story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

僧と遊女

2008年07月02日 22時55分22秒 | 小説

建長3年と言うから北条時頼が執権としてこの国の政を司っていたころの話だ。
季節は梅の花の香が匂う春である。

摂津の国の最果て、須磨の浦の浜辺を一人の旅の僧が歩いていた。
長旅と言うほどのものではないらしく、衣服の汚れ具合から察するに都あたりからの数日の道を歩いてきたような風体だ。

僧の名は是聖房蓮長という。
安房の国小湊の出身である。
「衆生見劫尽、大火所焼時、我此土安穏」
僧は先ほどから歩きながらこの経文を繰り返していた。
明るい春の陽光を跳ね返す海の波を、彼の目は追っている。
「だが・・現実に鎌倉の庶民は地震とその後の大火で苦しんでいる。多くの死人も出たと言う」
僧の気持ちは暗かった。

鎌倉ではこの春、大地震が起きたそうだ。
地震の後の大火で庶民の町の大半が焼け尽くされたと言う。
「大火が起きても、安穏とはどういうことなのだ・・」
僧が先ほどから誦している経文は僧が心酔している法華経の経文である。

僧には実は深く心に決するものがあった。
釈尊一代の本懐とは法華経である筈だ・・ではその法華経をないがしろにした結果はどうなのだ・・

聞けば北条政権は国家の安穏を願って巨大な伽藍を鎌倉に建設すると言う。
「伽藍を建設して庶民が食えるようになるのか・・」
そんなはずはない・・
巨大な伽藍を建設することで庶民の生活が安泰であると言うのは聖武天皇以来の迷信でしか過ぎない。
庶民の生活の安定よりも聖武天皇、桓武天皇と言った天皇が直接政治を司っていた頃の古事にちなんだ鎌倉幕府執権による一種のポーズでしかないではないか・・

結局、災害をネタに更に庶民は巨大伽藍の建設の為に苦しまされることになる・・

蓮長の目は光っていた。
穏やかな春の海の沖には大きな船も見える。
ここは、九州、四国、山陽と中央を結ぶ要路の海域でもあるのだ。

当代の寺院も政権も法華経をないがしろにはしていないと言うだろう・・
だが、密教による祈祷を取り入れたり、法華経を詠みながら阿弥陀如来を讃嘆するというのは、これは法華経を形だけ取り入れているに過ぎない・・

「疲れた・・」
蓮長がふと、そう漏らしたとき、彼の目に入ってきたのは砂浜で座り込んでいる女人だった。
女人は彼の姿に気づき、走り寄ってきた。
「お坊さん!どこ行くのん」
女は十七、八歳か・・
汚れた小袖、まだあどけなさの残る表情・・
「私か・・拙僧はの・・敦盛どのの打たれた場所を見に行こうと思っての」
女は彼の目を見ながら、それでも何が可笑しいのか小笑いしながらこう言う。
「ああ・・あの石塔のあるとこかいな・・あんな所に行っても何もないで・・」
「何が無くとも折角、須磨に参ったのじゃ、見ておかんことにはのう」
「ふうん・・そんなもんかいな・・須磨寺の笛は見たんけ?」
「ああ・・今しがた拝見させてもらった」
「お坊さん、それを見てどう思う?」
「どう思うとは?」
「笛を見て・・」
「哀れであるなと・・」
女はちょっと彼の目を見ながら言う。
「悲しい・・戦があれへんかったら、あの人は笛を吹いて生きていけたんや」
「だが、敦盛どのは武者であろう・・武者には武者の為すべきことが有る」
「それ、死ぬことなん?」
「そうとも言える」
「戦で死ぬことが仕事なん?」
「武者であるならば・・」

沈黙の後、女は蓮長をじっと睨んだ。
「うち、よう分からんけど、生きるの大事や思う・・死んだら、その人はもうそれきり・・なんも見えへん・・ただ、周りが勝手に祭り上げて立派やったと言うだけ・・」
「うむ・・」

女はいきなり、彼にこう言う。
「坊さん、坊さんって何の為におるんや?」
「それはどういうことかな?」
女は彼の前に立ちはだかるかのように、立ち止まり、息を荒げる。
「うち、辛いことがあったからお寺に相談に行ったんやで・・そやのに、中にも入れてくれへん・・不浄は寺に持ち込むなって・・」
「どんな相談だったのだ?」
「お腹にややこが出来たんや・・」
「その子の父御は・・」
「知るかいな・・誰か分かる筈無いやろ」
「お前は遊女か」
「遊女になったつもりはないんや・・・そやけど、他に銭を得る方法が無いやんか!」
蓮長は一瞬、言葉を詰まらせた。
「ややこはどうした」
「自然に降りた・・」
「ふむ・・」
蓮長は海の方を見ながら考え込んでしまった。
相変わらず春の海はのどかに光を反射している。

「お前の名は何と言うのだ?」
蓮長はいきなり女に名を訊ねた。
「すえ!」
「そうか・・それでは、すえさんとやら・・敦盛殿の石塔を知っているだろう・・そこへこの坊主を案内してくれないか」
「ええよ・・その前にお坊さん、何て言う名前?」
「私か、私は是聖房蓮長と申す・・」
「難しい名前やな」
「蓮長でよい・・」
二人は顔を見詰め合った。
すえの汚れた顔が春の光に浮き上がり、かけがえのない美しいものに・・蓮長には思えた。

砂浜で網を縫っている漁師がいる。
蓮長はその景色を眺め、ふと故郷を思い出した。
「私の故郷もこんな浜辺でな・・」
「お坊さん、漁師の生まれなん?」
「ああ・・今頃は両親とも春の漁で・・あのように浜辺で仕事をしているだろう・・」
「ふうん・・」
「お前の・・すえの親御殿は漁師なのか?」
「そうや・・けど、時化で無理に海に出て・・死んでもたわ」
あっけらかんとそう言うすえの表情に蓮長はかえって不幸と言うものを見た気がした。
「不幸じゃの・・」
「不幸か!そうかもしれへん・・そやけど・・どこにでもある話やな」
「あるなぁ・・」
「運が悪いだけや、しゃあない・・」
「私はな・・不幸の芽を摘み取りたいのだ」
「ふうん・・」

浜辺は山に向かい先細りになる。
その山にぶつかった先は断崖絶壁で歩いては通ることが出来なくなる。
やがて、その最先端の、ここから先は通れないと言う、砂浜の最後の部分に近づいたとき「アッチや!」とすえが指差す。
砂浜から松林に一歩入ったところに、こじんまりとした石塔があった。
石塔の前から振り向くとそこには茫洋とした春の海が広がっている。

「敦盛どのはここから海に馬を乗り入れようとした」
蓮長が呟くと、すえが首を振る。
「無理やわ・・馬で海に飛び込むなんて・・考えられへん」
「なるほど・・しかし、伝承では海に入って行くところを熊谷殿に呼び止められ、引き返したとされるが・・」
「多分・・ここに追いつめられたんやないかな・・ここから先は馬では進めないし・・」
「確かにその方が理に適っているな・・」
蓮長はまだ小娘の面影のあるこの女の頭の回りように感心した。
「すえは、随分、頭が良い娘だな・・」
「さあ・・頭が良いかどうか知らへん・・けど、うちは、お武家のお客をとるからな」
「なるほどな・・」
蓮長は苦笑しながらも、すえの持って生まれた頭の良さと言うものがあるのだろうと思った。

彼は、石塔に向かった。
長い時間、彼は石塔に語り掛けるように、祈りを捧げているようだった。
すえは為すこともなく、ただ、そんな蓮長を不思議そうに見ていた。

「敦盛殿・・生きていたかったであろうな・・笛の名手であったあなたならば、別の生き方もあったであろうに・・武家にお生まれになられたのが不運であったのか・・」
蓮長は石塔に語りかけ、そして経文を誦した。

彼が祈りを終え、振り向くと所在なげにすえが立っていた。
「お坊さん・・蓮長さんはうちに不孝の反対をくれるの?」
「不幸の反対?」
「そう、幸いっていうのかな」
蓮長は少し戸惑ったかのように彼女を見た。
「私があなたに、幸いをくれてやることが出来たなら・・それだけの力があるなら・・この国の不幸はとうになくなっておるだろう」
「ふうん・・やっぱり、坊さんは何の為にいるのだろ?」
「そこだよ、そこ・・坊主の仕事が今の世では出来ておらぬ・・」
「でも・・」
「なんだ?」
「うち一人なら幸いに出来るよね」
「どうやって?」
「うちを買ってくれたらええのんや」
「私は一応、坊主の端くれだぞ」
「坊さんだって買ってくれるよ・・恵んでくれとは言わない。買ってくれたら、うちは幸いになれるんや」
「他の坊さんはともかく、私には法を破ることは出来ない」
「つまんない・・」

二人は並んで歩き出した。
すえは少しふてくされたようになっている。
砂浜に出た。
「蓮長さん・・これでも買ってくれないの?」
すえはそう言うなり、いきなり着物をはだけた。
若い女の健康な肉体があらわになる。
「良い体をしておるな・・」
「だろ!うちを買っておくれよ」
「私にはできない・・目の毒だ・・早く仕舞っておくれ・・」
「つまんない・・」
すえは着物を投げ出して丸裸になる。
春の光に彼女の裸体が照らされる。
「美しいな」
「だったら買っておくれ!」
「買わぬ・・いや、良いものを見せてもらった。その礼はしよう」
「買って!」
「買わぬ・・早く仕舞っておくれ・・わたしの修行の邪魔をするではない」
蓮長はそういうと裸体の彼女に向かって手を合わせた。
「勿体無い・・仕舞いなさい」
彼女はしぶしぶ着物を身に着けた。

「お前に礼をしよう・・かの釈尊も最初に法を説いた相手は遊女だった。私もその古事に習ってお前に最初に私の法を説く」
「法?難しいもんはいらへん」
「まあ、聞け、難しくはない」
「なんやねん」
「お前は幸いを手に入れることが出来る。ただし、私の今から言う経を毎日朝晩、七回ずつ唱えるのだ。
「嫌やわ・・お経を七回も面倒やもん」
「短いから安心しろ」
「分かった。とりあえず聞くわ」
「よし、良いか・・」
「うん」
「南無妙法蓮華経」
「なに?」
「南無妙法蓮華経」
「なんみょうほうれんげきょう・・?」
「そうだ、その言葉を朝夕に七回ずつ、唱えるのだ・・」
「なんまいだじゃ、アカンの?」
「だめだ・・私の教えた南無妙法蓮華経だ」
「わかった」

すえは屈託のない笑顔を見せた。
「それから、なにか苦しいとき、楽しいときも同じように唱えるのだ」
「わかった」
「それから、これを・・」
蓮長が懐から少しの銭を取り出した。
すえは「要らない!」と強く断る。
「どうしてだ?」
「うちは大事な法を教えてもらった。御礼をするのはうちのほうや。でも、今のうちには銭はない」
「お前が良い人と出会って幸いを手に入れたら、その時に返してくれたら良い」
「お坊さんがどこにおるか・・うちにはわからへん・・」
「いずれまた、都に来たおりにでも須磨までこよう。その時は私の法は、うんと広まっているだろう」
「本当に須磨まで来てくれる?」
「くるとも・・ここは鎌倉の弓ヶ浜や私の故郷の小湊に似ている・・きっと縁があるだろう」
「じゃ、約束や!」
「うむ。約束しよう。今度会った時には、お前もきっと、良いおかみさんになっているだろう・・良い男を見つけろよ」
「うん」

やがて、蓮長はすえから離れて歩き始めた。
足取りはしっかりとしていて、何度も彼女のほうを振り返りながら去っていく。

彼は実はここに来るまで躊躇していたのだ。
彼自身の法門を説くべきか否か・・
法門を説くのであるならば、かの法然がやったように、民衆から説き広げなくてはならない。
けれども、法然は釈尊一代の肝心、法華経には目を瞑ってしまった。
少なくとも、蓮長にはそう見えた。

今、釈尊がそうであったように、彼もまた躊躇を乗り越えた。
彼は法華経を説く決心をした。
そうすると、反対意見を言うものやかえって誹謗するものも出てくるだろう。
それはその者達にとっては、仏の怒りを買うことになり、決して良いことではない。
それでも、不孝の根を絶つ為には法華経を広く民衆から説き広げなくてはならない・・

一人の遊女によって彼の決意が為されたことに、彼は深く感ずるものがあった。
「釈尊・・私はあなたに近づくことが出来るでしょうか・・」
比叡の連山に似た六甲の山々に彼は問いかけるのだった。

**********

蓮長はこの翌年、安房に帰国し清澄寺において始めて題目を唱え、立宗を宣言したとされる。
そしてその際に、日蓮と名を変えて活躍することになる。
なお、拙文の須磨への蓮長来訪はあくまでもフィクションである。

コメント (2)
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