
象牙鍵盤との相性は良いようだ。

側はNYスタインウェイでは珍しく明るい色調の美しい木目。
音も見た目もとても流麗なピアノ。

但し、今度の本番で使うピアノはNYスタインウェイではなく
ハンブルクスタインウェイだという事も
考慮に入れなければならない…

ハンブルクスタインウェイはNY…より幾分弾き易い、
つまりタッチは幾分重い。
日本のコンサートホールにあるものは殆どこちらだそうだ。

<codaが巧く弾けた>

私が3回ほど曲を弾き終えたところで師が部屋に戻る。
どうやら、2階で少し距離を置いて私の演奏を聴いているようだ。
「格段に演奏が良くなりました、間に合いそうですね」と
一応合格ラインの答えをもらう

「では、弾いてみて下さい」想像に反し滞り無く演奏終了。

「1週間で格段に良くなりましたよ。
右手の伴奏も主旋律よりも随分抑えられている」

そして「わかっている事について話している」
という演奏でした、と仰る。

そして、この「わかっている事について話している」
というところで腑に落ちる。

以前このブログ日記にタイトル『甘い思い出』で書いた
クラシックをピアノを弾くということは
「翻訳という行為に似ている」という言及のことを思い出していた。
きっと、このことと似たようなことだと思ったので記録する。

<一部抜粋>

『以前から時々感じていたのだけど、クラシックのように
今を遡る遥か昔に作られた異国の音楽を演奏するという行為は
どこか、自分ではない、或る作家の著述を翻訳という行為に
似ているな、と考えていた。見知らぬ時代に見知らぬ異国で触れる
自分ではない人の語る見知らぬ言葉を意味解釈し
自分の感覚や身体性に馴染ませるようなこと。

外国語で話すこととか、歌を歌うという行為にも似ていると思う。
見慣れない文字、文節、聞き慣れない音。
音のひとかたまり(小節)の言葉の意味を把握した上で文章を区切り、
一音一音を正確に、意味を込めて発音する。

それは自分が使う言葉の限界を超えて
それまで知らなかった未知の世界が開けてくるような
そんなことに、近いように思えた。』

*****

日記の効用は備忘録のうえで考えが
こうして統合されていくことだ。私はまだ何もわかっていない。

教師は、ここからスタート地点とも言えます、と提言した上で
(私もそう感じていた)前奏、中盤のクライマックスについての
2カ所について細かい指摘をくれた。その何れも明確に理解出来て
要求通り表現することが出来た。

「最後のページの部分はとても巧いですよ」と
笑顔で彼は言った。初めて褒められたよ、、、!

お褒めを頂いたのは終盤のクライマックスと
codaの部分の演奏だった。

終盤に表れる(ほんの数秒の)小節にしてたった2小節の
クライマックスのフレーズは
曲への感情移入とその感情表現が苦手な私にとっても
特別に美しいフレーズなので、
演奏が起伏するイメージが膨らんだのだ。

そのフレーズはメンデルスゾーン特有の
抑えられたロマンティックさがあって
現代でも充分通用するような優れたポピュラリティを持っている。
これを例えば今学んでいるバークリーメソッドで(笑)
分析したとしても間違いなく符合するだろう。

そんなドラマティックな展開があって
後に続くcodaの主要な音は半音ずつ下がっていく。

その表現は、この曲のタイトルが「甘い思い出」たることを
充分に示すフレーズだ。

最後の1ページは見所&聴き所だから
きっと沢山ダメ出しされるだろうと思っていたから
少し拍子抜け、、、

教師はチェーホフのドラマトゥルギーに基づき
『演技』に喩えてピアノの演奏について話し始めた。

私は『演技』という表現に興味がある。
そして演技と歌唱と器楽演奏は時間の中で
感情を扱うという事でどこか似ていると思っていた。
興味深く耳を傾ける。

たとえばメインテーマのようなクライマックスの演技は
俳優は比較的、不可なく演じられるものです。
そのクライマックスのあとの…たとえば

「愛し合う男女が別れる」「愛する人が死ぬ」ような場面で
別れの場面は比較的演じる事が出来るけれど
俳優の技量がわかるのはむしろその後の場面で

例えば立ち去る場面、嘆く場面、思慮する場面、
その後ろ姿、、、などは表現が難しい、との事だった。
とても納得する。

クライマックスのあとにその激情が減衰していくような
感情表現は、そのことを受け入れて昇華しないと
できないある意味で成熟した表現だろうと思う。

この曲のタイトルである「思い出」という言葉。
これは過去を振り返ることでしか感じ得ない感情で
ある意味(必ずしも否定的ではないけれど)
『喪失』を前提としている。

振り返って喪失を感じ、失われた過去の記憶を通して
現在でそのことを意義的、事後的に獲得する。

でもそのことは、もう二度と出会わない一回性の出来事なのだ。
音楽の演奏も一回性だ。でもそれらの事は二度と忘れない。
そんな思いを演奏に込めてみようと思う。

レッスンが終わって玄関を出て庭を抜け
門扉に向かおうとしたら目の前に、それまで
まるで私の演奏を聴いていたかのように(笑)
猫が庭の日だまりの中ちんまりと
こちら側に顔を向けて鎮座していた。

近づいても微動だにしないし人に慣れてる。
クビにエメラルドグリーンのリボンが付いていた。
この家で飼われているのかな、、、?

もしかして、メンデルスゾーンの化身!?(笑)



そういえば、、、メンデルスゾーンのフルネームは確か
フェリックス=メンデルスゾーン

この猫の名を「フェリックス」と命名(笑)

家に居るFelix


この子↓顔は白黒じゃないけれど。

近寄っても逃げなかったので、さらに接近を試みる


撫でたり愛でたりしてスキンシップをして色々話しかけて
「バイバイ」と言ったら
わざわざ向きを変えてお見送りしてくれた模様。

ニャ~!

ほんと、ネコ街だ、谷中って。





恒例の谷中散歩。いつもの蕎麦屋さんで(春だから)
ピルスナーエールのミニサイズとせいろを注文。
激ウマ!!!帰り際、店主の素敵な女性に挨拶。

(蕎麦もこの方が打っていて可愛らしいことに
「蛙」がお好きなようで至るところにキュートな
蛙グッズが置いてあった。気が合いそう!(笑)
3回目の今日初めて気がついたのは
この蕎麦屋の小僧さんがトニーレオン似で素敵だってこと。

駅に向かうまでに裏道を通って嗅覚で歩いていたら
「根津神社」に到着した。

こんなところがあったとは。もうじき「「つつじ祭り」で
込み合うらしい、じじばばで、、、

鳥居があったなんて知らなかった。




ちょっとした観光スポット。なかなか風光明媚ですね~
根津&谷中って素敵なところ!



















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Ryuichi Sakamoto - Happy End (Live)

2006-04-14 00:35:03 | 作曲/編曲
        <忘却と再会>


どうしてこの曲の存在を忘れていたんだろう?

ティーンズの頃
この曲がすごくすごく好きだった!

ラモーのガヴォットみたいに寂しくて可愛い。
子供が弾く素朴なピアノ曲のように魅力的。



’90年代から暫くの間、音楽から少し
遠ざかった生活をしていた。記憶の欠落を埋めるように
音楽に近づいているせいか、忘却していた曲も他の曲も、
ときどきは同じ心の中の、それまでとは違う部分で聴いている

この曲を一度忘れて良かったのかもしれない。
ここでまた会えたし、
だから懐かしい人に再び恋をしたような気分(笑)


坂本龍一 Happy end(piano solo)










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月と桜

2006-04-12 01:58:11 | 日々
4月9日 国立へ

近隣に住む旧知の友人に招待されて懐かしき国立へ
この街は東京に来て初めて住んだ街
中央線に乗って駅に降り立つ

6年程住んだだろうか
この街は当時の私にとって新たな生活への憧憬を
象徴する場所だった

懐かしい赤い三角屋根の駅舎
1本だけ早く咲く桜の木

何も変わってない

数年ぶりで訪れたのに南口に出るのに躊躇せず
考えなくても身体が憶えていた

花吹雪の大学通りを歩いた
春の土や花や大木の香りがする

新緑の頃には桃色やフューシャピンクのつつじと
薄紫色の葵が丸く咲いて、ブーケみたく点在する様も
清廉な空気と共にとても美しい。




ここを歩くと特別な気持ちになる
この場所に来ないと味わう事は出来ない


記憶が溢れすぎて言葉が出なかった
今も記憶のどこかで国立に住んでいる。

で、ここに来たのは
食のエロスを堪能するため!(笑)







生まれて初めて「桜のシャンパン」というものを飲んだ
美味!





国立の暮れ行く空の月と桜
















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SweetMemories/音楽のための音楽

2006-04-10 00:52:44 | ピアノレッスン
前回に引き続き発表会へ向けてのレッスン。
残すところ、あと3週間。

好きこそものの上手なれ…とはよく言ったもので
本当に好きな曲を弾いていると飽くことなく
弾くほどに新たな発見がある。

私はクラシックフリークでもなくて
(バッハの音楽を特別に好きではあるけれど)
当たり前ながらピアニストになりたくてレッスンを
受けているわけじゃない(実際、なれない・笑)

ただ、可能なところまで演奏の技術を知って体得し
演奏を通して音楽の事を知りたいというだけ。
その時に使う楽器がたまたま
ピアノだったということだ。

一見相反しているように思える
ポップスとクラシックだけど
バッハから商業音楽に直結している、ということは
理論として学んだし、映画美学校の
商業音楽理論の学習と並行してクラシックピアノのレッスンの内容は
引き裂かれることなく、私の中で少しずつ統合されつつある。


ピアノ演奏の実力も情熱もモチベーションも
小学生並みのテンションだけど、さして巧くはないので
人前で弾く事にはあまり興味もなく、むしろ苦手。

でも、その事は必要だ、という事だけはわかるので
ともかく今回の発表の機会に参加することにした。


<2年前の記憶>

100名程収容可能な代々木上原のホールでの開催だった。




弾いた曲はバッハのコラールより「アリオーソ」
(「憂鬱と官能を教えた学校」でこの曲の
バークリーメソッド的ポピュラリティについての
著述を知るのは約半年後の事だ)
ピアノ用にアレンジした楽譜は往年の巨匠コルトーが書いたもの。

この曲はグールドとも密接な関わりのある映画
カートヴォネガットジュニア原作の『スローターハウス5』の
テーマ曲でもあった。今から15年程前に
レコードで毎朝聴いていた、深い思い入れのある曲。

実際の現場では弾く直前に喉はからからになり
手や足は震えるし(苦笑)
頭が真っ白になりそうで逃げ出したくなった。

だから、ただ一つの事を考える事にした。
「私が今ここに居る理由」という事だけを考えていた。

私が現在師事している教師と出会ったのは
或る理由からピアノを諦め、手放した事がきっかけだった。

そんな経緯や幾つかの喪失と獲得のことを含め
「今ここに居る理由」のことだけを考えていたら
結果的に演奏に集中することが出来たのか
初めて大勢の人前で弾いた経験はノーミスの演奏となった。

でも後で振り返ると弾いた時の記憶は最初の数秒以降
記憶から抜け落ちていた、まるで自分が
そこに居なかったみたいに(苦笑)

後日、録音されたCDを聴いた時にほんのコンマ数秒間
次の音符に移るのを躊躇していた箇所を聴いて
自分の記憶が抜け落ちていた事を自覚した。

<先日、4月8日のレッスンの備忘録>

桜吹雪舞う谷中の教師宅に心うきうきと到着。
ピアノの音が聴こえる。ああ、前の順番の生徒さんだなと
呼び鈴を押すのを数秒ためらいつつ、押した。
ピアノの音が止まり、幾分の時間差を置いて
師の「どうぞ」という声。

お邪魔しますと入ったらピアノには誰も座ってなかった。
照明も付いてない。何だかいつもと違う様相の室内。

今弾いていたのは誰だろう?と少し訝りつつ
ソファで待機していたら、師が手帳を手に、微笑しつつ
怪訝な顔で「もしかしたら、一週間間違えてない?」
「15日になってますよ」と彼は言った。
、、勘違い、、、

恥ずかしくて自分の顔が赤くなっているのがわかった…
すみません、今日は失礼しますと帰ろうとしたら
師は外出の予定があったようで、1時間は見られないけど
構わない、ということで急遽レッスンを受けることに。
僕が留守の時じゃなくて良かった、と仰った。

彼は2週間後にコンサートを控えている。
さっき聴こえていたのはその練習だったようだ。
生徒のレッスン予定が入っていなかった事を確認すべく
彼は手帳を取りに二階に上がったので
ピアノの前には誰もいなかったのだ。

以前コンサートの前にはレッスンを受け付けないと
もう一人の教師から聴いた事を思い出していた。

邪魔をしてしまった、と後悔していたら
師はレッスン前のいつもの他愛のない雑談を始めた。
そして、いつのまにかその話に引き込まれる。

お題は「春が苦手なのは何故か」(笑)
この方の話は本当に面白い。多弁なのだと思うけれど
そう感じないのは話し方がゆっくりしていて
間も感じられるからだと思う。

以前、あるレクチャーでお会いした俳優の
中島陽典さんとも、これと似たような
お話をしていたなと思いながら聴いていた。

今でこそ肉体と精神のバランスが保てる様になったけれど
常に脳から成る思考(心?)と身体とのバランスに
幼少時から違和感があり、むしろSFなんかに出て来る
「精神生命体」のようなものに子供の頃から惹かれたそうだ(!)
惑星ソラリスみたい、、、

面白いなと思うのは、何故こんなデジタルな人が
クラシックを教えてるの?ってこと。
しかも彼の演奏はとてもロマンティックなのだ。

そして私も今回弾く「甘い想い出」の演奏を
タイトルどおりに「とびきりロマンティックで甘い演奏」に
したいという気持ちが強まる。そういえばこれ
英語にしたらSweetMemoriesだ(笑)

さて。
1週間間違えたにもかかわらず今日のレッスンは
充実したものとなった。

「暗譜にしますか?それとも楽譜を見ますか?」と訊かれ
ただでさえ頭が真っ白になりそうなので暗譜は避ける。

元の楽譜に書き込んでも意味がないから、と
次回コピーしてらっしゃい、と師は言いつつ
「ちょっと待って」と咄嗟に彼は2階に上がり
コピーをしてきてくれて3枚綴りの楽譜を
その場で手際よく用意してくれた

楽譜に曲の構成について書き込みをくれて
私が弾きながら間違えがちだった部分についての留意点と
暗譜が必要な部分と、そしてそのコツを教わる。

こうして師の指摘によっていつも
モヤモヤが晴れて頭がスッキリしてくる。

今回の思いがけないレッスンが濃い内容となったので
彼は帰り際に「今日は間違えて来てくれて
良かったかもしれない」と仰った。
レッスンを通して、いつもこの教師の情熱と愛を感じて帰る。

彼の「愛と情熱」(笑)は個人に向けたものというよりは
もっと大きくて、むしろ個人を飛び越えて
「音楽」にまっすぐ向かっているのを感じる。
それを感じるとこの教師に付いて良かったと思う。
それは教師としての菊地さんに対しても同じ思いを抱く。

今回のユリイカ菊地成孔特集で興味深かったのは林拓身氏が書いた
坂本龍一に対して後藤繁雄が尋ねた質問と対比され
菊地さんに言及していたものだ。質問の内容は
「音楽の恩寵は何?」に対して坂本龍一の答えが
「数学と建築とSEXを一体化させることが出来る」
(後藤繁雄+坂本龍一「skmt」リトルモア,1999年,58頁)
という事で「なんかわからないけど気持ちイイ」と、
「根拠ある快楽を感じる『数学/建築』の部分
(理論的に構築される音の展開の気持ちよさ)」に
二分される、ということだった。

「菊地さんもまた、この音楽の持つ「数学/建築」の
側面に意識的な音楽家の一人である」という事と
坂本vs吉本のE.cafeでの対談の両者の「音楽に対する認識の違い」に触れ、
おそらく菊地さんも、坂本龍一が否定している言葉の部分を主体とした
感情表現をしすぎた「感情表現の道具」として
音楽を考えていないだろう、ということだった。

全ての芸術は確かに感情を発端としているだろうし
何らかの感情表現であるだろうけれど
それが表現者にとって「感情表現の道具」とされていたなら
私はその表現をさして好まないだろう。
感情に先立つ「音楽の為の音楽」とでもいうような表現が
結果的に聴き手に与えた何か、といった
物事のほうに近づき、触れたいと思う。











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