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札の辻
愛媛県久万高原町から松山への遍路道、三坂峠から浄瑠璃寺へ向かう街道の途中に「松山札辻より四里」と刻まれた大きな石碑があり、すぐ横に昔の標石があります。
(元の標石は少し隠れてしまいました)
「札の辻」とは現在の松山市辻町、松山城お堀の側にあった江戸時代の高札場(掲示板)のことで、現在の官報、公報に相当する藩の諸通達を立て札で庶民に知らせていた場所です。
この場所が松山藩から各地に延びる金毘羅街道、土佐街道、大洲街道、今治街道、 高浜街道の起点になっています。
これらの五つの街道は伊予五街道と呼ばれています。
先日お遍路の最終日に時間があったので寄ってみました。
明治時代に政府から各府県ごとに道路元標を設けるよう命じられていますが、松山藩の道路元標はこれより早く江戸時代中期にはすでに設けられていました。
「松山札の辻より○○里」と刻まれた塚石は札の辻より各方向に1里毎に立てられていたのですが、現在では、その多くのものがなくなっています。
札の辻
愛媛県久万高原町から松山への遍路道、三坂峠から浄瑠璃寺へ向かう街道の途中に「松山札辻より四里」と刻まれた大きな石碑があり、すぐ横に昔の標石があります。
(元の標石は少し隠れてしまいました)
「札の辻」とは現在の松山市辻町、松山城お堀の側にあった江戸時代の高札場(掲示板)のことで、現在の官報、公報に相当する藩の諸通達を立て札で庶民に知らせていた場所です。
この場所が松山藩から各地に延びる金毘羅街道、土佐街道、大洲街道、今治街道、 高浜街道の起点になっています。
これらの五つの街道は伊予五街道と呼ばれています。
先日お遍路の最終日に時間があったので寄ってみました。
明治時代に政府から各府県ごとに道路元標を設けるよう命じられていますが、松山藩の道路元標はこれより早く江戸時代中期にはすでに設けられていました。
「松山札の辻より○○里」と刻まれた塚石は札の辻より各方向に1里毎に立てられていたのですが、現在では、その多くのものがなくなっています。