報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

─報道写真家になった日 2─

2004年12月17日 22時08分49秒 | 報道写真家から
 身分を証明するためのレターか・・・。
 日本大使館がそういった文書を作成してくれるということも、当然初耳だ。

 正直なところ少し悩んだ。そんなひょいひょい発行してくれるようなものではないだろう。お役所のことだから、確実な証明を要求されるにちがいない。しかしこちらには、身分を証明するものなどあろうはずがない。
 僕ができることと言えば、正攻法しかない。不真面目な気持ちで行こうとしているのではないことを、信じてもらうしかない。もし、信じてもらえれば、僕自身の決断が本物だったということだ。逆に信じてもらえなければ、僕の決断など生半可なものであり、とっとと旅行にもどれ、ということだ。そういうことだ。そう思うと、こころは楽になった。単に、自分が試されるだけの話だ。

 アフガニスタン大使館へ行った翌日、さっそく日本大使館へ向かった。
 日本大使館の窓口はハーフミラーになっていて、相手の顔が見えない。ハーフミラーに写った自分の顔に、用件を告げた。僕の顔から「少しお待ちください」と返事が返ってきた。
 しばらくして第二面接室に入るように言われた。分厚い防弾ガラス越しに、大使館員と挨拶を交わし、椅子に座った。そしてアフガニスタンへ取材に行くこと。アフガニスタンビザの発給のための、身分証明のレターが必要であることを手短に伝えた。
 大使館員は、
「どんな雑誌に掲載なさっているんですか?」
 と訊ねた。
「いえ、広告に使われたことがあるだけです。ずっと広告の仕事でしたから。それ以外に掲載されたことはありません」
 ウソではないが、ちょっと微妙だ。
「今回の取材は、どこに掲載される予定ですか?」
「どことも交渉はしていません。日本に帰ってから、出版社に持ち込ます」
 これもウソではないが、うしろめたい。
 そのほか、さまざまな質問を受けたが、ほかはよく覚えていない。
 面接は途中から、まったく関係ない話題に移った。日本人の旅行者が、アフガニスタンに不法潜入しようとして、パキスタンの国境警備隊に捕まったのだ。捕まった旅行者の仲間から聞いたのだが確証はなかった。不法潜入しようとして捕まった者など、僕にはどうでもよかったが、大使館員はそうはいかなかった。とりあえず知っているだけのことを伝えた。そのあと僕は、旅行者のそういった行為を批判する意見を述べた。もちろん本心だ。
 ちょうど「猿岩石」がはやっていた時期で、日本人の旅行者が世界中でバカなマネをしては、日本大使館を悩ませていた。多くの旅行者が競うように無謀なことをしては、窮地に立つと、すぐに大使館に助けを求めていた。そうした実態と大使館の悩みを、少しこちらからインタビューした。
 たぶん30分ほど大使館員と話しをしていたと思う。
「それでは、あす、あさっての土日は休みなので、レターは月曜になるのですが、よろしいでしょうか」
 と大使館員は言った。
「はい、けっこうです・・・」
 発行してもらえるのか?
 大使館員は、僕のパスポートをコピーしたあと、必要事項を書類に書き込むように言った。取材期間や目的地などだ。

 正直なところ、僕はレターは発行してもらえないと思っていた。僕の答えはすべて歯切れが悪かった。こんな調子では、まずダメだろうなと。
 僕ができることといえば、不真面目な人間ではない、ということを伝えることだけだった。世の中そんなに理想どおりにいくものではない。
 しかし、レターの発行は許された。
 大使館員が、僕の身分を信じたのかどうかは大いにあやしい。僕の答えそのものは、あまりにも歯切れが悪かった。ウソをつこうと思えばいくらでもつけた。しかしあのとき、もしウソ八百を並べていたら、レターは手にできなかっただろう。
 いまでも、僕の思いが、彼に通じたのだと信じている。それ以外に考えようがない。

 人に何かを伝えたければ、本当に自分はそれを信じているかを、自分に問うだけでいい。特別な言葉は必要ない。
 人間は、美しい言葉に感動するのではない。言葉のはるかかなたにあるものに感動するのだ。言葉は誰でも操れる。美しい言葉を並べるだけなら簡単なことだ。辞書から抜き出せばいい。本当に美しい言葉とは、美しいものに感動するこころからしか生まれない。言葉そのものは、美しくも醜くもない。言葉は単なる道具だ。その道具を美しくするも醜くするも、すべて人間のこころ次第だ。
 僕は、コピーライターをしていたが、買うに値する商品だと思ってコピーを書いたものなどない。この商品のコピーを書いてくれ、と依頼がくるから、響きのいい言葉をひねり出すだけの話だ。商品を美化する言葉の羅列と、売り上げとは何の関係もない。そもそも広告が大ヒットした商品は売れないというのが広告界の常識だ。
 優れた商品は、放っておいても売れるものだ。
 言葉もおなじだ。こころの底から信じて発せられた言葉は、放っておいても相手に通じる。
 日本大使館での、ほんの30分ほどのやりとりだったが、僕は多くのものを学んだような気がする。

 当時、僕のほかにも、アフガニスタンへ行くために日本大使館で身分証明のレターの発行を頼んだ者がいる。僕は会っていないが、その人物は年配で雑誌の編集者だと名乗っていたらしい。僕が、パキスタン北部のフンザにいた少し前に、その人物がフンザで問題を起こした。
 その人物が、女の子を撮影しようとしたとき、女の子が拒否した。それにもかかわらず、彼は無理に撮影しようとした。しかし別の女の子が撮影の妨害をした。その男はそれに腹を立て、撮影の妨害をした女の子を突き飛ばして怪我をさせた。もし、僕がその場にいたら、その男を風の谷の谷底に投げ飛ばしていただろう。
 相手の感情を無視して写真を撮るのは、それだけでも許しがたき暴挙だ。おまけに子供に暴力をはたらくとは、最低の男だ。
 子供といえども、イスラムの女性を撮るのはご法度だ。いや、イスラム圏に限らず、相手が承諾しない限り絶対に写真は撮ってはいけない。それは基本以前の問題だ。こういう人物は、他者に対する敬意や配慮の念がいっさいないのだろう。自分を中心に世界は回っていると思っているに違いない。
 この自称雑誌編集者は、日本大使館で、身分証明のレターの発行を拒否された。もちろん、日本大使館はフンザでの出来事など知らない。日本大使館として、この人物を査定し、判断を下したのだ。たとえ、この人物が本物の雑誌編集者であったとしても、日本大使館はレターの発行を拒否しただろう。

 土日を少しあわただしく過ごした後、月曜に日本大使館へ赴いた。
 また、自分の顔に向かって、用件を告げた。そして同じ面接室へ通された。
 僕の身分証明のレターは、ツルツル光る厚手の上質紙でできていた。日本大使館の割印も入っている。冒頭に、「この者は日本国のジャーナリストであり、貴国はなにかと便宜を図ってやってほしい」、というようなことが書いてあり、僕の名前、生年月日、パスポート番号、取材期間、取材地などがタイプされていた。実にりっぱな文書だった。
 この身分証明のレターのほかに、もう一枚書類をわたされ、記入と署名をお願いします、と言われた。こちらのほうは、日本語で書かれ、ところどころ空欄になっていた。
 「私_____は、自分の意思で______へ赴きます。当該国でいかなる事故が起きましても、その責任はすべて私_____本人にあり、日本国にはいっさいの責任はないものとします。署名_____」
 だいたい、そんな内容だったと思う。
 もちろん、すべての責任を自分自身で負うのはあたりまえのことだ。何かあったとしても、大使館に助けていただこうなどとは思っていない。レターをいただいただけで十分だ。空欄を埋め、署名した。
 大使館員に、丁寧にお礼を述べた。
「気をつけて行ってきてください」
「ありがとうございます」

 日本大使館を出たその足で、アフガニスタン大使館へ向かった。
 アフガニスタン大使館の窓口は、ガラスも入っておらず、大勢の人がその窓口に、書類を持った手を突っ込んでいた。人垣の後ろから、窓口の男性職員に用件を告げた。大使館の中に入り、最初のドアへ入るよう言われた。応対に現れたムアルヴィ・ワハブ氏にビザ申請に来たことを告げ、日本大使館のレターとパスポートを差し出した。
 ワハブ氏はレターとパスポートをチェックし、
「アフガニスタンでは、何を撮影なさるおつもりですか」
 と訊ねた。
「アフガニスタンの人々です。それと人々の生活です。世界中の人と生活を撮っています」
 ワハブ氏は、落ち着いたイスラムの紳士に見えた。表情がやわらかい。
「わが国はいま、一部戦闘状態です」
「存じております」
 ワハブ氏は静かにうなずいた。
 申請手続きはスムースに進んだ。何枚かの書類に必要事項を記入した。はじめて公式書類の職業欄にPhotographerと書き込んだ。
 しかしその書類を見てワハブ氏は、
「本国の、タリバーン本部は、写真撮影をいたく嫌っております。この職業欄のところのPhotographerはJournalistに書き換えたほうが許可が下りやすいです」
 と親切にアドバイスしてくれた。
 僕は、Photographerを傍線で消し、その上の余白にJournalistと書きこんだ。
 ワハブ氏は、
「たいへんけっこうです。本国に連絡を入れて、返事が返ってくるのに4,5日かかります。こちらに電話をして結果を確認してください」
 と言った。終始笑顔の好人物だ。
 机の上には、身分証明のレター、申請書類、パスポート、証明写真がきれいに整理された。
 レシートを受け取り、ワハブ氏にお礼を述べ、重いカメラバックを担いで部屋を辞した。
 あとは、タリバーン本部次第だ。

 ラワールピンディのホテルで、夏のパキスタンの暑熱にクラクラしながら、四日が経つのを待った。夏のパキスタンの暑つさは半端ではなかった。食欲はなく、じっとしていても体力を奪われ、急速に痩せていった。
 四日後の朝、ホテルのフロントからアフガニスタン大使館へ電話を入れた。
 電話で英語をしゃべるのは、とても苦手だ。僕は、日本語でも電話は嫌なのだから。ましてや、成否を確認する電話だ。受話器を取るまでに、何本タバコを吸ったことか。ようやく受話器を取り、ワハブ氏の名刺に書かれた番号を押した。
 受話器の声は、聞き取りにくかった。
「あなたのビザはできております。窓口でお受け取りください」
 そう聞こえた。

─報道写真家になった日─<完>