言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

POPS&DANCE/即興

2006-02-10 01:08:33 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
2月9日 

今日は巻上公一氏による

「ジョンゾーン考案によるCOBRA」即興演奏の
ワークショップ第2回目だった。

とても難しくて覚えるのは簡単ではないルールだけど
理解すればするほど、面白さが増してゆく。
(口外無用なのでルールは書きませんが)

ドキドキして少し不安で緊張しながらも
毎回発見が多く、初めはただの音のぶつかり合いにしか
聴こえなかったものも、音楽的な文脈を知ると
全く別の聴こえ方になってくる。
昨日までは知らなかった言葉を覚えたようなかんじなのだ。
もっと言うと、別な世界が開けてくる。

そんなこともあって、つい参加せずにはいられない
講義なのであった、即興演奏するのは苦手だけど、、、(苦笑)

演奏前の参考音源として視聴した、
菊地さんが指揮をされた弦楽器だけのCOBRAは圧巻だった。
演奏技術の高い人々がやると、この音楽の即興ゲームは
無限の音楽的高まりを聴かせてくれるようだ。
楽器が弾けない人でも参加する事が可能な素敵なゲーム。

どちらかというと私の奏法はクラシック寄りになるのだけど
そんなジャンル分けを抜きにしてこのワークショップは
自分で演奏することによってそして人の演奏を聴くことによって
演奏技術とセンスを磨くのに、とても有効だということを実感する。

じつは私のクラシックのピアノ教師(作曲家)も
自身の著書で即興演奏について触れている。引用してみたい。
(少し長いです)

<ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために>

「音楽的能力とは何か」

即興演奏の能力

音楽というものの最も直接的な形態は「即興演奏」であると
言えるでしょう。即興演奏の場合は楽譜が介在せず、
ひとりの人間が頭の中で想起した音楽的イメージが
即時的に現実の音になるわけです。

この即興演奏という行為を分析してみると、二つの重要な
音楽的能力が要求されることが分かります。その一つは
「頭の中で音楽を想起する能力」であり、もう一つは
「想起した音を直ちに楽器で実現する能力」です。
ー中略ー
簡単な旋律を想起するだけならば容易ですが、そのメロディーの
背景にあるハーモニーを想起するのは少し高度な能力になります。
より複雑な音楽を想起できる能力まで、無限の段階があるでしょう。
さらに込み入ったポリフォニーや様々な楽器の音色まで
イメージできれば、交響曲なども頭の中で響かせることが
可能になるわけです。
ー中略ー
即興演奏は弾くたびに曲想だけではなく音の並び方も
異なるわけですから、反復練習によって習得された
画一的な運動能力が役に立ちません。即興演奏のつもりが
手癖でいつも似たようなパターンに陥るというのは、
しばしば見られることなのです。

音楽的で即興的な演奏を行うためには、このような
習慣的な運動に依存することなく、思った瞬間に思った音を
出せるような臨機応変なテクニックが必要です。
「即興演奏が出来るようなテクニック」が、真の
音楽的テクニックであると言えるのです。

音楽の演奏においても、あらかじめ練習したとおりに
弾けば良いというわけにはいきません。
ピアノの具合や会場の音響条件に影響されるだけではなく、
演奏者の音楽的イメージそのものも流動的です、
むしろ実際の響きをフィードバックしながら、刻一刻、
音を決めてゆくところに音楽の「即興性」が生まれるのです。



でも、とても難しい、即興。そして巻上先生、優しく厳しい先生!
ミュージシャンというより、、、学者のような人だ。
風格のある猫のような、見透かされてしまいそうな風貌。
10代のころ、ヒカシューの「パイク」という曲が
少し怖くて強烈で記憶に残り好きだった、
(よくキーボードで弾いてた…笑)
あの印象のままのお方がいま、目の前に
(しかもあんまり変わらず)座っていらっしゃる。
彼の指揮でキーボード片手に演奏しているなんて
あの頃の私は想像だにしてなかったな、、、

このワークショップ、全員演奏することになるので
かなり勇気が要る。巻上さんが仰った
「真剣にエネルギーを注いで演奏する」という事も、
とてもよくわかる、それはピアノ教師が言う事と
全く同じことなのだ。
そして、思いのほか、それは難しい。たぶん
難しいと思っているうちは難しいのだと思う。
難しくないと思う事が出来れば、身体の方が
ついていくのだろう、そんな気がする。

普段は一緒に演奏したことのない数名の他者と
即興演奏をする、これは言葉のコミュニケーション同様に
ディスコミュニケーションになる可能性が多分にある。
そして優れた演奏とそうでない場合の差異が、怖い位あからさまに。
でもそこには自分一人で探すのには限界がある発見も
多く秘めているように思う。


そして、昨日はレギュラーである菊地さんの講義

2月8日 第9回目 映画美学校 音楽美学講座

<楽曲分析>

今日の音源は何だろう、と楽しみにしていた。
菊地さんご自身の持ち物であるプレイヤーから
ディスコっぽい曲が鳴っていた。
もしかして?と思ったら、Oh!そう来たか、カイリーミノーグ!(笑)

確かに良く出来た曲。
でも最も理論に遠いようなイメージを持っていた。
そして、そんな曲を楽理的に分析するのは新鮮。

殊に、菊地さんの楽理的解釈と注釈が加わると
曲の印象が鮮烈になるのは何故だろうと考えていた。

少ないコードでいかに曲を展開していくか、というのが
いわゆるポップスのダンスチューン。
単純で軽く捉えがちな曲に隠された
楽理を踏まえた緻密なテクニックに、目から鱗。
コードがあまり変わらずメロディーが変化する、
という特徴にも心が惹かれる。

で、カイリーミノーグの曲、
聴き方がすっかり変わりました(笑)凄い。












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記憶と時間

2006-02-01 00:00:28 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
2006年1月25日

目の前で鳴る音楽を聴いたり記憶の中の音楽を辿ったりして
受講していた、第8回目 映画美学校 音楽美学講座


前回に引き続き、バートバカラック「雨にぬれても」

1回で終わる予定だったけれどさすがバカラック
情報量が多いのだろうか2度に渡ってたっぷり分析。


菊地さんは、最後の方のまとめで「雨にぬれても」を
或る意味で子供っぽいと感じるほど
シンプルで童謡のような曲、と仰った。
ただ、本当の子供っぽさと決定的に違う部分は

「何でも出来る状態でいる上での(教養主義的な)我慢」

という言葉がバカラックの音楽性の魅力を言い表していて
とても納得出来たのだった。


キーワード:『奇数節で曲が展開する』

今回、腑に落ちた学習内容は
シンプルなダイアトニック環境に収まったこの優れた曲を
モードに置き換えて考えた時(リハーモナイズ)
これこそが『アレンジメントである』と菊地さんが言った時。

うっすら、ずっと目の前に在った霧が高速に晴れていった。

コード展開から成る作曲とアレンジの違いを知りたかった。
今迄よりも明確に感覚を捉える事が出来た。


前回ちらりと触れられた後奏部分の割り算の余剰部分みたいな
「ポンポンッ」(2拍でカウントする)という
ユーモラスなフレーズは曲中でサビに展開する
9小節目に該当する、ということに理論的に納得する
(ぼんやりとフラクタルという言葉を思い出した)



好きな曲を聴くといつでも初めて聴いた時の
鮮烈な印象と感情を記憶から引き出す事が出来る。

簡単には忘れられないし、忘れない。でも、
楽曲に個人的な感情を抱くのは楽ではない、
何故ならその曲を気軽に聴けなくなってしまうから。
記憶の中で漂う香りのように
強い感覚を伴って記憶にずっと、刻まれる。

(↓そんな「心情」について松本隆が巧い表現をしてた)
…と思ったら畠山美由紀本人でした、歌詞。
松本隆のはハナレグミ「眠りの森」のほうでした。

愛し過ぎた歌が
時に残酷に
記憶の海
照らし出す面影
消えるはずもない恋

畠山美由紀(耐え難くも甘い季節)
富田ラボ シップビルディングより


鮮烈なイメージは記憶の時間の中で
常に円環しているという事に気がついて、

ここのところ感じていた時間の概念や垂直性に対する
違和感を拭うことが出来た。
時間はただ進み、流れていくわけではない、と考えていた。


物理的時間と違って記憶にある時間は上から下へ
こちらから向こうへ進んでいるのではなく、むしろ
(序曲で始まり序曲で終わり円環する
ゴールドベルク変奏曲のように)
始まりも終わりもない…
何も始まっていないし何も終わっていない、
と認識するとしっくり来るという事にも。


■ 記憶と忘却について(引用)

生々しいと感じた過去さえもそこでは
実は不安定な輪郭の曖昧なもの、絶えず
雲散霧消の予感に覆われたものでしか、おそらく、ない。

或る記憶、或いは感覚が異常な鮮明さで蘇って来ることがあっても、
その鮮明さには不安な曖昧さが含まれていて、
ほんの少しの動揺で、一挙に無根拠の中に崩れて行ってしまうだろう。

サミュエルベケットはプルーストについて、
その「失われた時を求めて」について、次のように語っている。

「記憶の良い人間は何も思い出さない。
何故なら彼は何も忘れないからである。」


つまり、思い出すという行為は「忘却」の恐怖において
発動されるものであり、言い換えれば想い出に耽る者、
想い出の中に生きる者は記憶の確かさの中に
救いを見い出しているのではなくて、
その不確かさ、忘却の恐怖の中に生きているのである。

松浦寿輝 詩集より








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