報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

白夜と白い騎士

2004年12月24日 12時40分35秒 | 軽い読み物
 純白のホワイトナイトが、モハベ砂漠の滑走路を滑っていった。胴体には、同じく純白のスペースシップワンを抱いている。スペースシップワンは、いまから民間商業宇宙飛行開拓に向けた弾道飛行に挑戦する。「人間三人を、地球から100kmの地点へ運び、それを二週間以内にもう一度行えば」賞金1000万ドル(アンサリⅩプライズ)が入る。スペースシップワンのプロジェクトには2000万ドルが費やされた。賞金で費用の半分を回収できる。商業宇宙飛行が実際に開始されれば、運賃は10万ドルから20万ドルになる。
 運搬航空機ホワイトナイトから切り離されたスペースシップワンは上空100.1kmまで達し、15分間の無重力を体験して、地球の引力圏に戻ってきた。というより落ちてきた。


『銀河鉄道の夜』
 このタイトルを初めて目にしたのはいつだっただろうか。たぶん、十代半ばの頃だったと思う。詩人宮沢賢治が、大宇宙への憧れを持っていたかどうかは知らない。そんなことよりも、十代半ばの僕には、これは本当に日本語なのだろうか、と思ってしまうほど、衝撃的な言葉だった。この短いタイトルに頭がクラクラした。それは30年経った今でも変わらない。このタイトルは言葉を超えた何かだ。

 ただ、宮沢賢治の書くものは、中学の僕には馴染みやすいとはとても言い難かった。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」。『永訣の朝』の一節だったか。解説なしでは、この意味を測ることは到底できない。「アメニモマケズ、カゼニモマケズ・・・、ヒガシニソシヤウガアレバ・・・」。これだけしか知らない。「カムパネルラ」という名前は、黙読しているのに、必ず詰まった。「カンパネルラ」と読むべきだったのか。

 言葉は時代と共に変化する。どんなに美しい文章も、つぎの時代まで生き残れるという保証はない。偉大な詩人宮沢賢治の文章も、十代半ばの僕が読んだ頃で、すでに感覚が違っていた。
 宮沢賢治の最高の作品とは、この一編の「タイトル」だと思っている。


 スペースシップワンを宇宙空間に送り出す純白の運搬航空機ホワイトナイトは、一見バルサ材の模型飛行機のように見える。その姿をはじめて見たのは、タイの英字新聞バンコク・ポストに掲載された写真だ。その写真を見たとき、とても本物の航空機とは思えなかった。翼を持って振り回せば、ポキッと折れてしまいそうな感じだ。
 しかし、記事を読んで、これが世界初の民間商業宇宙飛行の実現に向けた、最初の挑戦であることを知った。いよいよ、そんな時代が来たのか。とは思いつつも、あまり興味は持てなかった。15分間の無重力体験だけではつまらない。弾道飛行とは、つまり、空に向けて放った弾丸が、ポトッと落ちてくるのと同じだ。
『銀河鉄道』とはほど遠い。


「交響楽を文章で表現したい」
 宮沢賢治は、そのようなことを、何かに書いていた。十代半ばの僕は「そんなもん無理じゃ」と、読んだ瞬間に否定したことをよく憶えている。音楽を文字で綴ることなどできるだろうか。
 確かに文章と音楽とは、よく似ている。というより、音楽は、文章の手本だ。文章にも序破急や緩急が欲しい。しかし、黙読される文章に、どこまでリズムやテンポ、フォルテシモやピアニシモ、あるいは転調を付加する必要を認めるか、それはすべては書き手の欲求しだいだ。
 しかし、音楽そのものを文章で表現するとなると話は別だ。十代半ばの僕が読んだ限りでは、宮沢賢治の文章には、音楽的なものは感じられなかった。音楽を言葉で綴るなど、夢想だ。


 漆黒の宇宙へスペースシップワンを送り出す発射機の名前が「白夜」。「漆黒の宇宙」と「白夜」。美しすぎる対比だ。この対比によって、「ホワイトナイト」という言葉は大きな広がりをもつ。弾道飛行には、ほとんど興味を持てなかったが、「ホワイトナイト」は、すばらしいネーミングだと思った。

 数日後、カオサンの裏通りで晩飯のカオパットを食べながら、まだ僕はそのことにとらわれていた。しかし、カオパット食べながら、ふと、「ナイトにはもうひとつあるな」と思った。nightknight。バンコク・ポストの綴りがまったく記憶にない。
 White nightWhite knight か。いや、White night に決まっている。それ以外考えられない。
「白い騎士」?。スペースシップワンを漆黒の宇宙へエスコートする「白い騎士」。話にならない。そのままだ。そんなネーミングはありえない。

 ゲストハウスに戻ると、とっくの昔に番犬の使命を忘れた白毛のリィウが、シャッターの前にころがっていた。薄暗いラウンジの隅にバンコク・ポストが乱雑に積んである。ひとけのないラウンジでその山を探った。
 6月23日のバンコク・ポストの9ページに、バルサ材の優美な機体があった。
キャプションには、
”LEFT : SpaceShipOne and launch plane White Knight ・・・”
 とあった。
 まさか・・・
 感心して損した・・・
 バンコク・ポストを丁寧に積み上げて、寝た。

 それから一週間ほどして、部屋で洗濯をしている時、ふと気になった。
 white night は本当に「白夜」なのかと。洗濯を終えてからパソコンの辞書を引いた。そしてこのように出てきた。

 whíte níght
 white night
 ━ 【名】
 【C】 眠られない夜.


 眠られない夜・・・。
 では「白夜」は英語でなんというのか。
「白夜」を引くと、midnight sun と出た。真夜中の太陽・・・。
 ややこしい。
 頭が真っ白になってきた。
 

 宮沢賢治が生きた時代、スペースシップワンもなければ、ホワイトナイトもない。ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた星雲の神秘の美しさも知らない。土星の環は一本しかなく、スプートニクは、まだ土中の砂鉄にすぎなかった。あるのは、満天の星空だけだ。
『銀河鉄道の夜』
 宮沢賢治は宇宙へ馳せる思いから、この言葉を綴ったのだろうか。いや、そうではないと思う。彼は、自分の思いを、直接的な言葉を使って表現するような詩人ではない。
 文字は、単なる記号にすぎない。その記号に無限の広がりを与え、冬のシリウスのように瞬かせるのは、限りなくほとばしり続ける書き手の思いだ。そうして綴られた言葉こそが、時代を越えて、人のこころの奥深くに刻み込まれる。
『銀河鉄道の夜』
 このたった三つの名詞と一つの助詞の中にこそ、あらゆる交響楽の音符が籠められているのではないだろうか。