story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

ルミナリエ

2007年12月17日 22時08分03秒 | 小説

クリスマスはイエスキリストの降誕の日だと言われているが、どうもこれはローマ帝国において冬至の日を「太陽の誕生の日」として祝っていた事と合わさり、実際は1月の初めだったイエスの誕生をこの日としたものらしい。

イエス・キリストの人生は苦難の連続だった。
それは彼の誕生のときからして苦難を予想させるものだったようだ。

ローマ王の命令により、戸籍調査ということで、すべての国民は生まれ故郷に帰らなければならない。

ヨセフとマリア夫妻もまた、生まれ故郷のベツレヘムに戻る旅をしていたが、マリアは既に臨月だった。
ベツレヘムの町に到着し、身重のマリアの体を気遣いながらヨセフは泊まる事の出来る宿屋を探した。
けれども、町は故郷へ戻ってきた旅人であふれ、どこの宿屋にも二人が泊まる部屋はなかった。
唯一、馬小屋なら空いているよ・・
そう言ってくれた宿屋があり、彼ら夫妻はそこに泊めてもらう事になる。

いくら中東のイスラエルとはいっても冬の夜だ。
寒く、暗い馬小屋。
そこで、突然、マリアは産気づく。

体を温めるものはあったのだろうか・・
赤ちゃんが産まれるときに必要なお湯はたくさんあったのだろうか・・
マリアにとっては心細く、ヨセフにとっては妻がこんな場所でお産をするような事になる不甲斐なさを味わったのではないのだろうか。

生まれてきた子供を暖め、包むようなものはあったのだろうか。

クリスマスイブの夜を光で満たし、暖かくして祝うのはイエスとイエスの両親の辛い一晩を信者たちが思い起こし、少しでも多くの光と暖かさで包み込む事で祈りを捧げるのがその原点だったと言う人もある。

けれども、ヨセフとマリアが味わった苦難の先には赤子の誕生と言う明るい未来が見えていた筈だ。

1995年1月17日・・神戸。

夜明け前の町を襲った地面の揺れは、一瞬にして町から光や暖かさを奪い、多くの建物を押しつぶし、そして多くの人が命をなくし、多くの人が怪我をした。
何が起ったのか、わけが分からない人々を包み込んだのは漆黒の闇と1月の明け方のあの寒さ、そして、悲鳴以外は何の音もない寂しさ・・だった。

僕の同僚であった幸子(仮名)は、この朝、サービス業の忙しい連休明けとあって、自宅の2階で寝入っていた。
普段ならそのまま昼過ぎまでたっぷり睡眠をとって、遅く起きた彼女へ母が呆れたように笑顔を返す筈のその夜明け前のことだ。
突然、彼女を襲ったのは天井に叩き付けられるような激しい揺さ振りだった。
天井から床の布団の上へ・・
ばらばらと部屋中のものが落ち、何かが壊れていく音がする。
「何・・これ・・止まって」
そう願いながら、本能的に身体を丸くする以外になす術もなく、彼女は揺れに任せるしかない。
そして、一気に床が地面に向けて落ちていくようなこの世のものとは思えない異様な感覚。
次の瞬間には押しつぶされた2階の床ごと、地面に叩き付けられていた。
数十秒の揺れが収まった。
屋根が落ちてきたわけではないから彼女は無傷だった。
隣の部屋で寝ていた兄から「大丈夫か!」と叫ぶ声が聞こえる。

「何があったの・・」
「わからん・・」
真っ暗な部屋。
物音一つしない町。

「お父さん、お母さんは・・」
厭な予感がした。
手探りで窓から外に出る。すぐそこは地面だ。
「お母さん・・」
やがて兄も窓から出てきた。

彼らきょうだいの両親は1階で就寝していたのだ。
闇の中ででも、シルエットでそれと分かる崩れはてた自宅。
幸子の背中に強烈な悪寒が走った。

「ぺしゃんこ」という言葉がそのまま当てはまる自宅1階。

「お母さん!お父さん!」
叫べども返事はなく、周囲では家族を呼ぶ人たちの声が冷たい風に乗って流れる以外は、何の物音もしない都会の真ん中だ。

やがて、オレンジ色に染まった恐ろしい炎があたりを包み込むのに、それほどの時間はかからなかった。

その年の12月。

突然、飛び込んできた「ルミナリエ」と言う言葉。
駅の広告で見た不思議な形に、僕は何となく、それを見に行きたくなった。

僕は妻と2歳9ヶ月の娘、それに加古川市に住んでいる僕の母を伴って出かけた。
元町駅からの長い行列は、それでも当時は一直線に旧居留地を目指し、中華街の向かいの大丸の脇で見事な光の門が僕らを迎えてくれた。

キリスト教をイメージさせる柔らかい音楽の流れる中、明かりに包まれた僕らはゆっくりと歩いた。
身体中が光りの暖かさに包まれて行くようだ。

神戸の中でももっともお洒落な通りだった筈の旧居留地は、未だ工事現場のような鉄の塀ばかりが目立ち未だ商業地の体をなしていないように感じたけれども、光の回廊はまさに夢のようで、寒さも忘れるほどの暖かい感覚だった。
娘を肩車して歩いていると、訳もなく涙が流れる。

あの震災で何人もの友人やその家族を亡くした僕には、この光はまさに暗闇の中で亡くなっていった彼らへのメッセージであるように確かに受け取れたのだ。

それは、イエスキリストの淋しい生誕を、後の信者たちが明るく暖かいお祭りに変えていったその古事と重なって見えたのだ。

生きなければ・・
何としても、生きなければ・・
僕はそう誓った。
確かにその時、そういう気持ちになったのだ。

僕もまた、震災を味わっていた。
けれども、自宅が裂震を記録した地域からはやや離れていたので、建物が崩れる事はなく、こうして家族一同、無傷でこの光を眺める事が出来る。

不思議にあの地震で生き残れた事への感謝と、亡くなった人たちへの思いとが入り乱れ、涙がとめどなくあふれ出る。
僕は仏教徒ではあってもキリスト教徒ではない。
でも、その僕が、この光の祭典を企画した人たちが、回廊を光の教会のようにイメージした事に素直な感動を覚えた。
クリスマスを光と暖かさに溢れたお祭りに変えたその感覚こそが、あの、冷たく暗い朝になくなった人たちの霊を鎮め、生き残った人たちに生きようとする勇気を与える唯一にものではないかと思えたのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする