いま世界で最も危険な場所は、間違いなくイラクだ。
そんなイラクに好きで滞在している外国人はほとんどいないだろう。
外交官もビジネスマンもジャーナリストも米軍兵士も、
できればイラクから逃げ出したいと思っている。
危険な任務に服従しない兵士も急増している。
在イラク米大使館のスッタッフの給料を1.5倍にしても、希望者が足りない。
グリーンゾーン(安全地域)の外に出る者はほとんどいない。
イラクとはそういうところだ。
そんなイラクに香田証生君は、なぜ行ったのだろうか。
イラクが危険な場所であるという認識は当然あったはずだ。
─「軽装」─
彼は、ヨルダンのアンマンに着いた翌日に、早くもバグダッド行きのバスに乗っている。所持金はたったの100ドル。パスポートにはイスラエルのスタンプ。バグダッドでの宿泊は、”バスに乗り合わせた乗客に頼む”つもりだったという。まるで、ほんの寄道のような感じだ。
僕なら、一万ドルの現金と、まっさらのパスポート、最も安全なホテルの予約に、防弾ジャケットがあったとしても、イラクへ入国する前には、極度の緊張を強いられるだろう。へたをすると国境を越える決意を固めるのに、何週間もかかるかも知れない。怪我をしたり、死ぬ危険があれば、当然そうなる。勇気の問題ではない。
彼は、不測の事態をまったく想定していなかったように思う。すべてが順調にいくという前提で行動していたとしか思えない。でなければ、あのような「軽装」でイラクには入れない。
─自発的報道管制─
今回のイラク戦争に限らず、アフガニスタン戦争や湾岸戦争では、厳しい報道管制が敷かれた。ベトナム戦争と、それ以後の戦争報道とは天と地ほどの違いがある。ベトナム戦争には「報道管制」などなかった。メディアには、自由な取材どころか、あらゆる便宜が与えられた。すべてが取材され、世界のメディアで流された。戦争の真実があますところなく報道された最後の時代だ。戦争では、市民までが、どれだけ無慈悲に殺されるか、そしてその無惨な殺され方まで人々は理解した。
ベトナム戦争の敗因の半分は、自由な報道にあったと言えるだろう。以後、戦争報道は一変し、完璧な報道管制が敷かれた。果敢に戦う米軍兵士の姿ばかりが映され、戦死者や市民の犠牲者は幽霊のように消えた。報道は、作りものの映画となんら変わりなくなった。ピンポイント爆撃の映像はテレビゲームのようだ。そんな映像からは、本当にそこで人が殺されているという実感など持ちようがない。
911テロの報道でも、まったく遺体が放映されていない。撮影されていないはずはない。遺体の映像は、敵に対する憎悪よりも、戦争を忌避する感情をこそ生む。国民を戦争に駆り立てたいアメリカ政府は、遺体の映像を極度に規制した。マスメディアはそれを忠実に守った。というより、自発的に自己規制した。メディアのたゆまぬ努力の結果、戦争報道からおぞましい血の臭いが消えた。マスメディアは、間違いなく戦争の共犯だ。
映画的、テレビゲーム的戦争報道から、人々の苦痛や死を実感することは難しい。死がイメージできなければ、死への恐怖もない。死への恐怖がなければ、それこそ戦場へでも行ける。香田証生君の信じがたい「軽装」は、死への不感症によるのではないだろうか。その不感症は、意図的に真実を遮断する報道の歴史が生んだのではないか。
─インターネット・メディア─
アンマンの、バッグパッカーが集まるクリフホテルには「イラクへの行き方」を書き込んだ情報ノートがあるらしい。イラクへ入国した旅行者は、実際に何人もいるという。
危険な地帯に吸い寄せられていく若者は多い。そうした若者に、僕自身何人も出会ってきた。彼らの、動機や目的は様々であり、一概には語れない。動機や目的がどうあれ、基本的には当該国が拒まない限り、誰がどこへ行くのも自由だ。渡航の自由は憲法が保障している。だが、マスメディアにのるような事件が発生したとき、それは無謀な行為、迷惑な行為、人騒がせとして、非難の集中砲火をあびる。しかし、危険な地帯へ吸い込まれる若者と、それを批判する者たちの間に、何か違いがあるだろうか。
「ファルージャで市民多数が犠牲になっている模様」とマスメディアが100万回繰り返したところで、誰もその死を実感することはできない。マスメディアの「自発的報道管制」により、世界中が真実から遮断されている。そんな状況で、イラク市民の死や苦痛や恐怖や悲しみを、理解しろという方が無理だ。人の死を脳の表面で認識することと、こころの奥深くで理解することとは別物だ。危険な地帯に赴く若者も、それを批判する大人も、死や苦痛への不感症という点では、何ら変わりないように思う。
マスメディアが、戦争の真実を伝えることは、もはやありえない。しかし、イスラム系メディアや多くのインターネット・メディアが、戦争の真の姿を伝えようと努力している。
後頭部を吹き飛ばされた少女の、まるで寝ているような表情を見て、何も感じない人はいないだろう。
生きたまま、両腕が灰になるまで焼かれた少年の姿を見て、それが現実の映像だと信じられる人はいないだろう。
治療も受けられず、肉体をえぐられたまま横たわる少女の、カメラに向けられた視線に耐えられる人はいないだろう。
もし、香田証生君が、クリフホテルの情報ノートを読む前に、インターネット・メディアのひとつでも閲覧し、写真の一枚でも見ていたら、もっと慎重に行動していたのではないだろうか。あるいは、イラク入国を思い止まっていたかもしれない。
情報は、自然に与えられるものではなく、こちらから勝ち取るものなのだ。
そんなイラクに好きで滞在している外国人はほとんどいないだろう。
外交官もビジネスマンもジャーナリストも米軍兵士も、
できればイラクから逃げ出したいと思っている。
危険な任務に服従しない兵士も急増している。
在イラク米大使館のスッタッフの給料を1.5倍にしても、希望者が足りない。
グリーンゾーン(安全地域)の外に出る者はほとんどいない。
イラクとはそういうところだ。
そんなイラクに香田証生君は、なぜ行ったのだろうか。
イラクが危険な場所であるという認識は当然あったはずだ。
─「軽装」─
彼は、ヨルダンのアンマンに着いた翌日に、早くもバグダッド行きのバスに乗っている。所持金はたったの100ドル。パスポートにはイスラエルのスタンプ。バグダッドでの宿泊は、”バスに乗り合わせた乗客に頼む”つもりだったという。まるで、ほんの寄道のような感じだ。
僕なら、一万ドルの現金と、まっさらのパスポート、最も安全なホテルの予約に、防弾ジャケットがあったとしても、イラクへ入国する前には、極度の緊張を強いられるだろう。へたをすると国境を越える決意を固めるのに、何週間もかかるかも知れない。怪我をしたり、死ぬ危険があれば、当然そうなる。勇気の問題ではない。
彼は、不測の事態をまったく想定していなかったように思う。すべてが順調にいくという前提で行動していたとしか思えない。でなければ、あのような「軽装」でイラクには入れない。
─自発的報道管制─
今回のイラク戦争に限らず、アフガニスタン戦争や湾岸戦争では、厳しい報道管制が敷かれた。ベトナム戦争と、それ以後の戦争報道とは天と地ほどの違いがある。ベトナム戦争には「報道管制」などなかった。メディアには、自由な取材どころか、あらゆる便宜が与えられた。すべてが取材され、世界のメディアで流された。戦争の真実があますところなく報道された最後の時代だ。戦争では、市民までが、どれだけ無慈悲に殺されるか、そしてその無惨な殺され方まで人々は理解した。
ベトナム戦争の敗因の半分は、自由な報道にあったと言えるだろう。以後、戦争報道は一変し、完璧な報道管制が敷かれた。果敢に戦う米軍兵士の姿ばかりが映され、戦死者や市民の犠牲者は幽霊のように消えた。報道は、作りものの映画となんら変わりなくなった。ピンポイント爆撃の映像はテレビゲームのようだ。そんな映像からは、本当にそこで人が殺されているという実感など持ちようがない。
911テロの報道でも、まったく遺体が放映されていない。撮影されていないはずはない。遺体の映像は、敵に対する憎悪よりも、戦争を忌避する感情をこそ生む。国民を戦争に駆り立てたいアメリカ政府は、遺体の映像を極度に規制した。マスメディアはそれを忠実に守った。というより、自発的に自己規制した。メディアのたゆまぬ努力の結果、戦争報道からおぞましい血の臭いが消えた。マスメディアは、間違いなく戦争の共犯だ。
映画的、テレビゲーム的戦争報道から、人々の苦痛や死を実感することは難しい。死がイメージできなければ、死への恐怖もない。死への恐怖がなければ、それこそ戦場へでも行ける。香田証生君の信じがたい「軽装」は、死への不感症によるのではないだろうか。その不感症は、意図的に真実を遮断する報道の歴史が生んだのではないか。
─インターネット・メディア─
アンマンの、バッグパッカーが集まるクリフホテルには「イラクへの行き方」を書き込んだ情報ノートがあるらしい。イラクへ入国した旅行者は、実際に何人もいるという。
危険な地帯に吸い寄せられていく若者は多い。そうした若者に、僕自身何人も出会ってきた。彼らの、動機や目的は様々であり、一概には語れない。動機や目的がどうあれ、基本的には当該国が拒まない限り、誰がどこへ行くのも自由だ。渡航の自由は憲法が保障している。だが、マスメディアにのるような事件が発生したとき、それは無謀な行為、迷惑な行為、人騒がせとして、非難の集中砲火をあびる。しかし、危険な地帯へ吸い込まれる若者と、それを批判する者たちの間に、何か違いがあるだろうか。
「ファルージャで市民多数が犠牲になっている模様」とマスメディアが100万回繰り返したところで、誰もその死を実感することはできない。マスメディアの「自発的報道管制」により、世界中が真実から遮断されている。そんな状況で、イラク市民の死や苦痛や恐怖や悲しみを、理解しろという方が無理だ。人の死を脳の表面で認識することと、こころの奥深くで理解することとは別物だ。危険な地帯に赴く若者も、それを批判する大人も、死や苦痛への不感症という点では、何ら変わりないように思う。
マスメディアが、戦争の真実を伝えることは、もはやありえない。しかし、イスラム系メディアや多くのインターネット・メディアが、戦争の真の姿を伝えようと努力している。
後頭部を吹き飛ばされた少女の、まるで寝ているような表情を見て、何も感じない人はいないだろう。
生きたまま、両腕が灰になるまで焼かれた少年の姿を見て、それが現実の映像だと信じられる人はいないだろう。
治療も受けられず、肉体をえぐられたまま横たわる少女の、カメラに向けられた視線に耐えられる人はいないだろう。
もし、香田証生君が、クリフホテルの情報ノートを読む前に、インターネット・メディアのひとつでも閲覧し、写真の一枚でも見ていたら、もっと慎重に行動していたのではないだろうか。あるいは、イラク入国を思い止まっていたかもしれない。
情報は、自然に与えられるものではなく、こちらから勝ち取るものなのだ。