laisser faire,laisser passer

人生は壮大なヒマつぶし。
楽しく気楽につぶして生きてます。

さびしい安定感

2013-11-15 | kabuki a Tokio

歌舞伎座忠臣蔵通し前半昼の部見てきました。

またまた数日放置だぜ!やる気なさすぎだぜ!
細部はほとんど忘れたんだぜ!
それでも残ってる強い印象だけをつづります。

 

タイトルの「さびしい」はちょっと言いすぎかもしれません。全体的に安定して水準は高い芝居でしたから。
ただ、私のなかで、水準はともかく、興奮と感動という意味では数年前の中村座における完全通しも含めた、ダブル、トリプル、いや、クワドキャストのあれを超えるものはおそらく近い将来出てこないので。

現存の役者のなかではいい座組みで、それぞれがそれぞれの任を淡々とこなしていた、という印象は否めない。

個々の役者ではやはり貫禄の菊五郎。まだ夜の部はみていないのだけれど、おそらく勘平より判官のほうがいいんじゃないかな?品とすっきりした容姿(なぜかこの日は特にきりりと綺麗だった。まだまだやればできるやんおやぢさま!)がまさに当代一。本来この一役で十分なのに、夜の部で勘平をやらなければならない現状が歌舞伎界の現状をそのまま表しているかも。
それぞれの幕でいちばん印象に残ったのがなんということでしょうw
道行だったのでした。吉野山と違って派手な動きがあるわけでもなく、いわゆる綺麗な花形が並んでいるわけでもなく、踊りの名手ともいえない(失礼)二人だったのに、なぜかとても面白かった。
時蔵が、びっくりするくらいうきうきといわゆる「おかる」っぽい動きと表情で、この人には悲劇なんて何も関係なくて単に恋しい人と道行きできて喜んでるだけなんだなあという感じがとてもいい。
対する梅玉は、哀愁というかめんどくさそうというかw、もともと持っている味でもあるのだけれど、勘平の現状の、自責の念、無念、そこからくる自暴自棄みたいな雰囲気がこれまたぴったりで。
綺麗綺麗な二人だとそれだけで満足しちゃうし、踊りの名手だと踊りに気を取られてしまいがちなのだけれど、あえてこの二人だったからこそ、勘平とおかるの食い違った感情が交錯する、実は本来のこの場にぴったりの雰囲気を感じ取れたのだと思う。いやーやっぱり役者とこっちのコンディションで感想がいろいろ変わるから、歌舞伎は面白いわ。

松の廊下の場で、判官の脇差の鍔と柄がすっぽり外れるというハプニングあり。落ちた柄を左團次が何気なく後ろに押しやり、菊五郎は柄の替わりに懐紙で刀を握り・・・の段取りがあまりに自然で、きっと会場の半分くらいは気づかなかったのではと思わせるのはさすがだけど、懐紙で刀って・・・なんかその後の切腹を暗示させてるみたいで、いいのか、と思ったり、ひょっとしてこれが新しい型になるのか、とわくわくしたり(ならないw)。柄なしでは無理だったのか、最後の刀投げがなかったのもちょい残念でした。

若手では萬太郎の所作の美しさ、梅枝の抜群の台詞述と、時蔵息子が目立った。時蔵も道行でよかったし、この日は時蔵一家の日、だったかな。

夜の部のおかる、福助が休演とのことでとても心配。福助として最後のおかるを見損ねたのが残念無念。
そして三津之助さんの急逝・・・といつまでショックなことが続くのか。歌舞伎界。ちゃんとおはらいしてるのか。