報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

白夜と白い騎士

2004年12月24日 12時40分35秒 | 軽い読み物
 純白のホワイトナイトが、モハベ砂漠の滑走路を滑っていった。胴体には、同じく純白のスペースシップワンを抱いている。スペースシップワンは、いまから民間商業宇宙飛行開拓に向けた弾道飛行に挑戦する。「人間三人を、地球から100kmの地点へ運び、それを二週間以内にもう一度行えば」賞金1000万ドル(アンサリⅩプライズ)が入る。スペースシップワンのプロジェクトには2000万ドルが費やされた。賞金で費用の半分を回収できる。商業宇宙飛行が実際に開始されれば、運賃は10万ドルから20万ドルになる。
 運搬航空機ホワイトナイトから切り離されたスペースシップワンは上空100.1kmまで達し、15分間の無重力を体験して、地球の引力圏に戻ってきた。というより落ちてきた。


『銀河鉄道の夜』
 このタイトルを初めて目にしたのはいつだっただろうか。たぶん、十代半ばの頃だったと思う。詩人宮沢賢治が、大宇宙への憧れを持っていたかどうかは知らない。そんなことよりも、十代半ばの僕には、これは本当に日本語なのだろうか、と思ってしまうほど、衝撃的な言葉だった。この短いタイトルに頭がクラクラした。それは30年経った今でも変わらない。このタイトルは言葉を超えた何かだ。

 ただ、宮沢賢治の書くものは、中学の僕には馴染みやすいとはとても言い難かった。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」。『永訣の朝』の一節だったか。解説なしでは、この意味を測ることは到底できない。「アメニモマケズ、カゼニモマケズ・・・、ヒガシニソシヤウガアレバ・・・」。これだけしか知らない。「カムパネルラ」という名前は、黙読しているのに、必ず詰まった。「カンパネルラ」と読むべきだったのか。

 言葉は時代と共に変化する。どんなに美しい文章も、つぎの時代まで生き残れるという保証はない。偉大な詩人宮沢賢治の文章も、十代半ばの僕が読んだ頃で、すでに感覚が違っていた。
 宮沢賢治の最高の作品とは、この一編の「タイトル」だと思っている。


 スペースシップワンを宇宙空間に送り出す純白の運搬航空機ホワイトナイトは、一見バルサ材の模型飛行機のように見える。その姿をはじめて見たのは、タイの英字新聞バンコク・ポストに掲載された写真だ。その写真を見たとき、とても本物の航空機とは思えなかった。翼を持って振り回せば、ポキッと折れてしまいそうな感じだ。
 しかし、記事を読んで、これが世界初の民間商業宇宙飛行の実現に向けた、最初の挑戦であることを知った。いよいよ、そんな時代が来たのか。とは思いつつも、あまり興味は持てなかった。15分間の無重力体験だけではつまらない。弾道飛行とは、つまり、空に向けて放った弾丸が、ポトッと落ちてくるのと同じだ。
『銀河鉄道』とはほど遠い。


「交響楽を文章で表現したい」
 宮沢賢治は、そのようなことを、何かに書いていた。十代半ばの僕は「そんなもん無理じゃ」と、読んだ瞬間に否定したことをよく憶えている。音楽を文字で綴ることなどできるだろうか。
 確かに文章と音楽とは、よく似ている。というより、音楽は、文章の手本だ。文章にも序破急や緩急が欲しい。しかし、黙読される文章に、どこまでリズムやテンポ、フォルテシモやピアニシモ、あるいは転調を付加する必要を認めるか、それはすべては書き手の欲求しだいだ。
 しかし、音楽そのものを文章で表現するとなると話は別だ。十代半ばの僕が読んだ限りでは、宮沢賢治の文章には、音楽的なものは感じられなかった。音楽を言葉で綴るなど、夢想だ。


 漆黒の宇宙へスペースシップワンを送り出す発射機の名前が「白夜」。「漆黒の宇宙」と「白夜」。美しすぎる対比だ。この対比によって、「ホワイトナイト」という言葉は大きな広がりをもつ。弾道飛行には、ほとんど興味を持てなかったが、「ホワイトナイト」は、すばらしいネーミングだと思った。

 数日後、カオサンの裏通りで晩飯のカオパットを食べながら、まだ僕はそのことにとらわれていた。しかし、カオパット食べながら、ふと、「ナイトにはもうひとつあるな」と思った。nightknight。バンコク・ポストの綴りがまったく記憶にない。
 White nightWhite knight か。いや、White night に決まっている。それ以外考えられない。
「白い騎士」?。スペースシップワンを漆黒の宇宙へエスコートする「白い騎士」。話にならない。そのままだ。そんなネーミングはありえない。

 ゲストハウスに戻ると、とっくの昔に番犬の使命を忘れた白毛のリィウが、シャッターの前にころがっていた。薄暗いラウンジの隅にバンコク・ポストが乱雑に積んである。ひとけのないラウンジでその山を探った。
 6月23日のバンコク・ポストの9ページに、バルサ材の優美な機体があった。
キャプションには、
”LEFT : SpaceShipOne and launch plane White Knight ・・・”
 とあった。
 まさか・・・
 感心して損した・・・
 バンコク・ポストを丁寧に積み上げて、寝た。

 それから一週間ほどして、部屋で洗濯をしている時、ふと気になった。
 white night は本当に「白夜」なのかと。洗濯を終えてからパソコンの辞書を引いた。そしてこのように出てきた。

 whíte níght
 white night
 ━ 【名】
 【C】 眠られない夜.


 眠られない夜・・・。
 では「白夜」は英語でなんというのか。
「白夜」を引くと、midnight sun と出た。真夜中の太陽・・・。
 ややこしい。
 頭が真っ白になってきた。
 

 宮沢賢治が生きた時代、スペースシップワンもなければ、ホワイトナイトもない。ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた星雲の神秘の美しさも知らない。土星の環は一本しかなく、スプートニクは、まだ土中の砂鉄にすぎなかった。あるのは、満天の星空だけだ。
『銀河鉄道の夜』
 宮沢賢治は宇宙へ馳せる思いから、この言葉を綴ったのだろうか。いや、そうではないと思う。彼は、自分の思いを、直接的な言葉を使って表現するような詩人ではない。
 文字は、単なる記号にすぎない。その記号に無限の広がりを与え、冬のシリウスのように瞬かせるのは、限りなくほとばしり続ける書き手の思いだ。そうして綴られた言葉こそが、時代を越えて、人のこころの奥深くに刻み込まれる。
『銀河鉄道の夜』
 このたった三つの名詞と一つの助詞の中にこそ、あらゆる交響楽の音符が籠められているのではないだろうか。

アフガン不法潜入を試みた若者

2004年12月23日 16時30分53秒 | 軽い読み物
 僕がパキスタンで、アフガニスタンビザの手続きをしていたころ、アフガニスタンに不法潜入しようとして、パキスタンの国境警備隊に捕まった日本人旅行者がいた。

 僕は、ラワール・ピンディの有名な安宿ポピュラーインに泊まっていた。ホテル・ポピュラーインは、常にバッグパッカーであふれていた。そのうち日本人が2~3割を占めていたように思う。一階のレストランのメニューには、オムライスもあった。日本人旅行者から教わったらしい。マトン中心のパキスタンの料理の中で、このオムライスはけっこう光っていた。
 日本人が多い宿といっても、タイやインドのようにひしめいている訳ではなく、日本人同士の交流は比較的円滑に行われていた。

 どこから来て、どこへ行こうとしているのか、というのが旅行者同士が会ったときの、まず最初の話題だろう。お天気から入ることはまずない。見知らぬ同士がすぐに会話できるところが、旅のいいところだ。まわりに日本人しかいない日本での方が、かえって知り合う人が少ない。
 また、旅では日本ではめったに出会うことのない多くの人が目の前に現れる。旅は人間の見本市に出かけるようなものなのかもしれない。放っておいてもいろんな人が前を通りすぎていき、自然に人間観察ができる。

 ホテル・ポピュラーインに着いた日、一階のレストランで髭づらの日本人が話しかけてきた。少し話をしたあと、髭づらの男は、僕の名前を訊いた。
 僕は名乗り、そして相手の名前を訊き返した。
 すると髭づらの男は、
「ハッ、タイチョーであります」
 という芝居がかった口調で言った。
「タイチョー?」
「ハッ、そうであります」
 ま、いいや。自分を社長と名乗る旅行者もいた。タイチョーがいてもいいだろう。そのうちショーグンも現れるかもしれない。タイチョーは、話す頭にたいてい「ハッ」とつけた。
「いま、わが隊の隊員がアフガニスタンへむかっているところであります」
 突然、タイチョーさんはそんな話をはじめた。
「ビザが取れたんだ」
「ハッ、ビザは取っておりません。不法潜入作戦であります」
「不法潜入・・・作戦?」
「ハッ、アフガニスタン人に変装して潜入します。明日あたり国境を越えるものと思います」
 呆れたもんだ。こちらは、明日、日本大使館へ行って、身分証明のレターの交渉をしなければならないのに。
「国境で捕まるに決まってるだろ」
「いえ、大丈夫であります。アフガン人は、国境はフリーパスです。変装すれば、なんなく国境を通過できます」
 そんな簡単なものなのかね。あまりこういう手合いとは話をしたくなかったが、タイチョーさんは勝手にしゃべり続けた。
「わが隊は、世界中で作戦を展開してきました」
 タイチョー殿は、現地で徴兵した日本人を連れて、「砂漠のなんとか作戦」と大層な名前をつけて、水だけ持って砂漠や山へ行くらしい。サクセンといっても、適当に歩いて日帰りで帰ってくるだけだのことらしい。要するに弁当なしのハイキングだ。そのほかのサクセンは忘れた。覚えておくほどの価値もない。
 タイチョー殿は30歳くらい。髪の毛はバサバサで濃い髭づらのむさ苦しい男だった。軍服は着ていない。軍隊経験もない。
 しかし、案外バックパッカーはこういうマガイモンをちやほやする。それがタイチョーさんにはたまらない快感らしい。いかに支持者が多いかを、得意になって話していた。
 まあ、勝手にしてくれ。意見する気もないし、関わり合いになる気もない。

 翌朝、日本大使館へ行こうと、一階のレストランへ降りると、タイチョーがレセプションにいた。
「さっき、不法潜入を決行しようとした隊員から電話がありまして・・・、パキスタンの国境で捕まったらしいです」
 そうかい、僕の知ったことではない。君たちの問題だ。
「そんな奴は、オレは助けるつもりはないね」
 それだけ言って、僕は日本大使館へ向かった。人が正面玄関からちゃんとノックをしてアフガニスタンへ行こうとしているときに、迷惑な話だ。日本大使館で、身分証明のレターの発行を交渉するついでに、日本人旅行者がアフガニスタンへ不法入国しようとして、パキスタンの国境で捕まったらしいと報告しておいた。

 その次の日の朝にも、捕まった隊員からホテルにいるタイチョーに電話があった。電話連絡が許されるということは、まず身の危険はない。
 僕を見つけると、タイチョーは必要もないのに報告した。 
「野郎は、このままでは警官にカマを掘られてしまうと、怯えています。今日は署長室に泊まれと言われているようです」
 君の隊員のケツのことなど、僕の知ったことではない。タイチョーのあんたが何とかすればよろしい。
「野郎は半泣きになって、大使館へ連絡してくれと叫んでました」
 じゃあ、行けばいいだけの話だ。
 バカバカしいので、僕は自分の部屋へもどった。
 ドアを開けっ放しにして、ベッドに横になった。パキスタンの夏は、室内でもチーズが溶けそうなほど暑い。
 そこへ、すぐにタイチョーが現れた。ただでさえチーズも溶けそうなほど暑いのに、髭づらのむさ苦しいタイチョーがくると、部屋の中は鉄まで溶けそうになった。
 タイチョーはドアのところに突っ立って、大切な風をさえぎりながら、
「どうしましょう・・・」
 と弱々しく言った。僕ではなく、壁に向かって話しかけているようだった。普段のタイチョー口調はとっくになくなっていた。
「オレとは関係ないよ」
 と僕は、再度はっきり言った。
 おとついまでは「ハッ、不法潜入作戦であります」などと得意満面で自慢していたではないか。あのときの威勢はいったいどこへいったのか。ドジを踏んで捕まったとたん、会ったばかりの相手に泣きつくとは、どういうことだ。筋違いもはなはだしい。そもそも取り巻きがいっぱいいると自慢していたではないか。
「どうしましょう・・・」
 タイチョーはそれしか言わなかった。さらに声はか細くなり、口は半開きになり、ドアのところでほとんど放心状態だった。
 いつまでも部屋の前に突っ立ているので、イライラして、
「大使館に行けばいいだろ。土曜でもたぶん誰か日本人がいるさ」
 と僕は言った。
 なんとそれでも、タイチョーは、
「どうしましょう・・・」
 しか言わなかった。タイチョーさんの頭の中はどうなっているんだ。
 永遠に僕の部屋から出る気配がないので、ついに頭にきて、
「ならオレが行ってやる」
 と言った。というより、言ってしまった。たぶん、あとで必ず後悔するだろうなという予感があった。が、言ってしまったものは仕方がない。たぶんタイチョーさんは、ほっとけば夜まで「どうしましょう・・・」と幽霊のように、僕の背後に付きまとっただろう。それこそ、たまったものではない。

 一人で大使館へ行くつもりだったが、タイチョーは急に元気になりヒョコヒョコついてきた。ラワールピンディからイスラマバッドまでバスで20分。イスラマバッドでミニバスに乗り換えて10分。簡単な経路だ。
 大使館は、土日は休みだが、それでも一人くらいは日本人スタッフが詰めているのではと思ったのだが、誰もいなかった。
 守衛が電話で日本人スタッフを呼んでやるといって、何本か電話をかけた。ちょっと嫌な予感がした。30分ほどして、一台の車が大使館にやってきた。嫌な予感は的中した。後部座席には、女性と子供が乗っていた。家族でどこかへ遊びに行っていたに違いない。そうなるとわかっていたら、僕はさっさと帰っていた。大切な休日をつぶすほどの問題ではない。

 来てしまったものは仕方がないので、事情を説明した。大使館員は真剣に応対してくれた。とても感じの良い人だった。概要を説明したあと、細かいところはタイチョー本人から説明させた。
「捕まった人の名前は?」
「モリヤマ・×××です」
「モリヤマのモリはどの字ですか」
 タイチョーは隊員のフルネームを漢字で書いた。
「捕まった場所は?」
「ハッ、ペシャワールからカイバル峠を越えた国境です」
 おや?タイチョー口調がもどってきた。
 なるほど。タイチョー殿は大使館へ行ったら大目玉を食らうものと怯えていたに違いない。大使館員の態度が、丁寧なので安心したのだろう。だんだん態度がでかくなってきた。この程度の男なのだ。
「捕まったのは警察ですか?」
「ハッ、KKHと言ってました」
「KKH?何の略ですか?」
「さあ・・・」
 頼りにならねぇ。
「トルカムのボーダーですから、そこの警察でわかるのでは」
 と僕は言った。
「分かりました。すぐ調べてみます。そちらの連絡先は?」
 僕はこれ以上関わりたくないので、タイチョーに名前を教えるように言った。タイチョーは威厳を持って名前を告げた。
 大使館員は最後に、
「ところで、やはりサルガンセキですか?」
 と訊いた。
 当時は「猿岩石」ブームの全盛期だった。猿岩石の猿マネをする若者たちが、トラブルを起こしてはすぐ大使館に駆け込み、世界中の日本大使館を悩ませていた。タイチョーは何も答えなかったが、内心”そんなものと、いっしょにしてもらっては心外である。これは立派なサクセンなのである”と思っていたかもしれない。
 タイチョーはこれで、ひと仕事すんだというお気楽な表情になっていたが、大使館員はこれからが大変なのだ。タイチョーは、大使館に迷惑をかけることを意にも介していない様子だった。もちろん、家族の休日が台無しになったことも。
「ご面倒ですが、よろしくおねがいします」
 なぜ、僕が言わなければならないのか。

 その日の夜8時ごろ、大使館からホテルに電話が入った。ホテルのスタッフに呼び出され、タイチョーが電話に出た。タイチョーは電話を切ったあと、いつもの口調で、
「大使館からです。野郎の居所がわかったそうです。あした釈放されます」
 と僕に言った。
 タイチョーを連れて大使館へ行ったのがまだ午前中だった。大使館員は、それから夜までずっと各方面に電話を入れ、モリヤマの居所を突き止め、釈放の交渉も済ませてくれたわけだ。その間約10時間だ。そして家族の休日は丸つぶれになったというわけだ。優秀なタイチョー殿とその有能な隊員の不法潜入大作戦のせいで。
「あしたモリヤマが帰ってきたら、スシくらいおごらせますから」
 とタイチョーは言った。
 頼むから、もう僕にかまわないでくれ。
「モリヤマが帰ってきたら、日本大使館に出頭させろ、わかったな」
 タイチョー殿は、僕が何を言っているのか理解できなかったようだ。大使館員は、税金で食ってるのだから、このくらい当たり前だとでも思っているのか。たぶん思っているだろう。

 翌日、ホテルの一階で晩飯を食べていたら、紺色のシャルワルカミーズ(アフガン服)を着た若者が突然話しかけてきた。釈放された有能な隊員モリヤマだ。
「どうも、タイチョーから話を聞きました。ありがとうございます」
 一応、口調は丁寧だったが、何かが不満とでも言いたげな感じだった。目に表情がなく、ずっと斜め下しか見ていなかった。
 僕は、話す気もなかったが、目の前に座られては仕方がない。
「で、どうだったんだ」
 とだけ言った。
「留置場はすごいところでしたよ。大勢いる中にぶち込まれました」
 で、そこでもカマを掘られそうになったのか。
「人の叫ぶすごい声が奥から聞こえてくるんですよ。拷問されてるんです」
 モリヤマはいかに凄まじいところにぶち込まれ、かつ、その中で自分はいかに平然としていたかを、強調しようとしていた。半泣きになって、タイチョーに電話してきたことなど、とっくに彼の大脳皮質からは消滅しているようだった。丁寧な口調もほんの最初の方だけだった。彼の話を冷たく聞き流す僕に、苛立っているようだった。英雄あつかいしてくれると思っていたのだろうか。
「アフガニスタンで捕まるならわかるけど、なぜパキスタンが捕まえるのか納得できない」
 とモリヤマは言った。
 不当逮捕とでも言いたいのかね。モリヤマは自分の行為を正当化しはじめた。このタイチョーにして、この隊員ありと言うしかない。
「これから、みんなで出所祝いをするんですよ。いっしょに行きましょう。おごりますよ」
 とてもありがたい申し出だが、とっとと僕の前から消えてくれ。
「メシはもう食ったからいい。それより、あした日本大使館へ行ってこい。いいな」
「わかってます。大使館から来いと言われました」
 本当にわかっているのか。
 不法潜入を当たり前のことと思い、パキスタン側で捕まったことに納得できない程度の前頭前野の持ち主だ。
 あと二日ブタ箱に放り込んでおけばよかったと本気で思った。

 その夜、優秀なタイチョーと有能なモリヤマ隊員、そしてこのすばらしい武勇伝をはやしたてる知性豊かなバッグパッカーたちは、一晩おおいに盛り上がったことだろう。
 以後、タイチョー殿もモリヤマ隊員も、二度と僕に話しかけてこなかった。彼らが僕にできる最善の行為ではある。

 モリヤマは、いたるところで、この件を「武勇伝」として吹聴してまわっていた。その後何人もの旅行者から、モリヤマの話を聞かされた。彼らは等しくモリヤマの武勇伝を褒め称えていた。不法潜入に共感しているようでは、お話にならないが、一応、モリヤマ隊員が話さなかったであろう部分は補足しておいた。君たちの英雄殿は、カマを掘られると本気で恐怖し、日本大使館へ連絡してくれ!と半泣きになって電話してくるほどの、強靭な精神力と魅力的なケツの持ち主であると。

 数ヶ月のち、モリヤマ隊員をタイのバンコクで見た。あちらも僕を見たはずだ。テーブルは1メートルと離れていなかったから。紺のシャルワルカミーズが彼のトレードマークなのか、タイでも同じ服装をしていた。視線を斜め下に落としているところもパキスタンの時と同じだ。ひとりでいるときの彼は、自信の欠けらもうかがえなかった。まばゆいカオサン通りのネオンの中で、どこか、追い詰められた小動物のような表情をしていた。いったいモリヤマ隊員は誰に追い詰められているのか。
 たぶん、自分自身だ。

─報道写真家になった日 2─

2004年12月17日 22時08分49秒 | 報道写真家から
 身分を証明するためのレターか・・・。
 日本大使館がそういった文書を作成してくれるということも、当然初耳だ。

 正直なところ少し悩んだ。そんなひょいひょい発行してくれるようなものではないだろう。お役所のことだから、確実な証明を要求されるにちがいない。しかしこちらには、身分を証明するものなどあろうはずがない。
 僕ができることと言えば、正攻法しかない。不真面目な気持ちで行こうとしているのではないことを、信じてもらうしかない。もし、信じてもらえれば、僕自身の決断が本物だったということだ。逆に信じてもらえなければ、僕の決断など生半可なものであり、とっとと旅行にもどれ、ということだ。そういうことだ。そう思うと、こころは楽になった。単に、自分が試されるだけの話だ。

 アフガニスタン大使館へ行った翌日、さっそく日本大使館へ向かった。
 日本大使館の窓口はハーフミラーになっていて、相手の顔が見えない。ハーフミラーに写った自分の顔に、用件を告げた。僕の顔から「少しお待ちください」と返事が返ってきた。
 しばらくして第二面接室に入るように言われた。分厚い防弾ガラス越しに、大使館員と挨拶を交わし、椅子に座った。そしてアフガニスタンへ取材に行くこと。アフガニスタンビザの発給のための、身分証明のレターが必要であることを手短に伝えた。
 大使館員は、
「どんな雑誌に掲載なさっているんですか?」
 と訊ねた。
「いえ、広告に使われたことがあるだけです。ずっと広告の仕事でしたから。それ以外に掲載されたことはありません」
 ウソではないが、ちょっと微妙だ。
「今回の取材は、どこに掲載される予定ですか?」
「どことも交渉はしていません。日本に帰ってから、出版社に持ち込ます」
 これもウソではないが、うしろめたい。
 そのほか、さまざまな質問を受けたが、ほかはよく覚えていない。
 面接は途中から、まったく関係ない話題に移った。日本人の旅行者が、アフガニスタンに不法潜入しようとして、パキスタンの国境警備隊に捕まったのだ。捕まった旅行者の仲間から聞いたのだが確証はなかった。不法潜入しようとして捕まった者など、僕にはどうでもよかったが、大使館員はそうはいかなかった。とりあえず知っているだけのことを伝えた。そのあと僕は、旅行者のそういった行為を批判する意見を述べた。もちろん本心だ。
 ちょうど「猿岩石」がはやっていた時期で、日本人の旅行者が世界中でバカなマネをしては、日本大使館を悩ませていた。多くの旅行者が競うように無謀なことをしては、窮地に立つと、すぐに大使館に助けを求めていた。そうした実態と大使館の悩みを、少しこちらからインタビューした。
 たぶん30分ほど大使館員と話しをしていたと思う。
「それでは、あす、あさっての土日は休みなので、レターは月曜になるのですが、よろしいでしょうか」
 と大使館員は言った。
「はい、けっこうです・・・」
 発行してもらえるのか?
 大使館員は、僕のパスポートをコピーしたあと、必要事項を書類に書き込むように言った。取材期間や目的地などだ。

 正直なところ、僕はレターは発行してもらえないと思っていた。僕の答えはすべて歯切れが悪かった。こんな調子では、まずダメだろうなと。
 僕ができることといえば、不真面目な人間ではない、ということを伝えることだけだった。世の中そんなに理想どおりにいくものではない。
 しかし、レターの発行は許された。
 大使館員が、僕の身分を信じたのかどうかは大いにあやしい。僕の答えそのものは、あまりにも歯切れが悪かった。ウソをつこうと思えばいくらでもつけた。しかしあのとき、もしウソ八百を並べていたら、レターは手にできなかっただろう。
 いまでも、僕の思いが、彼に通じたのだと信じている。それ以外に考えようがない。

 人に何かを伝えたければ、本当に自分はそれを信じているかを、自分に問うだけでいい。特別な言葉は必要ない。
 人間は、美しい言葉に感動するのではない。言葉のはるかかなたにあるものに感動するのだ。言葉は誰でも操れる。美しい言葉を並べるだけなら簡単なことだ。辞書から抜き出せばいい。本当に美しい言葉とは、美しいものに感動するこころからしか生まれない。言葉そのものは、美しくも醜くもない。言葉は単なる道具だ。その道具を美しくするも醜くするも、すべて人間のこころ次第だ。
 僕は、コピーライターをしていたが、買うに値する商品だと思ってコピーを書いたものなどない。この商品のコピーを書いてくれ、と依頼がくるから、響きのいい言葉をひねり出すだけの話だ。商品を美化する言葉の羅列と、売り上げとは何の関係もない。そもそも広告が大ヒットした商品は売れないというのが広告界の常識だ。
 優れた商品は、放っておいても売れるものだ。
 言葉もおなじだ。こころの底から信じて発せられた言葉は、放っておいても相手に通じる。
 日本大使館での、ほんの30分ほどのやりとりだったが、僕は多くのものを学んだような気がする。

 当時、僕のほかにも、アフガニスタンへ行くために日本大使館で身分証明のレターの発行を頼んだ者がいる。僕は会っていないが、その人物は年配で雑誌の編集者だと名乗っていたらしい。僕が、パキスタン北部のフンザにいた少し前に、その人物がフンザで問題を起こした。
 その人物が、女の子を撮影しようとしたとき、女の子が拒否した。それにもかかわらず、彼は無理に撮影しようとした。しかし別の女の子が撮影の妨害をした。その男はそれに腹を立て、撮影の妨害をした女の子を突き飛ばして怪我をさせた。もし、僕がその場にいたら、その男を風の谷の谷底に投げ飛ばしていただろう。
 相手の感情を無視して写真を撮るのは、それだけでも許しがたき暴挙だ。おまけに子供に暴力をはたらくとは、最低の男だ。
 子供といえども、イスラムの女性を撮るのはご法度だ。いや、イスラム圏に限らず、相手が承諾しない限り絶対に写真は撮ってはいけない。それは基本以前の問題だ。こういう人物は、他者に対する敬意や配慮の念がいっさいないのだろう。自分を中心に世界は回っていると思っているに違いない。
 この自称雑誌編集者は、日本大使館で、身分証明のレターの発行を拒否された。もちろん、日本大使館はフンザでの出来事など知らない。日本大使館として、この人物を査定し、判断を下したのだ。たとえ、この人物が本物の雑誌編集者であったとしても、日本大使館はレターの発行を拒否しただろう。

 土日を少しあわただしく過ごした後、月曜に日本大使館へ赴いた。
 また、自分の顔に向かって、用件を告げた。そして同じ面接室へ通された。
 僕の身分証明のレターは、ツルツル光る厚手の上質紙でできていた。日本大使館の割印も入っている。冒頭に、「この者は日本国のジャーナリストであり、貴国はなにかと便宜を図ってやってほしい」、というようなことが書いてあり、僕の名前、生年月日、パスポート番号、取材期間、取材地などがタイプされていた。実にりっぱな文書だった。
 この身分証明のレターのほかに、もう一枚書類をわたされ、記入と署名をお願いします、と言われた。こちらのほうは、日本語で書かれ、ところどころ空欄になっていた。
 「私_____は、自分の意思で______へ赴きます。当該国でいかなる事故が起きましても、その責任はすべて私_____本人にあり、日本国にはいっさいの責任はないものとします。署名_____」
 だいたい、そんな内容だったと思う。
 もちろん、すべての責任を自分自身で負うのはあたりまえのことだ。何かあったとしても、大使館に助けていただこうなどとは思っていない。レターをいただいただけで十分だ。空欄を埋め、署名した。
 大使館員に、丁寧にお礼を述べた。
「気をつけて行ってきてください」
「ありがとうございます」

 日本大使館を出たその足で、アフガニスタン大使館へ向かった。
 アフガニスタン大使館の窓口は、ガラスも入っておらず、大勢の人がその窓口に、書類を持った手を突っ込んでいた。人垣の後ろから、窓口の男性職員に用件を告げた。大使館の中に入り、最初のドアへ入るよう言われた。応対に現れたムアルヴィ・ワハブ氏にビザ申請に来たことを告げ、日本大使館のレターとパスポートを差し出した。
 ワハブ氏はレターとパスポートをチェックし、
「アフガニスタンでは、何を撮影なさるおつもりですか」
 と訊ねた。
「アフガニスタンの人々です。それと人々の生活です。世界中の人と生活を撮っています」
 ワハブ氏は、落ち着いたイスラムの紳士に見えた。表情がやわらかい。
「わが国はいま、一部戦闘状態です」
「存じております」
 ワハブ氏は静かにうなずいた。
 申請手続きはスムースに進んだ。何枚かの書類に必要事項を記入した。はじめて公式書類の職業欄にPhotographerと書き込んだ。
 しかしその書類を見てワハブ氏は、
「本国の、タリバーン本部は、写真撮影をいたく嫌っております。この職業欄のところのPhotographerはJournalistに書き換えたほうが許可が下りやすいです」
 と親切にアドバイスしてくれた。
 僕は、Photographerを傍線で消し、その上の余白にJournalistと書きこんだ。
 ワハブ氏は、
「たいへんけっこうです。本国に連絡を入れて、返事が返ってくるのに4,5日かかります。こちらに電話をして結果を確認してください」
 と言った。終始笑顔の好人物だ。
 机の上には、身分証明のレター、申請書類、パスポート、証明写真がきれいに整理された。
 レシートを受け取り、ワハブ氏にお礼を述べ、重いカメラバックを担いで部屋を辞した。
 あとは、タリバーン本部次第だ。

 ラワールピンディのホテルで、夏のパキスタンの暑熱にクラクラしながら、四日が経つのを待った。夏のパキスタンの暑つさは半端ではなかった。食欲はなく、じっとしていても体力を奪われ、急速に痩せていった。
 四日後の朝、ホテルのフロントからアフガニスタン大使館へ電話を入れた。
 電話で英語をしゃべるのは、とても苦手だ。僕は、日本語でも電話は嫌なのだから。ましてや、成否を確認する電話だ。受話器を取るまでに、何本タバコを吸ったことか。ようやく受話器を取り、ワハブ氏の名刺に書かれた番号を押した。
 受話器の声は、聞き取りにくかった。
「あなたのビザはできております。窓口でお受け取りください」
 そう聞こえた。

─報道写真家になった日─<完>

─報道写真家になった日 1─

2004年12月16日 21時59分38秒 | 報道写真家から
 僕が、報道写真家になった日。それは、あらためて考えてみると、何年何月だったかは当然覚えているが、何日だったかまでは覚えていない。

 僕は、世界を旅をしながら写真を撮っていた。
 別に写真家になろうなどとは思っていなかった。
 写真を撮るのが好きだっただけだ。
 東南アジア全域からインドを経てパキスタンにたどり着いた。

 大学時代の一時期、僕は大学の新聞会に所属していた。新聞に載せる写真は、だいたい僕と弟とで撮っていた。手間のかかる暗室作業は、他の学生は嫌がったが、僕たちには楽しい修行の場だった。地元新聞社から、格安で暗室の新しい設備を譲り受けたあとは、かなりの時間を暗室ですごした。たまに雑誌社からの依頼で写真を撮り、ギャラを稼いだこともあった。
 建設反対運動真っ盛りの成田空港へも取材にでた。当時、成田空港は、まだ管制塔しかなく、そのほかはただの空き地だった。成田では機動隊と反対派が頻繁に衝突を繰り返していた。ガス弾の水平発射によって、反対派に死者も出ていた。空港反対運動を取材していた自分が、後々に、成田空港を何十回も利用することになるとは、当時は想像もしていなかった。

 大学を出て、コピーライターになってから、広告に使う写真を自分で撮ることもあった。これは単に経費節約のためだ。
 以来、長らく写真から離れた生活をしていたが、旅をしているうちに、世界の人々の生活を記録したくなった。少ないポジフィルムを節約しながら、重いカメラバッグを担いで写真を撮り歩いた。カメラバッグは片時も離さなかった。撮りたいと思ったとき、カメラが手元にないことほど、悔しいものはない。

 インドからパキスタンにたどり着いたとき、そこから先のルートに迷った。パキスタンも二度目だったが、そこから先もすでに訪れた国ばかりだった。そこから先のルートには魅力がなかった。しかし、となりはタリバーン政権下のアフガニスタンだ。タリバーンがアフガニスタンを制圧して、まだ一年も経っていなかった。タリバーンの実態は、まだほとんど外の世界には知られていなかった。行ってみたい。自然にそういう思いにとらわれた。

 そのはるか以前に、パキスタンを訪れたときは、アフガニスタンは、対ソビエト戦争の真っ最中だった。その時は戦争中のアフガニスタンへ行ってみたいなどとは、まったく思わなかった。
 ただ、旅行者の中には、ムジャヒディンと交渉をして何人もが入っていたようだ。一人だけそういう旅行者に会ったことがある。彼は、アフガニスタンに入ったことを、勲章のように、ただ自慢するだけだった。しかもその旅行者は、ムジャヒディンに対して、カメラマンだとウソをついていた。
「”カメラマンなのにそんな小さいカメラしかないのか?”って現地で見破られそうになりましたよ。ハッハッハッハ」
 それすらが自慢のようだった。話にならない。
 ムジャヒディンは、外の世界に報道してくれると信じるからこそ、面倒を承知で連れて行ってくれるのだ。単に自慢したいがために、命を懸けて戦っているムジャヒディンを騙すとは、吐き気にちかい嫌悪感を感じた。

 タリバーン政権下のアフガニスタンが、いったいどんな状態なのかを知りたいとは思ったが、何年も前に会ったその旅行者のことを思い出し、自分の思いを閉じ込めた。アフガニスタンでは、タリバーンと北部同盟が、カブール北方で戦闘を繰り返していた。まだ内戦中なのだ。当然、大勢の人が傷つき死んでいる。旅行者の自分が行くべきところではない。

 知りたいという思いは、確かに自分の中にあった。知りたいという欲求と、旅行者の自分が行くべきところではない、という狭間にあったが、別に葛藤というほどのものでもなかった。行くべきではないと簡単に結論した。戦争は、見世物ではない。
 そのあと、どのような経緯で、知りたいという思いが募っていったのかは良く覚えていない。ただどんなに知りたくても、「自分は旅行者ではないか」という思いが打ち消した。行ってはならないという抑制が自分の中で働いていた。もちろん、アフガニスタン政府が受け入れてくれるとも思っていなかった。

 僕が本当に、葛藤しはじめたのは、自分の重いカメラバッグを見て、カメラマンとしてなら行けるのではないか、と思ってからだ。ただし、それではウソをつくことになってしまう。それはできない。当該国、国民に対して絶対に非礼でない形でなければならない。
 もし、カメラマンと名乗るならホンモノのカメラマンにならなければならない。なる気がないなら、とっとと旅を続けろ。そう自分に問うた。ラワールピンディやペシャワールで、ずっとそのことを考えた。ペシャワールからアフガニスタンまでは、ほんの数時間だ。

 迷いに迷い、考えに考えた末、結論をだした。
「これからは、報道写真家として生きる」と。
 しかし、そう決断したあとも、まだ迷っていたかもしれない。
 自分に何ができるのか、何かを伝えることができるのか。それはまったくの未知数だった。やってみなければ、わからない。大学新聞を作っていたことなど、キャリアでもなんでもない。ただ、多少なりとも写真も撮れるし、文章も書ける。そういう意味では、決断の追い風くらいには、なっていたかもしれない。
 あれ以来今日まで、曲がりなりにも報道写真家を続けている。

 決断したものの、アフガニスタン政府が受け入れてくれなければ、それまでだ。イスラマバッドのアフガニスタン大使館へ行き、真正面から用件を告げた。
 大使館へ着くまでのあいだ、「オレはすでにカメラマンだ」と何度も言い聞かせた。バカバカしいようだが、自分に自覚がなければ、それはウソをついたことになる。ラワールピンディから大使館へ向かうバスの中で、もしかしたら、僕は報道写真家になったのかもしれない。

 アフガニスタン大使館の窓口で、
「日本人のカメラマンです。アフガニスタンを取材したいのですが」
 と用件を告げた。
 当時、タリバーン政権は極度に写真撮影を嫌うことで知られていた。そのことは知っていたが、それでも真正面から誠実に交渉するつもりだった。誠意があれば、必ず通じると信じた。
「取材ですか。それでは日本大使館から、あなたがジャーナリストであるという証明のレターをもらってきて下さい」
 と係りの者が言った。
「レターがあれば、ビザは発給していただけますか」
「本国に連絡を取り、許可が下りれば発給したします」

 日本大使館から証明のレターか・・・。


つづく

─フリーランスになるには─

2004年12月15日 18時37分01秒 | 報道写真家から
 フリーランスなら、誰でも初めがあるものだ。
 新聞社や通信社、雑誌社を経てフリーランスになる人たちもいるが、そうでない人は、どこを境にフリーランスのカメラマンやジャーナリスト、ライターになるのだろうか。

 べつに資格審査があるわけでもないし、試験があるわけでもない。もちろん免許もない。
 いったいいつから「フリーのカメラマンです」と名乗ればいいのだろうか。
 取材をこなしたときからだろうか。
 しかし、取材をするためには、「フリーのカメラマンです」と名乗らなければならないときもある。特にインタビューをするには、身分を示さなければならない。
 これは、困った。まだひとつも仕事をこなしていないのに、取材をするためには、すでにフリーランスのカメラマンでなければならない。
 卵が先なのか、鶏が先なのか。

 資格審査も、試験も、免許もない以上、客観的な判断基準はどこにもない。
 つまり、自分で決めればいいのだ。
 あなたが「今日からフリーランスのカメラマンだ」と思った瞬間から、あなたはそうなのである。その瞬間を自覚しなかった人もいるだろうし、僕のようにはっきり意識した人もいるだろう。自分の内に、湧き上がるものがあれば、意識しようがしまいが、自然に道を進むものなのだ。

 自分の内にあるものを自覚すれば、あとは、あなたが取材したい対象へまっすぐ進めばよい。ただし、それにともなう、様々な困難や障壁は、自分の知力をフルに使って解決し、自分で乗り越えなくてはならない。誰も教えてはくれない。親切な人もいるかもしれないが、他人や運に頼ってはいけない。その程度では、この氷河期の中で氷付けになってしまう。
 あなたの中に、こころの底から伝えたいというものがあれば、あなたの前に立ちはだかる困難など、たかが知れたものだ。

 世界の大手メディアは、世界で起こっている真実を伝えようとはしていない。われわれが普段接している報道は、事実ではあるが、すべてが真実というわけではない。いまのメディアの様は、不偏不党や公正中立とは程遠い。実質的に、権力構造の一部を形成している。メディアは営利団体であり、国家の法的規制を受ける対象である。いかようにも国家がコントロールできる。メディアを通して、われわれが接しているのは、事実の断片にすぎない。それは、真実とは似ても似つかないものに加工されている。

 911テロの後、CNNの記者は、「自国が攻撃されているときに、客観的な報道などできない」とさえ言い切った。そうした報道の前に、アメリカ全土が、報復は当たり前だという論調一色になった。反対の声は完全に圧殺された。メディアとは、いざとなればこの程度のものなのだ。いまイラクで、どれだけ多くの命が奪われているか。メディアが真実を伝えることはない。

 われわれの眼に触れない、多くの真実がある。営利団体のメディアに報道を任せている限り、真実はわれわれから遠いところに隔離されてしまう。
 より多くの人に、この氷河期の中に飛び込んできて欲しいと思っている。ただし、とても寒い。だからといって、身を寄せ合っているわけにはいかない。動き回っていれば、多少は体の内から発熱するものだ。

【シティ・オブ・ゴッド】

2004年12月14日 17時41分50秒 | 軽い読み物
──Rio de Janeiro──

 リオ・デ・ジャネイロとは「一月の川」という意味だ。
 街の名前になるくらいだから、どこかにりっぱな川が流れているに違いない。しかし、リオをくまなくマウンテンバイクで走り回ったつもりだったが、記憶をたぐってもどこにも川が見当たらない。行動範囲には川はなかったのだろう。
 ただ、くまなくと言ってもリオでは制限がある。へたに行動範囲を広げると、ファベーラに侵入してしまう。
 ファベーラとは、スラム街の総称だ。
 リオには、大小約600ものファベーラがあるとブラジルの雑誌に書いてあった。

──ファベーラ──

 華やかなリオの景観の中で、ファベーラだけはモノトーンの光をたたえている。しかし、そのモノトーンも意識の中で少しずつ退色し、いつしか透明になり存在すら忘れてしまう。

 ファベーラは、20~30戸の小さなものもあれば、何千戸という巨大なものもある。ブラジルの工業化とともに都市に集中した人口がファベーラを形成した。山の斜面を中心に、無秩序に伸び、長い時間をかけ、少しずつ増殖していった。ファベーラは、ひしめき合いぎっしり詰まっている。
 家屋の作りはブロックを積んだだけのようだが、案外建てつけはしっかりしているように見える。電線や水道は勝手に引いてくるようだ。勝手に引いてこられた電線やパイプから、また誰かが勝手に継ぎ足して、我が家に引く。下水はどうなっているのか下界から見た限りではわからない。衛生環境は悪いに違いない。
 どこからどこまでがひとつの家屋なのかさえ見分けられない。ひとつに見えるものが、三つの家なのかもしれないし、あるいはファベーラ全体がひとつの家なのかも知れない。入って見なければ誰にもわからない。

──ガキ軍団──

 僕が住んでいたのは、ボタフォゴという静かなエリアだった。となりのコパカバーナのような華やかさや賑わいはないが、観光名所パゥン・ジ・アスーカゥ(砂糖パン)の一枚岩の山が美しく見える場所だった。ブラブラ散歩をするには丁度いい地区だ。

 散歩をしていると、よく子供に声をかけられた。子供に限らずブラジル人は、気軽に人に声をかける。なぜか大人との会話はほとんど記憶にない。われわれ大人は想像力が貧困なのだろう。

 あるとき、ボタフォゴの街を散歩していると、黒人の少年が後ろから話しかけてきた。ほかに5人ほどいた。歩きながら話をしていると、
「前を歩いてるオバハンのバッグを盗ってみせるぜ」
 と唐突に少年が言った。
 ニコニコしているので冗談だと思ったが、少年は僕を置き去りにして、女性に近づいて行った。少年はいくつくらいだろうか。女性が小脇に抱えたバッグの位置より、少年の背丈は低かった。小脇のバッグをちょっとながめてから、後ろからあっさり抜き取った。そして仲間と笑いながらバッグをパスした。おろおろしながらも、バッグを取り返そうとする女性をからかいながら、最後にバッグを高く放り投げて、道路の反対側に走っていった。
 このときは実際に盗るのが目的ではなく、外国人の僕に、あざやかな手際で窃盗ができるところを見せたかったのだろう。腕前と度胸を示す単なるゲームだった。僕の方を見て、飛び跳ねながら駈けていった。
 このくらいのことは、いつでもどこでも簡単にできるということなのだろう。彼らが食いっぱぐれることはないのかもしれない。

──ファベーラ──

 リオのファベーラは、およそ23万世帯、約100万人。リオの人口の五分の一だ。およそ建物が建てられそうな斜面は、すべて埋め尽くされている。すでに超過密状態だ。いまは、リオ郊外で増殖しているようだ。
 山のふもとの市街地もところによってはファベーラ化している。増殖して、せまりくるファベーラの圧力に、一般住居地域の住人が押し出された。借り手がいなくなり空家になったままのアパートや住居に、ファベーラの住人が浸透していった。浸透された街は、独特の荒廃した雰囲気を持つ。しかし、明確な境界線があるわけでもなく、へたをすると迷い込むことになる。
 マフィアやギャングの大規模な抗争や警察の掃討作戦が展開されると、警察軍が道路を封鎖するので、そこがファベーラとの境界だと分かる。

 ファベーラの外観はどこも同じモノトーンだが、中身はひとくくりには語れない。一般的には、犯罪者の巣窟と思われている。
 軍隊並みの武器とメンバーを持つ麻薬マフィアもあり、そうした犯罪組織に制圧されたファベーラは、警察権もまったく及ばない。最大のマフィアは、麻薬取引で一日に百万ドルも稼ぐという記述もあるが、真偽のほどは定かではない。
 逆に、NGO団体と協力して、生活環境や教育環境の改善に取り組む、犯罪とは無縁のファベーラもある。リオ市民には、こうした取り組みはほとんど知られていない。
 600もあるファベーラを、細かく色分けすることは不可能だ。リオ市民にとって、ファベーラはあくまでモノトーンの世界なのだ。

──ガキ軍団──

 僕の住んでいたボタフォゴ・ビーチは、美しい景観とは裏腹に、水の汚染はひどかった。泳ぐときはとなりのコパカバーナかイパネマへ行った。リオの波は非常に荒い。侮って溺れかけたことがある。

 そのコパの荒波で、体ひとつで波に乗っている子供がいた。波に乗るといっても下半身は水の中だ。あまりにも楽しそうなので、子供のところまで泳いでいって、波の乗り方を教えてもらった。
 大きな波が来るのを待ち、波が大きくもり上がりはじめると、一気に泳ぎだす。そして急降下するスーパーマンのような姿勢をとる。絶壁から滑り落ちていくようだ。水中翼船の原理で、上半身が波から少し浮く。不思議な感覚だ。あとはスーパーマンも追いつけない。波打ち際まで体が運ばれると、泡の中で失速する。こりゃ楽しいぜ。これを知っていれば溺れなくてすんだのに。二人でえんえんとボディサーフィン?を繰り返した。

「おっさん、どこに住んでる」
「ボタフォゴ。お前は?」
「家はない」
「パイ、マイ(とうちゃん、かあちゃん)は?」
「いない」
「どこで寝てる?」
「ナ・フア(路上で)」
「一人でか?」
「仲間と」
 ひとしきり波乗りを楽しんだあとの会話としては、少し重かった。

──ファベーラ──

 ファベーラは過密状態で空きがないのか、海岸の護岸ブロックにビニールと板でカプセルホテルのようなスペースを作っている人たちもいる。あるいはファベーラは一元さんはお断りなのかもしれない。
 護岸ブロックに住んでいる人たちは、ムール貝を採って、レストランに売っていた。ムール貝は護岸ブロックに無尽蔵にはりついていた。
 僕も釣りのついでに、よくムール貝を採ったが、いつしかカプセルホテルの住人が、ボイルに使う石油缶を貸してくれるようになった。火を炊き石油缶で多量のムール貝を茹でて殻を剥いた。カプセルホテルの住人は、気さくな人たちだった。

 リオは海に近いほど高級アパート地帯で(護岸ブロックは除く)、逆に高度が増すほど、あるいは山の奥になるほど貧困の度合いも高くなる。
 ところによっては、山際の高層アパートの目の前の山にファベーラが広がっていたりする。アパートを建てたときは、ファベーラはなかったのだろう。朝の挨拶ができるくらい近い。
 そうしたアパートに、ファベーラから弾丸が飛び込んでくることもある。そういうニュースを一度だけ見た。三発ほど部屋に撃ち込まれていた。
 リオの日本人学校は、もっと怖い。学校の三方をファベーラに囲まれているので、毎年のように弾丸が飛来する。「昨年度は、校舎内に1発、理科準備室のベランダ側木製ドアに1発、職員用駐車場及び第2グランドに各1発着弾。授業中断による非難行動は93回」そんな具合だ。
 たいていは麻薬マフィアの抗争や、警察との銃撃戦の流れ弾だが、酔っ払いやジャンキーが面白半分で撃たないとも限らない。あるいは、誰かの浮気が原因かもしれない。

 僕が住んでいたアパートでは、四件どなりの部屋の男が、自分の部屋のドアに銃弾を撃ち込んだことがあった。
 予算のない三文アクション映画の銃声とそっくりだった。
 パァ~ン。
”まさか、いまのは銃声じゃないよね”
 しかし、あとで見ると、そのドアには新しいのぞき穴がしっかり開いていた。ちょっと変な位置だった。体が柔らかいのだろう。アパートの住人はこのくらいでは誰も驚かなかった。警察も来なかった。「奥さんの浮気だってさあ」「ふ~ん」それで終わり。本人は命がけなのにね。
 リオのアパートは、外からも内からも銃弾が飛んでくる。

──ガキ軍団──

 リオで観光客が注意すべき犯罪は、路線バス強盗だ。
 これはもっぱら「ガキ軍団」の仕事だ。
 年齢は10歳以下、人数は5~10人くらい。
 大人は路線バスはあまり狙わないようだ。小銭しか稼げないうえに、大勢に顔を見られるからだろう。ガキ軍団はそんなことは気にしない。子供はすぐ成長して顔が変わる。
 ガキ軍団は、始発の路線バスを狙う。始発なら乗客がそこそこ乗り込んだところを見計らって襲撃できる。ちびっ子には客が多すぎても困るのだ。彼らは、バスの前後の出入り口から、刃物を手に乗り込み、乗客をはさみうちにする。そして順番に金品を巻き上げ、案外余裕で逃げ去る。彼らが捕まったという話は聞いたことがない。警察も小銭などかまっていられない。他の凶悪犯罪があまりにも多すぎる。

 ちびっ子ギャング団はストリート・チルドレンだが、ストリート・チルドレンが、みな犯罪に関わるわけではない。
 おとなしい子供たちは、ゴミあさりと物乞いだけが生きる術だ。僕のアパートの近くにいた少年は、普段は明るくて屈託なかったが、時には人生の終焉がせまっているかのように憔悴しきっていた。近くの公園にたむろしているグループは、シンナーを吸いセトモノのような眼をしていた。彼らは10歳にもならないうちに未来のほとんどを剥ぎ取らている。

 観光都市リオの景観を損ねるとして、彼らを「掃除」する専門集団も存在する。たいていは警察官の秘密グループだ。商店主などから報酬を得て掃除を請け負うというが、実態が解明されたことはない。暗殺者は、路上にかたまって寝ている少年少女を、官給の拳銃で撃ち殺していく。
 リオに約2500といわれるストリート・チルドレンは、未来どころか、明日目覚めるかどうかもわからない。
 
 ストリート・チルドレンの殺害で、終身刑を受けた元警官は、
「奴らはゴミだ。もし刑務所を出ることがあったら、またやってやるさ」
 と平然としていた。
 闇の警官たちは、金のためだけに子供を撃ち殺しているのではないということだ。彼らの凄まじい憎悪はいったいどこからくるのだろうか。

──ファベーラ──

 禁断のファベーラに、一度だけ誤って踏み込んだことがある。
 マウンテンバイクで走るのも好きだったが、見知らぬ通りをあてもなく歩くのも好きだった。
 ある日、未知の通りを曲がると、上り坂になっていた。そのまま坂を上ってしまった。坂を上るまでは普通の街並みだったのだ。
”ここファベーラじゃないよねぇ~”
 と思いながら坂を上っていたら、黒人のお兄ちゃんたちが、こっちを見て、笑いながら歌った。
「クイダ~ド、クイダァ~ドォー♪」
 クイダードとは、「気をつけろ」という意味しかない。
”げっ、やっぱファベーラじゃん”
 もしここで慌てて引き返したら、迷い込んだマヌケなチキン野郎として羽をむしられるかも知れない。にっこり笑ってそのまま坂を上っていった。こういうときは、”ここはボクの街”という顔をして歩くしかない。しばらく上ると道はすぐ下りに転じ、あっけなく下界に出た。
”あ~、恐かったあ”
 あの道が、ずっと上りだったら、僕はどうしただろうか・・・
 ほんの十数分のファベーラ体験だった。

 ファベーラに住んでいる人たちが、すべて恐い人たちというわけではない。ファベーラをコントロールしているのが、ちょっと恐い人たちというだけだ。ファベーラの住人は、もともと地方の農村や漁村から都市に出てきた人たちだ。旱魃から逃れてきた人もいれば、現金収入を求めてきた人もいる。あるいは都会に夢を求めてやってくる若者も多い。

 下界で屋台を営んでいる人の多くはファベーラの住人だが、みんな普通の人たちだ。親切でさえある。
 リオも屋台が多い。おすすめはホットドッグだ。ブラジルのホットドッグはフランスパンを使う。トマトソースで炒めた野菜がたっぷり、それに長いソーセージをのせる。うまい。これ一本で昼食がわりになる。そのせいでニューヨークのホットドッグがやたら貧相に見えた。というより実際やたら貧相だ。スカスカの手の平サイズのパンに、短いソーセージしか挟まっていない。なんじゃこれ。本場のホットドッグが世界一みすぼらしい。

──ガキ軍団と旅行者──

 友人のとある日本人旅行者が、リオのガキ軍団バスジャックに遭っている。
 ある日彼は、コパカバーナへ泳ぎに行こうと、出発待ちのバスに乗り込んだ。リオの波は強烈で泳ぎには向かないので、彼はビーチでビールを飲みながら、ビキニ・デンタル(糸楊子のにように細いビキニ)のおネーチャンを眺めるつもりだった(いえ、うそです)。発車を待っているところへ、前後のドアから包丁を持ったちびっ子軍団が乗り込んできた。そして一人一人順番に金を盗っていった。
 彼の話を聞きながら、
「カネは靴ん中に入れときゃ、大丈夫だろ」と言うと、
「いや、ガキんちょは、乗客の靴の中も調べたし、観光客がマネーベルトをしていることも知っていた」
「そうか・・・」
 僕もけっこう侮っていた。そのくらいのことは、彼らも学んでいて当然だ。
 ガキ軍団は彼の海パンの中も調べ、発見してしまった。
「ガキんちょが見つけたのは、オイラのポコチンだけだった」
 ガキもとんだ災難である。

──ガキ軍団──

「ちょっと、おっさん、こっちこっち」
 ビーチを散歩中、二人の少年が近づいてきた。
 僕はビーチのゴミ箱のところに連れていかれた。リオはビーチのど真ん中にゴミ箱が点在している。おしゃれな公衆電話もある。
「おっさん、よく見ろよ」
 ひとりが、ゴミ箱の上に立ったかと思うと、反動をつけて背中から空中に飛んだ。夕暮れの光を反射しながら、ちっちゃい体が後ろ向きに回転し、砂浜に着地した。あざやかなバク宙だった。
「すごいじゃねぇか」
「見たか、おっさん」
 二人はカタカタ笑いながら、長い影を従えて砂浜を走っていった。
 小さな背中を見送りながら、
”家はあんのかなあ”とつい考えてしまう。

──City of God──

 「City of God」はブラジル映画のタイトルだ。リオには、そういう名のファベーラがあるらしい。ファベーラにはそれぞれ名前が付いている。「City of God」が実在するファベーラかどうかはわからない。でも、ファベーラに付けそうな名前ではある。
 「City of God」は、ミニシアターで公開されたらしい。
 僕はレンタルDVDで観たのだが、パソコンの小さな画面に釘付けになってしまった。モノトーンのファベーラの中には、人間の満艦飾の生がある。ひさしぶりにリオでのあれやこれやを思い出してしまった。
 

【ダリエン・ギャップ 2】中米南下の果てに

2004年12月13日 21時28分35秒 | 軽い読み物
<暴動>

 安宿の古びたテレビには、激しい暴動の様子が映し出されていた。
 目抜き通りらしき通りに暴徒が走り回り、商店のガラスは破壊され、商品が略奪されていた。

 シュンスケと僕は困惑した。
 それは、これから行こうとしている、いや、行かなければならないパナマ・シティの映像だった。
「・・・・・?(どうします?)」
「・・・・・!(どうにもならん!)」
 ニュース映像を前に、僕たちは落胆しすぎて言葉もでなかった。
 1990年1月15日。サンホセ(コスタリカ)に着いた日だった。

 この一ヶ月前の1989年12月20日、アメリカ軍はパナマの国家元首マヌエル・ノリエガ将軍を捕らえる軍事作戦を展開した。激しい戦闘を繰り広げた末、ノリエガ将軍は捕らえられ、空軍機でアメリカへ連行された。国家元首が不在となったパナマ・シティは無法状態となった。テレビのニュースはその状況を伝えていた。

 あとバスで9時間走ればパナマ・シティなのに・・・。
 ダリエン・ギャップのジャングルが、地球の裏側まで遠のいた気分だった。

<チンピラ>

 ダリエン・ギャップ徒歩走破の計画を立てたシュンスケと僕は、1990年の正月をグァテマラのアンティグアで迎え、1月6日にパナマに向けて出発した。

 出発初日は、ホンジュラスとの国境の街チキムラで一泊した。
 中南米の国境の街は、あまり活気があるとは言えない。どことなく荒んだ無法地帯的な雰囲気が漂っている。チキムラもそんな感じの街だった。
 夜中に腹が減ったので、ポヨ(チキン)でも食べようかと二人で外に出た。照明もあまりない暗い通りを歩いていると、通りの反対側から、呼ぶ声がした。五人ほどの若者だった。僕たちを呼んだのかどうか分からないので、無視した。とにかく、いまはポヨにかぶりつくことしか頭にない。カリカリにローストされた香ばしいかおりのポヨ。その辺を勝手に走り回り、勝手に虫だの蛇だのをついばむ無添加のポヨ。中米の大衆食の代表だ。
「しかし、何もない街だなあ」
「国境しかない」
 人通りも少ない通りを、しばらく歩くと、後ろから車の音がした。「ヒョォーイ」とかなんとか、奇声がしたので振り返ると、日本製のピックアップトラックがせまっていた。中米ではそこそこ値がはる車だ。荷台に三人の若者が立っていた。荷台でバーを握っていた若者が、すれ違いざま、回し蹴りを繰り出した。道路側を歩いていたシュンスケの顔面を、スニーカーが激しく打った。いきなりだったので、避けようもなく、まともに食らってしまった。
 車のスピードに、蹴りの勢いが加わり、かなりの衝撃だったに違いない。しかしシュンスケは少しのけぞったが倒れなかった。
 荷台の若者は、歓声をあげて僕たちをあざ笑った。さきほど僕たちに声をかけた連中だった。
 車はゆうゆうと去っていった。
 荷台の若者はいつまでもはしゃいでいた。
 こんな蛮行は、聞いたことがない。

「大丈夫か!」
「クラクラします」
 シュンスケは店の軒下に座った。鼻血が出ていた。
 どこにいたのか若者やおばさんが集まってきた。若者のひとりがシュンスケにハンカチをわたした。
「くそう、あの野郎、ローリングソパットを食らわしやがって」
 シュンスケの眼は怒りで燃え上がっていた。
「あいつら、どうしようもない連中なんだ」
 若者のひとりが言った。
「奴らを知ってるのか?」
「ああ、最低の連中さ」
「奴らの居所を知ってるか?」
「知ってるよ」
「案内してくれないか」
「どうするんだ?」
 ストリート・ファイターのシュンスケが、このまま治まるわけがない。
「奴らと戦うのさ。案内してくれ」
「本気?それなら、俺たちも加勢するよ」
 加勢するってのか。どう見ても彼らは頼りになりそうな感じではなかった。いつもチンピラにいじめられている側にしか見えない。

 あれだけ強烈な蹴りを顔面に食らった直後なのに、シュンスケは闘志を剥き出しにしていた。普通の男なら、ホテルに帰ってぶっ倒れているはずだ。
 シュンスケひとりで五人の相手をさせるわけにはいかない。
 もし僕が道路側を歩いていれば、僕の顔面をナイキが襲ったに違いない。いや、コンバースだったか。運悪くシュンスケが道路側を歩き、しかも身長180センチだった。166センチの僕なら蹴りは頭をかすめただけだったかもしれないが。
「オレもやるぜ」
 僕も怒り狂っていた。こんな蛮行を許すほど温厚ではない。
 ジャングル走破にむけ、体も鍛えている最中だ。コンディションは悪くない。気合いも十分。
 シュンスケと僕は、若者5人を引き連れ、ひとまず宿に戻った。
 靴に履き替え、靴紐をしっかり結んだ。
「何か握ったほうがいいですよ。拳を痛めますから」
 と言ってシュンスケはアーミーナイフを取り出した。
「それならオレも持ってる」
 スイス・アーミーナイフは握ると手にぴったりなじむ。もちろん、刃はださない。握るだけだ。もし刺すもりなら、ジャングル用のでっかいナイフがザックの中にある。
 宿をでて、若者たちについていった。
「あの野郎を呼び出して、サシで勝負します。ただではおかないっすよ」
 あういう卑怯なことを平気でする奴が、サシの勝負をするとは、僕には思えなかった。歩きながら、”相手はおそらく5人。シュンスケが3人。僕が1人。加勢の連中がよってたかって1人”と、そんなことを考えた。
 僕は生まれてこのかた、殴り合いなどしたことがない。世界中でケンカはよくしたが、原則として、相手が一発殴るまでは、絶対こちらからは殴らないと決めていた。こちらが構えもせず、余裕で突っ立っていると、人間殴れないものらしい。インドでは、竹の棒を肩の上まで振り上げた者もいた。相手の一撃を待ったが、男は鬼の形相で威嚇するばかりで、いつまでたってもその棒を振り下ろさなかった。バカバカしくなって、くるっと背を向けて去った。棒を振り上げたまま僕に置去りにされた男は、まわりの大爆笑を買った。
 ケンカは褒められたことではない。しかし、理不尽なものを、見て見ぬふりをする気もない。

 暗い住宅地の中の一軒に案内された。
 シュンスケにローリングなんとかを食らわした奴の家だという。
 声をかけ、ノックしたが、家の中から応答はなかった。人のいる気配はあったが、おそらくチンピラ本人はいないだろう。
「どこかほかに居そうなところはないか?」
 とシュンスケは訊いた。
「あるよ」
 道をもどり、倉庫のようなところに案内されたが真っ暗だった。
「奴らは、よくここにいるんだけど」
 ほかには当てはないようだった。
「奴ら、朝ならここにいるかもしれない」
「わかった。ありがとよ」
 この若者たちとピックアップのチンピラとは、明らかに階層が違っていた。チンピラどもは体格もよく、栄養が足りているように見えた。値のはる日本車に乗り、蛮行を働ける身分だ。僕たちに加勢しようと言った若者たちは、みな痩せて、貧弱な体格だった。

 シュンスケの怒りは収まらなかったが、帰るしかなかった。
 僕たちは次の朝、国境を越えなければならない。こんなところで時間をつぶしている暇はない。頭の中は、未知なるジャングル、ダリエン・ギャップで占められていた。

 それでも翌朝、一応倉庫を調べに行った。チンピラどもはやはりいなかった。おそらく、僕たちが探し回っていたことを、すでに知っているに違いない。小さな田舎町だ。こういう噂はすぐに広がる。僕たちが、街を出るまではどこかに隠れているだろう。日本人から逃げ回ったと、しばらくは笑いものになるだろう。貧弱な若者たちよ、栄養の足りたチンピラどもを大いに笑ってやれ。まあ、それでよしとしよう。

<中米南下>

 チンピラどもは命拾いし、僕たちは国境を越え、ホンジュラスに入った。
 ホンジュラスは、新品のM-16を持った少年兵が幅を利かし、何かというとバスを止め、市民の身体検査をした。16歳ほどのガキに銃を突きつけられ、アゴでパスポートを出せと言われるのは、腹立たしかった。チンピラの次は少年兵かよ。子供がホンモノの銃を持つと、天下を獲ったような気分になり、人格のバランスを失しなってしまう。軍事支配化のような国だった。共産主義政権のニカラグアと国境を接しているからだろう。快適とは言いがたく、見所もないので、二日でホンジュラス抜けた。

 次はサンディニスタ政権下のニカラグアだ。トランジットビザ(72時間)でも25ドルした。そのうえ強制両替が60ドルもあった。
 国境をはさんで、兵士の持つ銃が新品のM-16から、使い古しのAK47にかわった。変なところで、確かにここは共産主義国だと確認した。
 イミグレーションは、小さな木製の掘っ立て小屋だった。イミグレの兵士が、ドイツ人のパスポートを持って小屋から出たとき、AK47を残していった。歩いていく兵士と、残された銃を、皆が交互に見た。いいのかなあ。眼の前に銃がある。手を伸ばせば届く。狭い小屋にポツーンと残された銃が、なにかこの国を象徴しているようだった。のどかなのだ、この国は。
 ニカラグアは中米一貧しく見えた。首都マナグアは巨大な田舎町だった。インフラは破壊され、機能を停止していた。しかし、どこへ行っても検問もなく、ボディチェックもなかった。治安もよく、人々はゆったりしていた。ホンジュラスのようなピリピリしたところがまったくない。
 マナグアに一泊したあと、港町サンフアン・デル・スールで残りの48時間を過ごした。巨大な魚の丸焼きを食べ、美しい夕日を眺めた。とてものどかな愛すべき国であり国民だった。

 ニカラグアを出ると、つぎは中米の優等生コスタリカだ。インフラは整い、物は豊富で、治安がよく、街はきれいに整備されている。美しい豊かな大自然も残されている。コスタリカとは、「豊かな海岸」という意味だ。だた、豊かな反面、何かよそよそしい感じを受けた。何もない貧しいニカラグアの方が落ち着けるのはなぜだろうか。

<相棒シュンスケ>

 中米南下の途中でも、宿にもどると必ず腕立て、腹筋、スクワットをした。シュンスケはザックを担いでスクワットに負荷をかけた。僕も真似をした。またシュンスケは強靭な腹筋を持っていた。「腹筋ならいつまでもできますよ」。ベッドの上でシュンスケが腹筋をすると、体がポンポン跳ねた。ベッドが壊れそうだ。体力ではとてもこいつには、かなわない。
 手足が長く、体も異常にしなやかだった。180度の開脚もできる。前蹴りは軽く身長をこえた。生まれながらのストリート・ファイターで、ほとんどケンカに負けたことがない。ただ、六本木で黒人三人を相手にしたときは、ボッコボコにやられて、入院したらしいが。

 中学のころのシュンスケは、正真正銘の悪ガキだった。仲間とレストランや倉庫に侵入して遊んだ。物を盗るのが目的ではない。ありあまるエネルギーを持て余し、退屈していたのだ。侵入したレストランで、のんきに料理を作って食べたり、マッシュルームの巨大な缶詰を記念に持って帰ったりした。学校に持って行って、自慢するためだ。ただ単に、見たこともないでっかい缶詰というだけで楽しい年頃だった。

 倉庫に侵入したときは、警察に見つかってしまった。若い警官は、悪ガキどもが観念したものと勘違いしたのか、階段を下りるとき先頭にたった。アホかこの警官は。仲間に目で合図したあと、その後頭部をぶんなぐった。帽子は飛び、若い警官はぶっ倒れた。ガキどもは一斉に階段を駆け下り、外に飛び出した。が、そこには警官がずらりと並んで待っていた。
「それを見た瞬間、ヘナヘナヘナ~ですよ」
 殴り倒された警官は、すぐに無線で外に連絡を入れたのだ。
「警官って、肩のところに無線のレシーバーをかけてるでしょ。あれをちぎっとくべきでした」
 なるほど。
 警察署に着くと、殴り倒した警官の容赦ない報復がはじまった。殴る蹴る、椅子ごと蹴り倒す、振り回す、殴る蹴る、ボッコボコ。警官は顔は殴らないらしい。顔はすぐに腫れ、アザができて暴行の証拠を残すからだ。
「10倍にして返されましたよ」
 シュンスケのおやじさんが呼び出されて警察署にやってきた。シュンスケを見るやいなや、またボッコボコ。それまで、さんざん暴行を加えていた若い警官は、
「おとうさん、落ち着いてください。暴力はいけません」
 どうりで、世界一治安がいいはずだ。

 シュンスケは公立高校に進学したものの、数ヶ月で放校になってしまった。公立高校は強制的な退学処分はできない。自主退学だ。ただし教師に囲まれて、退学届けに署名させられた。
「学校は好きだったのに、無理やり自主退学ですよ」
 教師は、シュンスケの不良ぶりに恐れをなしたのでないと思う。彼の頭の良さを恐れたのだ。僕が知る限り、シュンスケほど頭の回転の速い奴を知らない。人を惹きつける魅力にもあふれている。ユーモアのセンスもある。しかも肉体も精神も極めつけにタフだ。無能な教師ほど、こういう生徒を本能的に恐れるものだ。シュンスケのような生徒を恐れない教師が、日本にいったい何人いるだろうか。 さすがは、教育大国ニッポンだ。

<ニュース映像>

 当時、中米の旅は、コスタリカが終点だった。
 パナマ・シティは通常でも治安が悪く、ガイドブック・ロンリープラネットも渡航を勧めていなかった。そのため、コスタリカからコロンビアのサンタマルタ島に飛んで、南米に入るのが、当時の中南米旅行者のお決まりのコースだった。治安の悪いパナマはほとんどの旅行者が避けた。

 だが、僕たちはそういうわけにはいかなかった。
 ダリエン・ギャップへ到達するには、パナマ・シティへ行かなければならない。通常の治安の悪さは、あまり気にしていなかった。

 コスタリカの首都サンホセに着き、あとはパナマ・シティまでバスで9時間。駆け足でここまで来た。
 安宿に泊まり、ロビーのテレビをなんとなく観ていると、画面の中を、暴徒が走り回っていた。そこら中の商店のショーウインドーが粉々に割られ、あらゆる商品が略奪されていた。それはパナマ・シティの映像だと知り僕たちは言葉を失った。
「・・・・?」
「・・・・!」
 一瞬にして、ダリエンのジャングルが地球の裏側まで遠のいていった。

 初日に泊まった宿は450コロンと少し高かったので(1$=90コロン)、翌朝ホテル・ニカラグア(150コロン)に移った。
 ホテル・ニカラグアのボロテレビにも、暴徒が走り回っていた。僕たちは、落胆した。

 ダリエン・ギャップのジャングルに入るには、どうしてもパナマ・シティに泊まる必要があった。地理院を探してダリエン・ギャップの地図を手に入れなければならないし、T/Cを両替してドル・キャッシュも作らなければならない。パナマの通貨はアメリカ・ドルなので、銀行でT/Cを両替すれば自動的にドルが手に入る。蚊帳やマチェテ(ジャングルナイフ)、食料などは、コスタリカで調達できるが、地図やドル・キャッシュはそうはいかない。少なくとも2、3日はパナマ・シティに滞在する必要がある。銀行から出てきて、はたして無事にすむだろうか。

 僕たちは、体力と気合いは、有り余るほど持ち合わせていたが、「運」に頼るほど信心深くはなかった。「なんとかなるさ」と思うほど楽天的でもなかった。「このくらい平気さ」と失言するほど軽率でもなかった。安宿のテレビに映し出される凄まじい暴動の光景に、議論する余地はなかった。

 その日の夜も、あいかわらず暴徒はテレビの中を所狭しと走りまわっていた。
 レセプションのオヤジに、
「パナマには行けないねぇ」
 と、ぼやいた。
「なんで?」
「セニョール。だって、パナマはこれじゃん」
 と、テレビのニュースを指した。
「行けるよ。ノー・プロブレマ」
 オヤジは事も無げに言った。
「・・・・?(何言ってるの、このオヤジ?)」
「・・・??(さあ??)」
 オヤジは僕たちを殺す気か。

 僕たちが移った安宿:ホテル・ニカラグアは、運悪く、行商のおばさんたちの定宿だった。おばさんばかりなのだ。もう、うるさいのなんの、どうしておばさんというのは、世界中こうも・・・いえ、何でもありません。このおばさん軍団は、コロンビアやヴェネズエラから来ていたのだ。つまり、船でパナマ・シティに入り、そこからバスでコスタリカまで来たのだ。宿のオヤジは、おばさん軍団からパナマ・シティの最新情報を得ていた。パナマ・シティの暴動は、落ち着いているという。
「セニョール、じゃあ、このテレビのニュースはいったい何なんだ?」
「たぶん少し前のパナマ・シティだよ」

 テレビニュースの暴徒の映像はおそらく使い回しだ。ニュース・メディアが良く使う手だ。メディアにとって、事件は商品だ。小さな事件でも、メディアの手にかかると、大事件に早変わりする。数日の暴動が、連日の暴動と化す。ときとして「真実」は商品にならない。ちょっと手を加えて上げ底をしてしまうのだ。逆に、都合の悪いニュースにはフタをして腐臭を隠してしまう。ニュースを見るときは、スーパーの生鮮食品を選ぶときのように慎重にならなければならない。新鮮な肉や魚に見えても、陰で有害な薬をまぶして赤くしているかもしれない。オーストラリア牛が松阪牛に化けているかもしれない。メディアもおなじだ。賞味期限の過ぎた事件に、商品価値を持たせるための様々なトリックがある。

「くっそー、ややこしいニュース流すんじゃねぇよ」
 うれしいやら、腹が立つやら。
 おばさん軍団の定宿に泊まったおかげで、幸運にも正確な情報を得ることができた。ダリエン・ギャップが、また地球の裏側から顔を出した。

 もし、あのときパナマ・シティの暴動が、実際に続いていたら、僕たちはどうしただろうか。
 勇気や根性、度胸など、極限の状況では何の役にも立たない。そんなものはかえって身を危険に晒す邪魔ものだ。大事なのは、正確な情報収集、そして情報を冷静に観察し、正確な分析を行い、的確な判断を下すことだ。当たり前だが、それ以外にない。それができれば、勇気や根性、体力がなくとも難局を切り抜けられる。知力こそがすべてなのだ。

 僕たちは、アーミー・ナイフを握り締めて、夜中にチンピラを捜し回るようなやつらだったが、勇気や根性を誇示する気などはまったくなかった。もちろん、状況を無視した運頼みなどもってのほかだ。あのときもし、パナマ・シティの正確な状況が判明する前に、どちらかがパナマ行きを決行しようと言ったら、おそらくパートナーを解消していただろう。僕たちは、状況を的確に判断できない相手とパートナーを組むほど、無謀ではなかった。

 もし暴動が続いていたなら、僕たちが下したであろう「的確な判断」とは、暴動が治まるまで、コスタリカの美しいビーチでスクワットをしながら、女の子を眺めることだったに違いない。

【バブルとは何だったのか】

2004年12月13日 02時46分03秒 | □経済関連 バブル
テオティワカン遺跡、太陽のピラミッド。
そのテッペンで「郵政民営化実現!」と、場違いな願を掛けた小泉首相。
アステカの神に郵政民営化は、果たして理解できたのだろうか。

しかし小泉首相は、国内ではたいへん現実的に、橋本龍太郎派閥(=郵政族)を一億円程度の不正献金疑惑でゆさぶり、抵抗の芽を確実に摘んだ。郵政族でない議員諸君は、安心して今日も不正献金をマクラに高いびきであろう。郵政民営化とは何なのか。「構造改革」とは何なのか。少なくとも小泉氏の念頭には、日本国民の利益という概念はない。アメリカに追随するしか能がなく、国民の富をひたすらアメリカに流し続けるだけのパペットにしか見えない。

昨年の日本の貿易輸出額は約54兆円(輸入額約44兆円。貿易黒字額約10兆円)。日本政府は昨年度、32兆円もの国富を為替市場につぎ込んだ。円高を抑え輸出産業を守るためだという。54兆円の輸出を支えるために、32兆円をつぎ込むとは正気の沙汰ではない。1日に200兆円が乱れ飛ぶ為替市場では、年間32兆円の介入資金など瞬間的な効果しか持たない。

日銀は、邦貨にして約90兆円のアメリカ財務省証券(アメリカ国債)を保有している。他にも銀行、保険会社、証券会社、郵貯、簡保、民間企業合わせて、およそ400兆円分のドル証券を保有している。アメリカの財政赤字を埋め、アメリカ経済を支える以外、何の役にも立たない紙切れだ。他国の減税や軍備拡張、そして戦争のツケを、なぜ日本国民が埋め合わせなければならないのか。

そもそも日本経済が、対米貿易に依存しすぎているためにこんなことになる。日本の総輸出額の3割がアメリカ向けだ。日本の経済は、アメリカの購買力に大きく依存している。そのアメリカの財政赤字を埋めてやらないと、アメリカはモノを買えなくなる。アメリカがモノを買えなくなれば、日本の経済は一気に冷え込む。そういう馬鹿げた構造が今日まで続いている。アメリカはどれだけ財政赤字、貿易赤字を出そうが、世界一の金持ち=日本が即座に埋めてくれる。この構造を改善しない限り、日本はいつまで経っても政治的にも経済的にも自立できない。しかし小泉氏は、改善する気などさらさらないようだ。

小泉氏は日本経済を立て直すどころか、アメリカに売り渡しているようにさえ見える。グローバリゼーションの美名の下、外資の波が日本に押し寄せ、日本経済を圧迫している。不良債権をかかえた金融機関は、ほとんど足腰立たない状態だ。いまやアメリカ資本の草刈場とさえ言われている。「護送船団方式」はもはや過去のはなしだ。生き残りをかけて、財務省・金融庁の裏をかいたUFJ銀行は、官庁の逆鱗に触れ、刑事告発される始末だ。金融庁は、三菱東京との統合を破談させ、UFJを国有化し、バラバラに解体して外資に叩き売りたいのだろう。旧長銀と同じ運命だ。日本経済における銀行の役目は終わった。すでに第二層の産業だ。こうしたフラフラの金融機関は、貸し渋り、貸し剥がしにより、優良な中小企業さえ、容赦なく倒産に追い込んでいる。

リストラ、内需の低迷、デフレ・・・。この十数年、日本経済は迷走している。
GDP世界第二位、金融資産世界第一位の日本経済が、なぜかくも長きにわたって低迷し続けているのか?
わざわざ問うまでもない。あの「バブル」だ。
バブルが何もかも吹き飛ばし、日本経済はいまだあの激震に揺れているのだ。
しかしバブルとはいったい何だったのか?


──『バブルの正体』──

「バブル」という用語は誤解をまねきやすい。なにか勝手にブクブク湧いて勝手にパチンと弾けたという印象を与えてしまう。ある意味、都合のよい用語だ。

●すべては「プラザ合意」から

1981年に誕生したレーガン政権は、企業や高所得者層に対する大幅な減税を行う一方、軍事費の大幅増額を行った。その結果、財政赤字は過去最高を更新し続けた。財政赤字は高金利につながり、ドル高と巨額の貿易赤字を招き、世界最大の債権国が世界最大の債務国に転落していった。(ちなみに、ブッシュ大統領は、レーガノミックスとまったく同じ政策を執り、双子の赤字の記録を更新中だ)

日米貿易不均衡がレーガン政権の存続を危うくした。当時のドル円為替レートは、1ドル260円あたりだったが、ワシントンは為替レートが1ドル180円になれば、日米貿易不均衡は解消されると単純に考えた。米大手企業や全米製造業協会、労働総同盟などもこの意見に同調した。

そこで1985年9月、アメリカ主導の会議がもたれた。参加はG5(日・米・英・仏・独の蔵相と中央銀行総裁)。このときの決議を「プラザ合意」という。内容は、「各国が協調して、ドルを他通貨に対して10~12%下げる」というものだった。しかし、その真の目的は日本に円高を容認さすことだった。

 プラザ合意の目的。
①円高誘導により日本製品の需要を低下させ、アメリカ市場から日本製品の撤退を促す。
②ドル安により安価になったアメリカ製品を、日本の消費者に購入させる。

 
これにより、日米貿易不均衡が是正されると考えたのだ。しかし、実際は①も②も起こらなかった。アメリカ政府、財界、金融界は、日本の経済構造をまったく理解していなかった。

日本の製造業は、たとえ円高で収益が落ち込んでも、一度手にした市場を放棄することはない。市場拡大こそが日本の唯一絶対の「国策」なのだ。円高による製造業の収益の落ち込みは、系列の金融機関によって支えられた。しかし、むりやり世界市場にしがみついたせいで、日本の産業の競争優位性は損なわれ、日本経済は減速していった。「円高不況」だ。

●競争力を取り戻せ!

失われた競争力を取り戻さなければ、輸出立国である日本経済の再生はない。競争力を回復するには、莫大な設備投資が必要だった。この設備投資をどのように行わせるかが政府・大蔵省の課題だった。円高不況により、海外市場にしがみつくだけで精一杯の製造業には、ほとんど余力がなかった。

政府・大蔵省は、資産インフレを起こす必要を感じていた。株価、地価を吊り上げることによって、製造業の資金調達を助けるのだ。具体的には、日本銀行は金利を立て続けに引き下げた。まず流動性をつくる。次に、日銀は紙幣を刷り続け、金融機関へ供給した。この資金を、金融機関は企業へ積極的に融資した。ついには資金を必要としない企業や事業者にまで、むりやりカネを押し付けた。本来の事業に必要とする以上の余剰資金が日本中の企業や事業者になだれ込んだ。そうした余剰資金は不動産取引や株式取引にまわった。あるいは、本業そっちのけで、マネーゲームに没頭した。

銀行は、企業所有の土地に破格の査定をし、融資をおこなっていた。この銀行の行為が、日本中の不動産価格を跳ね上げていった。不動産取引が増えたから、地価が高騰したのではなく、銀行が担保不動産に破格の査定を行ったから、取引が増えたのだ。高騰した地価は企業の資産価値を高め、株価を上昇させた。株価の上昇による含み益は不動産投資にまわり、さらに不動産価格を上昇させた。地価と株価の連鎖反応だ。こうして資産インフレがバブルへと発展していった。土地は投機の対象となり、無数の「地上げ屋」が跋扈し、日本中を更地だらけにし、はてしない土地転がしが行われた。

不動産バブルに支えられ、株式価格は上昇し続けた。東京株式市場を利用する企業は、いとも簡単に莫大な資金を手にすることができた。手にした無限の資金によって、製造業は生産設備を拡大していった。そして、1ドル110円以上でも競争力を持つ体力をつけた。ほんの数年前は、1ドル180円で真っ青になっていたのがウソのようだ。政府・大蔵省の目論見は、みごとに成功した。

「プラザ合意で損なわれた輸出競争力を取り戻し、いかなる円高にも耐え得る体力を日本の製造業が持つこと」──これこそが、バブルの真の目的だった。

1985年のプラザ合意で受けたダメージを、たった2年間で挽回してしまった。本当ならここでバブルの空気は抜かれていたはずだ。そうすれば、バブルの影響はあそこまで大きくはならなかったはずだ。

●ブラックマンデー

1987年の時点で、なぜ大蔵省はバブルを収拾しなかったのか。不幸なことに1987年10月19日、ニューヨークの株式市場が大暴落してしまったのだ。世に言うブラックマンデーだ。日本の経済そのものが、アメリカの購買力に頼っている以上、アメリカ経済の破綻は日本経済の破綻を意味する。日本は、永久にアメリカ経済を支え続けなければならない運命にある。

ブラックマンデーの翌日、大蔵省は四大証券会社に対して、大規模な買い取引きを指示した。東京株式市場のまれにみる活況に世界の株式市場は安堵し、連鎖的な株式市場の暴落は起こらなかった。ひとまず株式市場の暴落は防いだが、それだけでは十分ではなかった。続いて大蔵省は、銀行、信託銀行、保険会社、証券会社にドル証券の買いを指示した。プラザ合意後の円高により、すでにドル証券による甚大な損失がでていた。それにもかかわらず、さらにドル証券を買うのは無謀と言うしかない。しかし、こうした大蔵省の意向を無視できないところが、「護送船団方式」の悲しい性である。

しかし損すると分かっている膨大なドル証券を保持させるには限界もあった。そこで金融当局は「低金利政策」を取り、円建て証券への鞍替えを防いだ。このときの低金利政策が最悪の結果を招いた。もともと低金利でボコボコ沸騰していたバブルが、さらなる低金利政策(過剰流動性)で水蒸気爆発を起こしてしまったのだ。あとは説明するまでもない。在り有べからざる狂乱バブルだ。

バブル崩壊直前には、日本の土地資産総額は約2400兆円になっていた。アメリカ全土の四倍だ。東京証券取引所の上場企業の市場価格は合計約900兆円。全世界の4割を占めていた。地方銀行の市場価格でさえ、チェース・マンハッタン銀行の市場価格を上回っていた。日経平均株価は約39,000円(現在、約11,000円)。世界の王者になった気分だっただろう。

●そしてバブルの終焉

ブラックマンデーによるアメリカの経済危機を救ったのは、日本のバブルの資金だった。金融機関はアメリカ財務省証券を買い続け、不動産開発業者はアメリカの不動産を破格の高値で買いまくった。三菱地所は経営難のロックフェラーセンターを買収し、ソニーはコロンビア・ピクチャーを買収した。レーガン大統領が再選されたのも、日本のバブルのおかげだ。しかし、アメリカから感謝されることはなく、「アメリカの魂を買った」として猛烈な反日感情がおこっただけだった。

1989年、アメリカが経済危機から脱したころ、日本のバブルはもはや手の付けられない状態になっていた。担保もない料理屋のおかみの「手書き」の預金証書に対して、何千億円もの融資を行った銀行さえあった。政官財どころか社会全体が、完全なモラル・ハザードを起こしていた。それでも大蔵官僚は、この狂乱バブルを沈静化させる自信があったのだろう。しかしヤカンのお湯でさえ、火を止めてすぐには冷めない。ましてや日本中が、水蒸気爆発を起こしていたのだ。

1989年12月、日銀は金利を引き上げた。株式に集中していた資金は、債権や預金に向かうはずだった。しかし株価は思ったほど下がらなかった。
1990年2月、二回目の金利引き上げ。株価はまだ十分には下がらなかった。
1990年8月、三回目の金利引き上げ。2.5%だった金利は6%に達した。
日経平均株価は、最盛期の39,000円から26,000円まで下がった。
1990年9月、住友系大手不動産商社イトマン倒産。

効果を焦って、立て続けに三回も金利を引き上げたせいで、多くの不動産開発業者の借入コストがキャッシュフローを上回ってしまった。莫大な負債を抱えた倒産が相次いだ。バブルの崩壊。

●統制経済による管理バブル

バブルの崩壊により、日本は実によく管理された「統制経済」国家であることが表面化した。一見、自由市場、自由競争があるかのように装ってはいるが、そんなものは日本にはない。バブルについて語られるとき、それはまるで不可避的な自然現象だったかのように語られることが多い。しかし、統制経済国家で勝手にバブルが発生し自然爆発することなど考えられない。

統制経済の実体は、経済の動脈=銀行システムによく表れている。日本の銀行の融資条件とは何か。「土地」につきる。融資を申し込む企業の実績や収益性、将来性などほとんど考慮されない。要は、担保となる不動産があるかどうかだ。日本の経済は土地に信用供与を行うことで成り立ってきた。つまり「土地本位制」だ。もし、日本の土地価格が市場原理で決まるなら、「土地本位制」は成り立たない。日本の土地価格は、大蔵省が厳格にコントロールしていたのだ。バブル期、銀行は大蔵省の承認のもとで、意図的に土地価格を吊り上げていた。

証券会社も同じだ。バブル崩壊後、証券会社各社が大手投資家(ほとんどの大企業)に巨額の損失補填を行っていたという事実が表面化した。損失補填は、取引の前から約束されていた。もちろん違法だ。損失補填は、大蔵省があらかじめ承認していたことが、野村證券田淵義久社長の証言で明らかになった。バブル崩壊で、財産を失った小規模投資家は、この事実に激怒した。しかし、一般投資家に損失が補填されるなどあり得ない。これを、政官財の癒着や不正、腐敗という言葉で表現するのは間違いだ。日本の経済は、庶民から大資本へカネが流れるように作られているのだ。これは国家存立の基盤システムなのだ。農奴が封建領主に対等の権利を主張しても意味はない。問題は、領主にあるのではなく、封建制そのものにある。

日本のような統制経済国家で、不動産バブルや株式バブルが「自然に」発生することはない。政府・大蔵省が意図して操作したからこそ発生したのだ。だからこそ円高に喘いでいた日本の製造業は、競争優位性を取り戻せたのだ。しかしその一方で、一般家庭、小規模事業者の投機資金は、すべてアワと消えた。

政府・大蔵省は意図的にバブルを起こし、計画的に一般家庭や小規模事業者からカネを奪い取り、円高に喘ぐ製造業にまわしたのだ。バブル崩壊で富が消えたのではなく、移転していったのだ。これが、あのバブルの正体だ。

●果てしない流れ

バブル崩壊後、今日に至るまでの長きに渡って、日本経済は低迷している。しかし、GDPは世界第二位。金融資産は1400兆円と世界一の金持ちだ。技術力や技術開発力もいまだ世界のトップクラス(もはやトップではない)。カネもある。技術力もある。生産設備(主力は海外に移転したが)もある。その日本の経済がなぜかくも低迷しているのか。にわかには理解しがたい。バブル崩壊から、すでに14年にもなるのだ。豊かでなかったころの日本の方が、はるかに活力があった。

確かに日本人は世界一豊かだ。すでに何もかも持っている。しかし、メガバンクでさえ不良債権でフラフラ。貸し渋り、貸し剥がしで中小企業は冬の時代。パパは明日リストラされるかもしれない。そんな不安な時代に消費が伸びるわけがない。好景気とは、すなわち、人々の浪費が生み出す現象だ。将来に不安を抱えて、浪費に走るバカはいない。トヨタやソニーだけが絶好調でも、景気には関係ない。景気回復の一番の近道は、信頼できる国家をつくることだ。そうすれば、「不況」という文字は経済学の教科書に永遠に封じ込められるだろう。

しかし残念ながら、小泉氏はいまだに国民の富を奪うことしか考えていない。
来年4月にペイオフが解禁されれば、またもや巨額のカネが奪い取られる。
そして、「郵政民営化」だ。
民営化によって郵便貯金の289兆円、簡易保険の123兆円が手品のように、アメリカのふところに消えていく。

【権力に屈するマスメディアと香田証生君の死】

2004年12月12日 17時13分27秒 | ■イラク関連
いま世界で最も危険な場所は、間違いなくイラクだ。
そんなイラクに好きで滞在している外国人はほとんどいないだろう。
外交官もビジネスマンもジャーナリストも米軍兵士も、
できればイラクから逃げ出したいと思っている。
危険な任務に服従しない兵士も急増している。
在イラク米大使館のスッタッフの給料を1.5倍にしても、希望者が足りない。
グリーンゾーン(安全地域)の外に出る者はほとんどいない。
イラクとはそういうところだ。
そんなイラクに香田証生君は、なぜ行ったのだろうか。
イラクが危険な場所であるという認識は当然あったはずだ。

─「軽装」─

彼は、ヨルダンのアンマンに着いた翌日に、早くもバグダッド行きのバスに乗っている。所持金はたったの100ドル。パスポートにはイスラエルのスタンプ。バグダッドでの宿泊は、”バスに乗り合わせた乗客に頼む”つもりだったという。まるで、ほんの寄道のような感じだ。

僕なら、一万ドルの現金と、まっさらのパスポート、最も安全なホテルの予約に、防弾ジャケットがあったとしても、イラクへ入国する前には、極度の緊張を強いられるだろう。へたをすると国境を越える決意を固めるのに、何週間もかかるかも知れない。怪我をしたり、死ぬ危険があれば、当然そうなる。勇気の問題ではない。

彼は、不測の事態をまったく想定していなかったように思う。すべてが順調にいくという前提で行動していたとしか思えない。でなければ、あのような「軽装」でイラクには入れない。

─自発的報道管制─

今回のイラク戦争に限らず、アフガニスタン戦争や湾岸戦争では、厳しい報道管制が敷かれた。ベトナム戦争と、それ以後の戦争報道とは天と地ほどの違いがある。ベトナム戦争には「報道管制」などなかった。メディアには、自由な取材どころか、あらゆる便宜が与えられた。すべてが取材され、世界のメディアで流された。戦争の真実があますところなく報道された最後の時代だ。戦争では、市民までが、どれだけ無慈悲に殺されるか、そしてその無惨な殺され方まで人々は理解した。

ベトナム戦争の敗因の半分は、自由な報道にあったと言えるだろう。以後、戦争報道は一変し、完璧な報道管制が敷かれた。果敢に戦う米軍兵士の姿ばかりが映され、戦死者や市民の犠牲者は幽霊のように消えた。報道は、作りものの映画となんら変わりなくなった。ピンポイント爆撃の映像はテレビゲームのようだ。そんな映像からは、本当にそこで人が殺されているという実感など持ちようがない。

911テロの報道でも、まったく遺体が放映されていない。撮影されていないはずはない。遺体の映像は、敵に対する憎悪よりも、戦争を忌避する感情をこそ生む。国民を戦争に駆り立てたいアメリカ政府は、遺体の映像を極度に規制した。マスメディアはそれを忠実に守った。というより、自発的に自己規制した。メディアのたゆまぬ努力の結果、戦争報道からおぞましい血の臭いが消えた。マスメディアは、間違いなく戦争の共犯だ。

映画的、テレビゲーム的戦争報道から、人々の苦痛や死を実感することは難しい。死がイメージできなければ、死への恐怖もない。死への恐怖がなければ、それこそ戦場へでも行ける。香田証生君の信じがたい「軽装」は、死への不感症によるのではないだろうか。その不感症は、意図的に真実を遮断する報道の歴史が生んだのではないか。

─インターネット・メディア─

アンマンの、バッグパッカーが集まるクリフホテルには「イラクへの行き方」を書き込んだ情報ノートがあるらしい。イラクへ入国した旅行者は、実際に何人もいるという。

危険な地帯に吸い寄せられていく若者は多い。そうした若者に、僕自身何人も出会ってきた。彼らの、動機や目的は様々であり、一概には語れない。動機や目的がどうあれ、基本的には当該国が拒まない限り、誰がどこへ行くのも自由だ。渡航の自由は憲法が保障している。だが、マスメディアにのるような事件が発生したとき、それは無謀な行為、迷惑な行為、人騒がせとして、非難の集中砲火をあびる。しかし、危険な地帯へ吸い込まれる若者と、それを批判する者たちの間に、何か違いがあるだろうか。

「ファルージャで市民多数が犠牲になっている模様」とマスメディアが100万回繰り返したところで、誰もその死を実感することはできない。マスメディアの「自発的報道管制」により、世界中が真実から遮断されている。そんな状況で、イラク市民の死や苦痛や恐怖や悲しみを、理解しろという方が無理だ。人の死を脳の表面で認識することと、こころの奥深くで理解することとは別物だ。危険な地帯に赴く若者も、それを批判する大人も、死や苦痛への不感症という点では、何ら変わりないように思う。

マスメディアが、戦争の真実を伝えることは、もはやありえない。しかし、イスラム系メディアや多くのインターネット・メディアが、戦争の真の姿を伝えようと努力している。

後頭部を吹き飛ばされた少女の、まるで寝ているような表情を見て、何も感じない人はいないだろう。
生きたまま、両腕が灰になるまで焼かれた少年の姿を見て、それが現実の映像だと信じられる人はいないだろう。
治療も受けられず、肉体をえぐられたまま横たわる少女の、カメラに向けられた視線に耐えられる人はいないだろう。

もし、香田証生君が、クリフホテルの情報ノートを読む前に、インターネット・メディアのひとつでも閲覧し、写真の一枚でも見ていたら、もっと慎重に行動していたのではないだろうか。あるいは、イラク入国を思い止まっていたかもしれない。

情報は、自然に与えられるものではなく、こちらから勝ち取るものなのだ。


【ブッシュの罠】

2004年12月11日 23時16分32秒 | ■対テロ戦争とは
今回のアメリカ大統領選挙には、何の興味も持てなかった。
ブッシュ大統領には、石油産業と軍需産業の全面的バックアップがある。まともな選挙戦など最初からするはずがない。ブッシュ・シニアの苦い経験もある。何年もかけて勝つための万策を講じているに決まっている。
メディアは、あたかも大接戦かのような印象を与えていていたが、実に白々しい。

ジョン・ケリーは、電子投票のシステムに問題があることや、投票所での投票妨害の事実を知りながら、あっさり敗北を認め、さっさと舞台からおりてしまった。不正の痕跡があまたあるにもかかわらず、裁判で戦おうとはしなかった。ケリーの行動は、非常に胡散臭い。

そもそも、ケリーとブッシュは、エール大学の結社「Skull and Bones」のご学友だ。ブッシュが二年先輩にあたる。「Skull and Bones」は1832年設立という「由緒正しい」結社のようだ。毎年、15名だけが入会を許される。名門エール大学の中でも、将来アメリカの政治経済を担うであろう人物だけが選抜される。この特殊クラブで、ケリーとブッシュは二年間を共に過ごした。
ジョン・ケリーは、最初から勝つ気などなかったのだ。

しかし、そのように今回の大統領選挙を冷ややかに見ながらも、理解に苦しむことが多々あった。

──身内が暴くブッシュのウソ──

今年3月、前大統領特別顧問リチャード・クラークは、「911同時多発テロ調査委員会」の公聴会で、
「何十回もアルカイーダによるテロ攻撃の危険性があることをホワイトハウスに提言した」
「イラクは、同時多発テロとは何の関係もないと私が証拠を持って説明しても、ブッシュはそれを無視した政策を行った」
と証言した。

クラークは、テロ対策の専門家として、ブッシュ・シニア、クリントン、ブッシュ・ジュニアの下で働いた。ホワイトハウスを去ると、『爆弾証言 すべての敵に向かって』を出版し、ブッシュ政権の内情を暴露した。世界中で話題の書となった。常識的に考えると、この本の内容と公聴会の証言だけでも、大統領選挙を戦うブッシュにとって、勝ち目のないほどの打撃を与えるはずだ。

しかし、これだけではない。

続く4月に、同公聴会では、911テロの1ヶ月前に「航空機を使用したテロの可能性を指摘した報告書」が、ブッシュ大統領に渡されていたことを、ライス補佐官が認めた。

9月13日には、パウエル国務長官が、上院政府活動委員会で、「(イラクの大量破壊兵器の)いかなる備蓄も発見されておらず、われわれが発見することはないだろう」と発言した。イラク開戦の最大の理由を、「大量破壊兵器の存在」と言い続けてきたパウエル長官が、はっきり「なかった」と認めたのだ。

まだある。
10月4日には、外交問題評議会で、ラムズフェルド国防長官は「旧フセイン・イラク政権とアルカイダを結びつける確かな証拠はない」と発言した。ただし同日、「質問を誤解した」として発言を撤回したが。

いみじくも大統領選挙を戦う年に、政権中枢の人間がこぞって、「政府は航空機によるテロを知っていました」、「イラクに大量破壊兵器はありませんでした」、「フセインとアルカイダの関係はありませんでした」と次々と発言したのだ。選挙戦に不利になることを、ブッシュ陣営自らが公言するとは、いったいどういうことなのか。

さらに、アブグレイブ収容所での、「捕虜」や民間人に対する衝撃的な虐待写真が、兵士によって密かにメディアに渡され、世界中を駆け巡った。
(個人的な意見だが、一連の虐待の写真は、非常に不自然だ。メディアに流出させるために意図的に撮られた写真だと確信している)

ついでに言えば、ブッシュ大統領は、マイケル・ムーア監督の「華氏911」の全米上映にもまったく無関心だった。

一連の高官の「暴露」や「発言」や「失言」は、一般的には「ブッシュ政権のボロがでた」というような受け取られ方をした。しかし、パウエルやラムズフェルド、ライスが「ボロ」を出すようなマヌケかどうか、考えなくても分かることだ。

テレビ討論では、アホでマヌケに見えたブッシュだったが、決してアホでもマヌケでもない。大統領選挙に勝つだけなら、いともたやすいことだ。ブッシュは黙っていても勝てる。しかし、今回は単に勝つだけでは十分ではなかった。

──国民にすべての責任を転嫁する罠──

選挙前の一連の発言や「暴露」は、ブッシュ陣営の意図的な作戦だったと考えるべきだろう。

ブッシュ政権一期目は、アメリカ国民は真実を隠蔽され、欺かれたのであり、ブッシュの戦争とその結果に責任を負うべきものではない。大統領の陰謀など知らなかったのだから。

しかし、二期目の今回は、ちがう。
選挙前にほぼすべてを、高官の「発言」や「失言」、「暴露」という形で、国民は知らされたのだ。
要するに、ブッシュ政権は、
”我々は、事実を隠し、国民を欺いて戦争を始めた。アフガニスタンとイラクを不法に攻撃し、占拠した。そして大勢の市民を殺した。そしてこの政策を止める気は毛頭ない”
とアメリカ国民にあらかじめ「宣言」したも同じなのだ。

アメリカ国民は、そう宣言された上で、ブッシュを大統領に選んだ、ということになる。つまり、今後、ブッシュ政権が行うあらゆる犯罪行為に対して、ブッシュを選んだ「アメリカ国民」が責任を負わなければならないことになる。

別に理屈をこねているわけではない。
ブッシュは、大統領選挙に勝っただけでなく、今後彼が行う「人道に対する犯罪」の責任まで、アメリカ国民に押し付けることに成功した。ケリーに投票したことは、何の免責にもならない。ブッシュの大統領就任式を見送った時点で、歴史は、「アメリカ国民」がブッシュとブッシュの政策を「信任」したと記する。

ブッシュの戦争と侵略は、アフガニスタンとイラクで終わるわけではない。今後、中東全体が、血の海になるかもしれない。もはやブッシュには、躊躇する理由は何もない。

アメリカ国民から、侵略や虐殺の信任を得たブッシュは、大統領選挙に勝利した数日後には、ファルージャへの容赦ない攻撃を開始した。町は廃墟と化すほど破壊され、女性も子供も老人も虐殺された。その数はすでに2000と伝えられている。しかし、抵抗軍の捨て身の攻撃に米軍も少なからず死者をだしている。激しい抵抗に恐怖したのか、米軍は女性や子供を戦車に縛り、盾に使っている。僕が知る限り、こんなマネができるのは、アメリカ映画に出てくる架空の悪党だけだ。

イスラム・メディアが伝えるファルージャの惨状は、ベトナム戦争の比ではなくなった。
ブッシュ政権が望むのは、はてしない憎悪の連鎖だ。
テロとの戦いではなく、テロの拡散だ。
ブッシュ二期目は、史上類を見ない暗黒の四年となるのかも知れない。

【アブグレイブ収容所虐待写真はニセモノだ】

2004年12月11日 23時04分44秒 | ■イラク関連
アブグレイブ収容所の衝撃的な虐待は、はやくも過去の事件となってしまった。
しかし、若干なりとも写真を撮っている者として、一言、あの一連の写真について触れておきたい。

あれは、ニセモノだ。

正確に言うと、虐待はホンモノだが、「記念写真」はニセモノだ。

【ブッシュの罠】で少し触れたように、あれは、政治的な目的で意図的に撮影されたものだ。そして、「意図的に流出」させたものだ。
虐待写真の「暴露」は、ブッシュ政権から米国選挙民に対するメッセージ(罠)だ。
「わが軍隊はこんな非道な虐待もしています。いやならケリーに投票してください。私を再選させたら、今後も起こります。そしてその責任は、私を選んだアメリカ国民にあります」と。
もちろん、ブッシュは大統領選挙に勝つための、あらゆる対策ができあがっていたから、こういう離れ業ができた。(評論【ブッシュの罠】参照)
また、アラブやイスラム教徒の憎悪を煽るのにも、たいへん効果的だ。怒りを増幅させ、どんどんテロを広げて欲しい。そういうブッシュ政権の計略もこもっている。

あの「記念写真」のどこがニセモノなのかを、はっきり証拠を示すことは無理だ。あくまで僕個人の直感だ。

ただ、あのような「記念写真」には、ベトナム戦争で数多く接してきた。
アブグレイブの写真は、衝撃的だが「臨場感」がない。虐待をしている人間の、荒んだ腐臭が写っていない。抽象的だが、そう言うしかない。
いわば素人モデルを使った、にわか写真だ。非道な虐待があったことは、まぎれもない事実だが、一連の写真は虐待の現場写真ではない。全体があまりにもちぐはぐな印象を受ける。虐待を受けるイラク市民の極度の緊張感にくらべ、虐待する兵士に余裕がありすぎる。確かに、虐待する側は余裕だろう。しかし、人間が他者に虐待や拷問を加える時は、少なからず異常心理状態になっているはずだ。あの虐待兵士二人は、どう見ても「平常心」だ。
事実、あの一連の写真に写っている二人の兵士は、『命令されて、そこに立った』と証言している。
訳も分からず、ただ単に命令に従っただけだから、あのような表情になるのだ。

徹底的な「報道管制」を敷いてきた米軍内部から、虐待写真が流出するなど、絶対にありえないことだ。
暴露したつもりが、実は暴露させられていたに過ぎず、「ブッシュの罠」のお手伝いをしただけの結果になってしまったのだ。
ブッシュの足をすくったつもりが、実はこちらがころころ手玉に取られていたにすぎない。一事が万事そんな調子だ。ブッシュ政権のメディアコントロールは実にきめ細かい。

セイモア・ハーシュにCD-ROMを渡した兵士は一体誰なのか。
軍内部で問題にされたのかどうかも、伝わってこない。
ジョージ・W・ブッシュと彼の政権を侮ってはいけない。

氷河期の報道写真家

2004年12月09日 03時48分20秒 | 報道写真家から
 ある写真家の写真集の書評を読んでいると、次のような下りがあった。

『今日、フリーのフォトジャーナリストを取り巻く環境は氷河期並みだ。グラフ雑誌は姿を消し、週刊誌のグラビアページも悲惨な流血の写真は敬遠する傾向にある。』

 まさしく、そのとおりだ。
 フリーの報道写真家は大勢いるが、撮った写真を載せる媒体がない。雑誌そのものは、無数にあるが、報道写真を載せてくれるようなスペースはほとんどない。凍てつく大地を歩き回り、ごくわずかなパイを探し求めなければならない。

 この氷河期の中で、僕も細々と活動している。
 世界が平和で、写真を撮るネタがなくて氷河期なら、それは喜ばしいことだ。そのときは、喜んで報道写真家をやめる。
 しかし、現実はそうではない。世界はこれからますます理想とはかけ離れた状態になる。ブッシュ大統領が再選されたとたん、イラクのファルージャは、地獄と化した。

 ファルージャから退避しようとしていた大勢の市民は、米軍に市内へと押し戻された。そのあと、容赦ない爆撃が繰り広げられた。市民の犠牲者の数ははかり知れない。米軍は犠牲者を隠滅するために、遺体を戦車で踏み潰している。女性や子供が、米軍の戦車に縛り付けられ、人間の盾にされている。あるいは抵抗勢力のロケット攻撃を阻止するために、女性や子供、老人が何百人も基地内に拉致された。抵抗勢力への攻撃には、化学爆弾を使用している疑いもある。

 この地獄は拡大こそすれ、縮小することはない。いずれ中東全体が血の海となり、世界中で爆弾が炸裂することになるかもしれない。もちろん、日本も。ブッシュ大統領が望むのは、テロとの戦いではなく、テロの醸成と散布だ。

 こんな時代に、日本の媒体は、冬眠に入っている。
 確かに、いまは氷河期だ。
 しかし、だからこそ、われわれはやめるわけにはいかない。
 そして、多くの若い人たちにこの世界に入って欲しいと思っている。この氷河期を走り回れるのは、きっと新しい感性を持った若い人たちなのだ。われわれも、凍りついても前に進み続ける。

 フリーランスには、資格も試験も免許もない。
 いますぐ、誰でもなれる。


【ダリエン・ギャップ (1)】 ジャングルを越えて─

2004年12月09日 02時37分35秒 | 軽い読み物
<Sordados Americanos :米軍>

「お前らこんなところで何してる?」
 部隊の指揮官らしき米兵が言った。
 それはこちらが訊きたかった。
 お互い、予想もしなかった相手に出くわし少し驚いた。

 1990年2月1日。
 僕は、パナマのジャングルの真っ只中にいた。ジャングルに入って二日目、インディオの村の片隅に野宿させてもらった。
 翌早朝、出発の準備が済んだ頃、米軍のUH-60ブラックホーク・ヘリコプター3機が飛来し、川の対岸に着陸した。30人くらいの完全武装の米兵が川を渡って、ぞろぞろと村に入ってきた。ヘルメットや顔にもカモフラージュをほどこしていた。臨戦体制だ。写真を撮ろうとしたが、村人に止められた。米軍がジャングルの奥まで何をしに来たのだろう。ジャングルに囲まれた、のどかな村には不釣合いな連中だった。しばらく様子を見たが、別段緊張感もないので、兵士たちに近づいた。インディオと日本人の区別はついたようだった。
「お前ら、こんなところで何してる?」
 レイバンサングラスの部隊指揮官らしき軍人が言った。
「ツーリストだ。ジャングルを歩いてコロンビアへ行く」
「歩いてか?大丈夫かお前ら」
 それは僕たちにもわからなかった。

<Escola de Espanhor:スペイン語学校>

 1989年の年の瀬、僕はグァテマラのアンティグアという町でスペイン語を習っていた。スペイン語の独習は不可能に思えたからだ。ガイドブックのスペイン語の欄をポケットに突っ込んでいたが、まったく役に立たなかった。それまで旅をしながらそれぞれの国の言葉を憶え、多少なりとも使いこなしてきた。中国語、ウルドゥ語、ペルシャ語、トルコ語。どの言語圏へ行っても、旅をしながら言葉は学べると思っていた。が、スペイン語は事情が違った。

 中南米の旅の最初の国メキシコでは、まったく言葉が通じず、散々な眼にあった。食事をするのさえ事欠いた。予定を変更してとにかくグァテマラのアンティグアをめざした。
 アンティグアは中世の町並みをそのまま残したような古くて、美しい町だ。アンティグアには、こじんまりとしたスペイン語学校が何十件もあり、値段も安かった。中南米の旅をめざすツーリストは、まずアンティグアでスペイン語を習ってから、南下するというのがお決まりだった。ツーリスト向けのおしゃれなカフェやレストラン、バーが何件もあり、小さな町には常に外国人があふれていた。
 
 スペイン語授業の初日に、なぜいままで通じなかったのかが明らかになった。スペイン語の動詞は人称と時制によって変化させなければならなかったのだ。それを不定詞(原型)のまま使っていたのだ。スペイン語辞書で「話す」を引くと「hablar(アブラール:語頭のHは発音しない)」と出ている。しかし、この形では使わない。

 人称は単数複数とで6通り。時制は、直説法の現在・過去・未来に、完了形や進行形、命令形、そして一番厄介な接続法がある。少なくとも20通りの時制がある。すべての動詞が6×20で120通りに変化する。アホか。
 習いたてのツーリストがそんなに覚えられるわけがないので、現在形と過去形、不定詞と現在分詞のあわせて14くらいの変化をおぼえる。しかし、規則動詞には3タイプある。そのほか重要な動詞(持つ、できる、する、行く、来る)などは、すべて不規則変化する。いま思い出しても腹が立つ。

 スペイン語学校では、まず動詞の変化を徹底的に憶えさせられる。一番最初が「hablar:話す」などの-ar規則動詞群だ。
「hablar」を変化させると、

私ーーーーーーーーーーhablo
君ーーーーーーーーーーhablas
彼、彼女、あなたーーー habla
私達ーーーーーーーーーhablamos
君達ーーーーーーーーーhablais
彼、彼女ら、あなた達ー hablan

 となる。

 これを、九九のように諳んじて頭に叩き込むしかない。
 アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブラン。
 アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブラン。
 アブロ、アブラス、アブラ・・・・・・∞

 前の日に学んだ動詞群は次の日の朝、テストされる。憶えていなければ、次の-er動詞に進めない。一日分の授業料を損するので、宿に帰ってからも、アブロ、アブラス、アブラ・・・・∞、と念仏のようにとなえる。あれほど、物事に集中したのは、後にも先にもないかもしれない。言葉を習得する一番の方法は「お金を払う」ことだ。ちまたでは一番近道は恋人をつくることだ、ともっともらしく言われているが、それはウソだ。

 たった二週間スペイン語を習っただけで、その後何の不自由もなく中南米を一年旅行した。日本からわざわざスペイン語のテキストを送ってもらって、常にベンキョーしていたつもりだったが、スペイン語圏の旅が終わろうという時、
「アンティグアの二週間から、一歩も進歩しなかった・・・」
 というのがさびしい実感だった。

<Anho Nuebo:新年>

 スペイン語学校の二週間が終わると、魔法のように通じた。アンティグアで学んだ者は、みな同じ感想を持つ。メキシコでの苦渋の日々を忘れ、晴れて、ティカルの遺跡や、内戦中のエル・サルバドルへ出かけた。アンティグアに帰ってきた頃は、もう89年も終わろうとしていた。11月9日には「ベルリンの壁」が崩壊し、東西ドイツがつながった。ドイツ人旅行者にとっては、この上なくハッピーな新年を迎えようとしていた。しかしパナマでは、米軍がマヌエル・ノリエガ将軍の部隊と戦闘を繰り広げていた。
 アンティグアには「禅」というツーリスト向け日本食レストランもあり、日本人旅行者が正月を過ごそうと集まってきた。

「ダリエン・ギャップを超えて、コロンビアへ行きませんか?」
「禅」でメシを食っていると、日本人の若者に声をかけられた。後に曲折をへて親友となる男だ。
「ダリエン?なにそれ?」
「パナマとコロンビアの間のジャングルですよ。パートナーを探してるんです」
「オレは乗り物で行くつもりだけど」
「ダリエン・ギャップに道なんてありませんよ!」
 そのときまで、パンアメリカン・ハイウェイはアラスカからアルゼンチンの最南端まで続いているものと思い込んでいた。しかし、たった一ヶ所、パナマとコロンビアの間に横たわるジャングル地帯は、ハイウェイの建設を頑なに拒んでいた。もし、ダリエン・ギャップが陸路で繋がれば、多大な経済効果を中南米にもたらすだろう。しかし、おそらく日本の技術をもってしても、あのダリアンの大自然には打ち勝つことができないと思う。
 彼は、そのダリアン・ギャップを歩いて走破し、コロンビアへ行く計画を立てていた。彼はそのパートナーを探していた。
「面白そうだな。やるよ」
 ふたつ返事だった。
 彼の表情が一気に明るくなった。パートナー探しは難航していたようだ。握手を交わした。
「ナカツカサさん、下の名前は」
「タツヤ」
「じゃ、タツさんって呼びます。オレはシュンスケって呼んで下さい」
 面白い男だな、と思った。

 すぐに1990年の正月がやってきた。
 その前の正月は、イランのテヘランにいた。イスラム暦なので、西暦の正月は関係ない。イラン・イラク戦争が終わってまだ一ヶ月ほどしか経っていないかった。テヘランには数人のツーリストしかいなかった。実にさびしい正月だった。それにくらべ、カトリック圏のグァテマラの正月は、街中で爆竹がバンバン鳴り響き賑やかだった。

 当時の日記を見ると、1/2「体を鍛える」、1/3「きたえる」、1/4「イシモトAntiguaに来る」、1/5「今日も鍛える」とだけ記されている。未知の体験に対してできることは、体を鍛えることしかなかったようだ。
 1月6日にアンティグアを発ち、パナマに向けて南下した。ホンジュラス、ニカラグア、コスタ・リカを旅しながらパナマにたどり着いた。
 12月に、国家元首ノリエガ将軍は戦闘の末、米軍に逮捕された。パナマ・シティは混乱し、治安は最悪の状態だった。街のあちこちで商店が破壊され、略奪されていた。街を徘徊する米軍の車両を見ながら、「米軍に他国の国家元首を逮捕する権利があるのだろうか」とシュンスケと話し合った。しかし僕たちは、ジャングル越えの準備の方に心を奪われていた。
 あまりの治安の悪さに、シュンスケも僕も、街に出るときはベルトに大型ナイフを差した。銀行にも、うっかりそのスタイルで入ってしまった。カウンターの前でTシャツをめくると、ベルトに大型ナイフ。これでは銀行強盗ではないか。めちゃくちゃ焦ったが、カウンターの令嬢も警備員も平然としていた。他国なら警備員に撃たれるか、良くて逮捕だろう。

<Darien Gap:ダリエン・ギャップ>

 混乱のパナマ・シティで準備を整え、1月30日にダリエン・ギャップのジャングルに入った。
 初日は2時間ほど歩き、川に出た。そこでボートを探さなければならない。幸い、川を遡りながら魚を売っている人がいた。そのボートに乗せてもらった。ボートをゆっくり走らせながら、川沿いの村々に声をかけていく。
「セニョール、この川には魚はいないのか?」
「小さいのしかいない。大きいのはもっと河口の方だ」
 ボートのスピードは遅いし、インディオのおばさんと世間話しをしたりして、とにかく時間がかかって仕方がない。先を急ぐ僕たちは、少し消耗した。夕方4時にようやく予定の村にたどり着いた。その村の小さな売店の主人がパナマの出国スタンプを持っているはずだった。しかし店は閉まっていた。店のオヤジDon Antonioはパナマ・シティへ出かけていた。幸先が悪い。翌日は一日足止めかと諦めていたが、出国スタンプなしで出発していいことになった。予定を変更する必要はなくなったものの、コロンビアのイミグレーションで問題にならないかと心配のタネが残った。

 翌日は、カヌーに乗せてもらって川を遡った。川が浅くなり、モーターボートは使えない。そして、カヌーも使えなくなると歩くしかない。6時間かけてPucuroという村に着いた。
 村の片隅を貸してもらった。火をおこそうとしたが、我々は要領が悪かった。村人が見かねて、火をおこしてくれた。さすがに手際がよかった。しかし、僕はみごとに水をひっくり返して、せっかくおこしてもらった火を鎮火してしまった。これがジャングルの中だったら、シュンスケに殴り倒されているところだ。

 ここまで来ると、文明とは無縁の世界となる。期待と不安が交互にやってくる。
 ジャングルの中には、様々な危険が潜んでいる。毒蛇、サソリ、肉食獣。中でももっとも危険で、僕とシュンスケが出会いたくないもののナンバー・ワンに挙げていたのが、人間である。
「ジャングルの中で人間を見たらどうする」
「とにかく逃げるしかないっすよ」
「あっちの方が先に見つけるんじゃないか」
「なら、おわりですね」
 とにかく人間に出会うことを恐れた。
 初日の魚売りのボートが寄ったある村では、その三日前に、村人がひとり殺害されていた。胸を十字に切り裂かれ、眉間に弾丸を一発撃ち込まれたらしい。
 ダリエン・ギャップのジャングル地帯は、メデジン・カルテルの麻薬基地が点在していた。コロンビアのコカインは、ダリエン・ギャップを通ってパナマに運ばれる。そしてパナマから船便でアメリカへ渡る。コロンビアで1グラム3ドルのコカインが、ニューヨークに着くと80~100ドルで売られる。パナマのノリエガ将軍は、メデジン・カルテルのコカインをアメリカへ輸出してぼろ儲けしていた。
 その後93年に、メデジン・カルテルの大ボス・パブロ・エスコバルはコロンビア警察の狙撃部隊に射殺された。コロンビア最大の麻薬組織は解体した。
 ダリエン・ギャップの中で、出会う人間といえば、インディオを除けば、メデジン・カルテルしかいない。戦争ができるくらいの武器を持っているかも知れない。

<Sordados Americanos:米軍>

「ところで、USアーミーがこんなところに、何しに来たんだ」
 今度は僕が、部隊指揮官S.J.Whiddesに訊いた。
「まあ、ちょっと・・・」
「ノリエガン・アーミーか?」
 ノリエガ将軍の部隊の残党狩りだと検討をつけて訊いてみた。
「いや、コカインがね・・・」
 彼は言葉をにごした。
 なるほどコカインの方か。メデジン・カルテルの麻薬基地の捜索というところだろうか。だとしたら、ちょっと頼もしいんだが。
「ところで君たち、何か必要なものがあったら、何でも言ってくれ」
 Whiddesの意外な申し出に驚いた。
「いや、大丈夫。必要なものはある。それより部隊の写真を撮ってもいいかな」
 すでに勝手に撮っていたのだが、一応許可をとって堂々と撮りたかった。
 兵士は、村の集会所に装備を降ろし、やけに寛いでいた。彼らの写真を収め、話しかけた。
 彼らは、「これをもって行け」と、ダークブラウンのビニール袋をいくつかくれた。MRE(Meal Ready to Eat:携帯用戦闘糧食)だった。中には、レトルトパックのシチュー、フルーツ・ケーキ、歯磨きガム、タバコ、、ココア、コーヒー、クラッカーなどが入っていた。レトルトパックのメイン・ディッシュは何種類もあり、Pork with Rice in BBQ SauceやChicken Stewなどと書いてある。食料を極限まで切り詰めていた僕たちには、夢のようだった。さっそくフルーツ・ケーキをひとつ食ってしまった。 
 米兵はその他にも、汚れた水を殺菌するヨード錠剤や虫除けリキッドをくれた。どちらもジャングルでは必需品だ。ヨード錠剤があれば、いちいち水を煮沸する必要がない。1リットルの水に2錠を入れ、5分間シェイクする。ただし、まずい。ヨードチンキの味がする。
 ジャングルの中では、あまり蚊には攻撃されなかったが、もっと厄介な奴らがいた。朝一番の仕事は、体中に食らいついているダニ取りだった。体長1㍉から5㍉、大小さまざま。米軍の虫除けリキッドを塗ると全滅した。かなり強力だ。柔肌の方にはおすすめできない。

 結局、村を出発したのは朝10時半だった。ここからは歩く以外ない。ダリエンのジャングルの中は平坦ではなかった。かなり起伏がある。しかも大小無数の川が流れている。長い年月の間に、川は地表よりかなり低くなっている。つまり土手を昇り降りしなくてはならない。これが、きつい。ほぼ直角の土手は粘土質ですべった。あっという間に体力を消耗した。川に出くわすたびに、うんざりした。

 翌日、次の村に着くと、そこにも米軍の部隊がいた。
 空き地で、村人とサッカーをしていた。あいかわらず、のんびりしたもんだ。
 ここでも、米軍の兵士に歓待された。また、MREを何袋ももらった。もはや、食料の心配だけはなくなった。
 黒人の衛生兵はプラスチックボトルをくれた。何なのかよくわからなかった。
「これはフット・パウダーだ。靴を履く前に足にまぶす。足を清潔に保ち、疲労回復にもなる」
 なるほど、それはいい。無数の川のせいで、僕たちの靴は常に濡れた状態だった。足が腐ってしまいそうだった。このパウダーのおかげで水虫にならなかったのかも知れない。いまでも、このときの習慣が残っている。いまは、靴を脱いだ後ベビーパウダーを靴の中に振り撒いている。一年間スニーカーを洗わなくても悪臭はない。

 この日は休息日にした。はやくも体はガタガタになっていた。
 くつろいでいると、何人もの兵士が話しかけてきた。
「ノリエガを知ってるか」
 若い兵士だった。
「ああ、捕まえたんだろ」
「ノリエガの兵士と撃ち合ったんだ。本物の戦争をしたんだぜ」
 それは、僕に話しかけているというより、自分自身に語りかけているようだった。本物の戦闘をしたことが、まだ信じられないという感じだった。戦闘の興奮と緊張から醒めていなかった。おそらくはじめての実戦だったに違いない。彼の”real war”という言葉が妙に生々しかった。歩兵隊でも全ての兵士が実戦を経験するわけではない。工兵隊や補給部隊が前線に出て戦闘をすることはない。米陸軍の中でも、敵と面と向かって戦闘を経験をするのは全体のごくわずかだ。

 年配のベテラン兵士がやってきて、僕たちの前に腰をおろした。
「これを知ってるか」
 と言った。
「ああ、M-16ライフル」
 M-16自動小銃は、ベトナム戦争ではじめて実戦に採用され、以後改良をかさね、今日まで使われ続けている。ゴルゴ13も愛用している高性能ライフルだ。しかしベトナム戦争時はよくジャミング(排薬づまり)を起こしたらしい。戦闘中にライフルが使い物にならなくなり、多くの兵士が命を落としたと言われている。兵士からは欠陥ライフルだと思われていた。しかし原因は、国防総省がメーカーの忠告を無視して、古いタイプの火薬を使ったことだった。機関部にカーボンがたまり薬莢をつまらせてしまう。古いタイプの火薬の在庫処分のために、多くの兵士が命を落とした。事実だとしたら、むごい話しだ。軍隊にとって兵士はただの消耗品にすぎない。
 ベテラン兵士はM-16を分解しながら「オレはスナイパーだ」と言って、胸の徽章を示した。徽章にはライフルの刺繍が入っていた。
「あと5年で除隊だ。すでに20年軍隊にいる」
「除隊したら、何をする」
「のんびりするさ。旅をしたり、釣りをしたり、いろいろさ」
 いまなら、根掘り葉掘りインタビューをしていることだろう。しかしこのときは世間話程度しかしていない。僕たちは疲れきっていた。
 この部隊の指揮官がやってきて、
「食べたアーミー・レーションのゴミは、ジャングルの中に捨てないでくれ。それだけは頼むよ」
 と言った。
 
 翌日の早朝、まだ兵士たちが高鼾で寝ているころ、僕たちは出発した。歩哨の黒人兵士がひとりだけ起きていた。片手をあげて別れを告げた。僕とシュンスケは肌寒いジャングルの中へ進んだ。以後、ダリエン・ギャップで米軍に出遭うことはなかった。
 それから四日後、シュンスケと僕は、コロンビアのTurboに着いた。たった8日間ではあったが、久しぶりに文明と出会えた気分だった。コロンビア・コーヒーで祝杯をあげた。シュンスケと顔を見合わせるほど、美味しいコーヒーだった。以来、コーヒーといえばコロンビアだ。 

 兵士たちにもらったMRE、ヨード錠剤、虫除けリキッド、フット・パウダーはすべて役に立った。もしそれらがなかったら、シュンスケと僕は、かなりの苦行を強いられていただろう。
「あいつら、映画に出てくる米軍そのまんまやったなあ」
「笑っちゃいましたよね」
 陽気で、親切で、お喋り好き。
 屈託がなく、憎めない奴らだった。
 30歳前後の兵士が多かった。
 あれから14年。ほとんどの兵士はすでに除隊しているかもしれない。
 あの静かなスナイパーだけはとっくに除隊しているはずだ。いまごろはアラスカあたりでレインボー・トラウトを釣っているかもしれない。
 ジョージ・W・ブッシュ大統領の召集令状がきていなければ、の話だが。