報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

氷河期の報道写真家

2004年12月09日 03時48分20秒 | 報道写真家から
 ある写真家の写真集の書評を読んでいると、次のような下りがあった。

『今日、フリーのフォトジャーナリストを取り巻く環境は氷河期並みだ。グラフ雑誌は姿を消し、週刊誌のグラビアページも悲惨な流血の写真は敬遠する傾向にある。』

 まさしく、そのとおりだ。
 フリーの報道写真家は大勢いるが、撮った写真を載せる媒体がない。雑誌そのものは、無数にあるが、報道写真を載せてくれるようなスペースはほとんどない。凍てつく大地を歩き回り、ごくわずかなパイを探し求めなければならない。

 この氷河期の中で、僕も細々と活動している。
 世界が平和で、写真を撮るネタがなくて氷河期なら、それは喜ばしいことだ。そのときは、喜んで報道写真家をやめる。
 しかし、現実はそうではない。世界はこれからますます理想とはかけ離れた状態になる。ブッシュ大統領が再選されたとたん、イラクのファルージャは、地獄と化した。

 ファルージャから退避しようとしていた大勢の市民は、米軍に市内へと押し戻された。そのあと、容赦ない爆撃が繰り広げられた。市民の犠牲者の数ははかり知れない。米軍は犠牲者を隠滅するために、遺体を戦車で踏み潰している。女性や子供が、米軍の戦車に縛り付けられ、人間の盾にされている。あるいは抵抗勢力のロケット攻撃を阻止するために、女性や子供、老人が何百人も基地内に拉致された。抵抗勢力への攻撃には、化学爆弾を使用している疑いもある。

 この地獄は拡大こそすれ、縮小することはない。いずれ中東全体が血の海となり、世界中で爆弾が炸裂することになるかもしれない。もちろん、日本も。ブッシュ大統領が望むのは、テロとの戦いではなく、テロの醸成と散布だ。

 こんな時代に、日本の媒体は、冬眠に入っている。
 確かに、いまは氷河期だ。
 しかし、だからこそ、われわれはやめるわけにはいかない。
 そして、多くの若い人たちにこの世界に入って欲しいと思っている。この氷河期を走り回れるのは、きっと新しい感性を持った若い人たちなのだ。われわれも、凍りついても前に進み続ける。

 フリーランスには、資格も試験も免許もない。
 いますぐ、誰でもなれる。


【ダリエン・ギャップ (1)】 ジャングルを越えて─

2004年12月09日 02時37分35秒 | 軽い読み物
<Sordados Americanos :米軍>

「お前らこんなところで何してる?」
 部隊の指揮官らしき米兵が言った。
 それはこちらが訊きたかった。
 お互い、予想もしなかった相手に出くわし少し驚いた。

 1990年2月1日。
 僕は、パナマのジャングルの真っ只中にいた。ジャングルに入って二日目、インディオの村の片隅に野宿させてもらった。
 翌早朝、出発の準備が済んだ頃、米軍のUH-60ブラックホーク・ヘリコプター3機が飛来し、川の対岸に着陸した。30人くらいの完全武装の米兵が川を渡って、ぞろぞろと村に入ってきた。ヘルメットや顔にもカモフラージュをほどこしていた。臨戦体制だ。写真を撮ろうとしたが、村人に止められた。米軍がジャングルの奥まで何をしに来たのだろう。ジャングルに囲まれた、のどかな村には不釣合いな連中だった。しばらく様子を見たが、別段緊張感もないので、兵士たちに近づいた。インディオと日本人の区別はついたようだった。
「お前ら、こんなところで何してる?」
 レイバンサングラスの部隊指揮官らしき軍人が言った。
「ツーリストだ。ジャングルを歩いてコロンビアへ行く」
「歩いてか?大丈夫かお前ら」
 それは僕たちにもわからなかった。

<Escola de Espanhor:スペイン語学校>

 1989年の年の瀬、僕はグァテマラのアンティグアという町でスペイン語を習っていた。スペイン語の独習は不可能に思えたからだ。ガイドブックのスペイン語の欄をポケットに突っ込んでいたが、まったく役に立たなかった。それまで旅をしながらそれぞれの国の言葉を憶え、多少なりとも使いこなしてきた。中国語、ウルドゥ語、ペルシャ語、トルコ語。どの言語圏へ行っても、旅をしながら言葉は学べると思っていた。が、スペイン語は事情が違った。

 中南米の旅の最初の国メキシコでは、まったく言葉が通じず、散々な眼にあった。食事をするのさえ事欠いた。予定を変更してとにかくグァテマラのアンティグアをめざした。
 アンティグアは中世の町並みをそのまま残したような古くて、美しい町だ。アンティグアには、こじんまりとしたスペイン語学校が何十件もあり、値段も安かった。中南米の旅をめざすツーリストは、まずアンティグアでスペイン語を習ってから、南下するというのがお決まりだった。ツーリスト向けのおしゃれなカフェやレストラン、バーが何件もあり、小さな町には常に外国人があふれていた。
 
 スペイン語授業の初日に、なぜいままで通じなかったのかが明らかになった。スペイン語の動詞は人称と時制によって変化させなければならなかったのだ。それを不定詞(原型)のまま使っていたのだ。スペイン語辞書で「話す」を引くと「hablar(アブラール:語頭のHは発音しない)」と出ている。しかし、この形では使わない。

 人称は単数複数とで6通り。時制は、直説法の現在・過去・未来に、完了形や進行形、命令形、そして一番厄介な接続法がある。少なくとも20通りの時制がある。すべての動詞が6×20で120通りに変化する。アホか。
 習いたてのツーリストがそんなに覚えられるわけがないので、現在形と過去形、不定詞と現在分詞のあわせて14くらいの変化をおぼえる。しかし、規則動詞には3タイプある。そのほか重要な動詞(持つ、できる、する、行く、来る)などは、すべて不規則変化する。いま思い出しても腹が立つ。

 スペイン語学校では、まず動詞の変化を徹底的に憶えさせられる。一番最初が「hablar:話す」などの-ar規則動詞群だ。
「hablar」を変化させると、

私ーーーーーーーーーーhablo
君ーーーーーーーーーーhablas
彼、彼女、あなたーーー habla
私達ーーーーーーーーーhablamos
君達ーーーーーーーーーhablais
彼、彼女ら、あなた達ー hablan

 となる。

 これを、九九のように諳んじて頭に叩き込むしかない。
 アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブラン。
 アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブラン。
 アブロ、アブラス、アブラ・・・・・・∞

 前の日に学んだ動詞群は次の日の朝、テストされる。憶えていなければ、次の-er動詞に進めない。一日分の授業料を損するので、宿に帰ってからも、アブロ、アブラス、アブラ・・・・∞、と念仏のようにとなえる。あれほど、物事に集中したのは、後にも先にもないかもしれない。言葉を習得する一番の方法は「お金を払う」ことだ。ちまたでは一番近道は恋人をつくることだ、ともっともらしく言われているが、それはウソだ。

 たった二週間スペイン語を習っただけで、その後何の不自由もなく中南米を一年旅行した。日本からわざわざスペイン語のテキストを送ってもらって、常にベンキョーしていたつもりだったが、スペイン語圏の旅が終わろうという時、
「アンティグアの二週間から、一歩も進歩しなかった・・・」
 というのがさびしい実感だった。

<Anho Nuebo:新年>

 スペイン語学校の二週間が終わると、魔法のように通じた。アンティグアで学んだ者は、みな同じ感想を持つ。メキシコでの苦渋の日々を忘れ、晴れて、ティカルの遺跡や、内戦中のエル・サルバドルへ出かけた。アンティグアに帰ってきた頃は、もう89年も終わろうとしていた。11月9日には「ベルリンの壁」が崩壊し、東西ドイツがつながった。ドイツ人旅行者にとっては、この上なくハッピーな新年を迎えようとしていた。しかしパナマでは、米軍がマヌエル・ノリエガ将軍の部隊と戦闘を繰り広げていた。
 アンティグアには「禅」というツーリスト向け日本食レストランもあり、日本人旅行者が正月を過ごそうと集まってきた。

「ダリエン・ギャップを超えて、コロンビアへ行きませんか?」
「禅」でメシを食っていると、日本人の若者に声をかけられた。後に曲折をへて親友となる男だ。
「ダリエン?なにそれ?」
「パナマとコロンビアの間のジャングルですよ。パートナーを探してるんです」
「オレは乗り物で行くつもりだけど」
「ダリエン・ギャップに道なんてありませんよ!」
 そのときまで、パンアメリカン・ハイウェイはアラスカからアルゼンチンの最南端まで続いているものと思い込んでいた。しかし、たった一ヶ所、パナマとコロンビアの間に横たわるジャングル地帯は、ハイウェイの建設を頑なに拒んでいた。もし、ダリエン・ギャップが陸路で繋がれば、多大な経済効果を中南米にもたらすだろう。しかし、おそらく日本の技術をもってしても、あのダリアンの大自然には打ち勝つことができないと思う。
 彼は、そのダリアン・ギャップを歩いて走破し、コロンビアへ行く計画を立てていた。彼はそのパートナーを探していた。
「面白そうだな。やるよ」
 ふたつ返事だった。
 彼の表情が一気に明るくなった。パートナー探しは難航していたようだ。握手を交わした。
「ナカツカサさん、下の名前は」
「タツヤ」
「じゃ、タツさんって呼びます。オレはシュンスケって呼んで下さい」
 面白い男だな、と思った。

 すぐに1990年の正月がやってきた。
 その前の正月は、イランのテヘランにいた。イスラム暦なので、西暦の正月は関係ない。イラン・イラク戦争が終わってまだ一ヶ月ほどしか経っていないかった。テヘランには数人のツーリストしかいなかった。実にさびしい正月だった。それにくらべ、カトリック圏のグァテマラの正月は、街中で爆竹がバンバン鳴り響き賑やかだった。

 当時の日記を見ると、1/2「体を鍛える」、1/3「きたえる」、1/4「イシモトAntiguaに来る」、1/5「今日も鍛える」とだけ記されている。未知の体験に対してできることは、体を鍛えることしかなかったようだ。
 1月6日にアンティグアを発ち、パナマに向けて南下した。ホンジュラス、ニカラグア、コスタ・リカを旅しながらパナマにたどり着いた。
 12月に、国家元首ノリエガ将軍は戦闘の末、米軍に逮捕された。パナマ・シティは混乱し、治安は最悪の状態だった。街のあちこちで商店が破壊され、略奪されていた。街を徘徊する米軍の車両を見ながら、「米軍に他国の国家元首を逮捕する権利があるのだろうか」とシュンスケと話し合った。しかし僕たちは、ジャングル越えの準備の方に心を奪われていた。
 あまりの治安の悪さに、シュンスケも僕も、街に出るときはベルトに大型ナイフを差した。銀行にも、うっかりそのスタイルで入ってしまった。カウンターの前でTシャツをめくると、ベルトに大型ナイフ。これでは銀行強盗ではないか。めちゃくちゃ焦ったが、カウンターの令嬢も警備員も平然としていた。他国なら警備員に撃たれるか、良くて逮捕だろう。

<Darien Gap:ダリエン・ギャップ>

 混乱のパナマ・シティで準備を整え、1月30日にダリエン・ギャップのジャングルに入った。
 初日は2時間ほど歩き、川に出た。そこでボートを探さなければならない。幸い、川を遡りながら魚を売っている人がいた。そのボートに乗せてもらった。ボートをゆっくり走らせながら、川沿いの村々に声をかけていく。
「セニョール、この川には魚はいないのか?」
「小さいのしかいない。大きいのはもっと河口の方だ」
 ボートのスピードは遅いし、インディオのおばさんと世間話しをしたりして、とにかく時間がかかって仕方がない。先を急ぐ僕たちは、少し消耗した。夕方4時にようやく予定の村にたどり着いた。その村の小さな売店の主人がパナマの出国スタンプを持っているはずだった。しかし店は閉まっていた。店のオヤジDon Antonioはパナマ・シティへ出かけていた。幸先が悪い。翌日は一日足止めかと諦めていたが、出国スタンプなしで出発していいことになった。予定を変更する必要はなくなったものの、コロンビアのイミグレーションで問題にならないかと心配のタネが残った。

 翌日は、カヌーに乗せてもらって川を遡った。川が浅くなり、モーターボートは使えない。そして、カヌーも使えなくなると歩くしかない。6時間かけてPucuroという村に着いた。
 村の片隅を貸してもらった。火をおこそうとしたが、我々は要領が悪かった。村人が見かねて、火をおこしてくれた。さすがに手際がよかった。しかし、僕はみごとに水をひっくり返して、せっかくおこしてもらった火を鎮火してしまった。これがジャングルの中だったら、シュンスケに殴り倒されているところだ。

 ここまで来ると、文明とは無縁の世界となる。期待と不安が交互にやってくる。
 ジャングルの中には、様々な危険が潜んでいる。毒蛇、サソリ、肉食獣。中でももっとも危険で、僕とシュンスケが出会いたくないもののナンバー・ワンに挙げていたのが、人間である。
「ジャングルの中で人間を見たらどうする」
「とにかく逃げるしかないっすよ」
「あっちの方が先に見つけるんじゃないか」
「なら、おわりですね」
 とにかく人間に出会うことを恐れた。
 初日の魚売りのボートが寄ったある村では、その三日前に、村人がひとり殺害されていた。胸を十字に切り裂かれ、眉間に弾丸を一発撃ち込まれたらしい。
 ダリエン・ギャップのジャングル地帯は、メデジン・カルテルの麻薬基地が点在していた。コロンビアのコカインは、ダリエン・ギャップを通ってパナマに運ばれる。そしてパナマから船便でアメリカへ渡る。コロンビアで1グラム3ドルのコカインが、ニューヨークに着くと80~100ドルで売られる。パナマのノリエガ将軍は、メデジン・カルテルのコカインをアメリカへ輸出してぼろ儲けしていた。
 その後93年に、メデジン・カルテルの大ボス・パブロ・エスコバルはコロンビア警察の狙撃部隊に射殺された。コロンビア最大の麻薬組織は解体した。
 ダリエン・ギャップの中で、出会う人間といえば、インディオを除けば、メデジン・カルテルしかいない。戦争ができるくらいの武器を持っているかも知れない。

<Sordados Americanos:米軍>

「ところで、USアーミーがこんなところに、何しに来たんだ」
 今度は僕が、部隊指揮官S.J.Whiddesに訊いた。
「まあ、ちょっと・・・」
「ノリエガン・アーミーか?」
 ノリエガ将軍の部隊の残党狩りだと検討をつけて訊いてみた。
「いや、コカインがね・・・」
 彼は言葉をにごした。
 なるほどコカインの方か。メデジン・カルテルの麻薬基地の捜索というところだろうか。だとしたら、ちょっと頼もしいんだが。
「ところで君たち、何か必要なものがあったら、何でも言ってくれ」
 Whiddesの意外な申し出に驚いた。
「いや、大丈夫。必要なものはある。それより部隊の写真を撮ってもいいかな」
 すでに勝手に撮っていたのだが、一応許可をとって堂々と撮りたかった。
 兵士は、村の集会所に装備を降ろし、やけに寛いでいた。彼らの写真を収め、話しかけた。
 彼らは、「これをもって行け」と、ダークブラウンのビニール袋をいくつかくれた。MRE(Meal Ready to Eat:携帯用戦闘糧食)だった。中には、レトルトパックのシチュー、フルーツ・ケーキ、歯磨きガム、タバコ、、ココア、コーヒー、クラッカーなどが入っていた。レトルトパックのメイン・ディッシュは何種類もあり、Pork with Rice in BBQ SauceやChicken Stewなどと書いてある。食料を極限まで切り詰めていた僕たちには、夢のようだった。さっそくフルーツ・ケーキをひとつ食ってしまった。 
 米兵はその他にも、汚れた水を殺菌するヨード錠剤や虫除けリキッドをくれた。どちらもジャングルでは必需品だ。ヨード錠剤があれば、いちいち水を煮沸する必要がない。1リットルの水に2錠を入れ、5分間シェイクする。ただし、まずい。ヨードチンキの味がする。
 ジャングルの中では、あまり蚊には攻撃されなかったが、もっと厄介な奴らがいた。朝一番の仕事は、体中に食らいついているダニ取りだった。体長1㍉から5㍉、大小さまざま。米軍の虫除けリキッドを塗ると全滅した。かなり強力だ。柔肌の方にはおすすめできない。

 結局、村を出発したのは朝10時半だった。ここからは歩く以外ない。ダリエンのジャングルの中は平坦ではなかった。かなり起伏がある。しかも大小無数の川が流れている。長い年月の間に、川は地表よりかなり低くなっている。つまり土手を昇り降りしなくてはならない。これが、きつい。ほぼ直角の土手は粘土質ですべった。あっという間に体力を消耗した。川に出くわすたびに、うんざりした。

 翌日、次の村に着くと、そこにも米軍の部隊がいた。
 空き地で、村人とサッカーをしていた。あいかわらず、のんびりしたもんだ。
 ここでも、米軍の兵士に歓待された。また、MREを何袋ももらった。もはや、食料の心配だけはなくなった。
 黒人の衛生兵はプラスチックボトルをくれた。何なのかよくわからなかった。
「これはフット・パウダーだ。靴を履く前に足にまぶす。足を清潔に保ち、疲労回復にもなる」
 なるほど、それはいい。無数の川のせいで、僕たちの靴は常に濡れた状態だった。足が腐ってしまいそうだった。このパウダーのおかげで水虫にならなかったのかも知れない。いまでも、このときの習慣が残っている。いまは、靴を脱いだ後ベビーパウダーを靴の中に振り撒いている。一年間スニーカーを洗わなくても悪臭はない。

 この日は休息日にした。はやくも体はガタガタになっていた。
 くつろいでいると、何人もの兵士が話しかけてきた。
「ノリエガを知ってるか」
 若い兵士だった。
「ああ、捕まえたんだろ」
「ノリエガの兵士と撃ち合ったんだ。本物の戦争をしたんだぜ」
 それは、僕に話しかけているというより、自分自身に語りかけているようだった。本物の戦闘をしたことが、まだ信じられないという感じだった。戦闘の興奮と緊張から醒めていなかった。おそらくはじめての実戦だったに違いない。彼の”real war”という言葉が妙に生々しかった。歩兵隊でも全ての兵士が実戦を経験するわけではない。工兵隊や補給部隊が前線に出て戦闘をすることはない。米陸軍の中でも、敵と面と向かって戦闘を経験をするのは全体のごくわずかだ。

 年配のベテラン兵士がやってきて、僕たちの前に腰をおろした。
「これを知ってるか」
 と言った。
「ああ、M-16ライフル」
 M-16自動小銃は、ベトナム戦争ではじめて実戦に採用され、以後改良をかさね、今日まで使われ続けている。ゴルゴ13も愛用している高性能ライフルだ。しかしベトナム戦争時はよくジャミング(排薬づまり)を起こしたらしい。戦闘中にライフルが使い物にならなくなり、多くの兵士が命を落としたと言われている。兵士からは欠陥ライフルだと思われていた。しかし原因は、国防総省がメーカーの忠告を無視して、古いタイプの火薬を使ったことだった。機関部にカーボンがたまり薬莢をつまらせてしまう。古いタイプの火薬の在庫処分のために、多くの兵士が命を落とした。事実だとしたら、むごい話しだ。軍隊にとって兵士はただの消耗品にすぎない。
 ベテラン兵士はM-16を分解しながら「オレはスナイパーだ」と言って、胸の徽章を示した。徽章にはライフルの刺繍が入っていた。
「あと5年で除隊だ。すでに20年軍隊にいる」
「除隊したら、何をする」
「のんびりするさ。旅をしたり、釣りをしたり、いろいろさ」
 いまなら、根掘り葉掘りインタビューをしていることだろう。しかしこのときは世間話程度しかしていない。僕たちは疲れきっていた。
 この部隊の指揮官がやってきて、
「食べたアーミー・レーションのゴミは、ジャングルの中に捨てないでくれ。それだけは頼むよ」
 と言った。
 
 翌日の早朝、まだ兵士たちが高鼾で寝ているころ、僕たちは出発した。歩哨の黒人兵士がひとりだけ起きていた。片手をあげて別れを告げた。僕とシュンスケは肌寒いジャングルの中へ進んだ。以後、ダリエン・ギャップで米軍に出遭うことはなかった。
 それから四日後、シュンスケと僕は、コロンビアのTurboに着いた。たった8日間ではあったが、久しぶりに文明と出会えた気分だった。コロンビア・コーヒーで祝杯をあげた。シュンスケと顔を見合わせるほど、美味しいコーヒーだった。以来、コーヒーといえばコロンビアだ。 

 兵士たちにもらったMRE、ヨード錠剤、虫除けリキッド、フット・パウダーはすべて役に立った。もしそれらがなかったら、シュンスケと僕は、かなりの苦行を強いられていただろう。
「あいつら、映画に出てくる米軍そのまんまやったなあ」
「笑っちゃいましたよね」
 陽気で、親切で、お喋り好き。
 屈託がなく、憎めない奴らだった。
 30歳前後の兵士が多かった。
 あれから14年。ほとんどの兵士はすでに除隊しているかもしれない。
 あの静かなスナイパーだけはとっくに除隊しているはずだ。いまごろはアラスカあたりでレインボー・トラウトを釣っているかもしれない。
 ジョージ・W・ブッシュ大統領の召集令状がきていなければ、の話だが。