報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

─報道写真家になった日 1─

2004年12月16日 21時59分38秒 | 報道写真家から
 僕が、報道写真家になった日。それは、あらためて考えてみると、何年何月だったかは当然覚えているが、何日だったかまでは覚えていない。

 僕は、世界を旅をしながら写真を撮っていた。
 別に写真家になろうなどとは思っていなかった。
 写真を撮るのが好きだっただけだ。
 東南アジア全域からインドを経てパキスタンにたどり着いた。

 大学時代の一時期、僕は大学の新聞会に所属していた。新聞に載せる写真は、だいたい僕と弟とで撮っていた。手間のかかる暗室作業は、他の学生は嫌がったが、僕たちには楽しい修行の場だった。地元新聞社から、格安で暗室の新しい設備を譲り受けたあとは、かなりの時間を暗室ですごした。たまに雑誌社からの依頼で写真を撮り、ギャラを稼いだこともあった。
 建設反対運動真っ盛りの成田空港へも取材にでた。当時、成田空港は、まだ管制塔しかなく、そのほかはただの空き地だった。成田では機動隊と反対派が頻繁に衝突を繰り返していた。ガス弾の水平発射によって、反対派に死者も出ていた。空港反対運動を取材していた自分が、後々に、成田空港を何十回も利用することになるとは、当時は想像もしていなかった。

 大学を出て、コピーライターになってから、広告に使う写真を自分で撮ることもあった。これは単に経費節約のためだ。
 以来、長らく写真から離れた生活をしていたが、旅をしているうちに、世界の人々の生活を記録したくなった。少ないポジフィルムを節約しながら、重いカメラバッグを担いで写真を撮り歩いた。カメラバッグは片時も離さなかった。撮りたいと思ったとき、カメラが手元にないことほど、悔しいものはない。

 インドからパキスタンにたどり着いたとき、そこから先のルートに迷った。パキスタンも二度目だったが、そこから先もすでに訪れた国ばかりだった。そこから先のルートには魅力がなかった。しかし、となりはタリバーン政権下のアフガニスタンだ。タリバーンがアフガニスタンを制圧して、まだ一年も経っていなかった。タリバーンの実態は、まだほとんど外の世界には知られていなかった。行ってみたい。自然にそういう思いにとらわれた。

 そのはるか以前に、パキスタンを訪れたときは、アフガニスタンは、対ソビエト戦争の真っ最中だった。その時は戦争中のアフガニスタンへ行ってみたいなどとは、まったく思わなかった。
 ただ、旅行者の中には、ムジャヒディンと交渉をして何人もが入っていたようだ。一人だけそういう旅行者に会ったことがある。彼は、アフガニスタンに入ったことを、勲章のように、ただ自慢するだけだった。しかもその旅行者は、ムジャヒディンに対して、カメラマンだとウソをついていた。
「”カメラマンなのにそんな小さいカメラしかないのか?”って現地で見破られそうになりましたよ。ハッハッハッハ」
 それすらが自慢のようだった。話にならない。
 ムジャヒディンは、外の世界に報道してくれると信じるからこそ、面倒を承知で連れて行ってくれるのだ。単に自慢したいがために、命を懸けて戦っているムジャヒディンを騙すとは、吐き気にちかい嫌悪感を感じた。

 タリバーン政権下のアフガニスタンが、いったいどんな状態なのかを知りたいとは思ったが、何年も前に会ったその旅行者のことを思い出し、自分の思いを閉じ込めた。アフガニスタンでは、タリバーンと北部同盟が、カブール北方で戦闘を繰り返していた。まだ内戦中なのだ。当然、大勢の人が傷つき死んでいる。旅行者の自分が行くべきところではない。

 知りたいという思いは、確かに自分の中にあった。知りたいという欲求と、旅行者の自分が行くべきところではない、という狭間にあったが、別に葛藤というほどのものでもなかった。行くべきではないと簡単に結論した。戦争は、見世物ではない。
 そのあと、どのような経緯で、知りたいという思いが募っていったのかは良く覚えていない。ただどんなに知りたくても、「自分は旅行者ではないか」という思いが打ち消した。行ってはならないという抑制が自分の中で働いていた。もちろん、アフガニスタン政府が受け入れてくれるとも思っていなかった。

 僕が本当に、葛藤しはじめたのは、自分の重いカメラバッグを見て、カメラマンとしてなら行けるのではないか、と思ってからだ。ただし、それではウソをつくことになってしまう。それはできない。当該国、国民に対して絶対に非礼でない形でなければならない。
 もし、カメラマンと名乗るならホンモノのカメラマンにならなければならない。なる気がないなら、とっとと旅を続けろ。そう自分に問うた。ラワールピンディやペシャワールで、ずっとそのことを考えた。ペシャワールからアフガニスタンまでは、ほんの数時間だ。

 迷いに迷い、考えに考えた末、結論をだした。
「これからは、報道写真家として生きる」と。
 しかし、そう決断したあとも、まだ迷っていたかもしれない。
 自分に何ができるのか、何かを伝えることができるのか。それはまったくの未知数だった。やってみなければ、わからない。大学新聞を作っていたことなど、キャリアでもなんでもない。ただ、多少なりとも写真も撮れるし、文章も書ける。そういう意味では、決断の追い風くらいには、なっていたかもしれない。
 あれ以来今日まで、曲がりなりにも報道写真家を続けている。

 決断したものの、アフガニスタン政府が受け入れてくれなければ、それまでだ。イスラマバッドのアフガニスタン大使館へ行き、真正面から用件を告げた。
 大使館へ着くまでのあいだ、「オレはすでにカメラマンだ」と何度も言い聞かせた。バカバカしいようだが、自分に自覚がなければ、それはウソをついたことになる。ラワールピンディから大使館へ向かうバスの中で、もしかしたら、僕は報道写真家になったのかもしれない。

 アフガニスタン大使館の窓口で、
「日本人のカメラマンです。アフガニスタンを取材したいのですが」
 と用件を告げた。
 当時、タリバーン政権は極度に写真撮影を嫌うことで知られていた。そのことは知っていたが、それでも真正面から誠実に交渉するつもりだった。誠意があれば、必ず通じると信じた。
「取材ですか。それでは日本大使館から、あなたがジャーナリストであるという証明のレターをもらってきて下さい」
 と係りの者が言った。
「レターがあれば、ビザは発給していただけますか」
「本国に連絡を取り、許可が下りれば発給したします」

 日本大使館から証明のレターか・・・。


つづく

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