小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

私にとっての『名井島』②

2019年06月08日 | 

この本の帯には、たぶん編集担当だろうが、『名井島』の一端を紹介する、簡潔で暗示的な文章が載せられている。

用済みになった人形やアンドロイドが余生を送るサナトリウムの島。過去―未来を貫いて、精妙にスタイルを変容させながら、多層的に織り上げられた、言語の島をめぐる探求の地誌。

 

時里二郎の作品を最近になって読みはじめたものとして、あれやこれやと論評する資格はないことは自認している。論評なぞおこがましく、拙劣な感想文を披瀝したところで、恥の上塗りのようなことになるやも知れない。ま、しかし、冷ややかにでも眺めてもらえれば、それでいいと願っている。

『名井島』と『石目』を読み、これまでの詩に対する、自分なりの了見みたいなものが、いかに底が浅く不徹底なものだったか、読み続けるほどに思い知らされた。いや、それよりも時里二郎の孤高の営為が、詩にさほど関心を向けなかった者にまで浸透し、この愚生をして震撼する情況に至ったのだ。ある種の要請なのかもしれない、それはそれで、悦ばしいことだと考える。

熱に浮かされても、沈着の心で書きつづけよう。記憶に残り、ときに鮮明に蘇るカタチになればいい。これは時里二郎へのオマージュである。ただし、彼の詩業は未だ見えていない(読む準備はできている)。手元にある何冊かの詩集をざっくりと読み、詩集のほとんどは散文詩で書かれ、『名井島』へとつながる萌芽、原基は認められる(前々作『翅の伝記』に顕著だ)。それらはゆっくりと折々に探求してみたい。

彼は、或る古いインタビューにこう答えている。

・・言葉の質量が軽くなったんです。その一方で時代はますます迷宮化しています。詩が時代に耐えうる力を持つには、行分け詩にこだわる必要はないと考えました。迷宮化していく時代に対して、僕の作品はジグゾーパズルのようにいくつかの作品が寄せ集められ組み立てられて一つの詩の世界を作るという方法をとっているのです。」 (2004 5.8)

時里が語る、散文として言葉を紡ぐスタイルは、7作目の詩集『石目』まで踏襲されてきた。「寄せ集めて組み立てる」とは彼の謙遜の言いで、少なくとも推敲を重ね、吟味し尽したうえでの構成であろう。その言葉の一つひとつが強度を保ち、緊張感のある文体と高貴なポエジーを両立させた物語が紡ぎあげられる。言葉の魔術としての「詩の力」を知る者、親しみをもつ者なら必然的にひきこまれる。

8冊目(※注1)の詩集といえる『名井島』は、従来のパターンを打ち破ったといえる。行分けされた詩の章と、散文詩が混在しているのは初見である。手に染めなかったものへの挑戦、それだけでも彼の年齢を考慮すればアグレッシブだ。型を崩すことを怖れていない。

卒読とはいえ読後の感想をいえば、古典の馥郁とした香りと、現代詩のアヴァンギャルドが渾然とする。用意周到な世界観を練りあげ、時をかけて吟味され、発酵した言葉だけで物語を編んできた。それら言の葉の縦糸も横糸も丹念に紡ぎあげられて、その完成度は想像を超える。

前回にもすこし触れたが、古語や雅語、「人工知能からにじみ出ているスカフィウム」などの造語。さらに音韻を強調させた「ひらかな」の短い音節の詩など、意表を突かれる表現技巧が多彩な点も、目から鱗の出色のものといえる。

ブログに私見を書くのは許されている、臆せずに書こう。

『名井島』は、端的に書くと「日本語は何処から来て、何処へ行くのか」を念頭に、詩歌の歴史、ことばの再構築をイメージして書かれた詩作品ではないだろうか・・。

 『名井島』の設定は、「ヒト文明消滅後」の世界、だが過去と未来にも往還する物語だ。行き来するのは「言の葉」で、それを運ぶのは「舟」。島と島、或いは半島、彼岸と此岸、これらを結ぶ要衝にあたるものが『名井島』で、時里による「島嶼論」については、つぎなる機会にふれねばなるまい。

とにかく舞台は「島」である。プラットフォームでありメタファーでもあり、「ことば」を生みだすトポスとしての磁場をもつ。いやが上にも日本語を意識し、古代から現代までの叙事・抒情の「言の葉」に思い巡らすことは、『名井島』を読んでいけば、自然の成りゆきというものだろう。

 登場人物は、語り手の「わたし」はもちろん、「ヒト標本」あるいは猫の姿をしたアンドロイドや人形、栗鼠や鳥(実際の動物たちではなく、たとえばセキレイの形をしたアンドロイドか? VRだとしたらそれこそSF映画だ)など、上質な文学を読んだときのような香気を放つ脇役たちがそろう。

それだけではない、彼らの存在がリアリティをもって感じられる場所設定、たとえば古代なら古の言の葉がとびかう時代の自然、森や、手入れが施された「庭」など・・、『名井島』がもつ叙事詩的な世界観は、スタティックかつスリリングでもある。

それに加えて本編ともいうべき、4章の「名井島」では、豊穣なるポエジーを感じさせる行分けの詩篇が展開される。ここにおいて、筆者は前述した「日本語は何処から来た」かを想いえがき、やまと言葉の初源をみるおもいであった。

 とりあえず、『名井島』の大きな流れをしめそう。

「 朝狩 Ⅰ島山 Ⅱ夏庭 Ⅲ歌窯 Ⅳ名井島 ≪母型≫ 」

今回は、詩集のプロローグともいうべき「朝狩」についてふれたい。

朝狩には、昔の武士が使っていた弓矢を携えたアンドロイドが登場する。そこは図書館らしいのだが、データを閲覧する無機質で近未来的な空間、そんな雰囲気も感じられる。文章は簡潔、硬質でストレートだが、その内容はすぐに理解できないほど脈絡が凝縮している。

朝狩」は、全部を読了後にふたたび読みたくなる、濃密なリード文であり一篇の詩としても成立している。わずか20字17行ほどの短文であるのだが・・。『名井島』に導かれる読者にとって、本文の全容を示唆する何か、時空を超える映画的なシーンが屹立する。

最初の1連3行を引用する。

植物図鑑の雨の中を 男は朝狩から帰還する
猟の身繕いのまま弓と胡ぐいを床に投げ出して (※注2)
仕留めた獲物を閲覧室の机に置く

獲物とは・・。それは耳の形状をした集積回路の基板の破片だった。その破片は、「矢の径よりも小さな基板を射抜い」たものであり、それは集積回路から剥ぎ取られたもので、それはたぶん、アンドロイドの幼年(?)のときの記憶と関係しているようなのだ。この朝狩の男は未来からやってきたアンドロイドだろうか・・。

詩集でありながら、古典文学の柔らかい背骨がある。もう一つ別の要素もある。ここには人間らしい人間が登場しない。高度に進化させたAI(人工知能)を搭載した人形か、動物もどきだ。しかし、SFとしてのコンテキストは微塵も感じさせない。ここは詩人時里二郎の、言葉の彫琢の凄さ、真骨頂だろう。

『名井島』の本文における物語の主語としての「わたし」は人間であるが、「AI」かもしれない。そのほかに登場する「庭師」や「伯母」は、生物としての人間と機械の合成型アンドロイドがふさわしい。その形態が、いわゆる硬質な金属製でもVI(ヴァーチャル・リアリティ)でもいい。動物型の栗鼠や犬でも同様だ。やはり、VIのホログラムとしての幻影のほうが、『名井島』のイメージに合致しやすいのか・・。

ともあれ、朝狩の最後の4連の4行を紹介しよう。

男はピンセットで今朝の獲物を丁寧に摘みあげ 
小さな闇に眼差しの糸を通して目を閉じる 
穀雨の湿りをにじませて 息づくような
森の緑に濡れた基板が微かに震えている

 

 2,3連を飛ばしたが、その間の10行には、映画『ブレードランナー』を彷彿とさせる。それは、古い写真をコンピュータでデータ解析し、過去の事実関係を洗いだすシークエンスだ。時里のそれは、さらに豊饒で想像力を飛躍させる言葉を組み立てる。(全部を引用したら、筆者が書く理由が、その時点で気化する)

ということで、『名井島』の世界を醸成する「ヒト・モノ・コトバ」は申し分なく調えられていて、ことほど左様に、時空が混淆し、語り手が錯綜しているので、読み込んでいくときに、視点というか読み方のスタンスの取り方が難しい。それに加え、人称、場所、時間、それに「誰か」の記憶など、すべてが重層的かつ多元的である。だからこそ、読み込めば読む込むほど、愉しみは余情となって感得されるのだが・・。

あともう一つ、あえて日本語としておくが、私たちの現在つかう言葉への信頼が揺るぎない。それでも時代の波に翻弄され、変遷してきたのは言葉のもつ宿命で、変化してゆくことへの諦観のなかにも、さらに依って立つ伝統、存続するものを意識する。そういうことを常に考えさせられる詩集だとおもう。

これはもう『名井島』が、日本文学の新たな伝統を継承するものだ、と詩の素人を自認する筆者は静かに、心のうちでは叫んでいる。この稿を読み直すと、どうもディック的SF世界に吸引されている気がする。しかし、最初のリード部分だけに限定して書いたにすぎない。ほんの「端緒」を、やっとくぐり抜けた。

 

 (※注1):詩集『ジパング』の巻末には、既刊詩書一覧として『伝説』が記載されている。発行元は沖積舎で、1981年刊行だから第一詩集といっていいだろう。これを含めると『名井島』は8冊目の詩集となる。ウィキペディアには『伝説』が記載されていない。

(※注2):「 胡ぐい」は、原文には「胡簶」と表記されていて、「やなぐい」は、矢を入れて携行する道具とある。

 


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