「信仰心の癒し」で書いたブログ内容は、世間的に言えばPTSD(トラウマ:心的外傷)なのかもしれません。
でも、それと逆に、PTG(心的外傷後成長)という概念があります。簡単に言えば、PTSDを通して成長する(試練を通しての成長)という意味です。
心の傷、悲惨な出来事から来る「被害者意識」に立ち続けるか、それとも聖書や教会の礼拝で毎回語られる「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」という勧めを実践するか。その選択は、個人にあります。
話は変わりますが、数年前、東日本大震災で被災し、100年大丈夫と言われた教会会堂が使えなくなったある牧師が、熊本地震のチャリティコンサートで熊本市に来られ、こんなメッセージをされました。
「教会の人たちは全員無事だったけど、建てたばかりの会堂も壊れ、避難生活を送る中、私も1週間で9キロ痩せ、半年(1年?)程、まともに眠れなくなりました」
「でも私は、不自由な生活の中で、いかに神以外のものに心を向けていたかという事に気づかされました。食べること、寝る場所があること・・・震災が起こるまで、そんなことは空気があるがごとく当然と思い、神に感謝する前に『あの事やこの事がどうのこうの・・』と、そこにばかり気を取られていたのです」
「世界中の方々の尊いご厚意で、避難生活が徐々に好転する中、私も教会員たちも、神がいかに私たちを愛し、み心に留めておられていたかを知りました」
「でも周囲を見渡すとどうでしょうか。震災で心身ともに打ちひしがれているノンクリスチャンの方々に、私は福音を伝えたい!と思いを新たにしています。『人にはできないことが神にはできる』からです」
「だから皆さん、熊本地震で被災されている方々の痛みを、忘れないでください。あなたにある希望を、他の方々にも分けてあげるために、どうすればよいか考えて下さい」
さらっと書きましたが、ここでは「神がいるのにどうして」と「神をほめたたえます」のどちらを選択したかの結果がはっきり表れています。
聖書通読も信仰書を読むことも、毎週の教会の日曜礼拝出席も、私が被害者意識にどっぷりつからないようにと、神が助けて下さったことでした。
もし私にPTG(心的外傷後成長)が起こったのなら、【神への感謝】と、(信者・未信者問わずで)【他の人も、例外なく神に愛されている】、【私に何ができるだろうか】・・という気持ちが生じた事が、それに該当します。
生きておられる神をほめたたえます。hiromi