くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

「江戸の名所」(その1)

2011-09-19 18:41:01 | お出かけ
こんな本を持って、都内をふらふらしてみました。

 「江戸の名所」 田澤拓也 著 / 小学館 刊

この本は、江戸勤番を命ぜられた実在の紀州藩士、酒井伴四郎が、
勤務のかたわら江戸の名所を巡り歩き、名物を食べ歩いた日記をもとに、
今も都内に残る名所や寺社を解説した本です。

東京(江戸)は、江戸時代も政治の中心であったのと同時に、
地方から来た人々にとっては、一生に一度は訪れてみたい華の都だったようで、
伴四郎は半年間で100回以上も名所見物や寺社参詣に出かけています。

本書のもととなった伴四郎の日記は「江戸江発足日記帳」と書かれ、
立教大学教授の林英夫氏(故人)によって古書店で発見されたそうです。
そんな伴四郎の日記に記された、都内に今も残る名所を尋ねてみました。


「江戸城 外桜田門」
酒井伴四郎が江戸に着いたのは、万延元年(1860年)五月二十九日。
その三ヶ月前には、ここで井伊直弼が水戸浪士に暗殺されています。
伴四郎が生きた時代は、そのような幕末の騒然とした世の中でした。
しかし、幕末だからと言って、
武士の誰もが志士のように生きていたわけではないようです。


伴四郎が何度も歩いたであろう、「紀伊国坂」です。
彼はこの坂の上、紀伊藩の赤坂中屋敷の中にある、粗末な勤番長屋に住んでいました。

明治以降になって、江戸の地名はどんどん消えていきましたが、
都内に残る「坂」とその坂の名前は当時のまま残されていることが多いようです。
往時を偲ぶにはもっとも手っ取り早い旧跡ともいえます。

 
「山王権現社(日枝神社)」
伴四郎が訪れたのは、6月の例祭の日。
この神社は徳川将軍家代々の産土神(うぶすながみ)とされ、
山王祭には神輿や山車が江戸城内に入り、将軍の上覧が許されていました。
伴四郎の日記には、その豪華盛大な祭りに驚いた様子が記されています。

 
「愛宕山の愛宕神社」
標高26メートルの愛宕山は、当時は江戸湾まで見渡せる観光名所でした。

山頂の神社に至る石段は「出世の石段」といわれています。
寛永11年(1634年)、馬術の達人「曲垣平九郎」がこの急階段をを馬で駆け上り、
境内に咲いていた梅の枝を手折って下ったことから、
将軍から「泰平の世にあっても馬術の鍛錬を怠らない者」として賞賛され、
金子(きんす)と衣服を拝領したと伝えられ、
「出世」の神様として崇敬されるようになったといいます。

 
山頂の境内は、こじんまりとしていますが、厳かな雰囲気があります。
伴四郎が江戸に来てここを訪れるほんの数ヶ月前、
井伊直弼を襲撃する水戸浪士18名が、当日の朝にここへ集結したそうです。


「愛宕山の頂からの眺望」
日記で伴四郎が「江戸三分の一はここより見ゆる」といたく感動し、
また、勝海舟と西郷隆盛が会談前に二人でここから江戸市中を見下ろし、
無血開城につながったと伝えられる山頂からの眺望も今はこのとおりです。


「神田大明神(神田神社)」
二代将軍秀忠によって江戸総鎮守とされ、山王権現社とともに人々から崇められました。
例祭の神輿や山車が江戸城内に入ることを許されたのは、
前出の山王権現社の山王祭と、この神田大明神の神田祭だけでした。


「御茶ノ水の聖橋からの神田川」
昔は神田台と呼ばれたこの高台一帯は、ここから富士山が手に取るように見え、
まるで駿河国から見るようだということから駿河台と呼ばれるようになったとか。
また、家康の没後、駿河国の旗本がこのあたりに屋敷を割り当てられたためとも。

神田川は1615年頃から約40年をかけ、
外堀の役割を兼ねて切り拓かれたものだそうです。
お茶の水の急峻な崖面は江戸の景勝地でしたが、人工の渓谷だったのです。


「市谷亀岡八幡宮」
1479年に太田道灌が江戸城の西の鎮守として、
鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのが起源とされます。
つまり、「鶴岡」の「鶴」に対して「亀岡」を称した縁起名だそうです。

伴四郎は例祭の日にここを参詣し、
蕎麦屋で「穴子鍋、どじょう鍋、そば」を食べ、酒二合を飲んだようです。

このほか伴四郎は、
今も有名な上野や浅草、泉岳寺や増上寺などはもちろん、
当時、徒歩で移動するにはかなり時間がかかったと思われる、
飛鳥山(王子)や井の頭、横浜にまでも足をのばしています。

この本、ガイドブックとしてもとても楽しめる一冊でした。