報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

【ダリエン・ギャップ 2】中米南下の果てに

2004年12月13日 21時28分35秒 | 軽い読み物
<暴動>

 安宿の古びたテレビには、激しい暴動の様子が映し出されていた。
 目抜き通りらしき通りに暴徒が走り回り、商店のガラスは破壊され、商品が略奪されていた。

 シュンスケと僕は困惑した。
 それは、これから行こうとしている、いや、行かなければならないパナマ・シティの映像だった。
「・・・・・?(どうします?)」
「・・・・・!(どうにもならん!)」
 ニュース映像を前に、僕たちは落胆しすぎて言葉もでなかった。
 1990年1月15日。サンホセ(コスタリカ)に着いた日だった。

 この一ヶ月前の1989年12月20日、アメリカ軍はパナマの国家元首マヌエル・ノリエガ将軍を捕らえる軍事作戦を展開した。激しい戦闘を繰り広げた末、ノリエガ将軍は捕らえられ、空軍機でアメリカへ連行された。国家元首が不在となったパナマ・シティは無法状態となった。テレビのニュースはその状況を伝えていた。

 あとバスで9時間走ればパナマ・シティなのに・・・。
 ダリエン・ギャップのジャングルが、地球の裏側まで遠のいた気分だった。

<チンピラ>

 ダリエン・ギャップ徒歩走破の計画を立てたシュンスケと僕は、1990年の正月をグァテマラのアンティグアで迎え、1月6日にパナマに向けて出発した。

 出発初日は、ホンジュラスとの国境の街チキムラで一泊した。
 中南米の国境の街は、あまり活気があるとは言えない。どことなく荒んだ無法地帯的な雰囲気が漂っている。チキムラもそんな感じの街だった。
 夜中に腹が減ったので、ポヨ(チキン)でも食べようかと二人で外に出た。照明もあまりない暗い通りを歩いていると、通りの反対側から、呼ぶ声がした。五人ほどの若者だった。僕たちを呼んだのかどうか分からないので、無視した。とにかく、いまはポヨにかぶりつくことしか頭にない。カリカリにローストされた香ばしいかおりのポヨ。その辺を勝手に走り回り、勝手に虫だの蛇だのをついばむ無添加のポヨ。中米の大衆食の代表だ。
「しかし、何もない街だなあ」
「国境しかない」
 人通りも少ない通りを、しばらく歩くと、後ろから車の音がした。「ヒョォーイ」とかなんとか、奇声がしたので振り返ると、日本製のピックアップトラックがせまっていた。中米ではそこそこ値がはる車だ。荷台に三人の若者が立っていた。荷台でバーを握っていた若者が、すれ違いざま、回し蹴りを繰り出した。道路側を歩いていたシュンスケの顔面を、スニーカーが激しく打った。いきなりだったので、避けようもなく、まともに食らってしまった。
 車のスピードに、蹴りの勢いが加わり、かなりの衝撃だったに違いない。しかしシュンスケは少しのけぞったが倒れなかった。
 荷台の若者は、歓声をあげて僕たちをあざ笑った。さきほど僕たちに声をかけた連中だった。
 車はゆうゆうと去っていった。
 荷台の若者はいつまでもはしゃいでいた。
 こんな蛮行は、聞いたことがない。

「大丈夫か!」
「クラクラします」
 シュンスケは店の軒下に座った。鼻血が出ていた。
 どこにいたのか若者やおばさんが集まってきた。若者のひとりがシュンスケにハンカチをわたした。
「くそう、あの野郎、ローリングソパットを食らわしやがって」
 シュンスケの眼は怒りで燃え上がっていた。
「あいつら、どうしようもない連中なんだ」
 若者のひとりが言った。
「奴らを知ってるのか?」
「ああ、最低の連中さ」
「奴らの居所を知ってるか?」
「知ってるよ」
「案内してくれないか」
「どうするんだ?」
 ストリート・ファイターのシュンスケが、このまま治まるわけがない。
「奴らと戦うのさ。案内してくれ」
「本気?それなら、俺たちも加勢するよ」
 加勢するってのか。どう見ても彼らは頼りになりそうな感じではなかった。いつもチンピラにいじめられている側にしか見えない。

 あれだけ強烈な蹴りを顔面に食らった直後なのに、シュンスケは闘志を剥き出しにしていた。普通の男なら、ホテルに帰ってぶっ倒れているはずだ。
 シュンスケひとりで五人の相手をさせるわけにはいかない。
 もし僕が道路側を歩いていれば、僕の顔面をナイキが襲ったに違いない。いや、コンバースだったか。運悪くシュンスケが道路側を歩き、しかも身長180センチだった。166センチの僕なら蹴りは頭をかすめただけだったかもしれないが。
「オレもやるぜ」
 僕も怒り狂っていた。こんな蛮行を許すほど温厚ではない。
 ジャングル走破にむけ、体も鍛えている最中だ。コンディションは悪くない。気合いも十分。
 シュンスケと僕は、若者5人を引き連れ、ひとまず宿に戻った。
 靴に履き替え、靴紐をしっかり結んだ。
「何か握ったほうがいいですよ。拳を痛めますから」
 と言ってシュンスケはアーミーナイフを取り出した。
「それならオレも持ってる」
 スイス・アーミーナイフは握ると手にぴったりなじむ。もちろん、刃はださない。握るだけだ。もし刺すもりなら、ジャングル用のでっかいナイフがザックの中にある。
 宿をでて、若者たちについていった。
「あの野郎を呼び出して、サシで勝負します。ただではおかないっすよ」
 あういう卑怯なことを平気でする奴が、サシの勝負をするとは、僕には思えなかった。歩きながら、”相手はおそらく5人。シュンスケが3人。僕が1人。加勢の連中がよってたかって1人”と、そんなことを考えた。
 僕は生まれてこのかた、殴り合いなどしたことがない。世界中でケンカはよくしたが、原則として、相手が一発殴るまでは、絶対こちらからは殴らないと決めていた。こちらが構えもせず、余裕で突っ立っていると、人間殴れないものらしい。インドでは、竹の棒を肩の上まで振り上げた者もいた。相手の一撃を待ったが、男は鬼の形相で威嚇するばかりで、いつまでたってもその棒を振り下ろさなかった。バカバカしくなって、くるっと背を向けて去った。棒を振り上げたまま僕に置去りにされた男は、まわりの大爆笑を買った。
 ケンカは褒められたことではない。しかし、理不尽なものを、見て見ぬふりをする気もない。

 暗い住宅地の中の一軒に案内された。
 シュンスケにローリングなんとかを食らわした奴の家だという。
 声をかけ、ノックしたが、家の中から応答はなかった。人のいる気配はあったが、おそらくチンピラ本人はいないだろう。
「どこかほかに居そうなところはないか?」
 とシュンスケは訊いた。
「あるよ」
 道をもどり、倉庫のようなところに案内されたが真っ暗だった。
「奴らは、よくここにいるんだけど」
 ほかには当てはないようだった。
「奴ら、朝ならここにいるかもしれない」
「わかった。ありがとよ」
 この若者たちとピックアップのチンピラとは、明らかに階層が違っていた。チンピラどもは体格もよく、栄養が足りているように見えた。値のはる日本車に乗り、蛮行を働ける身分だ。僕たちに加勢しようと言った若者たちは、みな痩せて、貧弱な体格だった。

 シュンスケの怒りは収まらなかったが、帰るしかなかった。
 僕たちは次の朝、国境を越えなければならない。こんなところで時間をつぶしている暇はない。頭の中は、未知なるジャングル、ダリエン・ギャップで占められていた。

 それでも翌朝、一応倉庫を調べに行った。チンピラどもはやはりいなかった。おそらく、僕たちが探し回っていたことを、すでに知っているに違いない。小さな田舎町だ。こういう噂はすぐに広がる。僕たちが、街を出るまではどこかに隠れているだろう。日本人から逃げ回ったと、しばらくは笑いものになるだろう。貧弱な若者たちよ、栄養の足りたチンピラどもを大いに笑ってやれ。まあ、それでよしとしよう。

<中米南下>

 チンピラどもは命拾いし、僕たちは国境を越え、ホンジュラスに入った。
 ホンジュラスは、新品のM-16を持った少年兵が幅を利かし、何かというとバスを止め、市民の身体検査をした。16歳ほどのガキに銃を突きつけられ、アゴでパスポートを出せと言われるのは、腹立たしかった。チンピラの次は少年兵かよ。子供がホンモノの銃を持つと、天下を獲ったような気分になり、人格のバランスを失しなってしまう。軍事支配化のような国だった。共産主義政権のニカラグアと国境を接しているからだろう。快適とは言いがたく、見所もないので、二日でホンジュラス抜けた。

 次はサンディニスタ政権下のニカラグアだ。トランジットビザ(72時間)でも25ドルした。そのうえ強制両替が60ドルもあった。
 国境をはさんで、兵士の持つ銃が新品のM-16から、使い古しのAK47にかわった。変なところで、確かにここは共産主義国だと確認した。
 イミグレーションは、小さな木製の掘っ立て小屋だった。イミグレの兵士が、ドイツ人のパスポートを持って小屋から出たとき、AK47を残していった。歩いていく兵士と、残された銃を、皆が交互に見た。いいのかなあ。眼の前に銃がある。手を伸ばせば届く。狭い小屋にポツーンと残された銃が、なにかこの国を象徴しているようだった。のどかなのだ、この国は。
 ニカラグアは中米一貧しく見えた。首都マナグアは巨大な田舎町だった。インフラは破壊され、機能を停止していた。しかし、どこへ行っても検問もなく、ボディチェックもなかった。治安もよく、人々はゆったりしていた。ホンジュラスのようなピリピリしたところがまったくない。
 マナグアに一泊したあと、港町サンフアン・デル・スールで残りの48時間を過ごした。巨大な魚の丸焼きを食べ、美しい夕日を眺めた。とてものどかな愛すべき国であり国民だった。

 ニカラグアを出ると、つぎは中米の優等生コスタリカだ。インフラは整い、物は豊富で、治安がよく、街はきれいに整備されている。美しい豊かな大自然も残されている。コスタリカとは、「豊かな海岸」という意味だ。だた、豊かな反面、何かよそよそしい感じを受けた。何もない貧しいニカラグアの方が落ち着けるのはなぜだろうか。

<相棒シュンスケ>

 中米南下の途中でも、宿にもどると必ず腕立て、腹筋、スクワットをした。シュンスケはザックを担いでスクワットに負荷をかけた。僕も真似をした。またシュンスケは強靭な腹筋を持っていた。「腹筋ならいつまでもできますよ」。ベッドの上でシュンスケが腹筋をすると、体がポンポン跳ねた。ベッドが壊れそうだ。体力ではとてもこいつには、かなわない。
 手足が長く、体も異常にしなやかだった。180度の開脚もできる。前蹴りは軽く身長をこえた。生まれながらのストリート・ファイターで、ほとんどケンカに負けたことがない。ただ、六本木で黒人三人を相手にしたときは、ボッコボコにやられて、入院したらしいが。

 中学のころのシュンスケは、正真正銘の悪ガキだった。仲間とレストランや倉庫に侵入して遊んだ。物を盗るのが目的ではない。ありあまるエネルギーを持て余し、退屈していたのだ。侵入したレストランで、のんきに料理を作って食べたり、マッシュルームの巨大な缶詰を記念に持って帰ったりした。学校に持って行って、自慢するためだ。ただ単に、見たこともないでっかい缶詰というだけで楽しい年頃だった。

 倉庫に侵入したときは、警察に見つかってしまった。若い警官は、悪ガキどもが観念したものと勘違いしたのか、階段を下りるとき先頭にたった。アホかこの警官は。仲間に目で合図したあと、その後頭部をぶんなぐった。帽子は飛び、若い警官はぶっ倒れた。ガキどもは一斉に階段を駆け下り、外に飛び出した。が、そこには警官がずらりと並んで待っていた。
「それを見た瞬間、ヘナヘナヘナ~ですよ」
 殴り倒された警官は、すぐに無線で外に連絡を入れたのだ。
「警官って、肩のところに無線のレシーバーをかけてるでしょ。あれをちぎっとくべきでした」
 なるほど。
 警察署に着くと、殴り倒した警官の容赦ない報復がはじまった。殴る蹴る、椅子ごと蹴り倒す、振り回す、殴る蹴る、ボッコボコ。警官は顔は殴らないらしい。顔はすぐに腫れ、アザができて暴行の証拠を残すからだ。
「10倍にして返されましたよ」
 シュンスケのおやじさんが呼び出されて警察署にやってきた。シュンスケを見るやいなや、またボッコボコ。それまで、さんざん暴行を加えていた若い警官は、
「おとうさん、落ち着いてください。暴力はいけません」
 どうりで、世界一治安がいいはずだ。

 シュンスケは公立高校に進学したものの、数ヶ月で放校になってしまった。公立高校は強制的な退学処分はできない。自主退学だ。ただし教師に囲まれて、退学届けに署名させられた。
「学校は好きだったのに、無理やり自主退学ですよ」
 教師は、シュンスケの不良ぶりに恐れをなしたのでないと思う。彼の頭の良さを恐れたのだ。僕が知る限り、シュンスケほど頭の回転の速い奴を知らない。人を惹きつける魅力にもあふれている。ユーモアのセンスもある。しかも肉体も精神も極めつけにタフだ。無能な教師ほど、こういう生徒を本能的に恐れるものだ。シュンスケのような生徒を恐れない教師が、日本にいったい何人いるだろうか。 さすがは、教育大国ニッポンだ。

<ニュース映像>

 当時、中米の旅は、コスタリカが終点だった。
 パナマ・シティは通常でも治安が悪く、ガイドブック・ロンリープラネットも渡航を勧めていなかった。そのため、コスタリカからコロンビアのサンタマルタ島に飛んで、南米に入るのが、当時の中南米旅行者のお決まりのコースだった。治安の悪いパナマはほとんどの旅行者が避けた。

 だが、僕たちはそういうわけにはいかなかった。
 ダリエン・ギャップへ到達するには、パナマ・シティへ行かなければならない。通常の治安の悪さは、あまり気にしていなかった。

 コスタリカの首都サンホセに着き、あとはパナマ・シティまでバスで9時間。駆け足でここまで来た。
 安宿に泊まり、ロビーのテレビをなんとなく観ていると、画面の中を、暴徒が走り回っていた。そこら中の商店のショーウインドーが粉々に割られ、あらゆる商品が略奪されていた。それはパナマ・シティの映像だと知り僕たちは言葉を失った。
「・・・・?」
「・・・・!」
 一瞬にして、ダリエンのジャングルが地球の裏側まで遠のいていった。

 初日に泊まった宿は450コロンと少し高かったので(1$=90コロン)、翌朝ホテル・ニカラグア(150コロン)に移った。
 ホテル・ニカラグアのボロテレビにも、暴徒が走り回っていた。僕たちは、落胆した。

 ダリエン・ギャップのジャングルに入るには、どうしてもパナマ・シティに泊まる必要があった。地理院を探してダリエン・ギャップの地図を手に入れなければならないし、T/Cを両替してドル・キャッシュも作らなければならない。パナマの通貨はアメリカ・ドルなので、銀行でT/Cを両替すれば自動的にドルが手に入る。蚊帳やマチェテ(ジャングルナイフ)、食料などは、コスタリカで調達できるが、地図やドル・キャッシュはそうはいかない。少なくとも2、3日はパナマ・シティに滞在する必要がある。銀行から出てきて、はたして無事にすむだろうか。

 僕たちは、体力と気合いは、有り余るほど持ち合わせていたが、「運」に頼るほど信心深くはなかった。「なんとかなるさ」と思うほど楽天的でもなかった。「このくらい平気さ」と失言するほど軽率でもなかった。安宿のテレビに映し出される凄まじい暴動の光景に、議論する余地はなかった。

 その日の夜も、あいかわらず暴徒はテレビの中を所狭しと走りまわっていた。
 レセプションのオヤジに、
「パナマには行けないねぇ」
 と、ぼやいた。
「なんで?」
「セニョール。だって、パナマはこれじゃん」
 と、テレビのニュースを指した。
「行けるよ。ノー・プロブレマ」
 オヤジは事も無げに言った。
「・・・・?(何言ってるの、このオヤジ?)」
「・・・??(さあ??)」
 オヤジは僕たちを殺す気か。

 僕たちが移った安宿:ホテル・ニカラグアは、運悪く、行商のおばさんたちの定宿だった。おばさんばかりなのだ。もう、うるさいのなんの、どうしておばさんというのは、世界中こうも・・・いえ、何でもありません。このおばさん軍団は、コロンビアやヴェネズエラから来ていたのだ。つまり、船でパナマ・シティに入り、そこからバスでコスタリカまで来たのだ。宿のオヤジは、おばさん軍団からパナマ・シティの最新情報を得ていた。パナマ・シティの暴動は、落ち着いているという。
「セニョール、じゃあ、このテレビのニュースはいったい何なんだ?」
「たぶん少し前のパナマ・シティだよ」

 テレビニュースの暴徒の映像はおそらく使い回しだ。ニュース・メディアが良く使う手だ。メディアにとって、事件は商品だ。小さな事件でも、メディアの手にかかると、大事件に早変わりする。数日の暴動が、連日の暴動と化す。ときとして「真実」は商品にならない。ちょっと手を加えて上げ底をしてしまうのだ。逆に、都合の悪いニュースにはフタをして腐臭を隠してしまう。ニュースを見るときは、スーパーの生鮮食品を選ぶときのように慎重にならなければならない。新鮮な肉や魚に見えても、陰で有害な薬をまぶして赤くしているかもしれない。オーストラリア牛が松阪牛に化けているかもしれない。メディアもおなじだ。賞味期限の過ぎた事件に、商品価値を持たせるための様々なトリックがある。

「くっそー、ややこしいニュース流すんじゃねぇよ」
 うれしいやら、腹が立つやら。
 おばさん軍団の定宿に泊まったおかげで、幸運にも正確な情報を得ることができた。ダリエン・ギャップが、また地球の裏側から顔を出した。

 もし、あのときパナマ・シティの暴動が、実際に続いていたら、僕たちはどうしただろうか。
 勇気や根性、度胸など、極限の状況では何の役にも立たない。そんなものはかえって身を危険に晒す邪魔ものだ。大事なのは、正確な情報収集、そして情報を冷静に観察し、正確な分析を行い、的確な判断を下すことだ。当たり前だが、それ以外にない。それができれば、勇気や根性、体力がなくとも難局を切り抜けられる。知力こそがすべてなのだ。

 僕たちは、アーミー・ナイフを握り締めて、夜中にチンピラを捜し回るようなやつらだったが、勇気や根性を誇示する気などはまったくなかった。もちろん、状況を無視した運頼みなどもってのほかだ。あのときもし、パナマ・シティの正確な状況が判明する前に、どちらかがパナマ行きを決行しようと言ったら、おそらくパートナーを解消していただろう。僕たちは、状況を的確に判断できない相手とパートナーを組むほど、無謀ではなかった。

 もし暴動が続いていたなら、僕たちが下したであろう「的確な判断」とは、暴動が治まるまで、コスタリカの美しいビーチでスクワットをしながら、女の子を眺めることだったに違いない。

【バブルとは何だったのか】

2004年12月13日 02時46分03秒 | □経済関連 バブル
テオティワカン遺跡、太陽のピラミッド。
そのテッペンで「郵政民営化実現!」と、場違いな願を掛けた小泉首相。
アステカの神に郵政民営化は、果たして理解できたのだろうか。

しかし小泉首相は、国内ではたいへん現実的に、橋本龍太郎派閥(=郵政族)を一億円程度の不正献金疑惑でゆさぶり、抵抗の芽を確実に摘んだ。郵政族でない議員諸君は、安心して今日も不正献金をマクラに高いびきであろう。郵政民営化とは何なのか。「構造改革」とは何なのか。少なくとも小泉氏の念頭には、日本国民の利益という概念はない。アメリカに追随するしか能がなく、国民の富をひたすらアメリカに流し続けるだけのパペットにしか見えない。

昨年の日本の貿易輸出額は約54兆円(輸入額約44兆円。貿易黒字額約10兆円)。日本政府は昨年度、32兆円もの国富を為替市場につぎ込んだ。円高を抑え輸出産業を守るためだという。54兆円の輸出を支えるために、32兆円をつぎ込むとは正気の沙汰ではない。1日に200兆円が乱れ飛ぶ為替市場では、年間32兆円の介入資金など瞬間的な効果しか持たない。

日銀は、邦貨にして約90兆円のアメリカ財務省証券(アメリカ国債)を保有している。他にも銀行、保険会社、証券会社、郵貯、簡保、民間企業合わせて、およそ400兆円分のドル証券を保有している。アメリカの財政赤字を埋め、アメリカ経済を支える以外、何の役にも立たない紙切れだ。他国の減税や軍備拡張、そして戦争のツケを、なぜ日本国民が埋め合わせなければならないのか。

そもそも日本経済が、対米貿易に依存しすぎているためにこんなことになる。日本の総輸出額の3割がアメリカ向けだ。日本の経済は、アメリカの購買力に大きく依存している。そのアメリカの財政赤字を埋めてやらないと、アメリカはモノを買えなくなる。アメリカがモノを買えなくなれば、日本の経済は一気に冷え込む。そういう馬鹿げた構造が今日まで続いている。アメリカはどれだけ財政赤字、貿易赤字を出そうが、世界一の金持ち=日本が即座に埋めてくれる。この構造を改善しない限り、日本はいつまで経っても政治的にも経済的にも自立できない。しかし小泉氏は、改善する気などさらさらないようだ。

小泉氏は日本経済を立て直すどころか、アメリカに売り渡しているようにさえ見える。グローバリゼーションの美名の下、外資の波が日本に押し寄せ、日本経済を圧迫している。不良債権をかかえた金融機関は、ほとんど足腰立たない状態だ。いまやアメリカ資本の草刈場とさえ言われている。「護送船団方式」はもはや過去のはなしだ。生き残りをかけて、財務省・金融庁の裏をかいたUFJ銀行は、官庁の逆鱗に触れ、刑事告発される始末だ。金融庁は、三菱東京との統合を破談させ、UFJを国有化し、バラバラに解体して外資に叩き売りたいのだろう。旧長銀と同じ運命だ。日本経済における銀行の役目は終わった。すでに第二層の産業だ。こうしたフラフラの金融機関は、貸し渋り、貸し剥がしにより、優良な中小企業さえ、容赦なく倒産に追い込んでいる。

リストラ、内需の低迷、デフレ・・・。この十数年、日本経済は迷走している。
GDP世界第二位、金融資産世界第一位の日本経済が、なぜかくも長きにわたって低迷し続けているのか?
わざわざ問うまでもない。あの「バブル」だ。
バブルが何もかも吹き飛ばし、日本経済はいまだあの激震に揺れているのだ。
しかしバブルとはいったい何だったのか?


──『バブルの正体』──

「バブル」という用語は誤解をまねきやすい。なにか勝手にブクブク湧いて勝手にパチンと弾けたという印象を与えてしまう。ある意味、都合のよい用語だ。

●すべては「プラザ合意」から

1981年に誕生したレーガン政権は、企業や高所得者層に対する大幅な減税を行う一方、軍事費の大幅増額を行った。その結果、財政赤字は過去最高を更新し続けた。財政赤字は高金利につながり、ドル高と巨額の貿易赤字を招き、世界最大の債権国が世界最大の債務国に転落していった。(ちなみに、ブッシュ大統領は、レーガノミックスとまったく同じ政策を執り、双子の赤字の記録を更新中だ)

日米貿易不均衡がレーガン政権の存続を危うくした。当時のドル円為替レートは、1ドル260円あたりだったが、ワシントンは為替レートが1ドル180円になれば、日米貿易不均衡は解消されると単純に考えた。米大手企業や全米製造業協会、労働総同盟などもこの意見に同調した。

そこで1985年9月、アメリカ主導の会議がもたれた。参加はG5(日・米・英・仏・独の蔵相と中央銀行総裁)。このときの決議を「プラザ合意」という。内容は、「各国が協調して、ドルを他通貨に対して10~12%下げる」というものだった。しかし、その真の目的は日本に円高を容認さすことだった。

 プラザ合意の目的。
①円高誘導により日本製品の需要を低下させ、アメリカ市場から日本製品の撤退を促す。
②ドル安により安価になったアメリカ製品を、日本の消費者に購入させる。

 
これにより、日米貿易不均衡が是正されると考えたのだ。しかし、実際は①も②も起こらなかった。アメリカ政府、財界、金融界は、日本の経済構造をまったく理解していなかった。

日本の製造業は、たとえ円高で収益が落ち込んでも、一度手にした市場を放棄することはない。市場拡大こそが日本の唯一絶対の「国策」なのだ。円高による製造業の収益の落ち込みは、系列の金融機関によって支えられた。しかし、むりやり世界市場にしがみついたせいで、日本の産業の競争優位性は損なわれ、日本経済は減速していった。「円高不況」だ。

●競争力を取り戻せ!

失われた競争力を取り戻さなければ、輸出立国である日本経済の再生はない。競争力を回復するには、莫大な設備投資が必要だった。この設備投資をどのように行わせるかが政府・大蔵省の課題だった。円高不況により、海外市場にしがみつくだけで精一杯の製造業には、ほとんど余力がなかった。

政府・大蔵省は、資産インフレを起こす必要を感じていた。株価、地価を吊り上げることによって、製造業の資金調達を助けるのだ。具体的には、日本銀行は金利を立て続けに引き下げた。まず流動性をつくる。次に、日銀は紙幣を刷り続け、金融機関へ供給した。この資金を、金融機関は企業へ積極的に融資した。ついには資金を必要としない企業や事業者にまで、むりやりカネを押し付けた。本来の事業に必要とする以上の余剰資金が日本中の企業や事業者になだれ込んだ。そうした余剰資金は不動産取引や株式取引にまわった。あるいは、本業そっちのけで、マネーゲームに没頭した。

銀行は、企業所有の土地に破格の査定をし、融資をおこなっていた。この銀行の行為が、日本中の不動産価格を跳ね上げていった。不動産取引が増えたから、地価が高騰したのではなく、銀行が担保不動産に破格の査定を行ったから、取引が増えたのだ。高騰した地価は企業の資産価値を高め、株価を上昇させた。株価の上昇による含み益は不動産投資にまわり、さらに不動産価格を上昇させた。地価と株価の連鎖反応だ。こうして資産インフレがバブルへと発展していった。土地は投機の対象となり、無数の「地上げ屋」が跋扈し、日本中を更地だらけにし、はてしない土地転がしが行われた。

不動産バブルに支えられ、株式価格は上昇し続けた。東京株式市場を利用する企業は、いとも簡単に莫大な資金を手にすることができた。手にした無限の資金によって、製造業は生産設備を拡大していった。そして、1ドル110円以上でも競争力を持つ体力をつけた。ほんの数年前は、1ドル180円で真っ青になっていたのがウソのようだ。政府・大蔵省の目論見は、みごとに成功した。

「プラザ合意で損なわれた輸出競争力を取り戻し、いかなる円高にも耐え得る体力を日本の製造業が持つこと」──これこそが、バブルの真の目的だった。

1985年のプラザ合意で受けたダメージを、たった2年間で挽回してしまった。本当ならここでバブルの空気は抜かれていたはずだ。そうすれば、バブルの影響はあそこまで大きくはならなかったはずだ。

●ブラックマンデー

1987年の時点で、なぜ大蔵省はバブルを収拾しなかったのか。不幸なことに1987年10月19日、ニューヨークの株式市場が大暴落してしまったのだ。世に言うブラックマンデーだ。日本の経済そのものが、アメリカの購買力に頼っている以上、アメリカ経済の破綻は日本経済の破綻を意味する。日本は、永久にアメリカ経済を支え続けなければならない運命にある。

ブラックマンデーの翌日、大蔵省は四大証券会社に対して、大規模な買い取引きを指示した。東京株式市場のまれにみる活況に世界の株式市場は安堵し、連鎖的な株式市場の暴落は起こらなかった。ひとまず株式市場の暴落は防いだが、それだけでは十分ではなかった。続いて大蔵省は、銀行、信託銀行、保険会社、証券会社にドル証券の買いを指示した。プラザ合意後の円高により、すでにドル証券による甚大な損失がでていた。それにもかかわらず、さらにドル証券を買うのは無謀と言うしかない。しかし、こうした大蔵省の意向を無視できないところが、「護送船団方式」の悲しい性である。

しかし損すると分かっている膨大なドル証券を保持させるには限界もあった。そこで金融当局は「低金利政策」を取り、円建て証券への鞍替えを防いだ。このときの低金利政策が最悪の結果を招いた。もともと低金利でボコボコ沸騰していたバブルが、さらなる低金利政策(過剰流動性)で水蒸気爆発を起こしてしまったのだ。あとは説明するまでもない。在り有べからざる狂乱バブルだ。

バブル崩壊直前には、日本の土地資産総額は約2400兆円になっていた。アメリカ全土の四倍だ。東京証券取引所の上場企業の市場価格は合計約900兆円。全世界の4割を占めていた。地方銀行の市場価格でさえ、チェース・マンハッタン銀行の市場価格を上回っていた。日経平均株価は約39,000円(現在、約11,000円)。世界の王者になった気分だっただろう。

●そしてバブルの終焉

ブラックマンデーによるアメリカの経済危機を救ったのは、日本のバブルの資金だった。金融機関はアメリカ財務省証券を買い続け、不動産開発業者はアメリカの不動産を破格の高値で買いまくった。三菱地所は経営難のロックフェラーセンターを買収し、ソニーはコロンビア・ピクチャーを買収した。レーガン大統領が再選されたのも、日本のバブルのおかげだ。しかし、アメリカから感謝されることはなく、「アメリカの魂を買った」として猛烈な反日感情がおこっただけだった。

1989年、アメリカが経済危機から脱したころ、日本のバブルはもはや手の付けられない状態になっていた。担保もない料理屋のおかみの「手書き」の預金証書に対して、何千億円もの融資を行った銀行さえあった。政官財どころか社会全体が、完全なモラル・ハザードを起こしていた。それでも大蔵官僚は、この狂乱バブルを沈静化させる自信があったのだろう。しかしヤカンのお湯でさえ、火を止めてすぐには冷めない。ましてや日本中が、水蒸気爆発を起こしていたのだ。

1989年12月、日銀は金利を引き上げた。株式に集中していた資金は、債権や預金に向かうはずだった。しかし株価は思ったほど下がらなかった。
1990年2月、二回目の金利引き上げ。株価はまだ十分には下がらなかった。
1990年8月、三回目の金利引き上げ。2.5%だった金利は6%に達した。
日経平均株価は、最盛期の39,000円から26,000円まで下がった。
1990年9月、住友系大手不動産商社イトマン倒産。

効果を焦って、立て続けに三回も金利を引き上げたせいで、多くの不動産開発業者の借入コストがキャッシュフローを上回ってしまった。莫大な負債を抱えた倒産が相次いだ。バブルの崩壊。

●統制経済による管理バブル

バブルの崩壊により、日本は実によく管理された「統制経済」国家であることが表面化した。一見、自由市場、自由競争があるかのように装ってはいるが、そんなものは日本にはない。バブルについて語られるとき、それはまるで不可避的な自然現象だったかのように語られることが多い。しかし、統制経済国家で勝手にバブルが発生し自然爆発することなど考えられない。

統制経済の実体は、経済の動脈=銀行システムによく表れている。日本の銀行の融資条件とは何か。「土地」につきる。融資を申し込む企業の実績や収益性、将来性などほとんど考慮されない。要は、担保となる不動産があるかどうかだ。日本の経済は土地に信用供与を行うことで成り立ってきた。つまり「土地本位制」だ。もし、日本の土地価格が市場原理で決まるなら、「土地本位制」は成り立たない。日本の土地価格は、大蔵省が厳格にコントロールしていたのだ。バブル期、銀行は大蔵省の承認のもとで、意図的に土地価格を吊り上げていた。

証券会社も同じだ。バブル崩壊後、証券会社各社が大手投資家(ほとんどの大企業)に巨額の損失補填を行っていたという事実が表面化した。損失補填は、取引の前から約束されていた。もちろん違法だ。損失補填は、大蔵省があらかじめ承認していたことが、野村證券田淵義久社長の証言で明らかになった。バブル崩壊で、財産を失った小規模投資家は、この事実に激怒した。しかし、一般投資家に損失が補填されるなどあり得ない。これを、政官財の癒着や不正、腐敗という言葉で表現するのは間違いだ。日本の経済は、庶民から大資本へカネが流れるように作られているのだ。これは国家存立の基盤システムなのだ。農奴が封建領主に対等の権利を主張しても意味はない。問題は、領主にあるのではなく、封建制そのものにある。

日本のような統制経済国家で、不動産バブルや株式バブルが「自然に」発生することはない。政府・大蔵省が意図して操作したからこそ発生したのだ。だからこそ円高に喘いでいた日本の製造業は、競争優位性を取り戻せたのだ。しかしその一方で、一般家庭、小規模事業者の投機資金は、すべてアワと消えた。

政府・大蔵省は意図的にバブルを起こし、計画的に一般家庭や小規模事業者からカネを奪い取り、円高に喘ぐ製造業にまわしたのだ。バブル崩壊で富が消えたのではなく、移転していったのだ。これが、あのバブルの正体だ。

●果てしない流れ

バブル崩壊後、今日に至るまでの長きに渡って、日本経済は低迷している。しかし、GDPは世界第二位。金融資産は1400兆円と世界一の金持ちだ。技術力や技術開発力もいまだ世界のトップクラス(もはやトップではない)。カネもある。技術力もある。生産設備(主力は海外に移転したが)もある。その日本の経済がなぜかくも低迷しているのか。にわかには理解しがたい。バブル崩壊から、すでに14年にもなるのだ。豊かでなかったころの日本の方が、はるかに活力があった。

確かに日本人は世界一豊かだ。すでに何もかも持っている。しかし、メガバンクでさえ不良債権でフラフラ。貸し渋り、貸し剥がしで中小企業は冬の時代。パパは明日リストラされるかもしれない。そんな不安な時代に消費が伸びるわけがない。好景気とは、すなわち、人々の浪費が生み出す現象だ。将来に不安を抱えて、浪費に走るバカはいない。トヨタやソニーだけが絶好調でも、景気には関係ない。景気回復の一番の近道は、信頼できる国家をつくることだ。そうすれば、「不況」という文字は経済学の教科書に永遠に封じ込められるだろう。

しかし残念ながら、小泉氏はいまだに国民の富を奪うことしか考えていない。
来年4月にペイオフが解禁されれば、またもや巨額のカネが奪い取られる。
そして、「郵政民営化」だ。
民営化によって郵便貯金の289兆円、簡易保険の123兆円が手品のように、アメリカのふところに消えていく。