倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

「対等」の感性で

2021-11-03 | 日記

市内を移動中、流れていたラジオ番組の声に 感性を動かされました。

番組では、九州・沖縄地方のネイチャーガイドさんと ラジオパーソナリティーとのやり取りが流されていました。

青い海・白い雲…美しい自然環境と 豊かな作物や新鮮な魚介肉により、そこに住む者はもとより 来訪した観光客の「目」と「舌」を堪能させてくれる大自然の素晴らしさが紹介されていました。

で、ひとわたりのレポートを聴いたパーソナリティーが「こんな豊かな自然は、みんなの手で保護してゆかなければなりませんね。」と水を向けると、件(くだん)のネイチャーガイドさんは「いや、そこはちょっと違うと思います。」と やや否定的な見解を述べ始めたのでした。

曰(いわ)く「私たちは、この地の豊かな自然の掌(てのひら)の上で営(いとな)みを続けさせてもらっています。いわば大自然があって 私たちの社会生活があるのです。その大自然を「保護する」などというのは 非常におこがましい話しであり、私たちは あくまで、自然界と「共存」させてもらっていると常々考えています。」

さらに「〝保護〟という言葉の中には、保護する側と 保護される側とがあり、ここには残念ながら「保護する側が上・保護される側が下」との(上下の)序列が生じるものですが、こと自然界においては 皆が対等。ところが とりわけ人(人間界)は、自然の「上」に立って それを保護・管理するなどという不遜な考えをもって(大自然と)向き合おうとする傾向にありますが、これは大きな勘違いであることを申し上げたいのです。」と まさに謙虚な姿勢をもって述懐されておられました。

 

私は、かかる「保護」という言葉の意味合いにおいて それを政治(行政)に置き換えて考えさせられたものでした。

政治(行政)の中にも いわば用語として「保護」なる言葉が出てくるところです。そこには 例えば生活に困窮している人を「保護」したり、さまざまな事情で通常の生活を送れなくなっている人を「保護」するケースがあります。

この場合の「保護」は、まさに その方々を守るという意味で、その体(てい)を成(な)しているものですが、それ(保護の意味合い)が あまりに広義に過ぎた場合、適切さに欠けることになるのではないか。

例えば、障がいを持ちながらも社会で暮らす方々に対し「保護」の視点で接したとき、その者は 障がい者さんを下と見なして「保護してやろう」とするのではないか。

この考えは、私は間違っていると思います。

人である以上 誰もが平等であるハズであり、どちらが上で どちらが下という決めつけは、社会の歪(ゆが)みにつながってしまうのではないか。

また逆に、かかる方々自体が 過度に「保護」を求めて主張を強めることも また違うのではないかとも思うのです。

いずれの立場も対等であり、暮らす環境は違えど 互いは尊重し合うべきもの、そこに「上」も「下」も無い中で向き合うべきでありましょう。

例えば 障がい者用スロープなどの造作についても、それは「障がい者保護」のための特別なものではなく、むしろ当たり前の社会インフラとして設(しつら)えられるべきものであり、それを「保護のための特別なもの」と位置づけた瞬間に いわば〝勘違いの上下関係〟を生み出すことになってしまうのではないでしょうか。

 

 

折しも、特に長野市は 2つの選挙が終結し、新たなスタートを切ることになりました。

私自身も そういう意味で、新たなスタートラインに立つにあたり 旧態な価値感に依(よ)らず、かくあるべきとの正しい感性で諸課題に対峙してゆきたいと改めて思いました。

あくまで謙虚な姿勢、対等を旨として人や物(事象)に向き合いつつ歩みを進めてまいる所存です。

 

 

 

 

慌ただしいままに時間ばかりが流れましたが、街はいつの間にか秋を迎え 善光寺さん界隈も紅葉が見頃を迎えていました。

 

 

本堂の東にある親水公園もすっかり色づき、ビオトープのせせらぎを 紅葉が浮かび流れてゆきました。

 

 

もう11月か。

季節の移ろいの早さを実感させられたところでありました。

 


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