story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

挫折記・小中学生時代

2018年06月14日 20時54分46秒 | 日記・エッセイ・コラム


人生とは挫折の連続である。
自分の人生で一度も挫折を経験したような人はおそらくいないか、いたとしたらその人はよほどの幸運に恵まれているのだろうとは思う。
かくいう僕の来し方も挫折の連続であったことは間違いがない。

最初に断っておくが、この一文は自分が過去に挫折するに至ったその際のきっかけになったであろう人たちを否定するものではなく、あくまでも自分の歴史として淡々と振り返り、これから老境に至る自分への戒めとするものである。

僕は神戸・湊川で長男として生まれ、最初は貧しくとも世の中全てが貧しかった時代、それを特に気にすることなく幼少期を過ごしていたのだけれど、我が家では次々に子供が生まれ、生活が苦しくなるにつれて父は酒におぼれ、身体を壊していく。

定職に就くこともできず、同じ仕事を2年以上は勤めることのできなくなった父は家族を引き連れ、まるで彷徨うかのように大阪・兵庫を転々とする・・
そしてある頃からいろんなものが狂い始めた。
神戸湊川、神戸東川崎、大阪天保山、大阪朝潮橋、また天保山、そして泉大津・・転々としながら、兄弟姉妹は六人になっていた。
(ほかに死産も二人あった)

******

最初の挫折は自分の記憶にある限り、中学校への入学だろうか。
昭和四十八年、泉大津市に居たわけで、小学校を卒業すると、必然的に泉大津市立中学校への入学である。
ところが、父母は僕が中学に入るための用意を一切しない。

それはすでに、我が家が海岸近くの社宅から退出することが決まっていて、父母ともにこの街にはいたくないと考えていたからだった。
春には新しい街で、中学校に入学する・・

だが、三月になっても、父の次の仕事は決まらず社宅の退出期限が迫る。
ここに至って父母は僕と弟を遠く、会津若松の親戚に預けるという手段に出た。

電車が好きで、それゆえ、祖母に連れられての会津への道中も楽しいものだったし、会津の親戚は滞在中はずっと歓待してくれた。
けれど、その間に中学校の入学のための説明会も、そして制服や教材の購入日も過ぎていく。
結局、父が僕たち兄弟を呼び戻したのは、新学期も始まって2週間ほどたってからだった。
帰路は親戚に東京駅まで送ってもらい、そこからは小学生の弟と二人で大阪に戻る。

会津若松から泉大津に帰ってすぐに、トラックに同乗して先に出発した父以外の、母と僕たち兄弟姉妹は、これが家族と乗る最後となるだろう南海電車と、大阪市営地下鉄と阪神電車と、そしてこれからお世話になり続けるだろう山陽電車を乗り継いで加古川の別府へ着いたというわけだ。

泉大津の中学校から転校という形ではあったが、僕は一度もその中学には行ったことがなく、中学生活は加古川市の閑静な松林の中の、ただっ広い学校から始まったがその時はすでに授業は三週間ほど先へ進んでいた。
つまり僕は小学校卒業→中学校入学というプロセスにおいて挫折したことになる。
結果的には播州加古川の明るく屈託のない地域性が、自分にとって大きな宝となったわけであり、そこで得た生涯の友人たちは今も大きな宝になっている。

ただ、影響は残った。
三週間の学習の遅れは、先に教科書を用意することもできなかったことから、そのまま学業成績の不調となってしばらく苦しんだ。

*****

父は、新天地での仕事もむなしく、それから半年ほどで亡くなり、我が兄弟姉妹は分裂の危機になった。
いくらなんでも母の手一つで六人の子供は育てられない・・
親戚たちがそういう意見に纏まるのは当然だった。

けれど、母は頑として子供たちを手放さなかった。
行政に相談し、生活保護の手続きを進め、加古川市の山の手にある借家へ移り住んだ。
僕も半年だけ通った中学校から、加古川市と高砂市の境界上にある中学への転校も余儀なくされた。
加古川市は海岸近くと山の手では大きく気風の異なる面がある。
山の手の神吉あたりは、海岸沿いの別府あたりよりも、さらに人は明るく、人懐っこく、そしてよそ者にも全く昔からの住民と同じように接してくれるという、田舎にはあり勝ちな排他的な空気の全くないところだった。

ここの気質は自分には本当に合い、転校した学校ではさらに良い友人たちに出会たこと、これもまた自分にはかけがえのない宝である。

これで当面は良かったのだが、僕の進路を決める際に、このことが大きな足かせとなった。

中学三年、僕は自分の進路を「教育」の道へ進むと、これは小学生時代から決めていたのだが、そこで大きな問題が生じた。
入学遅れによる成績不振はこの頃にはずいぶんと改善し、進学校である公立高校への入学は全く問題がないレベルになっていた。

ところが・・我が家が生活保護を受けていたことがここにきて大きな障害となってしまった。
加古川市の担当者は「君が高校に進学することは素晴らしいことでぜひ頑張ってもらいたい、だが、君が十六歳になったその日で生活保護費の支給が、君の分だけ打ち切られるというのも現実だ」と伝えてくれた。
高校に行ったら、その分、家族が苦しむわけだ。

そこで母は僕を、父がその下請けで勤めていた製鋼所の養成工にすることを決めた。
養成工なら定時制高校にも会社が通わせてくれるというものだ。
これは僕にとっては寝耳に水で、中学の教師が他の就職先の資料も持って来てくれてはいたが、自分としては納得できない。
「進学できる高校に行きたいと」いう願いはむなしく、大人の事情で取り消さざるを得ない。

ここに至って、どうにもならない事情に中学三年の僕は苦しんだ。

この当時、虫歯が多かった僕は、歯の治療に、市から紹介された歯科医院へ通っていた。
あるとき、いつものように治療の継続のために予約してあった歯科医院を訪れ、窓口で母子家庭の保険証を見せた。
とたん、受付の女性は奥に入り、いつもの歯科医が出てきた。
「うちはもう、これは扱わないので帰ってください」という。
歯のいくつかは削ったままで、この先の治療は必要な状況でだ。
「あの、では、どこの歯医者さんへ行けばいいんですか?」
突然言われたことで混乱しながらも、やっとそれは問えた。
「うちは知りません、もう関係ないですから」
歯科医のあの傲慢な姿を思い出すたび、今も虫唾が走る。

自転車で仕方なく家に帰る道、頭の中が混乱していたんだろう、前をよく見なかった。
気が付けば自分は水の中にいた。
道路わきの水路に自転車もろとも飛び込んだのだ。
幸い、田圃のある所だから水路の水はきれいで、底にヘドロもたまっていなかった。
ずぶぬれになって家に帰り、母に顛末を説明すると、母も悔しそうに口を結んだまま、何も言わなかった。
歯科での治療は、今の場所に住む限り、クルマでもないと通えないところばかりで、あきらめざるを得ない。
(僕が国鉄に入社し、その自前の保険証でようやく、国鉄寮の近くにあった板宿の親切な歯科医と出会ったのは翌年の話だ。)

そして、進路については僕は二の手を打つことにした。
大学への進学校に行けないなら、自分の好きなことにチャレンジするというものだ。
加古川市の担当者から「国鉄も養成工をしていたはずだ」とアドバイスをもらった。
担任の教師に相談し、国鉄の募集要項を取り寄せてもらった。
母に黙って入試の申し込みをし、家に来た入試のための葉書も母に見せない。

そして、国鉄の試験を、自転車で八キロ先にある工場まで受けに行った。

結果は見事合格、3倍の難関を突破して、家に合格通知が来た。
「これ・・なに?」
母は不思議がって僕に尋ねる。
「ああ・・国鉄に行くねん、製鋼所にはいかへん」
悔しがるかと思った母は素直に喜んでくれた。
「あんた、そんな話を進めてたんか・・」そうしみじみ呟いた。

だが、それでも進学できない辛さは僕を苦しめる。
この頃から僕は、一番行きたい道がだめなら、その次に行きたい道を歩くことを覚えたのかもしれない。

この時、希望する高校への進学に挫折し、ついでに歯の治療にも挫折した。

だが、国鉄でのほかに代えられない体験ができ、さらに多くの親友に恵まれ、それは今に至るもとてつもない大きな宝だ。
僕は今も国鉄を悪しざまに言う言葉に強い反感を覚えるのは、この時の国鉄への深い感謝があるからだ。

だが、治療を放置せざるを得なかった歯は、間違いなく悪化した。

ここから先はまた機会があれば書きたいと思う。


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