story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

家出

2017年02月09日 23時43分30秒 | 小説
雪は夜になる前に上がり、月明かりが煌々と辺りを照らす。
ここ数日で降り積もった雪が月に照らされた明るい夜だ。
好夫は「しまった」と唇を噛む。
これでは自分たちの行動が月と雪に照らされて丸見えではないか。
誰もが年末年始の多忙を過ぎた今だからこそ、ひっそりと実行できる計画だったはずだ。
それにこの月夜、そして大雪だ。
元より、さほど雪の降る地域ではないがこの年はことさらに雪が降った。
雪だけならさほど問題はない、だが、雪のあとの月夜となると、街灯の乏しい田舎とはいえ自分たちの姿を見られることのリスクを思わずにはいられない。
 
揖斐へ向かう近鉄電車の四つ目が彼女、悦子の家の最寄り駅だ。
そこはちょっとした町の中心的な駅でもある。
古い電車はモーターの唸りを上げて雪原を走る。
好夫は思わずため息をつく。
「中止したい」
そう思うが、もはや悦子に連絡を取る手段はなく、彼女はもう、好夫がカーテン生地で作った縄を部屋の柱に結びつけているころだろう。
こういう時、なぜに女は強いのかと思うが、それもため息のもとでもある。
好夫の心配をよそに、電車は気持ちの良いモーターの音を立てる。
窓の外は月に照らされた雪が広がるばかりだ。
あの町の神社の陰に、すでに悦子は向かっているだろうか。
今夜決行することは決めていた。
 
所謂、駆け落ち、家出である。
 
北風が吹きすさぶ真冬の夜ならば、たとえ家を出たことが家人に分かっても追っては来れないだろうという浅はかな考えからだった。
だが、自分の浅はかさを天に笑われたかのようなこの明るい夜はどうだ・・
そして好夫にはもう一つの不安があった。
それは今夜これから二人で落ちていくその行先を未だ決められずにいたことだった。
夜汽車に乗って遠くへ・・・
そう直感して決めたものの、その遠くがどこなのか、東京なのか、大阪なのかはたまた九州なのか・・
だが、手元に持ち合わせもあまりない。
まさか一銭の金も持たずに二人で過ごせるはずがないことは十分わかっているつもりだ。
それゆえできるだけ、鉄道の運賃にはお金をかけたくないという思いもあった。
けれどまた、近く・・例えば名古屋あたりだとすぐに親戚に見つけられてしまうだろう。
鉄道の運賃に使えるのは片道500~600円と言ところだろうか。
その当時、これだけあれば大垣から関西には行くことができた。
それゆえ、好夫の頭の中にはぼんやりと「関西」という方向性が浮かんでいた。
夜の広神戸(ひろごうど)駅で電車を降りる。
駅員にも顔をあまり見られたくない。
外套で顔を隠すように改札を抜ける。
夜の雪道を歩く・・・・降ったまま凍った雪が靴の裏で音を立てる。
夜の町は雪と月に照らされ、夜とは思えぬほどに明るく、美しい。
「わしは・・たわけじゃが」
凍てつく街を歩きながら独り言が出る。
 
******
  
その頃、町はずれの農家二階では悦子が、支度に余念がない。
「なんも持つな、からだ一つでええて」
そう好夫に言われたものの、女としてはせめて必要なものをバックに詰めるくらいのことはしなくてならなない。
息を殺し、階下の両親や兄に悟られないように、支度をする。
そのとき、いきなり襖が開いた。
母だった。
「なん、しよんね」
悦子は声が出ない。
バックを背中に回し、身体は母のほうに向かうが母の顔を見ることができない。
「あんたなぁ、ええ具合に先のこと、考えとんかい?」
声が出ない。
「どないするんや、生活していったら相手のおぞいとこも見えるでな」
嫌だ、どうあっても今夜、ここを出るのだ。
彼と二人で・・・
「まぁ、ええわい」
母はため息をつきながら、悦子の手に封筒を持たせた。
「え・・・」
「これだけしか、うちにはできん・・堪忍やで」
分厚い封筒にはいくらの紙幣が入っているのか見当もつかない。
「お母さん・・」
「ようけはない、お前の嫁入り用にと貯めよったんじゃ・・まだ、ちいとやでの」
「うち、そんなんしてもろうたら・・・・・」
「ただし、お父さんの立場もある、玄関から出てくんは・・あかん・・」
母はそういうと立ち上がり、襖を閉めて階下へ降りていく。
悦子は声を上げて泣いた。
    
******
     
好夫が神社の境内に着いても、悦子の姿がない。
しばしそこで待ったが、何かあったかもしれないと思うと居ても立っても居られない。
神社からほど近い悦子の家の前までくると、二階の悦子の部屋にだけ明かりがついていた。
何やら動くものがある。
まさか、声を上げるわけにもいかず、傍の木の枝を叩いてみた。
雪が好夫の頭の上に落ちてくる。
悦子は部屋の柱にシーツで作った縄を結んでいるところだったが、好夫の姿に気が付いたようだ。
小柄な彼女が一生懸命にシーツを結び、それに伝って降りようとする。
元より、好夫が考えたこととはいえ、危険極まりない。
さきにバックを放り投げてきた。
雪の上にバックが落ちる。
好夫は慌ててそれを拾い、自分の立っている木の根元に置く。
続いて間髪を入れず、悦子が縄にぶら下がる。
危なげな格好で、シーツの縄にぶら下がった悦子は、一瞬、うまくそのまま地面まで滑り降りるかと思ったが、すぐにシーツが切れた。
彼女は2メートルほど落下した。
ドサッ!
雪の上に尻から落ちた。
「大丈夫かや!」
思わず声が出てしまう。
「雪が積もっとってよかったがな・・」
悦子はそういい、好夫を見て、そして笑った。
「お尻が・・くろにえとるかな?」
「雪やからの、大丈夫やろ」
好夫がそう答え、悦子がまた笑う。
二人は雪を払い、駅へ向かう。
早くしないと最終の大垣行きに乗り遅れてしまう。
 
辛うじて最終の大垣行きに乗れた。
本日最後の切符を売った後は何も知らんとでも言いたそうな駅員から切符を買い、やがてやってきた古臭い電車に乗り込むが他に乗客はいない。
好夫から見た悦子は能天気に構えているように見える。
だがそれは悦子から見た好夫も同じでやはり能天気に構えているように見える。
さして速度を出さない田舎の電車は、雪明りだけが光る夜の田園を走る。
大垣駅に着いたのは深夜11時過ぎ、古風な電車から降りて国鉄と共用の改札口へ向かう。
「ねえ」
悦子が好夫に問いかける。
「結局、何処まで行くの?」
「ああ・・うん・・」
「もしかして、決めとらんの?」
「いや、そんなことはないんや」
「ね・・何処に行くの?」
「ああ・・神戸や・・ごうど、と同じ字を書くのも縁やろ」
「きちんと決めてるんやね」
「ああ・・」
結局、今日の実行までに行先を決めることはできなかった。
だが、それでも何としても今日でないと悦子を掴むことはできない。
彼なりに必死だったが、悦子にそれがバレないようにしなければならない。
だがここに至って彼の心境は「この先、どうしよう」でしかなかった。
 
「神戸(こうべ)まで二枚」
出札口で好夫は切符を求める。
千円札では二枚は買えない。
なけなしの金が減っていく。
寒い待合室で二人が肩を寄せ合って待つ。
誰か知った人が来てももう止められないとは思うが、それでも好夫は周囲を気にする。
「0時28分発、門司行き、改札です」
駅員がそっけなくそう伝え、彼らを含め数人が立ち上がる。
ホームに出るとまた雪が降っている。
遠くからヘッドライトの明かりが見え、やがて、汽笛が聞こえる。
「ねえ・・」
悦子が好夫にしなだれかかる。
「もう一回、本当のことを言って・・・」
「本当のこと?今から神戸に行くことか」
「違う、私のことを本当に好きなの?」
だが、悦子の言葉はたくさんの貨車を牽いてやってきた黒っぽい機関車の汽笛で消される。
けたたましい警笛が二人を包む。
そしてそのあとの無数ともいえるたくさんの二軸貨車のレールジョイントだ。
「ねえ、私のこと、好いとるの?」
悦子が大声で好夫に聞く。
「あ・・・ああ・・」
「ねえ、わたし・・こんなに・・」
「なんだ・・・」
貨物列車が通り過ぎた。
遠くにジョイント音が去るが、まだ余韻が残る。
「私のこと、好いとるの?」
「ああ・・もちろんや」
「本当に?」
夜のホーム、足元は雪だ。
遠くにヘッドライトが見える。
「ねえ・・」
「なんだ」
「好きと言って・・」
機関車の警笛が響く。
今度の警笛は心なしか優しく聞こえる。
「汽笛に負けんように言って」
「ああ・・」
「好きと言って」
「ああ・・」
警笛がまた響く。
強いヘッドライトの光の中で二人は抱きしめあう。
「好きだ」
「聞こえん」
「好きだ!!」
 
機関車に率いられた茶色の客車が彼らの横を減速しながら通過していく。
ガシャ!ガシャ!
列車は金属音を立てて停車する。
客車の扉を押し開け、二人は客室に入る。
思い思いの格好で座席を使って寝入っている乗客たちばかりで、彼ら二人の空席が見つからない。
気配を感じたらしい一人の壮年が彼らに声をかけた。
「おお、二人連れかいな・・ワシの前が空いとるわ」
壮年は独りで向かい合わせの座席を占めていた。
「あ・・すみません・・」
「いやいや、こちらこそ寝入ってしもうとったわ」
「ありがとうございます」
悦子が頭を下げる。
壮年は二人の顔をじっと見つめる。
機関車の警笛が鳴り、列車はガクンと振動を伴って発車する。
「どこまで行かれるのかな?」
壮年は二人に聞く。
「神戸まで」
悦子が答える。
だが、好夫にとっては神戸はあてずっぽうでしかない。
「ま、その近くまでです」
「近くとな…」
壮年はそういったきり考え込んでしまった。
そしてやがて好夫を睨むように問いただす。
「行く当てはあるんかいな?」
好夫は顔を真っ赤にして何も言えなくなった。
「はぁ・・その、繊維の仕事で・・・」
「ほう、あんたは糸偏の仕事をしておるんかいな、その当てが神戸にあるんやな」
「いえ・・」
その好夫の言葉に驚いたのは悦子だ。
「あんた、当てもなくこの列車に乗ったの??」
「いや、そんなことはないんや」
悦子はうつむいてしまい、涙を流しているようだ。
列車は大垣駅の複雑な構内配線を抜け、やがて東海道線本来の速度へ加速していく。
「ほう、仕事が決まらへんのに、神戸へ行くんか」
「いえ、僕には繊維の仕事では自信がありますから」
「ほう・・そやけど、まだ何も決まってないんやろ」
壮年がそういうと好夫は肩を落とした。
壮年が続ける。
「ワシは名古屋へ織機を見にいっとったんや」
「織機・・ということは紡績の会社ですか?」
好夫が顔を上げる。
悦子はうつむいたままだ。
「そうや、神戸の先、兵庫県の高砂市で繊維会社をやっとる・・」
窓の外には燈色のさして明るくない車内の風景が反射するだけ。
時折、機関車の警笛が鳴る。
この辺りはつい先だって、電化されて蒸気機関車から電気機関車になったばかりだ。
ガクン、軽いショックで列車は関が原への上りにさしかかる。
レールジョイントが規則正しく車内に広がる。
乗客たちの息や酒、煙草や水虫の匂いが、蒸気暖房の湯気に煽られてかえって際立つかのように広がる夜汽車の車内だ。
向かい合わせの座席に二組の窓、天井の真ん中の燈色の照明。
窓の外では雪が横に走る。
「なぁ、君、もし、まだ行先が決まってないんやったら・・うちへ来んか」
唐突に壮年が好夫に問いかける。
「あなたの会社ですか・・・」
「この列車は朝には神戸を通って西へ行く・・明石を通って加古川という大きな駅がある」
「加古川・・」
当時の繊維産業では加古川には日本毛織の大きな工場が二つもあり、よく知られた町だった。
「ああ、その駅の次の駅が宝殿っちゅう駅や、わしはそこでタオルを織る会社をやっとんや」
「ほうでん・・」
「宝、それから殿様の殿、それで宝殿、縁起の良い駅名やろうが」
壮年はそこで笑った。
「あ・・他のお客が寝とるわい・・小さな声でな」
そういうと今度は悦子が俯いたままクスクス笑う。
「でもまだ、あなたには会ったばかりですし」
「何を言う、これこそ縁っちゅうもんやないか・・」
カーブが続く線路を客車の車体を軋ませながら列車は走る。
「ほんまに、ここで会ったばかりの僕でよろしいんですか?」
「ああ、今はタオルはいくら作っても売れる・・一人でも優秀な作業者がほしい・・」
「実は、僕はまだ行先を何も決めていませんでした」
「やっぱりそうか、ただ、さっき行先を神戸とはっきり言っていたと思うが」
「彼女の家が大垣近くの神戸(ごうど)で、同じ漢字やし」
「それだけのことかいな・・彼女はそれを知ってついてきたんか?」
悦子が顔を上げた。
「いえ、騙されました」
そう言って笑った。
まだ目に涙のあとがある。
「神戸に当てがあるものと思っていました」
「それはひどい・・」壮年が好夫を睨み付ける。
「ワシは、竹中繊維の竹中政造や」
そういいながら名刺を上着の内ポケットから出して好夫と悦子に渡す。
「私にまでお名刺を・・」
「あんたの惚れたこの男は、とんでもないええ加減な人間や・・何かあったら即ワシに言うてな」
そして好夫のほうを向き、「人生、女を連れてまでええ加減なことはしたらアカン、あんたはワシのところですぐに働くんや」
 
列車が減速をする。
雪で滑るのか、連結器の衝撃が大きい。
山間の小さな駅に停車した。
関ケ原と、駅名が粗末な照明に照らされている。
数人の乗客がおりていった。
「あんたの名前を教えてもらわんとな」
「はい、窪木好夫、こちらは妻になる予定の悦子です」
「そしたら、わしのところで明日から、いやもう、日付が変わったな・・今日からや・・働く、それでええか・・」
「はい、お願いします」
「住宅は事務所の横の部屋が空いとるさかい、そこを使うてくれ」
「なにからなにまで・・」
機関車の警笛が鳴る。
ガクンと衝撃が響き、列車は加速する。
客車の二枚並んだ窓の向こうに雪原が広がる。
  
「ちょっと社長さん、彼女とデッキで話をしてきます」
好夫は竹中に頭を下げる。
「ああ・・二人ゆっくり話しときや・・話が済んだらこの席に戻っといで」
「はい」
客室の、寝入っている乗客の間をすり抜け、デッキに出た二人は客室よりもっと粗末な照明の下で向き合った。
「たわけ・・」
そう切り出したのは悦子だった。
「すまん」
「あんたを信じてついてきたのに、なんも行先も決めとらんって、信じられんわ」
「すまん・・一応、僕には仕事の自信もあったし」
「そやけど、そしたら神戸に着いたらどうするつもりやったん」
「いや、それは取りあえず・・」
「とりあえず、二人でぶらぶらするお金なんかある?」
「いや、ない・・・」
「もし、あの社長さんに出会えんかったら、えりゃあことになりよったんや」
雪の降りしきる外界と遮るたった一枚のうすい木の扉の隙間から冷気が飛び込んでくる。
「たわけ・・」
そういったきり、悦子は好夫の懐に飛び込んできた。
「あんたはたわけや」
「すまん・・・」
列車は未明の雪原を西へひた走る。
二人にとってお互いの身体の暖かさ、何が何だかわからぬが、それさえあれば生きていけると二人が身体で感じていた。
門司行き普通、111列車は走る。
 
「宝殿は7時25分ということや、それまでせいぜい寝とかんとな」
列車の揺れによろめきながら通路を歩き、座席に帰った二人を竹中は笑顔で迎えてくれた。
 
 
(昭和30年代初期、この111列車は前日の14時30分に東京を出て、東海道線を各駅に停車しながら、大垣に0時26分着28分発、岐阜と米原の間は大垣と関が原だけに停車するが、米原からまた各駅停車となり、神戸6時15分、加古川7時18分、そして門司には22時01分着という今では考えられないのんびりした列車だった。
もっとも、京都・明石間の関西の国電区間では、大阪、三宮、神戸、須磨だけに停車していた。京都・神戸間1時間55分、大阪・姫路間2時間ちょうど、今の新快速はおよそ、その区間をそれぞれ半分程度の所要時間で結んでいる。)
 
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