くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

シャケの親子丼(シャケいくら丼)!

2011-09-25 21:02:55 | たべもの
生筋子の季節になりました。
この時期になると、わが家では特売日を狙って「山盛りイクラ丼」を作ります。



1.生筋子はたっぷり450グラム。
  関東のスーパーでは100グラムあたり、だいたい298円~498円です。



2.目の粗い金網の上で軽く押さえ、軽く引くとイクラだけがポロポロと下の
  ザルに落ちます。
  食塩水やぬるま湯の中でほぐす方法など、いろいろやってみましたが、
  金網を使った方法が一番簡単で時間もかからないと思います。

  

3.筋子をほぐしてイクラにしたら、網目から落ちた細かい膜やスジを塩水の中でとり、
  ザルにあげてよく水分をきります。
  大量のイクラは何度見てもほれぼれするほど綺麗です。

4.漬け汁は「しょうゆ、酒、みりん」が基本で、市販のレシピによっては3:1:1とか
  3:2:1とかさまざまです。
  うちでは面倒なので購入時にパックされていた出来合ものを使います。



5.漬け汁につけて8時間経過したイクラです。
  漬け汁を吸収して琥珀色になりました。
  パンパンにふくらんだイクラは軽く噛むだけでプチッと・・・

 

6.丼にごはんを盛り、きざみ海苔を敷きつめて盛りつけました。
  今回はサーモンスライスを添えて、「シャケ親子丼」です。

  イクラてんこ盛りで「はなぢ」が出そうです。



「江戸の名所」(その2)

2011-09-24 23:59:59 | お出かけ
上野の東京国立博物館へ「空海と密教美術展」を見に行ったついでに、
今回は下町を中心に、紀州藩士「酒井伴四郎」が歩いた江戸の名所を巡ってみました。

「江戸の名所~お上り武士が見た華の都」 内容はこちら→「江戸の名所(その1)」

 
開館からまだ30分後にもかかわらず、すでに入館まで20分待ちの入場規制。
会期終了日が近づけば近づくほど、こういうイベントは混雑するのが常です。
ちなみに、二週間前に行った国立科学博物館の恐竜博は、なんと90分待ちでした。

「特別展」と本館(こちらはがらがら)の常設展示をひと通り観て、
今回の「江戸の名所」は、上野公園から出発です。


「上野東照宮」 重要文化財の社殿を目指して参道を進むと・・・ !!

いまは公園となっている上野の山は、
江戸時代は山全体が徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な境内でした。
当時は敷地内に多くの堂塔伽藍が立ち並んでいましたが、
本堂など多くの建物は、彰義隊で知られる幕末の上野戦争で焼けてしまったそうです。

そんな上野にあって、
「上野東照宮」の社殿や唐門は1651年築造の国指定重要文化財です。
戦争や震災にも無事に残った、江戸時代の面影を残す貴重な建物なのです。


社殿に見えたのは、なんとシートに印刷された写真でした!
社殿や唐門は修築工事のため、平成25年までシートに覆われて見ることができません。
しかし、この仮囲いのシート、実によくできています。
遠目には、すっかりだまされてしまいます。


「不忍池(しのばずのいけ)」

不忍池は古くは江戸湾の奥入り江の名残りで、
すでに江戸時代から、いまのように蓮(はす)の名所だったそうです。
また、昔は上野一帯にはススキが多く、身を忍ばせることもできましたが、
池の周辺は隠れることができないので、「不忍(しのばず)」と呼ばれたそうです。

伴四郎は上野寛永寺に参詣した後、
不忍池の弁財天(写真中央のお堂)にも参詣し、
ここで湯豆腐、玉子焼、香の物を肴に酒一合を呑んでいます。

そのあと、浅草まで足を延ばし、浅草寺で甘酒二杯を呑んだとあります。
いまなら地下鉄で行く浅草寺ですが、伴四郎と同じように歩いてみると、
不忍池から20~30分の距離でした。

 
「浅草寺」

さすがに休日とあって、すごい人出です。
江戸時代も浅草界隈は屈指の繁華街として賑わっていたようで、
数多くの飲食店や土産物屋、芝居小屋や見世物小屋があったとあります。

伴四郎も江戸滞在中に何度かここを訪れ、
蕎麦や蛸のうま煮を食べたり、「おばけの見世物」を見たりしています。


「浅草寺から見える現代の名所」 ちょっと寄り道です。


「隅田川から見る東京スカイツリーとアサヒビールタワー(本部ビル)」

ところで、アサヒビールタワー(黄金色のビル)は、
ジョッキに注がれたビールをイメージしてデザインされており、
隣のキント雲か人魂のような金色の物体は、炎のオブジェだそうです。

 
近くで見るとこんな感じです。さすがにデカイです。

世界一の高さ(自立式電波塔)で、技術的にもスゴイのでしょうが、
東京タワーに比べて、いまひとつ魅力に欠けると感じるのは私だけでしょうか。
姿形からいったら、東京タワーのほうが東京のシンボルとしてはふさわしいような・・・

 

再び「江戸の名所」にもどって 「湯島天満宮(湯島天神)」です。

いわずと知れた学問の神様「菅原道真」を祀っていますが、
江戸時代も新井白石などの学者や文人が数多く参拝していたそうです。

標高二十メートル強の高台に位置し、当時は眺望のよいことで知られ、
門前には水茶屋や煮売屋などが軒をならべて賑わっていたようです。
歌川広重は、ここから見下ろした不忍池と弁天島を描き残しています。



またもや苦しい言い訳「朝霞国家公務員宿舎の建設再開」(2)

2011-09-23 18:11:00 | 政治経済のことも考えよう
財務省が増税を訴えながら、
朝霞に105億円の国家公務員宿舎を建設していることについて、
報道などで取り上げられたことから、次第に批判の声が大きくなっています。

それにあわてたのか、財務省は昨日(9月22日)、
周辺の12ヶ所の宿舎を廃止・売却すれば、10億~20億円の収入が見込まれると発表。
同省の藤田幸久副大臣は記者会見で、
「既存宿舎の売却でプラスになった10億~20億円を復興財源に回したい」 と説明しました。
また、これは 「5年間で15%の公務員を削減するための集約過程である」 とも。

またもや、役人と言いなり政治家の、何の説得力もない苦しい言い訳です。

1.10億~20億円は復興財源に回す?

朝霞住宅を建設しなければ、10億~20億円どころか、
事業計画費用の105億円が丸々復興財源に充てられます。

2013年に完成し、それから既存宿舎の公務員が朝霞住宅に移転し、
既存宿舎跡地の売却をするとして、売却益が出るのはいったい何年後のことでしょう。
お金を必要としているのは、まさに「いま」なのではないでしょうか。

2.5年間で15%の公務員を削減するための集約過程?

そもそも、「公務員を削減する」という合理化計画のために、
「まず、新宿舎の建設が必要である」 とする非合理的な計画が理解できません。

企業の再建計画であれば、
まず社員を減らし、歯抜けに空いた社宅に社員を移して集約し、
それから社宅そのものを売却するのが常道です。

しかも、宿舎へ集約するための転居費用は、誰が負担するのでしょう。
本人の都合による引越しではないから、つまるところ結局は国民の負担です。
転居自体も、もっとも合理的で費用負担の少ない計画ができていません。
こういった経費の類も見越しての10億~20億円の売却益なのでしょうか。

3.全国各地を勤務する国家公務員には宿舎が必要?

百歩譲ってそうだとしても、新たな宿舎を建設する理由にはなりません。
宿舎が必要ならば、既存の民間賃貸住宅を借り上げればすむことです。
レンタルやリースへの切り替えは、経費削減の基本中の基本です。

また、3LDKの宿舎の家賃が3万円/月とはどういうことでしょう。
周辺の賃貸住宅並の個人負担にすることが、公正というものではないでしょうか。
少なくとも財政再建の合理化というものは、そういうものです。

「俺たち公務員も納税者だ」という人がいます。
しかし、実際にはこのような宿舎の家賃補助のように、
民間では一般的ではないさまざまな補助や手当、福利厚生で還元されているのが実態です。
その原資は、もちろん税金。
そういう人たちが、「納税者」と自称するのはおこがましいにもほどがあります。

ところで、9月22日の新聞によれば朝霞市議会は、
反対住民からの「政府への働きかけ」の請願を不採択したとあります。

維持費だけかかって、何の収益もない公園などにするよりは、
市の人口が増え、税収も増える国家公務員宿舎を建設してほしいという、
朝霞市の思惑も理解できないわけではありません。

しかし、なぜ「国家公務員宿舎」でなければならないのでしょう。
(転勤者用の宿舎なので、朝霞市に実入りは少ないという意見もあります)

財務省は「財政再建」「復興優先」と声高に叫び、国民には「増税」を訴える。
その一方で、国家公務員優遇としか言いようのない新宿舎を建設する。
そして、それを止められない「政治主導」を標榜する政治家たち。

財務副大臣の藤田幸久議員のホームページには、
「泣く政治から 笑う政治へ」 というキャッチコピーが書かれていますが、
これでは 「泣く政治から 笑われる政治」です。

工事を請け負った大林組は、9月1日に着工したばかりです。
八ツ場ダムのように、事業計画が7割も終わっているわけではありません。
いまなら違約金を払っても、復興財源に回せるだけの事業費は充分に残ります。

「泣いている国民から 笑う国民へ」 の政治を目指してほしいものです。




帰宅難民になってしまった!

2011-09-22 23:59:59 | つれづれなるまま
台風15号が関東に接近した21日、
はじめて帰宅難民というものになってしまいました。

就業時間が終わった17時30分。
すでに何本かの鉄道路線は運休していましたが、
私が帰宅に利用する地下鉄はまだ動いていました。

「自宅近くの駅まで、雨風の影響を受けない地下路線なので、運休はないだろう」
そう判断して、すぐに会社を出ました。

また、インターネットのニュースに、観測史上もっとも低い中心気圧を記録し、
大きな被害をもたらした1979年の台風20号では、
「営団地下鉄(現・東京メトロ)以外の鉄道がすべてストップし・・・」 と書かれてあったことから、
やはり地下鉄は台風の影響を受けにくい、と考えたことも帰宅を決めた理由でした。

しかし、会社の最寄駅から地下鉄に乗って二駅め。
電車はホームに停車したまま、運転見合わせとなってしまいました。

理由は、山手線と交わるターミナル駅が、
運休しているJRや私鉄からの乗客であふれかえり、
地下鉄の駅構内も危険な状態なので乗り入れできないということでした。

風雨ばかりに気を取られていたので、混雑で運休するとは思いもしませんでした。
確かに、今の東京圏の人口は、1979年頃に比べれば格段に増加しています。
バブル時期の宅地開発で、東京近郊の新興住宅地に住む人々は激増しました。

しかし、そう気づいたときには、もうあとの祭りです。
「駅の混雑が解消されるまで運転は見合わせる」 との構内アナウンスが流れます。
台風では、地震のときのように徒歩で帰るわけにもいかないでしょうから、
山手線やその外側にのびる私鉄各線が動かなければ、
駅の混雑は解消されようもありません。

動かない電車の中、持っていた単行本も読み終わり、
万一に備えてバッテリーを温存するため、携帯電話の使用も最小限にすると、
あまりにも暇なので、いろいろなことを考えてしまいます。

・荒川が氾濫して、あふれ出した水が地下に流入してきたら・・・
                  ・・・このまま地下構内いては、とってもやばい。

・停電で構内の明かりがすべて消えてしまったら・・・
                  ・・・復旧するまで動かずにじっとしているほうが安全。

・洪水と停電の両方が起きてしまったら・・・
                  ・・・たぶん死んじゃうかも。

荒川が氾濫すると、地下鉄が水路となって東京の地下はあっという間に水没する。
そんな記事や番組をどこかで見たことを思い出し、
これから台風が通過するという時間帯に会社を出たことを、ちょっと反省したのでした。

それから約二時間後、何事もなく電車は運転を再開し、
自宅の最寄駅に着いたときには、もう空には星が出ていました。



「江戸の名所」(その1)

2011-09-19 18:41:01 | お出かけ
こんな本を持って、都内をふらふらしてみました。

 「江戸の名所」 田澤拓也 著 / 小学館 刊

この本は、江戸勤番を命ぜられた実在の紀州藩士、酒井伴四郎が、
勤務のかたわら江戸の名所を巡り歩き、名物を食べ歩いた日記をもとに、
今も都内に残る名所や寺社を解説した本です。

東京(江戸)は、江戸時代も政治の中心であったのと同時に、
地方から来た人々にとっては、一生に一度は訪れてみたい華の都だったようで、
伴四郎は半年間で100回以上も名所見物や寺社参詣に出かけています。

本書のもととなった伴四郎の日記は「江戸江発足日記帳」と書かれ、
立教大学教授の林英夫氏(故人)によって古書店で発見されたそうです。
そんな伴四郎の日記に記された、都内に今も残る名所を尋ねてみました。


「江戸城 外桜田門」
酒井伴四郎が江戸に着いたのは、万延元年(1860年)五月二十九日。
その三ヶ月前には、ここで井伊直弼が水戸浪士に暗殺されています。
伴四郎が生きた時代は、そのような幕末の騒然とした世の中でした。
しかし、幕末だからと言って、
武士の誰もが志士のように生きていたわけではないようです。


伴四郎が何度も歩いたであろう、「紀伊国坂」です。
彼はこの坂の上、紀伊藩の赤坂中屋敷の中にある、粗末な勤番長屋に住んでいました。

明治以降になって、江戸の地名はどんどん消えていきましたが、
都内に残る「坂」とその坂の名前は当時のまま残されていることが多いようです。
往時を偲ぶにはもっとも手っ取り早い旧跡ともいえます。

 
「山王権現社(日枝神社)」
伴四郎が訪れたのは、6月の例祭の日。
この神社は徳川将軍家代々の産土神(うぶすながみ)とされ、
山王祭には神輿や山車が江戸城内に入り、将軍の上覧が許されていました。
伴四郎の日記には、その豪華盛大な祭りに驚いた様子が記されています。

 
「愛宕山の愛宕神社」
標高26メートルの愛宕山は、当時は江戸湾まで見渡せる観光名所でした。

山頂の神社に至る石段は「出世の石段」といわれています。
寛永11年(1634年)、馬術の達人「曲垣平九郎」がこの急階段をを馬で駆け上り、
境内に咲いていた梅の枝を手折って下ったことから、
将軍から「泰平の世にあっても馬術の鍛錬を怠らない者」として賞賛され、
金子(きんす)と衣服を拝領したと伝えられ、
「出世」の神様として崇敬されるようになったといいます。

 
山頂の境内は、こじんまりとしていますが、厳かな雰囲気があります。
伴四郎が江戸に来てここを訪れるほんの数ヶ月前、
井伊直弼を襲撃する水戸浪士18名が、当日の朝にここへ集結したそうです。


「愛宕山の頂からの眺望」
日記で伴四郎が「江戸三分の一はここより見ゆる」といたく感動し、
また、勝海舟と西郷隆盛が会談前に二人でここから江戸市中を見下ろし、
無血開城につながったと伝えられる山頂からの眺望も今はこのとおりです。


「神田大明神(神田神社)」
二代将軍秀忠によって江戸総鎮守とされ、山王権現社とともに人々から崇められました。
例祭の神輿や山車が江戸城内に入ることを許されたのは、
前出の山王権現社の山王祭と、この神田大明神の神田祭だけでした。


「御茶ノ水の聖橋からの神田川」
昔は神田台と呼ばれたこの高台一帯は、ここから富士山が手に取るように見え、
まるで駿河国から見るようだということから駿河台と呼ばれるようになったとか。
また、家康の没後、駿河国の旗本がこのあたりに屋敷を割り当てられたためとも。

神田川は1615年頃から約40年をかけ、
外堀の役割を兼ねて切り拓かれたものだそうです。
お茶の水の急峻な崖面は江戸の景勝地でしたが、人工の渓谷だったのです。


「市谷亀岡八幡宮」
1479年に太田道灌が江戸城の西の鎮守として、
鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのが起源とされます。
つまり、「鶴岡」の「鶴」に対して「亀岡」を称した縁起名だそうです。

伴四郎は例祭の日にここを参詣し、
蕎麦屋で「穴子鍋、どじょう鍋、そば」を食べ、酒二合を飲んだようです。

このほか伴四郎は、
今も有名な上野や浅草、泉岳寺や増上寺などはもちろん、
当時、徒歩で移動するにはかなり時間がかかったと思われる、
飛鳥山(王子)や井の頭、横浜にまでも足をのばしています。

この本、ガイドブックとしてもとても楽しめる一冊でした。