やっと昭和39年に厚生省も国立衛生試験所を中心に、
戦後の食糧増産を支えた農薬問題に、安全性の見地からメスが入れられる事になった。
そして昭和43年3月30日付け『果実および野菜の成分規格』として、
初めてキュリ、トマト、ブドウおよびりんごに、
BHC、DDT、パラチオン、ヒ素、鉛に残留農薬基準が設定された。
この厚生省の通知を受けて各地方の研究所も、
農薬分析のための特殊な電子捕獲型ガスクロマトが必要となり、
本県でもその予算化が進められた。
ところが機器には放射性同位元素(トリチュウム-3、ニッケル-63)が使用されており、
機器管理には科学技術庁が行う国家試験の「放射線取扱主任者」が必要で、
本県では誰も資格者がいなく、急遽、県庁に入って3年目の私が受験する事になった。
私は薬剤師国家試験を最後に、一生試験たるものから開放されたと思っていたところ、
この話であるので大変困惑した。
しかし、今振り返ってみると、この資格を持っていたからこそ、
県という組織の中で25年余も(最終的には37年間)同じ職場に勤められたようで、
何が幸いするか分からないもだと、つくづく考えさせられる。
ともかくA所長やB課長の「きみなら試験は容易く合格するよ」
と甘い言葉に誘われたわけではないが、受験地の大阪に向かったのは、
ある暑い暑い真夏の頃だった。 (つづく)
(○○県○○会誌、1986.7.10)
●思い出の写真から(69) 地震前の松島
○松島湾を望む
○松島
○遊楽船のカモメ