倉野立人のブログです。

日々の活動を みなさんにお伝えしています。

〈志ある者は〉

2012-12-15 | インポート
12/14 Fri. [ クラちゃんの起床時刻 4:55 AM ]
この日(12月14日)は、武勇の歴史として語り継がれることになった 「 赤穂浪士討ち入り 」 の日です。
ときは元禄15年年12月14日の夜(今の時刻では15日の午前4時頃だったようですが、当時は明け方から1日が始まる感覚があったので14日深夜とされています)、赤穂浪士47名が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸に押し入り、上野介を殺害して主君の仇を討ちました。

この事件は『忠臣蔵』という名前で語り継がれています。

事件の発端はその1年半前、赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が、江戸城・松の廊下で吉良上野介に斬りかかったものです。

浅野内匠頭は皇室の使者を迎える準備に携わっていたのですが、そのおり、
要領がわからずに吉良上野介の不興を買って馬鹿にされたため 「 松の廊下 」 で、発作的にこのような行動に及んだと言われています。

浅野内匠頭はそばにいた大奥留守番役・梶川与惣兵衛に 「 殿中でござる! 」
と必死に抱き止められましたが、上野介は背中と眉間に傷を受けました。

殿中(江戸城内)で抜刀するというのは絶対的な禁止事項であり、事件を聞いた
徳川五代将軍綱吉は激怒、その日のうちに内匠頭に切腹を命じました。

切腹の知らせは早馬により赤穂に伝えられ、その後、吉良上野介にはおとがめがなかったことと、赤穂藩が取りつぶされることになったことが次々と明らかになります。

やがて幕府から正式に城下から去るよう命じる文書が届くと、家臣たちは口々
に籠城して幕府に対抗しようという声を唱えます。

その幕府側の受城使は、赤穂藩士たちの抵抗を予想し、6000人の軍勢を連れて来ましたが、これに対して赤穂藩国家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は、家臣たちに籠城策を取ったり全員切腹して果てることを許可せず、そのまま幕府に城を引き渡したのでした。
その後、幕府は浪士たちが敵討ちに出るのではないかと警戒、内蔵助の周辺にも間者(かんじゃ)を配置しますが、当の内蔵助はそのような様子はみじんも見せずに京都で連夜のように豪遊、「 昼行燈(ひるあんどん) 」 と揶揄されるに至り、その様子に内蔵助の近くにいて敵討ちに燃えていた藩士たちも次々と彼の元を去っていったのでした。
しかし、実は内蔵助は、昼行燈を演じながら、浅野内匠頭の跡取りの浅野大学の復権を期していたのでした。
しかし結局、浅野大学は屋敷召し上げの上、広島浅野藩お預けになってしまい、浅野家再興の望みは絶たれてしまいました。
そして、内蔵助は動き始めます。

7月28日、京都円山にて 「 円山会議 」 が開かれ、内蔵助ら19人の浪士が密かに集まり、吉良邸討ち入りを決めます。
一方江戸では京都からの連絡を受けた堀部安兵衛が 「 隅田川船上会議 」 として、同士たちを集め意志を確認しました。

そして、大石内蔵助は、昼行燈の 衣 をかぶったまま江戸に入りました。
普段の内蔵助を見ていればとても何か大きなことをしそうには見えませんでした。警戒は弛(ゆる)んでいます。
しかし彼らは行動しました。
12月14日深夜、大石内蔵助を筆頭に47名の浪士が討ち入りを決行したのでした。

浪士たちは表門と裏門の二手に分かれて吉良邸に侵入し、上野介は炭小屋の中に隠れているところを発見され、討ち取られたのでした。
その後、この浪士たちの処分について幕府内部ではかんかんがくがくの議論が続き、大勢は武士道の鏡であり、あっぱれという意見でしたが、結局は彼らは死してこそ英雄であるということになり裁可がおります。

翌年2月3日、幕府より切腹の命令伝達。翌日夕方、全員切腹。
泉岳寺の浅野家の墓の周りに埋葬されたのでした。
私は、この赤穂浪士、とりわけ大石内蔵助の意思の強さに、いたく感銘を覚えるところです。
主君が無慈悲な扱いの末に殿中の御禁制に触れ切腹を余儀なくされると、その瞬間に誰よりも強い怒りを内心(ないしん)に封じ込め、密かに その日 を期した意思の強さ。
本懐を遂げるために、ときに周囲を欺(あざむ)く素行を重ね、いかに揶揄されようともその雑口に耐えつつ信念を温め、その日 まで貫き通した信念。
単なるパフォーマンスでは成し得ない、本物の男の生き様(ざま)が凝縮された赤穂浪士の歩んだ道は、未だに多くの人々の共感を得続けているのでした。
志を抱く者は、あらゆる意味で強くあれ・・・多くのことを感じ入るところです。

Matsuken_chushingura