感謝と祈りといやし

熊本アンテオケ教会の神様の栄光の表れを神様に栄光を帰しながら書いていきます

什一献金の思い出

2018年12月29日 | 献金(経済の祝福)

年末年始で物入りだからでしょうか、大昔の笑い話を思い出したので書いてみます。

クリスチャンになりたての20年前、周りは「什一献金は当然すべきもの。理由?聖書にそうしろと書いてあります」という人ばかりでした。

※什一献金(じゅういちけんきん)とは、自分の総収入の十分の一を、神のものとして教会に捧げる献金の事です。

例えば、当時の牧師と喧嘩して教会を出た後も、匿名で教会に献金する方がいたりと筋金入りでした。

(その方いわく「牧師にじゃなくて神への捧げものだから。それはそれ、これはこれ」)。

おかげで良い影響を受け、什一献金に対する抵抗感や惜しむ心は、現在も特にありません。

しかし一度だけ、「今月の什一はしない!」と思ったことがあります。

理由は覚えていませんが、私は本気で神に立腹した事があります。そしてどんなに怒っているかを神にアピールしたいと考え、その手段として什一献金を使いこむ事にしました(笑)。

服を買おうか、おいしい物を食べようか・・・と、楽しいイベントを考えつつも

「でもこれは、私の自由にしていいお金じゃない」と、内心おだやかではありませんでした。

でも腹立つし、やっぱり使おう!と、取り分けておいた什一献金の袋を探しました、が「まさか失くした?」という位、全く出てきません。

あちこち探すうちに、徐々に冷静になり・・「やっぱり神のものに手を出すのは良くない。イエス様ごめんなさい。使い込むのはやめます。」と、悔い改めの祈りをした所、半日もしないうちに、初めに捜した「いつもの置き場所」からあっさり出てきて驚きました。

「什一は神のもの(マラキ書3:8-10)」と聖書にあるので、怒りにまかせて使い込む(盗む)という罪を犯さないように。そんな事をすれば悪魔が喜ぶでしょうから、それを阻止して下さったと受け取りました。

そして今思うと、神は心を見られると聖書に書いてあるので、別に怒りをアピールしなくてもバレバレだったわけで・・・。今思えば幼いというか、初々しいというか恥ずかしいというか、かわいい話です。

ユニークな方法で働いてくださった、主をほめたたえます(笑)。

hiromi


最新の画像もっと見る

コメントを投稿