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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

ずっと続く幸福な未知

2006-05-26 01:52:54 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
2006年5月24日 音楽美学講座


失った恋と書いて失恋と読むわけですが
今回の音楽美学講座は何故かそんな気分を味わった、、、

楽曲分析の曲は、前回予告のあったウェザーリポートの
プラザリアル

この曲のコードの構造はモードスケールでも
ダイアトニックスケールでもない。
(と、この時は勝手に解釈していたけれど
後の講義でハイブリッドコードは
モードのうちだと菊地さんが仰ってました、、、とほ)

初めて触れる「ハイブリッドコード」※

<※カウンターバークリーであるLCCメソッドを作った
ベーシストの濱瀬元彦氏による命名。分数コード。
分子が分母の構成音にならない、などの特徴がある>
参考テキストはこちらをどうぞ

菊地さんは、あらかじめ現在の
この講義が行き着く、楽理の最終段階を提示された。

<USTの非機能連結>
(UST=Upper structure triad :上部構造3声和音)
<単一のメロディーを無限にリハーモナイズ>

これにはPOPSの王道である16世紀ヨーロッパに
端を発した機能和声4度の動きを主とする
ケーデンス=「コード進行の原動力」とは無関係な
独自の運動力がある。「モード」よりも抽象的で
コラージュ的なかんじがする。でもモードみたいに
気取ってないし割と愛嬌があるかんじ(笑)

こんなふうな小難しい表題の中身に
少しでも想像がついている、という事は
やはり少しは私もこの世界に足を踏み入れたのだ、
と実感するのだけど本気でやるなら

この道は一生続く未知なので
考えようによっては怖い道のりだけど
考えようによってはとてつもなく幸福な道で
どちらになるのかは自分でしか選べない。

先に、最終場所を提示される、という順序の入れ違え、
というか飛び級というか
そういう考え方、やり方って好きなのだ。

順番が前後する、、、未来に既視感を憶えるような
時間軸、次元、空間のずれ。アンチクロノス的だ。

例えば、中学か高校を卒業したら一旦
社会に出て最低1年間くらい働くシステムとか
世間を見る目が変わって、いいと思うのだけど(笑)

<胸さわぎについて>

ほんとうに美しい曲。この曲をこのタイミングで
菊地さんのチョイスで初めて聴けることを
幸福に思っていた。でも聴きながら
何故か妙な胸騒ぎがしてくる。

これまでに聴いた事のない美しさ。
抽象と情感が混在しているけれど
両者は対立せずに屹立しつつ、調和している。
対位法の音楽のよう。

先日、友人からLeny AndradeのCDを頂いて
POPだけど重く中身の濃いボサノバを聴いていて
その優れたアレンジとPOPさが耳に残っていた。
スキャット好きとしてはたまらないわけだけど

こういう音楽がすごく好きだ、ということを
自覚しているけれど初めて聴いたこの曲には
POPな楽曲を好きなこととは対照的とも言える
まるで違う世界があったのだった。

どうやら私は分散したり迂回した聴き方で
このような音楽に遠巻きに接触していたようだ。

ジャコパストリアスや彼に影響を受けたイケメン
ベーシスト、マーカスミラーがやったカバーや
(「ジュジュ」は数年前やっていたバンドで
演奏したことがあったことを思い出した)
同じようなハードコアジャズ(?)くくりの
パットメセニーなどを聴いていた。
音楽史的なことは全く知識がないのだけれど、、、

彼らの表現の特徴はハードコアな(つまり高度でハードな)
音楽理論を用いつつも、美しくポップな部分があり
人気があって実際に売れている、という
独特なポジションを持っている、とのことだった。

なるほど、そうだったんだ。と納得。
メセニーの音楽性は嫌いじゃなかった。
漠然と感じていた感覚的魅力が理論で裏付けられて納得する。

ジャコパストリアスの音楽は吸引力のような
狂気と理性の両義的なものが炸裂してるような(笑)
強烈なものがあって少し怖かった…
バッハに感じるような音楽性を感じたのを記憶している。

楽曲分析が進む、胸騒ぎの原因が見えて来る。

ここで使われている不思議な調性を感じる
「ハイブリッドコード※」の特徴をメモ


バークリーメソッドでは、この辺りの音楽理論になると
押し黙る場合が多いとのことだった。
・ダイアトニック環境に居ない

・テンションがない(コードは4音のみ)
 居場所(調性)の固定が不可能

・メロディが語って初めて自らが何かを言う人のように(笑)
 無意識的で受動的→下方倍音列で説明が可能な部分あり
(ダイアトニックは上方倍音列)

つまりダイアトニックスケールにおける(POPSで用いられる)
楽曲はコードにメロディーがある程度現れているけれど
ハイブリッド…にはそれがない。
そしてその分メロディの存在が重要になって
その調性は「濃いけれどシンプル」とのこと。
こういった概念に何故か強く惹かれる。

<未知の味のこと>

これまでに無い概念を持ったこの楽曲の構造。
この曲の特徴は(前回も書いたけど)
10回メロディーが繰り返され
一度無調になったりするけれど
再び美しいメロディーのフレーズが出て来たり、と
いうかんじ。これだけ聴いても極めて魅力的で
私には興味深いものだった。

たとえば漠然と、こんな味の御馳走があったらいいなと
想像したとする。でも、それをかつて食べたことはないし
未知の素材の調理法を知らない。火加減はどのくらい、とか
揚げたほうがいいのか焼いたほうがいいのか、
ソースなどの味付けは何が一番合うのかとか、皆目わからない。

他人が作ったそんな料理を頂いたとき、
自分のこれまでのあらゆる五感と記憶を使って
材料と味覚や調理法を回帰させて
未知の素材を想像上で料理をして味見する…
そんなふうに聴いていた。

この音楽の作曲概念は最も音楽家の
「能動的なクリエイティビティが試される」との事で
以前、初等科の時の授業で菊地さんが言っていたみたいに
自宅に帰ったら「パソコンのキーボードじゃなく
ピアノのキーボードを」叩きたくなった(笑)

胸騒ぎがしたのは、このような、
これまで知りたくて知らなかった音楽の概念を知って
耳が傾けば、たった今魅力的に感じていた幾分単純な
いままで好きで聴いていたポップスの聴こえ方が
変わってしまうような予感がしたから。

その事を考えると、とても切なくて
何かとお別れをするようで胸騒ぎがしたのだった。

今回のハイブリッドコードの概念は腑に落ちることが多く
いつものように混沌とした感覚がなくて
とてもわかりやすかった。そのせいなのか
いつになく頭を使っていたようで(笑)
学校の帰り道滅多にしない頭痛が起きて
帰宅してからも頭が割れそうに痛かった。
お風呂に入って幾分静まったけれど、、、

生徒さんと談笑する菊地さんを横目にしながら
(今日の菊地さんは無精ヒゲを蓄えていて
帽子を被っていて<風雨でヅラが飛ぶから?笑>
身体の線が見える素材のカットソーを来ていて
かなり素敵でした)5月にしては冷たすぎる
雨のなか、東京駅に足早に向かいながら
私はPOPな表現に恋をしたのだから
聴こえ方が変わってもきっと
またここに戻ってくるだろうと考えていた。















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メロディーの向かうところ

2006-05-12 01:38:33 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
2006年5月10日 水曜日 音楽美学講座

ここのところ梅雨みたいな天気が続いてる。
とても、太陽と乾いた空気が恋しい。

今朝、自転車のサドルにペタペタと
ベージュ色の小さいあしあとが付いていた。

腰掛けると、ほんのり寂しげな猫の匂い。
猫になって駅まで自転車を漕いでる気になった。
猫バスならぬ猫チャリ、、
すみかのない猫が前のかごに
小さく丸めてあるタオルにくるまって
ひっそり夜を過ごした移り香かもしれない。

北に住む妹から桜が満開という便りをもらう。
ここのところの雨のせいで五月晴れという言葉が
東京から消えてしまいそうな今日、梅雨のない
北海道の乾燥して透き通った空気を思い出した。

さて。連休を挟んで3週間ぶりの講義

お題は「メロディー」

前回に引き続き、楽曲分析の題材は
スティーヴィーワンダーの
「Knocks me on my feet」

これもバカラックの「雨にぬれても」に続き
多数決によって僅差で勝ち取った(笑)楽曲。

学校に行くと菊地さんが
前の仕事の関係で30分程遅れるとの情報が入る。
菊地さんが来るまでジャン・ソオル・パルトルが
登場する物語を読んで暫し待つ。

菊地さんグリーンのジャージを来て登場。少し痩せられた?
全体的な輪郭がシャープになっていて何だか素敵。

スティーヴィーを聴きながら
メロディーについてバークリーメソッドを踏まえつつ
楽理の一般論で説明されていく。

<メロディー>はそれに付随するコードに牽引される
というのが一般的な理論だ。

しかし、今回はカウンターバークリーである
LCC(リディアンクロマチックコンセプト)の理論を用いて
説明がなされた。アンチバークリーメソッド。
無知な私にも、とても興味深く新鮮な内容だった。

菊地さんは100%採用し難いとしながらも
その「なるほど感」について共感出来るような説明がなされた。

LCCの考え方はメロディーを
ヴァーチカル→垂直=VTG
ホリゾンタル→水平=HTGと定義する。

垂直をメロディーに付随しているコードと捉え
それとは別に水平の捉え方では
「メロディには(音楽を推進する上で)メロディ固有の力がある」と定義している、とのことだった。
寝不足でうとうとしかけた私のアンテナが
にょきにょきと伸びる。私も先のピアノレッスン日記で
和声の水平性と垂直性について書いていた事と比較しつつ。

この定義を踏まえてスティービーの素敵にポップな曲の
メロディーをフラグメントに分けて
どこに「グッときたか」を
菊地さんに訊かれて生徒達が挙手する、、、
これ、楽しい!菊池さんに精神分析を受けている気分(笑)

菊地さんも生徒それぞれの嗜好がよくわかるらしく
ある程度、統一性があって傾向化されていて面白い、とのこと。

こうしてメロディーを区切って細分化して
自分の嗜好性を強化して再認識するのは作曲には
重要だ、と仰った。
ただ、本格的に追求していくと、残念ながら
その曲の魅力が薄れていくのも事実だ、と。

何とも切ない話。魅力的で知りたかったその曲を
深く知れば知るほど輝いていた魅力が薄れて行くなんて。
ただ、そのことは蓋然的だった音楽の存在が
必然に変化して行くことに近い。その時点で
音楽は一時凌ぎのものではなくなる。

輝いていたメロディーも理論分析を極めれば
記号化されてしまう。確かにそのことは、
現時点でも多少感じ始めてきている。

でも、不思議なことに、従来あったような
多幸感に溢れた音楽の輝きが薄れていく分
自分の中で響く音楽が少しずつ色づいてくるような
感覚が時々おこる。

たぶん、もう自分が趣味的な
オーディエンスではなくなったのだと
変化を喜んでも良いと思う。きっとこの現象は
音楽の喜びが消えることではなくて
より音楽に近づいたことのようにも思えるから。
そして新しい音楽との出会いの喜びは今後も無限に続く。

同じ音楽を聴いていても…
例えば同じ風景を誰かと一緒に見ていても
感じる事や目線の動き、捉え方などが違うことと同じく

きっと誰もが同じ様にはその音楽を聴いていないだろうと
漠然と考えていたのだけど、今回の講義で
メロディーをフラグメントに分けて
生徒たち各々の嗜好性の差異を感じる事によって
その考えは濃くなった。

自分が思いのほかメロディーに対して
好きと感じるところと、そうでないところが
明確だということを知る。

自分ではあたりまえのことも一般的には
そうでもないことはあって、そのことは
こうして第三者に言われないとなかなか気がつかない。
特に感覚的なことは、、、

何度か日記に書いているテーマ
「音楽の物語性」でも触れているように
(今回のスティーヴィーの曲みたいに)
2回同じフレーズをリフレインする場面でも
2回目は1回目とは同じに聴こえない場合がある。

1度目は「良い」と思わなくても
前後関係のイメージを持って聴くと
2度目は違って聴こえてきて「良い」と思う場合も当然ある。

そういうプレゼンテーションが好きなのだと思う。
2度目に同じフレーズが鳴っていても
1度目とは違うニュアンスで聴こえるような音楽を。


<モードチェンジ>について。

初等科で詳しく触れられなかった
マイナー(ダイアトニック)上のモード
つまりマイナーコードに立ち上るモードの特性について
触れつつ、興味深かったのは、いわゆる
「ドレミファソラシド」の中のファには
実は2つの異なるファがあって
もう片方は#ファ、ということだった。
(これは増4度で最も不協和な音)

このことには作曲の過程で経験的に心当たりがあった。
確信がないのでここには詳しく書かないけれど
この事もとても興味深い内容だったので記しておく。

菊地さんは次回の楽曲分析の予告をされた。
これは何と私が先日の日記で触れた
ある音楽家の曲だった!
何て素敵なシンクロニシティ(笑)

何故か菊地さんが訪れたCDショップに
ことごとくWetherReportのものがなかったという事で
ラッキーなことに!発売前の菊地さんのソロに入っている
「プラザリアル」を聴いた。

聴いて30秒ほどして、或る心的、身体的症状が
久々に起きる。

以前日記に書いたことがあるけれど初めて聴いた音楽に
「音楽そのものが持つ純粋な運動」としかいえないような
音楽的美を感じた時に感情と関係なく
勝手に涙腺が緩む癖が私にはあって、
それが久々に起こった。

目の前の菊地さんが吹いているサックスで
曲の主題が始まったせいもあるのかもしれない…

「その音楽には霊気のような何かが、説明しがたい何かが、
完全に官能的な何かがあった。
肉体から離脱した純粋な状態での官能があった」※
(※ジャン・ソール・パルトルが登場する物語より引用)

内心「なんてなんて美しい音楽…」と
目の前の菊地さんに言いたい気持ちになったけれど
皆がとてもクールな面持ちだったので
大人の振る舞いとして興奮的表現を差し控えた(笑)

でも、これがライブだったらダンスしたかった。
菊池さんの発売前のソロ作品を皆で聴いてるという
とても豪華な生徒の特典なのに
どうして皆こんなにクールでいられるの!?

いや、たしかに全員が感激を表現するのも
どうかと思うけど(笑)学習の場だし…
ただ、こんな時はよくラテン人だったらいいのに、と思う。
そうしたら、こんな素敵な音楽を聴かせてくれて
ほんとにありがとう!とハグを思う存分することでしょう(笑)

いつか、ブラジル辺りで周りが全部ブラジル人の中
屋外でサンバやボサノバを聴いてみたいと夢想する。
夜通し踊ってしまいそう…

目から勝手に溢れる塩分を含んだ水分を出さないべく
感情の形を変えていたら自分の姿かたちや
教室の色や形までも変わったような気がしてきた。

先述の物語の言葉を借りるなら
『音楽の効果で部屋の隅々が姿を変えてきて
まるみをおびてくるのだった』※
そして「どんなふうにこの部屋へはいってこれるかしら、
こんな形をしているお部屋のなかに」※



菊地さんの説明によると
○○氏の曲は、やはり
バークリーメソッドの楽曲分析で多用されるそうだ。

興味深く印象的だったのは、彼の音楽は特別で
同じメロディーでコードが変わったり
抽象的で複雑な展開に聴こえながら
突如として美しいメロディーが現れて
中盤以降はそのメロディーが強調されるも、
そこに付随するコードの全ては
それまでのものとは違う…といったような内容だった。

ときどき、夢の中とか聴覚的なイメージの中で
短く強く聴こえる、とてつもなく美しい音楽があって
(一度も音楽に表せた試しがない…)

今日聴いた菊地さんのソロアルバムのこの曲に
その感覚に近い質感を感じた。
これはきっと私が知りたくて知らなかった音楽だ。


以前書いた日記
<メロディーの因果律>を再び引用

「理由があってそうなっていること、というのは音楽にもある」
と以前の特別講義で外山明氏が言っていた。

また、音楽の機能として曲の終わり以降に起きる
「未来」のことはある程度予測可能だけど
演奏以前に起きたであろう「過去」を想像するのは
困難だと講義で菊地さんが触れたこともある。

そんなふうに音楽を逆行的に想像出来る人は
ある意味天才的だということだった。
何だかファンタジックな話だなと印象に残っていた。

たしかに何度も聴きたくなる曲には
何故そうなったんだろうと考えさせる魅力的なフレーズがある。

高い所から美しい風景を見渡したくなるように
全曲を通してそれを俯瞰するみたいに
何度も最初に立ち戻って聴き始めたくなる。
そして、またその部分に至るまでの様子を確かめる。
これはたとえば画家が絵から離れたり近づいたりして
また描いていく、という作業に似ていると思う。

心が動くフレーズは、感情を操作する
音の修辞的技術から生むことは可能だけど
聴き手はテクニックに感動してるわけじゃない。

目の前で響く音のアンサンブルが
技術や作り手の作為から完全に独立していて
その時「音楽」自らが自由な運動をしている。

で、初めて聴いた曲がそんなだった場合
感情と関係なく涙腺が緩むことがあるのは
「音楽そのもの」というような存在が
別の次元から立ちのぼってくるのを感じるからだ。

音楽はこうして、ほんの数秒間の短い出来事なのに
言葉で表現不可能な忘れられない何かを残して
駆け抜けて行く。今はまだその残った何かの痕跡を
音で辿ることしか出来ないんだけど、
そんな表象的なことを表現するのに楽理は雄弁なのだった。


※部分はボリスヴィアン『日々の泡』より引用











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お馬鹿さん/音楽美学講義録Vol.11

2006-03-12 23:48:39 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
2006年3月8日 第11回目 楽理高等科


引き続き、楽曲分析の講義。


前回は前々回に引き続き「カイリーミノーグ」

ジャニーズ(笑)「青春アミーゴ」とDANCE系POPSが続いたわけだけど

次回はアーティスティックな曲を、という予告どおり
アントニオカルロスジョビン。

何の曲かとワクワクしていたら、
私の中ではジョビンの曲で1、2位を争う程
好きな曲である「How Insensitive」(お馬鹿さん)

菊地さんが詞の「お馬鹿さん」ぶりについて(笑)説明を。

(確かこんなかんじ)

「恋人と別れたくらいで、
そんなに哀しむなんて、お馬鹿さんね」


この曲は10年程前、あるきっかけで
仲間とバンドをやる事になってその時に初めて
アドリブ練習用に演奏した曲で想い出深い。私はピアノで参加した。

これと争うほど好きな曲は去年の今頃の日記に何度か書いた
Children's game。

<参照用過去日記>

『Children's games/スケールの効用』

『サビはドレミファソラシド』


菊地さんが用意してくれたのは
StangetsとAstrudGilbeltと、ああ。これまた何て素敵、
坂本龍一ヴァージョン。

好みのアレンジはさらっとしたボーカルと共に
AstrudGilbelt版だったけれど
Stangetsのアレンジの、途中でリズムパート(ドラム)が
入って来る部分に身体が反応、とても良い。

坂本龍一の、この仕事を菊地さんは
エナジーフローより評価されて然るべきと
思っていらっしゃるようで、エナジーフローが
ピアノのインストゥルメンタルにもかかわらず
オリコン1位を取ったのは偉業だという事にも触れつつ
それを知らない高校生の生徒H君が「本当ですか!?」と
驚いていた様などを眺めつつ

坂本龍一の政治的な思想やスタンスにも触れ
(JAZZ HATEだという事にも・笑)
ブラジル生まれのボサノバとアメリカ生まれのジャズとの長年の
「どちらが先に生まれたか」論争に対する
世界のサカモトが取った姿勢は、ジャズ的なアプローチを排した
クラシカルなアレンジによるジョビンのボサノバで、
ついでにHow Insensitiveに劇的な転調のアレンジをしたのは
彼くらいだろう、と評価されていたのも印象的だった。

ここでふと、先日行った新宿ロフトの菊地さんがゲストで
参加されたパール兄弟と鈴木慶一のライヴのバックステージに
矢野顕子が来ていたことをうっかりサエキさんが言って、
矢野顕子と菊地さんのツーショットを思い浮かべ(笑)
心がさざ波立ったことを思い出した。考えてみたら
このお二人はジャズ繋がり。その後菊地さん御用達の
「青葉」を発見して、ここにあるんだ!と思って友人達と入ったら
菊地さんを発見(笑)して、嬉しくも美味しかった、、、青葉の料理。

そして、菊地さんはあの時カヒミカリィさんなしで一人で
「恋の面影」を唄うなんて、そしてSweetMemorieを唄うなんて
意外な展開に微笑しつつ、うっとりしたのだった(笑)

さて、講義録に戻ろう。

私は個人的にはCASAよりもA DAY in new york
(How Insensitiveもこちら)のほうが好きで、
このアルバムから選ぶならFalando de Amorが最も好きなんだけど

ジョビンのこのような哀しげな曲に感じる、
映画「黒いオルフェ」やブラジルの
強く明るい陽光の下にある黒く濃い影の明るさと暗さの、
強烈なコントラストを想い出していた。憂鬱と官能の国。

幾つかの印象的な分析内容と言述、その印象を復習&記録。

・ジョビンのこの曲を分析するにつれて現れて来る
『擬態』的な構造。

・似ているコード展開にもかかわらず
2度目に現れた時は違ったものに聴こえる

・マイナーダイアトニック使いのお手本

・クリシェ

・小節ごとに変わって行くモード、音列
(同じキー内でHM,NM,MNと展開)

・動く音

・動かない音

・ジョビン→トラウマ→森→エコロジスト的発想


分析していて、概観ではわからない
小宇宙的なものを感じた。
ざっと全体を観ては感じられないようなミクロの世界。

菊地さんは、私のそんな感覚を
「天津」(飲茶?)に喩えて(笑)分かり易く説明された。

以前から楽理分析を「精神分析」に喩えられていたけれど
たとえば数センチ大の小龍包を「おいしい!」と
一口で食べる人は世の中で大半だけど(笑)

楽理分析の作業は小さな天津を少しずつ食べて
中に何が入っているか
フカヒレだとかツバメの巣(笑)とか何とか
堪能して感じながら食べつつ


その作り方や原料を知って「天津職人」に
なれるような事(笑)と仰った。(面白過ぎます)

精神分析とは、初対面の人にも誤解することなしに
その人が何を言っても「この人はこういう人だ」という
分析と理解が出来る反面、特に感動することもなく
ある種の脱力感を抱きつつも尚、
その事に向かうようなもので

それを知らなかった時のように刺激的でもなく
特に楽しくもなく、といった状態ではあるけれど
「天津職人」になっておいしいものを作って
人に喜びを与えられる(笑)とでも言うようなかんじ。

途中で、ふと考えた。

バカラックもそうだけど、こういった優れた楽曲は
メロディーとコードとの、どちらが
作曲における推進力を持っているのだろう、と。

野暮な質問なのかもしれないけど…

たぶん、相互作用なのだろう。
ジョビンはピアノで作曲していた。

唄いながらやっていたかもしれないし
それにつれてコードも変化したのかもしれない。

それにしても、緻密な展開だった。
これを感覚的に出来るとしたら、
それは天才のなせる技なのかと思った。

次の分析する楽曲の予告があった。

ちらっと聴いた、そのジョビンの曲は出だしが3拍子で
聴いた事の無いものだった。とても複雑なメロディー、
不思議な哀愁と喜びが満ちていて叙情的な曲だった。
聴いた事のないジョビンの音楽。

そしてジョビンと思われるヘタウマで
味わいのあるヴォーカルを聴いて
何故か坂本龍一のヴォーカルを思い出した(笑)
うん、ちょっと似てるかも…(笑)

とても気になるこの曲(まだタイトル曖昧)
次回の講義が待ち遠しい。












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POPS&DANCE/即興

2006-02-10 01:08:33 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
2月9日 

今日は巻上公一氏による

「ジョンゾーン考案によるCOBRA」即興演奏の
ワークショップ第2回目だった。

とても難しくて覚えるのは簡単ではないルールだけど
理解すればするほど、面白さが増してゆく。
(口外無用なのでルールは書きませんが)

ドキドキして少し不安で緊張しながらも
毎回発見が多く、初めはただの音のぶつかり合いにしか
聴こえなかったものも、音楽的な文脈を知ると
全く別の聴こえ方になってくる。
昨日までは知らなかった言葉を覚えたようなかんじなのだ。
もっと言うと、別な世界が開けてくる。

そんなこともあって、つい参加せずにはいられない
講義なのであった、即興演奏するのは苦手だけど、、、(苦笑)

演奏前の参考音源として視聴した、
菊地さんが指揮をされた弦楽器だけのCOBRAは圧巻だった。
演奏技術の高い人々がやると、この音楽の即興ゲームは
無限の音楽的高まりを聴かせてくれるようだ。
楽器が弾けない人でも参加する事が可能な素敵なゲーム。

どちらかというと私の奏法はクラシック寄りになるのだけど
そんなジャンル分けを抜きにしてこのワークショップは
自分で演奏することによってそして人の演奏を聴くことによって
演奏技術とセンスを磨くのに、とても有効だということを実感する。

じつは私のクラシックのピアノ教師(作曲家)も
自身の著書で即興演奏について触れている。引用してみたい。
(少し長いです)

<ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために>

「音楽的能力とは何か」

即興演奏の能力

音楽というものの最も直接的な形態は「即興演奏」であると
言えるでしょう。即興演奏の場合は楽譜が介在せず、
ひとりの人間が頭の中で想起した音楽的イメージが
即時的に現実の音になるわけです。

この即興演奏という行為を分析してみると、二つの重要な
音楽的能力が要求されることが分かります。その一つは
「頭の中で音楽を想起する能力」であり、もう一つは
「想起した音を直ちに楽器で実現する能力」です。
ー中略ー
簡単な旋律を想起するだけならば容易ですが、そのメロディーの
背景にあるハーモニーを想起するのは少し高度な能力になります。
より複雑な音楽を想起できる能力まで、無限の段階があるでしょう。
さらに込み入ったポリフォニーや様々な楽器の音色まで
イメージできれば、交響曲なども頭の中で響かせることが
可能になるわけです。
ー中略ー
即興演奏は弾くたびに曲想だけではなく音の並び方も
異なるわけですから、反復練習によって習得された
画一的な運動能力が役に立ちません。即興演奏のつもりが
手癖でいつも似たようなパターンに陥るというのは、
しばしば見られることなのです。

音楽的で即興的な演奏を行うためには、このような
習慣的な運動に依存することなく、思った瞬間に思った音を
出せるような臨機応変なテクニックが必要です。
「即興演奏が出来るようなテクニック」が、真の
音楽的テクニックであると言えるのです。

音楽の演奏においても、あらかじめ練習したとおりに
弾けば良いというわけにはいきません。
ピアノの具合や会場の音響条件に影響されるだけではなく、
演奏者の音楽的イメージそのものも流動的です、
むしろ実際の響きをフィードバックしながら、刻一刻、
音を決めてゆくところに音楽の「即興性」が生まれるのです。



でも、とても難しい、即興。そして巻上先生、優しく厳しい先生!
ミュージシャンというより、、、学者のような人だ。
風格のある猫のような、見透かされてしまいそうな風貌。
10代のころ、ヒカシューの「パイク」という曲が
少し怖くて強烈で記憶に残り好きだった、
(よくキーボードで弾いてた…笑)
あの印象のままのお方がいま、目の前に
(しかもあんまり変わらず)座っていらっしゃる。
彼の指揮でキーボード片手に演奏しているなんて
あの頃の私は想像だにしてなかったな、、、

このワークショップ、全員演奏することになるので
かなり勇気が要る。巻上さんが仰った
「真剣にエネルギーを注いで演奏する」という事も、
とてもよくわかる、それはピアノ教師が言う事と
全く同じことなのだ。
そして、思いのほか、それは難しい。たぶん
難しいと思っているうちは難しいのだと思う。
難しくないと思う事が出来れば、身体の方が
ついていくのだろう、そんな気がする。

普段は一緒に演奏したことのない数名の他者と
即興演奏をする、これは言葉のコミュニケーション同様に
ディスコミュニケーションになる可能性が多分にある。
そして優れた演奏とそうでない場合の差異が、怖い位あからさまに。
でもそこには自分一人で探すのには限界がある発見も
多く秘めているように思う。


そして、昨日はレギュラーである菊地さんの講義

2月8日 第9回目 映画美学校 音楽美学講座

<楽曲分析>

今日の音源は何だろう、と楽しみにしていた。
菊地さんご自身の持ち物であるプレイヤーから
ディスコっぽい曲が鳴っていた。
もしかして?と思ったら、Oh!そう来たか、カイリーミノーグ!(笑)

確かに良く出来た曲。
でも最も理論に遠いようなイメージを持っていた。
そして、そんな曲を楽理的に分析するのは新鮮。

殊に、菊地さんの楽理的解釈と注釈が加わると
曲の印象が鮮烈になるのは何故だろうと考えていた。

少ないコードでいかに曲を展開していくか、というのが
いわゆるポップスのダンスチューン。
単純で軽く捉えがちな曲に隠された
楽理を踏まえた緻密なテクニックに、目から鱗。
コードがあまり変わらずメロディーが変化する、
という特徴にも心が惹かれる。

で、カイリーミノーグの曲、
聴き方がすっかり変わりました(笑)凄い。












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偶然と必然

2006-01-11 23:43:10 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
黄味がかった白の程良く着古された(皮革素材?)
ヨレッとしたコートを着て菊地さんが
いつの間にかフワリと入室。

2006年1月10日 音楽美学講座 楽理高等科

第7回目の今日は、いよいよ架橋である楽曲分析。
待ちに待っていた瞬間。

新年の挨拶をして講義がスタート。

楽曲分析に入るにあたって分析対象の
曲の選び方について説明される。

基本的に菊地さんが何曲か相応しいものを選曲して
それに対して多数決で決めるという方法をとることに。
選ばれるのは1曲。

いつの場合でもそうだけど、全員一致で
良いという曲を分析するのは難しく
(そりゃそう、だって世代も属性もバラバラなのだから)
なるべくポピュラーかつ名曲を、という事で
菊地さんは何を選ばれたのだろうと興味津々でいた。
全部で3曲用意されてるよう。

これです、と菊地さんがCDをセットして曲が流れた。

思わず顔がほころんで直後に泣きたい気分になる(笑)

1曲目「雨にぬれても」バートバカラック


去年初等科の最後の講義で分析した「恋の面影」同様
映画の存在と共に稀有な出会いの記憶と重なる曲。
バカラックのこれらの曲は
無彩色だった寒い冬の時期に出会い
春の暖かさを予感させるように私の生活に色彩をもたらした。

菊池さんが以前日記に書いていたような「喪失と獲得」
(=「憂鬱と官能」)は私をそれまでよりも一層強く
音楽に向かわせた。その結果、今学んでいる
作曲家のピアノ教師と岸野雄一氏が立ち上げ、菊地成孔氏が教える
この「憂鬱と官能を教えた学校」こと映画美学校の
音楽美学講座に辿り着いた。そしてこの経験が今後
喪失につながるのか獲得につながるのか未だわからない。

そんな事を思い起こしながら
私はこれまで彼岸として見ていた場所に
今居るのだなと実感しつつ

2曲目:世界は愛を求めている (バートバカラック)

3曲目:I'm not in love(10cc)

私にとってはこの3曲が選ばれたのは小さな偶然の奇跡。
名曲であるだけでなく、何れも特別な思い入れのある曲で
聴けば、それぞれに対してある物事や鮮烈な感情が
今でも明確に思い起こされるのだ。

しかし時間の都合上I'm not in loveは少々複雑だと言う事で
(以前少しだけコードを取ってみた時に
もしかしたらこの曲は「モード」を使ってる部分が
あるのかなと直観的に感じたことがあった)

多数決によって選ばれたのは
優れて強いポピュラリティと共感性を持つ「雨にぬれても」

「世界は愛を求めている」とは僅差だった。

こんなに思い入れのある好きな曲を
音楽美学講座で分析出来ることはとてもラッキーな事だ。
新春早々、素敵な予感に包まれる(笑)

初等科の時から噂には聴いていたバカラックの
作曲の「作法」のようなもの。
印象は強いポピュラリティを持ちながら
冷徹なまでに静謐で緻密、かつミニマルなものだった。

そういえば映画のインタビューでバカラックは
監督であるジョージ・ロイ・ヒルと共に
バッハの音楽を敬愛していると言っていた事を思い出す。
そしてそれを観ていた私はバカラックの文字には
「bach」が入ってる、と話した事も同時に思い出していた。


大いに盛り上がった今年最初の音楽美学講座は
今週に入ってずっと寝不足でかつ仕事もピークを迎え
気を緩めればへとへとな状態なのにも関わらず
最後迄、気が緩まずに音楽的悦楽を堪能する講義だった。

帰り際に久々にハイテンションで
ふと気がつけばやめたはずの煙草を吸っていた菊地さんは
いつものチャーミングな様子で
楽しげにモロッコへの取材の旅について語り
彼の話を傍で聴きたいと思う生徒達と
灰黄色の煙草の煙にぐるっと囲まれていた。

バルトが定宿にしていた怪しい場所の事や(笑)
ジミヘンが泊まった13号という部屋に
宿泊して気分が悪くなった話とか
回教徒の女性の目力の美しさやら
回教徒の男性の欲求不満度の高さや(笑)
どんなに罵倒しあい喧嘩していても
コーランが鳴れば皆が床にひれ伏す滑稽な様など
短い時間に魅力的な会話がなされ


今日の講義は幕を下ろした。

講義の時より身近な菊地先生と目線が合うと
何故か嬉しくなる。講義を通してこうして時々
近くに居るだけで素敵と思える…のは良いのだけど
考えてみたら菊地さんと講義以外で会話したのは
全て何故か食べ物のことだった、ほんの数回(苦笑)


少し日焼けした様子で無精髭を蓄え
元気だけどどこか枯れたような(笑)
素敵な中年的魅力(でも青年)の気配を漂わせていた。

菊地さんは講義の冒頭に「楽曲分析は精神分析のようなもので
(自分の嗜好性を知るという意味で)
自分を分析する事のようでもあります」と仰った。

私も好きな物事を知りすぎる事は悦びであると同時に
何らかを喪失するかもしれない
切ない行為でもあると考えていた。

楽曲を事細かに楽理によって論理分析し
理解した後のその曲は、まるでただの現象として在るようで
これまでのように新鮮に聴こえなくなります、という事だった。
ただ、好きな音楽を楽しみ快楽的に沢山聴きたいと思うのであれば
いますぐこの学校を退学した方が良いくらいだと。

そしてその事を恋愛に喩えて
ミステリアスに思っていた相手をすっかり知ってしまえば
何とも思わなくなるようなかんじ、と表現された。

「雨にぬれても」は私のiPodShuffleにも入っていたので
聴きながら帰った。

理論によって分析し、これまでよりも色々な事を知り
深い理解をした曲だけれど、聴こえて来たのは
これまでよりもずっと魅力的な「雨にぬれても」だった。

楽曲分析をしていて自分が音楽の表象性と共に
音楽にある本質そのものを必然としていた事を
再認識出来た今年最初の講義だった。
















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メロディーの因果律

2005-11-07 23:35:43 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
「理由があってそうなっていること、というのは音楽にもある」
と以前の特別講義で外山明氏が言っていた。

また、音楽の機能として曲の終わり以降に起きる
「未来」のことはある程度予測可能だけど
演奏以前に起きたであろう「過去」を想像するのは
困難だと講義で菊地さんが触れたこともある。

そんなふうに音楽を逆行的に想像出来る人は
ある意味天才的だということだった。
何だかファンタジックな話だなと印象に残っていた。

たしかに何度も聴きたくなる曲には
何故そうなったんだろうと考えさせる魅力的なフレーズがある。

高い所から美しい風景を見渡したくなるように
全曲を通してそれを俯瞰するみたいに
何度も最初に立ち戻って聴き始めたくなる。
そして、またその部分に至るまでの様子を確かめる。
これはたとえば画家が絵から離れたり近づいたりして
また描いていく、という作業に似ていると思う。

心が動くフレーズは、感情を操作する
音の修辞的技術から生むことは可能だけど
聴き手はテクニックに感動してるわけじゃない。

目の前で響く音のアンサンブルが
技術や作り手の作為から完全に独立していて
その時「音楽」自らが自由な運動をしている。

で、初めて聴いた曲がそんなだった場合
感情と関係なく涙腺が緩むことがあるのは
「音楽そのもの」というような存在が
別の次元から立ちのぼってくるのを感じるからだ。

音楽はこうして、ほんの数秒間の短い出来事なのに
言葉で表現不可能な忘れられない何かを残して
駆け抜けて行く。今はまだその残った何かの痕跡を
音で辿ることしか出来ないんだけど、
そんな表象的なことを表現するのに楽理は雄弁なのだった。

さて。先日2回目の講義で再び触れられた
「テンション(※)」、そのおかげで
初等科でわからなかった事がほぼ理解出来た。

以前、講師菊地さんが言っていた事を思い出す。
黒人の考え方は、内容が進めば進む程難しくなるというより
理解しやすくなる、というものだった。小学校1年生の学習より
小学校6年生の学習のほうを難しく考えがちだけど
実は小学校1年で習う事は、無の状態から始まるわけで、
そちらのほうが難しくないとは決して言えない、という言葉に
ちょっと勇気とモチベーションが沸く。
(テンション=4つの音の規則的構造による
7thコードの和音から1オクターブ超えた3つの音。
文字通り、和音的調和に緊張感を生む。
これによって、響きがJAZZっぽくもなる。)


卒業制作のサビのコード進行はとても
ありきたりなものだけど、この進行は
「さよならを教えて」とかフランシスレイやら
ルグランも、最近じゃ椎名林檎のアルバムでも(たぶん)
使ってあるもので、皆が使う素敵な進行だ。
ピアノを弾くといつも手が自然にそこに行くので、これにした。
多分、ダブルケーデンスといって、言葉で言うと
「しりとり」をしているようなイメージ。

<以下、作曲過程とコードメモ>

駆け出し習得の楽理なので
記述間違えの可能性もあり。

進行はこんなかんじで普通。サビの繰り返しは全部で3回
1.|Dm7 G7 |CM7 FM7 |Bm7-5 E7 |Am7 A7


で、これを弾いていたら手が別の所に行きたくなって変化。
(分数コード?)

2.|FM7→Fm7|EM7→Am7/E|Dm7→DFA♭B/G|CM7→C7|

そしてこのサビは2度目のときは、こうなる
(ベースのルート音は1と同じでコードのみが変わる)

3.|FM7/D→FAB♭E/G|EM7/C→DF♭AB/F|Dm7/B→DFA♭B/E|CM7→C7

この時に、解読不明のテンションコードと
思われるものが出てくるのだった。

で、サビのプレゼンテーションの順番は2,3,1で
最後のリフレインは1のメジャーダイアトニックスケールの
まっとうなコードで終わる、というかんじ。

※DFA♭B/Gという不明な分数コードは
レファラシ♭/G(ベース音)という読み方

先日の講義のおかげでやっとテンションを理解。
分析結果を整理してメモる。


※Nはナチュラル記号のこと(何で辞書の記号の中に存在しないの?)

初めのコード→分数コード(通分)→テンションコード

Am7 → CM7/A → Am7N9
D7 → D7/A → Am7N11♯13
Dm7-5 → Dm7/B → Bm7-5♭9
G7 → DF ♭AB/G → G7♭9
FM7 → FM7/D → Dm7N9
G7 → FAB ♭E/G → G7N9♭13
Em7 → Em7/C → CM7N9
Am7 → Am7/F → FM7N9
EM7 → DF ♭AB/E → EM7♭9

最初に浮かんだコード進行

|Dm7 G7 |CM7 FM7 |Bm7-5 E7 |Am7 A7

こう変化
 ↓

|Dm7N9 G7N9♭13 |CM7N9 FM7N9 |BmФ♭9 EM7♭9|Am7 A7


ここでレコーディング技術科の講師高山さんの言葉が思い浮かぶ。


<映画美学校サイトより引用>

高山 博
(アレンジャー・コンポーザー・「ProTools LE Software 徹底操作ガイド」著者)


音楽の好きな人や音楽製作を志す人は多いが、ただ単に
好きなだけや作りたいだけでは、音楽作品をものにすることはできない。
どんな音楽であれ、それを作るには、具体的に手を動かし、
何らかの道具を使って音を出し、頭を使って音を組織化していくことが
必要になる。これは単に、発想とは別に技術が必要だということを
意味するのではない。発想があっても技術が無ければ
それは作品にならない」とはよく言われることだが、実際のところ、
発想と同時に技術や製作の過程が具体的に思いつかないようでは、
実際に製作に役に立つ発想を得ることはできない。

「何かやりたいが、何をやっていいのかわからない」という人は、
本当はアイデアを得る力そのものが貧困なのではなく、
技術が習得できていないがために具体的に
製作に結びつく着想が得られず、最初の一歩が
踏み出せないといった状態に陥っていることが多いのである。






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空想ハイウェイ?

2005-11-05 00:23:51 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
今日は小さい偶然が幾つか。

スティービーワンダーの久々の新譜を聴いていて
感銘日記をアップしようとしていたら、スティービー
来日しているらしい、たまたま普段居ない時間に
家に居て普段見ない番組にチャンネルを合わせたら
丁度スティービーが生で歌うところだった(笑)

スティービーワンダーの音楽の素晴らしさは
マイケルジャクソンのように
悪魔に魂を売ったからだろうか?(笑)
(マイケルの場合本人が悪魔になりつつあるようだけど、残念)
聴いていて少しの狂気をいつも感じるんだけど
それが全てPOPさに還元されているところが
凄いなと思いながら新譜を聴いていた。

椎名林檎が出ていた、彼女、見るたびに違う人みたいだ。
毎回、数秒間、この人見た事あるけど誰だっけ?と思う。
メイクやヘアスタイル、洋服でイメージが全く変わる。
縄文人顔の私としてはああいう薄い弥生式の顔が好ましい。


さて、スティービーのライブに感銘しつつ
これまた、たまたまデジタルチューナーにスイッチを入れて
普段見ないチャンネルに合わせたら
井上陽水が出ていた。この人ってとても独特な存在。
(多分)フォーク出身なんだろうけど
「井上陽水」というジャンルの音楽をやっている人だなと思う。
何を歌っても井上陽水、何を演じてもロバートデニーロ。
そんなかんじ。

結構長い番組だった。ベッドで転寝しながら
観ていてはっと目が覚めたときに菊池成孔という文字が。
そういえば、告知に出演する、とあった。

学校で音楽の師としての菊地さんを主に知る私なので
ミュージシャンとしての菊地さんの姿を生で観たのは
2回だけなんだけど、この番組は4人のミュージシャンと
陽水さんとのコラボレーションをトークを交えてやる、
といった流れの中(菊地さんの前は彼の師匠でもある
山下洋輔氏だった)何故菊地さんがラストに回され、
彼のSAXの印象的なフレーズが流れる中、
エンディングのスーパーが出てきた演出や
ロケ地が他のどの場所よりも特別な
「日本銀行」の美しい中庭だったことが
スタッフの視点を通して理解出来た。
少なからず菊地さんの存在感には潮流が感じられるのだ。

近々英語でしゃべらナイトにも出るらしいし(笑)
時代性は才能のある魅力的な人間を放っておかないらしい。
面白い事になりそうな予感。

菊地さんのSAXは1曲目の「ジェラシー」は決して
彼のヴォーカルにかぶらず、フォロワーの位置に居て
役割をまっとうしていたんだけど

エンディングに流れた「背中まで45分」では
マニュピレーターの坪口氏による
打ち込みをバックに、SAXの存在感は前面に出てきていて
エンディングにかぶっていったそのフレーズはとても良かった。

とにかく井上陽水

       with
 
       菊地成孔

菊地成孔とクレジットされた、その字面だけでも、
彼とセッションしたミュージシャンに対するイメージが
がらっと変わるような感じがしたし、
それを考えると、今後も彼とセッションしたいと思う
メジャーなミュージシャンが増えるんじゃないだろうか
と推測していた、セ・パ交流戦の如く(笑)
そうだ、パ・リーグ優勝したしなぁ~
しかも千葉のアパッチなヤンキーチームだ(笑)

事実、背中まで45分はすっかり新しいイメージになっていた。

井上陽水氏は「東大のアルバートワイラー」を読んで
菊地さんにアプローチをしてきたそうだ。
番組中で、周囲の人に今度菊地さんとセッションをすると言うと
その人たちから「そうなの?彼とやるの?いいですね~」という
反応が聴かれたらしい。

菊地さんはカメラと相性が良いように思う。
私が愛するピアニスト、グールドのことを思い出す。
彼も、変奇と言われつつ、至極饒舌、あの時代にして
マスメディアとの相性が異常に良かったし
彼の存在も音楽的だったし演奏は音楽そのものだった。

そんなこんなで、とても普通の事のようにしている
菊地さんによるこの「憂鬱と官能を教えた学校」での
楽理講座は、全然普通じゃないなという
段階に突入している今日この頃。

事情もわからずにこの講座を受講するようになったけれど
どうしてこの人がそんなに人気があるの!?と
最初つかめずにいたけれど、今や私も
すっかりファンの一員なのか(苦笑)
誰かや何かを好きになったとしても
そういった何かのファンなんて
未だかつてなったことはないんだけど。

菊地さんという人が持つ何かに共感する、というよりは
ただ感銘せざるを得ない、というかんじ。
何せ、楽しくてその楽しさはとても音楽的なのだ。
これは実際に体験しないとわからないと思う。
その存在は強烈な虚構性を帯びながら超現実的。






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