倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

社会インフラへの「認識」

2021-11-05 | 日記

去る日、郵便物を投函するために 郵便局に出向きました。

駐車場にクルマを停めて局の入り口に向かって歩いていると、私のやや前を 白杖(はくじょう)をついた おそらく目の不自由な人が歩いていました。

白い杖をつきながら、歩道に延びる点字ブロック(線状ブロック)を頼りに 前へと歩いておられます。

と…私の目に、その人のさらに前方の点字(線状)ブロックを塞(ふさ)ぐように 1台の自転車が無造作に置いてあるのが目に入りました。

このままゆけば この人は自転車に衝突してしまいます。

が、私とその人とは微妙に距離があり 自転車をどけるには間に合いそうもない、南無三(なむさん)…と思った次の瞬間 ちょうど局から出てきた若者が状況に気付き、その人が自転車まで到達する寸前に サッと自転車をどかしてくれたのです。

彼の機転のおかげで 件(くだん)の目の不自由な人は、そのまま点字(線状)ブロックを辿り 何事も無く歩いてゆかれたのでした。

私は その彼に黙礼し、心の中で〝ファインプレー〟を称(たた)えたのでした。

 

 

社会には、障がい者さんなど いわゆる「社会的弱者」を助ける〝社会インフラ〟が遍在しています。

ところが、それら折角の設備(装備)が正しい認識の下(もと) 真に社会的弱者のために機能しているかどうかは懐疑的な面が否めません。

今回のように 点字(線状)ブロックを跨(また)ぐように自転車を停めたり、また やや類いは違いますが、以前には 都市部の雑居ビルで火災が起きた際、非常階段に雑物が無造作に置かれていたことから被害を拡大した事案も聞かれるなど、人が人を守るために設置された造作が 人の認識不足によって正しく利用されず(できず)、結果 当事者さんらの障害になっていることは由々しきことと言えるでしょう。

 

前掲のとおり「認識」というものは 非常に重要でありながら、いわば無造作に思われている面があると思います。

「ここ(点字ブロック上)に自転車を停めたら、万一視覚障がい者さんが通れば迷惑になりはしないか。」と認識するか「ちょっとくらいならイイや。」と認識するか、もっといえば、自分が自転車を停めようとする場所に点字(線状)ブロックあること自体を認識しているかどうかで、その社会インフラ(この場合は点字ブロック)が真に機能するかどうかの成否までも分ける。

 

「ノーマライゼーション」という言葉があります。

これは、誰もが普通に暮らせる社会の構築を期して取り組む事項を指すものですが、そのために いくら社会インフラを整備しても、そこに暮らす人の「正しい認識」が醸成されないことには、何の機能も発揮しないことになってしまいます。

 

今回の、白杖をついた人が遭遇しかかったトラブルと それを寸前で回避した若者のファインプレーの場面は、社会インフラが如何にあるべきかを考える機会ともなりました。

おそらくは 今も社会のさまざまな場面で同様の事(こと)が起きているであろうことを思うとき、私も含め「認識」を新たにせねばと思いをいたしたところです。