story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

心の奥にあるもの

2005年06月25日 18時38分00秒 | 小説

この作品は、少しは鉄道と関係のある人生を生きている僕にとっての、尼崎脱線事故へのレクイエムです。
公開することにためらいはあるのですが、鉄道の安全を願い、亡くなられた方々へのご冥福をお祈りするとともに、事故により様々な影響を受けられた全ての方々の一日も早い回復を祈念し、あえて公開させていだくくことにしました。

************************

4月25日 
美奈子は勤め先の神戸メリケンパークにあるホテルに居た。
彼女の仕事は、このホテルでの介添係だ。
46歳、和服を着ると、もともと美しい彼女だが、それでも一層華やかな風が彼女の周りを舞うようだ。
和服とは言っても派手なものではない。
あくまでも接客のための、萌黄色の特に派手な柄もない色無地の、ホテルの制服の一種ではある。

今日は月曜日だが、婚礼が一件だけあった。
理髪店を営む家同士の婚礼で、月曜日でないと家族も、親族も仕事関係者も集まることの出来ない人たちだった。
花嫁はまだ二十歳すぎたばかりの初々しさ、新郎は背の高い、おしゃれな青年だった。
美奈子は今、花嫁を案内して、写真室に送り込んだところだった。
しばらく、ここで待っていれば撮影はすぐに終了するだろう・・

写真室前の通路に、大きな窓から外の明るい光が差し込んでいる。
普段はじっと待機している彼女だったけれど、今日の婚礼はこれ1件だけ、平日とあって、ホテルの中も閑散としていた。
美奈子は、明かりに誘われるように、窓辺に近づいた。
海が輝いている。
風はあまりないようだ。

クルーズ船が係留されているその脇をタグボートが小波を立てて進んでいく。
海・・どうしてか、海を見ると懐かしい思いがする。
優しい、暖かさがとてつもなくいとおしく、子供の頃に帰ったような気がする。
けれども、彼女にはある程度から以前の幼少の記憶がないのだ。
出生地は神奈川県であることは知っていたけれど、それは知識としてだけで、実際にその町の記憶は彼女にはなかった。
ただ、海、それも港の景色を見ると、何故だかとても懐かしく思えるあたりに自分自身でも分からない不思議なポイントがあるような気がしていた。

新郎新婦の撮影には結構手間取っているようだった。
まだ写真室の扉は開かない。
海の輝き、そして、係留されているクルーズ船の窓が陽の光を反射したそのとき、心の奥で何かが沈んでいくような恐怖感が襲ってきた。
何だろう・・そう思うまもなく、恐怖感は苦しみに、そして得体の知れない大きな哀しさに変わっていく。
窓の外は明るい港の景色・・
怖くなり、哀しくなるようなものは何も存在しない。
「どうしたのかしら・・」
小さな声で独り言を呟いてみる。
心臓の底が抜けたような、足元が抜けたような、宙に立つような不思議な気持ちになる。
哀しくて、涙がまさに流れ出るそのとき、写真室の扉が開いた。
「お疲れ様でございました。行ってらっしゃいませ」
写真室の助手の男性が元気よく、新郎新婦を送り出している。
「お疲れ様でございましたわね・・それではお控え室に参りましょう・・」
美奈子は姿勢を正し、きちんとお辞儀をして二人を誘う。
涙は流れる時を失ったようだ。

美奈子は今朝の婚礼の開始時間が早く、朝7時にはホテルに出勤していたので、婚礼が終了した午後3時には退社時刻となった。
ロッカールームで、和服を脱ぎ、いつもの長い目のスカートとブラウスに着替え、さっぱりとした風で、彼女はホテルの従業員出口から外に出た。
「おつかれさん!」ちょうど料飲部の部長が入れ違いに入ってくるところだった。
「お先に失礼しますわね・・」
美奈子が軽く礼をし、出ようとすると部長は立ち止まってこう言った。
「えらい事故があったね・・知らない?」
「ええ・・」
「尼崎で大事故だよ・・」
大事故・・胸騒ぎがした。

元町駅からの電車はひどく遅れていた。
それでも、彼女は数分待って電車に乗り込んで、自宅を目指した。
町を抜けると海が見える。
やはり哀しさが少し湧き上がってくる。
「宝塚線事故のため、電車に遅れが出ております。誠に申し訳ございません」
車掌のアナウンスが時折流れる。
事故という言葉を聞く度に胸の奥が抜けたような気持ちになる。
彼女の自宅は、塩屋駅から山の手に10分ほど歩いたところの小さなマンションだ。
美奈子には、お見合いで結婚した三つ年上の夫と一人の娘があった。
夫は小さな商社に勤めており、娘、美香は大学生になっていた。
「まだ、誰も帰っていないでしょうね・・」
そう思い、自宅の扉を開けた。
明かりをつけ、何気なくテレビのスイッチを入れる。
購入したばかりの、大き目のテレビの画面に、くしゃくしゃになった電車が映し出されていた。
「あ・・この電車・・」
美奈子はその画面を見つめた。
涙が溢れ出る。
自分でもなぜかわからない。
くしゃくしゃになった銀色の車体、忙しく動き回る大勢の人々、いくつもの電車が線路を外れ、重なっているようにも見える。
「これ、なに?・・・」
自分でも思いもよらぬ感情が湧き出る。
胸が痛い。
今朝の事故は彼女にとって知らない町での話だ。
けれども、彼女は、この映像を見たことがある・・
銀の電車・・違う・・銀ではなく、しろっぽい車体・・いや、白だけでもなく濃い色もあった・・ツートンカラーのスマートな電車・・
彼女の頭の中で何か開けてはいけない扉が開けられていくような、そしてそれは入っていってはいけない世界のような気がした。
美奈子はテレビの前に座り込んで、声を上げて泣きはじめた。
涙が止まらない。
自分が何故泣くのかが、よく分からない。
「助けて・・助けてあげて・・」
嗚咽が止まらない。

しばらくして扉が開く音がし、娘の美香が返ってきた。
「お母さん!どうしたの?」
美香は、泣いている彼女を見て驚いている。
「だめ・・だめ・・・助けてあげて・・」
泣きじゃくる美奈子の前のテレビ画面では繰り返し、電車の脱線事故の映像が流れている。

夕食の用意は娘の美香がした。
美奈子はあのまま寝込んでしまった。
時折、すすり泣く声が聞こえる。
「どうして、自分と関係のない事故が、あんなに悲しいのだろう・・」
美香には理解できなかった。
リビングのテレビは消してしまった。
変わりに、穏やかなフォークソングのCDが流れている。
美奈子の好きな歌手で、少しでも母の心を楽にさせようと、美香がそうした。

夫の雄二が帰ってきた。
彼はクルマでの通勤で、電車は使っていない。
「今日の電車の事故、すごいことになったなあ・・」
そう言いながらリビングに入ってきた雄二に、美香は静かにというしぐさをして見せた。
「どうしたんだい?」
声をひそめて雄二が訊く。
「お母さん、あの事故の報道を見てから変なの・・」
「何でだろう・・・知り合いの人が乗ってたのかな?」
「そうじゃないみたいよ・・」

夕食の支度が出来たので、美香は母が寝ている部屋を覗いた。
美奈子は布団の上に座っていた。
「お母さん、もう大丈夫?」
美香の問いに美奈子は軽く頷く。
「じゃあ・・ご飯にしようか・・」
「ありがとう・・音楽まで流してもらって、すっかり気持ちが落ち着いたわ」
「よかった・・」
美奈子は案外、毅然と立ち上がり、リビングへ入っていった。
「どうしたんだい?何かあったの?」
雄二が訊く。
「おかえりなさい・・もう大丈夫よ・・だけど・・」
「だけど?」
「そうね・・テレビをつけてくれる?」
美香が慌てて遮った。
「お母さん、今はまだ、見ないほうが良いの・・」
「もう大丈夫だから・・」
雄二がテレビのリモコンを操作した。画面に明かりがともる。
バラエティ番組が流れている。
「ニュースにして」
美奈子の言うままに、雄二はこの時間にニュースをしているNHKに変えた。
電車事故の映像が流れている。

昼間にヘリから撮影したらしい上空からの映像・・
建物に張り付くようになって、折れ曲がっている銀色の車体。その脇に大破した別の車体。
いくつもの電車が、模型の箱をひっくり返したようになって、散らばっている。
「あたしね・・この映像と同じような映像を、ずっと昔に見たような気がするの・・」
「この映像・・」
雄二が少し好奇心を掻き立てられたようだった。
美香は母がまた泣き出さないか、気が気ではない。
「電車は銀色ではなかったわ・・スマートな、白と、何か濃い色の電車・・」
「なにか、そういう写真をどこかで見ただけなのではないかい?」
雄二が訊く。
「うううん・・それが、あたしにはどうもすごく、辛い映像だったように思うの」
「辛い映像・・」雄二が腕を組んで考え始めた。

「ご飯食べようよ!折角作ったんだからさ・・」
美香が話題を遮るように、テーブルに食事を並べ始めた。
雄二の手元においていたテレビのリモコンを取って、さっとチャンネルを変えてしまった。
「美香ちゃん、あとでインターネットで調べてくれないかな?」
美奈子は落ち着いた口調で美香に訊く。
「何を調べるの?」
「だからさ・・昔にあった電車の事故・・」
美香は返事に困り、そのまま食事を始めた。
家族三人の言葉のない食事になった。
テレビにはお笑い芸人の馬鹿笑いだけが映っていた。

食事の後片付けをして、美香は自分の部屋に入った。
母、美奈子もついて入ってきた。
「本当に見るの?」
母は頷いた。きれいな瞳をしている。
パソコンのスイッチを入れ、立ち上がったパソコンでインターネットに接続し、検索欄に「電車 事故」と打ち込んだ。
項目はいろいろ出てくる。
もう、今日の記事が出ているものもある。
けれども、的を得ない。
「鉄道事故としたらどうかしら・・」横から美奈子が口をはさむ。
「鉄道 事故」と打ち込んでみた。
鉄道事故史のようなページがたくさん出てくる。
そのうちの一つを開けてみた。
「三河島事故」「桜木町事故」「八高線事故」「鶴見事故」
「事故が多かったのねえ・・」美香が思わず溜息をつきながら、その画面を見ている。
再度、検索欄に「三河島事故」と打ち込んでみた。
ヒットした記事がこれも多い。
そのうちの最初の方の一つを開けてみた。
「あ・・」美奈子が声を出す。
モノクロ写真で、濃い色の電車が折り重なり、あるいは線路から大きくはみ出した上空からの写真が出てきた。
「これ?」
美香が美奈子に訊く。
「こんな感じよ・・かすかに覚えているの・・でも・・」
「でも?」
「電車がもっとスマートなの・・」
続いて検索エンジンに「鶴見事故」と打ち込んでみた。
やはり、たくさんのページが出てくる。
一つのページを開けた。
「あ・・これ・・」
電車が折り重なり、先ほどの写真と似た写真だが、電車の車体がツートンカラーになっている。
モノクロだから色は分からない。
「この写真・・もっと大きく見たい・・」
美奈子の求めに他のページを開ける。
画面いっぱいの事故の写真と、詳しい解説が出ていた。
そのページには、他の角度から撮影した様々な写真が詳しく出ていた。
美奈子は食い入るように見つめている。
「昭和38年11月9日、21時50分、東海道線、鶴見・新子安間で貨物線を走行中の貨物列車が突然脱線し、となりの東海道線上り線を支障した。折り悪く、上りの普通電車がこれに接触、先頭車両がちょうど通りがかった下り普通電車に突っ込んだ」
そのページの解説はその先、詳細に渡り、破壊された電車の様々な角度からの写真も添えられている。
美奈子も美香も食い入るようにパソコンの画面を見つめている。

「鶴見・・鶴見って・・・」美奈子は呆然とした表情で美香に聞いた。
「横浜みたいね・・お母さん、神奈川でしょ・・生まれたの」
「うん・・でも・・住んでいたのは・・鎌倉の方だったらしい」
「お母さんが五歳の頃ね・・」
五歳、鎌倉、横浜・・鶴見・・ツートンカラーの電車・・
美奈子の頭の中で何かが回り始めた。
「東海道線を走行していた下り横須賀線電車・・意味がわからない・・」美香がパソコンの画面に向かってつぶやく。

「何してるの・・何か分かったかい?」
雄二が様子を見に来た。
「お父さん、東海道線を走行していた下り横須賀線電車って・・」
「ああ・・お父さんが高校の頃までは、東海道線と横須賀線が同じ線路を走っていたんだ」
そう雄二が答えて二人の後ろからパソコンの画面を見つめた。
雄二も神奈川の出身だった。大学を卒業し、神戸で就職した。一人暮らしで頑張っている雄二に上司が勧めたお見合いの相手が美奈子だったのだ。
回りのほとんどが関西弁を使う中で、同じイントネーションで喋ることの出来る美奈子を、雄二は一目で気に入ったものだ。
「これ、昔のスカ線電車じゃないか・・」
「知ってるの?」
「ああ・・子供の頃に見たことがあるなあ・・これは・・鶴見事故か・・大きな事故があったそうだよ」
スカ線?横須賀線?鎌倉?鶴見?横浜?
美奈子の頭の中で、回り始めた何かは、少しずつ、その回転を大きくしていくようだった。
「ありがとう・・あたし、気分が悪いから、先に休むわね」
美奈子はそう言って美香の部屋を出て、夫婦の寝室へ入った。
頭がくらくらする。頭の芯が痛い。胸の奥に、穴があいたような気がする。
横須賀線、鶴見、鎌倉・・

4月27日
美奈子はあれ以来、出てきたキーワードを手がかりに記憶を探ろうとするけれども、どうも先に進めないで居た。
進めないというよりも、進みたくない美奈子の本能がそうさせるのかもしれなかった。
彼女は知りたかった。
誰でも、40代後半にもなると幼少の頃の記憶はあいまいになってくる。
だから、彼女も5歳以前の記憶がないことが不思議ではなかったけれど、他の人はもう少し小さな頃の記憶がおぼろげながらにはあるようだった。
自分の消えた記憶の場所へ・・そこへ入り込んでいくのには勇気の居ることだった。
けれども、電車事故の映像を見て、どうして自分の心に悲しみが湧きあがってきたのか、いや、それ以前に、あの日の仕事中、どうして悲しい気持ちになってしまったか・・
また、どうして、港の海が輝く景色を見ると妙な懐かしさを覚えるのか、そのあたりのことが知りたかった。

今日は休みだ。
思い余った彼女は、今は東灘区で暮らしている彼女の母親に電話をしてみた。
「どうしたの?私のことはもう忘れたかと思っていたよ」
母の、ちくりと刺す嫌味も、それほど気にせず、美奈子は訊いた。
「お母さん、あたし、五歳の頃、何があったの?」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「この間ね・・電車の事故があったでしょう・・あの事故のニュースで、なんだかとても悲しくて怖くなったの・・」
「ほう・・それはどうしてだろうね」
「でね・・そのときのニュースの映像が、昔にも見たことがあるような気がして、美香に調べてもらったのよ・・」
母は黙って聞いている。
「鶴見事故・・横須賀線電車の事故らしいのだけど、このときの写真が見たことがある気がして仕方がないの」
母はまだ黙っている。
「昭和38年11月・・何があったの?」
「思い出してしまったかい・・」
やっと母が搾り出すように言う。
「思い出すも何も、悲しくて怖いだけ、何がなんだか分からない」
「おまえの、お父さんが亡くなった日だよ」
「お父さんが?」
「そう・・鶴見の事故で亡くなったんだ」
「病気だって言ってたじゃない」
「おまえが、お父さんが帰らないといって泣きじゃくってね・・遠くの病院に居ることにしたんだよ」

母、鈴江は明日にでも、家に来て、全部話してあげるからと、電話を一方的に切った。
「お父さんが亡くなった日・・」
美奈子は、そう聞かされても判然としない。
何も思い出さないのだ。
電車の事故で亡くなったのなら、そう言ってくれれば良いじゃないの・・彼女の心に残ったものはそれだけだった。
父の顔は覚えていない。
写真が僅かに残るけれども、それは自分にとって知らない人だった。

テレビニュースで事故で亡くなった人の数が100人を超えたという報道がされた。
彼女の胸の奥がぐっと痛くなった。

4月28日

美奈子の母、鈴江は美奈子が今日は出勤だったので夜にやってきた。
70歳を超え、一人暮らしをしているが、新興宗教に凝っていて、結構にぎやかに暮らしている。
美奈子は母の賑やかさが、疎ましくもあり、仏典だ経典だとの話を聞かされるのも嫌で、自分の母ながら、あまり頻繁に行き来をしているわけではない。
雄二・美香もある面では鈴江を疎ましく思ってはいるけれど、宗教の勧誘以外ではお人よしの、孫をやたら可愛がる、良いおばあちゃんには違いなく、ある面では鈴江が来るのを心待ちにしている部分もあった。
みなが揃って食事をする、そのとき、美奈子が切り出した。
「おばあちゃん、教えて・・」
美奈子は美香が居る前では鈴江を「おばあちゃん」と呼ぶ。
「ご飯が美味しくなくなるから・・あとで・・」
「大丈夫・・ちゃんと聞けるから、今教えてよ」
「おいおい、おばあちゃんの言うとおりだ・・あとにしようよ」
雄二もそう言ったけれど、美奈子は譲らない
「早く聞きたいの!」
「仕方がないわね・・」

美奈子の父、昌平は、東京、日本橋近くの小さな商事会社で働いていた。
昌平の仕事はいつも手一杯で帰りが遅く、帰宅をするのに、東京駅で毎日9時過ぎの電車に乗るのがやっとだった。
それでも、娘を、妻を愛した昌平は、休みの日にはよく港へ海の景色を見せに家族を連れ立って出かけていた。

その日も昌平は帰宅が遅くなった。
時折乗る時間の電車に乗った。
座っていたのか、立っていたのか、何処に乗っていたのか、全く分からない。
けれども、間違いなく昌平はあの電車に乗って、自宅を目指していた。

横須賀線で事故があったことを知った鈴江は、帰宅しない夫の安否をあちらこちら尋ねたけれども、友人のところにも、会社にも、もちろん居るわけがなかった。
翌日、警察から知らされ、現場近くの寺院に遺体を見に行った。
大勢の遺体の中に、彼女の夫の変わり果てた姿があった。
まだ5歳だった娘、美奈子は、親戚に面倒を見てもらっていたが、父親が帰らず、母親もまた出かけていったまま、周囲の異様な雰囲気から、泣いてやまなかった。
結局、父親は遠くで病院に入っているということにして、そのまま自然に受け入れるように周囲が決めたのだったが、たまたまその家にやってきた近所の男性が、新聞の写真を美奈子に見せて「お父さん、これで亡くなったんだね」と言ったことがきっかけとなり、美奈子はその新聞を離さず、しばらく凝視したあと、火がついたように泣き出した。
彼女にとって、父の乗る横須賀線は、何処の電車よりえらい電車だった。
色も茶色ではなく、白とブルーの塗りわけで、東京という大きな町へ仕事に行く父のようなえらい人をたくさん乗せる電車だった。
その横須賀線に乗って、父が亡くなった・・五歳といえど、頭の回転の速く、機転が効く少女には、厳しすぎる現実だった。
美奈子はその日から1週間以上、高熱を発して寝込んでしまった。
やっと起きて、ものが言えるようになったとき、すこし、性格が変わってしまったように、鈴江は感じた。
事故の記憶はきれいに消え去り、それは少女が生きるための本能だったかもしれない。
人はあまりにも辛い記憶は消すことが出来るという・・
少女の父は病気で亡くなった事になった。

「思い出したかい?」
話し終わった後、鈴江が美奈子に訊いた。
「うううん・・でも、少しは分かったわ・・」
「それは・・辛いことでしたね・・」
雄二が鈴江に同情するように言う。
「辛いといってもねえ・・辛さを感じることも、泣きたくなっても泣く暇もなかったからね。それからは必死だったよ・・」
鈴江が屈託ない表情でそう言う。
美香が泣いていた。
「どうしたの?」
美奈子が尋ねる。
「お母さんとおばあちゃんが可哀想・・」
泣きながら美香がつぶやいた。
「いいのよ・・私はそのことがきっかけで、今の生き方を見つけたんだから・・」
鈴江の宗教の話が始まった。

6月10日

美奈子は東京駅に居た。
あれから甦るかに見えた幼少の記憶はかえって遠ざかり、事故の映像を見ても、胸の痛みは日に日に小さくなっているように感じた。
なぜか、彼女は、その記憶を取り戻したかった。
そこで、横須賀線に乗って、どういうものか引っかかる横浜の町へ行ってみようと思い立ったのだ。
けれども、婚礼シーズンの真っ只中でチーフである彼女が、関東への旅行をする時間を生み出すのには思いのほかに時間がかかってしまった。
新幹線で東京に行き、横須賀線で横浜に行く。出来ればその後、自分が生まれ育った鎌倉の町を見てみたいと思った。
日帰りで出来ない旅行ではなかったけれど、慌しい時間の流れの中では、何かを見つけ出せるかどうかは分からなかった。
美香も雄二も付き合ってくれるということだったけれど、彼女は自分ひとりで行ってみたかった。
自分の心と、何かをぶつけてみたかった。

東京駅で新幹線を降りたときは既に昼前になっていた。
美奈子は忙しそうな駅員に聞いた。
「横須賀線で横浜に行きたいのですが・・」
駅員は気もせくという感じで、早口でこたえた。
「横浜なら、湘南電車・・東海道線が速いです、7番8番乗り場へどうぞ」
「いえ、あの、横須賀線で行きたいのですけれど・・」
「横須賀線・・戸塚の方ですか?」
「ええ・・」
戸塚がどこか知らなかったけれど、彼女はそう答えた。
「じゃあ、地下の総武線横須賀線乗り場へどうぞ・・」
「地下ですか?」
「ええ・・何か?」
駅員は不思議そうな表情をしたまま、そっぽを向いてしまった。
人込みの中で美奈子は地下への道を探した。

通路を歩き、エスカレータを乗り継ぎ、地下鉄の駅のようなプラットホームについた。
しばらくしてやってきた逗子行き電車の銀色の車体や、中ほどの2階建ての車両を見ても何も感慨が湧かない。
電車に乗り込んでみたものの、長いシートが壁にそって置かれているだけの、普通の電車の車内からは、彼女が小さな頃にえらい電車だと思っていたという面影は全く湧かなかった。
美奈子はドアのところで立って、外の景色を見ることにした。

電車は地下を走る。
やがて地上に出て、品川駅に停車し、電車は速度を上げる。
新川崎という駅に停車した。
ここまでの窓の外は新幹線の線路やら、普通の住宅地やらで、やはり何の感慨も沸かない。
新川崎を出た電車は、次が横浜だという。
カーブを曲がる感触、たくさんの線路が入り乱れる鉄道の風景、すれ違う様々な色の電車・・
そのとき、一瞬だけ、胸が痛くなった。
「ここ?」
そう思ったものの、慌しい走り方をする電車の車窓からの眺めは、すぐに胸の痛みを薄くしてしまう。
あっという間に電車は横浜駅に着いてしまった。
鶴見がどこかほとんど分からなかった。
けれども、多分、ほんの一瞬だけ胸が痛くなったあたりのような気がした。

仕方がなく、美奈子は改札を出た。
出るときに、脇の窓口に居た駅員に横浜港への道を尋ねた。
「横浜港ですか・・港のどのあたりへいかれますか?」
「公園かそう言うものがあるところ・・」
父が彼女を連れてよく港の公園で遊ばせたという話を思い出した。
「じゃあ、山下公園ですかね?」
「さあ・・」
「だったら、その先の、みなとみらい線で、元町・中華街駅で降りたら分かりますけれど」
彼女は礼を言って駅員が指差した方向へ向かう。
表示に従って階段を下りる。
渋谷方面と書いてあるのが違和感を覚える。
全く知らない外国を歩くようだ。

銀色の、いかにも都会の電車という感じの電車に乗って、終点で下車した。
「元町・中華街」という、聞きなれない駅名・・
人の流れに沿い、山下公園の表示のあるほうへ向かう。
長い通路を歩き、ようやく外に出た。
潮の香りがする。
蒸し暑く、けれども軟らかい風が吹いている。
観光客らしい人の群れについて、歩いていく。
潮の香りが強くなった。
目の前に、いかにも海辺の公園という感じの公園が現れた。

道路を横断し、平日なのに人がたくさん居るその公園に入っていった。
海がある。港が有る。
大きな船が係留されている。
神戸港を良く見ている彼女でも見たことのない大きな客船だ。
岸壁の、柵にもたれかかり、ぼんやりと白くかすむ空の下、やわらかい光をはねかえす波を眺める。
白い、きれいな客船が沖に浮かんでいる。
小さなボートが勢いよくその前を横切る。

潮の香り、海の風・・
涙が突然出てきた。
公園の芝のうえで走り回る自分が居る。
小さな小さな、4,5歳ころの自分がはしゃいでいる。
父と母が、おろおろしながら見守ってくれる。
大きな船がゆっくりと動いているのを見て、「ふね!ふね!」と叫ぶ。
母が作ってくれたおにぎりを頬張る
父は屈託なく、芝生に座り込んで笑っている。
「お父さん!」
叫んだ。
海は穏やかで、蒸し暑さも軟らかい風が流してくれる。
父の顔がはっきりと瞼に浮かんだ。
笑顔だった。
横須賀線の電車の駅から出てくる父の姿・・
母と、よく駅まで父を迎えに行ったことまで思い返される。
涙でかすんだ美奈子の目には、横浜港の景色が優しかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失恋のあと中華飯店

2005年06月10日 18時15分00秒 | 小説
僕は雨に打たれながら、あてどなく歩いていた。
尚美と別れた三宮から、呆然と、ただ、歩いていた。

尚美に、三宮へ出てきて欲しいといったのは昨日の僕だ。
彼女の携帯電話に電話をして、留守番電話に何度もメッセージを録音し、それでも彼女の肉声が聞きたくて、また、何度も電話をした。
肉声は聞くことが出来なかったが、今日、仕事中、顧客との打ち合わせ中に彼女からの返事が僕の携帯電話の留守番サービスに入っていたのだ。
午後6時ちょうど、阪急東口改札前・・

仕事を繰り合わせ、僕はそこへ急いだ。
彼女は、一人ではなかった。
同僚の女性と、別に男性が一人、そこに来ていた。

促されるままに、居酒屋へ入ったけれど、彼女の視線は厳しかった。
「あたし、もう、気持ちが決まっているから、今日は最後のつもりだからね・・」
そう言いながら、僕を睨みつけた。
「ほんまに・・最後か?」
「そう・・・あなたも、中途半端は嫌でしょうから・・」
そう言って、尚美は酒をあおった。
「ねえ・・純さん、尚美さんの気持ちも理解してあげて・・」
横にいた尚美の同僚、恭子がたしなめるように僕に言う。
「僕の・・僕の気持ちは・・あかんのか?」

「純一さん・・」
僕が見たこともない、僕よりはるかに年上の男性が、さっきからこの二人にくっついてきていた。
「実は、尚美さんは私と、将来を決めているのですよ」
尚美は横を向いたまま、酒を飲んでいる。
「あなたは・・なんで、ここにいるのですか?」
僕の質問(彼の言ったことを僕は理解できていなかったのだ)を聞いた彼は苛立たしげに強くこう言った。
「ですから・・私が、彼女のフィアンセなんです!」
「フィアンセって・・そんな・・僕には何も言わなかったやないか・・」
尚美が煙草をくわえる。煙を吐き出す。
「あのね・・あたしにとって、あなたは友達なの!なんで友達に一々、言わなきゃいけないの!」

そこから、どういう会話になったかは、よく思い出せない。
ただ、やたらと酒を飲んだ気はする。
金を払ったのか、誰かに出してもらったのかも覚えていない。
フラッシュのように、彼女達が店の前から去っていき、それを僕が見送った風景が頭の中に残っているだけだ。

気がつけば、僕は随分と三宮から離れた諏訪山あたりまで来ているようだった。
小雨がずっと降っている。
傘は持っていない。
背広も何もかも濡れてしまっていた。
哀しいと言うのではない。
こう言う結果があることはずっと前に予感できた。
けれども自分でそれを否定し続けてきた。
尚美は僕の想いは知っていたはずだ。
けれども彼女は僕を拒むことなく、いつも、普通に受け入れてくれた。
僕はそれを、彼女なりの僕への愛だと思っていた・・いや、思うことにしていた。

ふと見ると、住宅の明かりだけの街中で、ひときわ明るい、オレンジ色の看板が見えた。
僕はフラフラと、昆虫が明かりに集まるように、その看板へ近づいていった。
「大明飯店」
看板にはそう書いてあった。
中華料理屋らしい・・それも庶民的な、神戸にはよくある小さな店のようだ。
表には手書きでメニューが記してあった。
五目汁蕎麦600円、焼蕎麦700円、焼餃子300円、鳥唐揚700円・・
大雑把にかかれたメニューは決して食欲をそそるものではないけれど、僕はただ、暖かいものが欲しくなってその店のアルミ製の質素な扉を開けた。

「あいよー!いらっしゃいませ!」
妙なイントネーションの主人がカウンターの向こうから声をかけてくれた。
「あらら・・びしょ濡れね・・傘もってないあるか?」
「ごめん・・椅子を濡らしてしまったね・・」
「ああ・・気にしないあるよ・・それより何か、暖かいもの、お出ししましょうか?」
主人は中国人のようだった。
メガネの奥に心底の笑顔が見えたような気がした。
「五目汁蕎麦・・それとビール」
「あいよ!五目汁蕎麦ね!ビールは冷蔵庫から取ってくれるかな?」
カウンターの横にビールの冷蔵庫があった。
僕は自分でそこからビール瓶を出し、横の棚からコップを取った。
自分でビールを注ごうとしていると、さっと主人が小鉢に入れたザーサイを出してくれた。
店の隅の上の方に棚がつくってあり、テレビが置かれていた。
そのテレビでタレントの出る法律相談の形をとったショーが流れていた。

ありがとう・・そう呟きながら、僕はビールを一杯、一気に飲み干した。
店の中は質素なつくりだった。
「どうして濡れていたのかな?・・なにか・・そう・・哀しいことでもあったかな?」
主人はなにやら炒め物をしながら、聞いてくる。
「哀しいこと・・うん・・」
「なに?」
「女に振られた」
「おお!」
主人は大袈裟な身振りをして、すぐまた、調理をしながら叫んだ。
「それは悲しいあるね・・辛いでしょ・・」
「うん・・」
僕はなんだか可笑しくなってきていた。
この人はこうやって、やってくる客と毎日、話をして生きているのだろうか・・
「でもね・・哀しいこと・・これ、人生の塩味ね。今度またいいときもあるよ」
僕の前には大きなどんぶりに入れられた具材たっぷりの汁蕎麦が置かれた。
一口、スープを飲んだ。
暖かさと塩味がすんなり喉に入ってくる。

そのとき、扉が開き、男が二人、入ってきた。
「こんばんわ!」
「あいよー!こんばんわ!いらっしゃい!」
常連の客らしい・・常連客が来て主人と喋りだすと僕の居場所がない・・ふと、そう思った。
けれど、そのまま蕎麦を食い続けていた。
「マスター!僕も汁蕎麦!」
「じゃ・・俺も!」
「あいよ!五目汁蕎麦二つね!」
人の食っているものを見て、それを注文するなんて・・僕は見本にされたようで情けなくなってきた。
「あ・・ごめんなさい!美味しそうなので、真似しちゃいました!」
一人が僕にそう言う。
おどけた感じだ。
「真似はダメだよな・・失礼」
もう一人もそう言う。
「あ・・いや・・別に・・」僕はそう答えるしかない。
「お二人はシアワセが一番の時あるね」
主人が二人に言った。
「そ!僕たちは今、最高です!」
「ホント!」
僕には意味がわからなかった。
男二人で何を言っているのだろう・・
「恋人でも出来たのですか?」
僕は意地悪く二人に聞いてみた。
「恋人?ここにいるじゃない・・」
「???」
僕が目を回していると、主人がおどけて言う。
「二人、恋人同士ね!」
「え???」
「そう、俺達、愛し合っているんだ!」
二人はそう言って、肩を組むまねをして見せた。
「それは・・・もしかして」
「そうだ・・愛にカタチはないんだ・・」
僕は納得した。
彼らの幸せそうな顔がまぶしかった。

何かを揚げる音がする。
主人は時折、中国人特有の訛りで話し掛けながら、それでも手は休めない。
二人の前にも汁蕎麦が置かれた。
そのあとに、大き目の皿に山盛りの唐揚がおかれた。
「3人で食べると良いあるよ・・これは私のおごりね」
「マスター素敵!」
「サンキュ!」
僕はビックリした。
「きょうからお兄さんも友達ね!」
僕にそう言う。
「いや・・あの・・僕は・・」
「いいよ・・遠慮しないあるね!今日は疲れたでしょ・・たくさん食べてくだぁさい」
「あ・・はい・・・」

僕と主人のやり取りを見ていた、二人の内の一人が大きな声で笑う。
「ハハハ!心配要らないって・・俺達は普通の人とはこう言う関係にならないから!あんたも、この店のお友達だってことだ!遠慮しないで頂こう!」
「そうそう・・お兄さんは、普通の恋・・女の人しかダメな人だってすぐに分かるから・・安心していてね」
店の主人も笑顔で僕を見ている。
自分がつまらないことに一瞬でも躊躇したことが情けなく思えた。
「あ・・ありがとう・・じゃ・・頂きます」
僕は手を伸ばして唐揚を口に入れた。
できたての、パリパリの衣、しっかり味がついて、軟らかい鶏肉・・これまでに食べたことのないようなうまさだった。
「お兄さん・・どこの人?」
「僕は須磨区です・・」
「へえ!遠いなあ!」
「三宮にいたのですけど・・彼女に振られて、歩いていたらここに着いたんです」
なぜか、その二人にそんなことを言ってしまった。
「永くお付き合いしたの?」
二人のうちの言葉が丁寧な方がそう聞いてきた。
「僕は・・付き合ってたつもりやったんですけど・・」
「相手はそうは思ってなかった!」
「そうです・・」
「良くあることですよね・・」
「あなた方の世界でもあるのですか?」
「あるというか・・」
そう、言ってその男はとなりの男をいたずらっぽく見た。
「普通の男と女より、俺たちの方が、その辺は、よりハードかも知れない」
「そうですか・・でも・・」
「でも?」
「今の僕は、ものすごく辛いです・・」
僕のコップにビールが注がれた。
ビックリして見ると主人が新しいビールの栓をあけて注いでくれている。
「これもおごりね!」
「すみません・・」
「雨でお客、こないね!今日はゆっくり話をしていってよ!」

時折、テレビ画面を見ながら、タレントの痴話話などを件の二人がしていた。
僕は時折その中に入りながら、ビールを呑んで蕎麦をすすり唐揚を食った。
「一つだけ、お伺いしてもいいですか?」
僕は二人に改めてそう話し掛けた。
「普通の人と、あなた方の世界の人とを見分ける方法はあるのですか?」
「ありますよ・・といっても普通の人では分からないかもしれないですね」
「あなた方は分かるというわけですか?」
「そうだね・・だいたい分かる・・不思議なもので、何故だか分かるんだな」
「そうですよ・・道を歩いていても分かる人は分かる」
「それは何なのでしょう?」
二人は顔を見合わせた。
「きっと・・本能だと思います」
「本能?」
「生きていくうえでの・・」
「あなただって、女の人の誰にでも言い寄れるわけではないでしょう・・同じことだと思うのです」
「おなじこと・・」
「人間にはもともと縁で出会う人が決まっているような気もしますね・・」
「そうだよなあ・・縁と、やっぱり生きていくうえで、この人と一緒に居たいっていう、本能かな・・」
「マスターどう思われます?」
主人は急に声をかけられて面食らったようだったが、それでも、こう言った。
「恋愛!任せてね!私、離婚2回してるからね!」
二人が笑った。
僕も笑った。
「でもね・・マスターの3人目の奥さん・・若くて美人ですよ・・」
「3人目!」
僕が素っ頓狂な声を上げると、主人は照れたようで。ちょっと顔を赤くして、頷いた。
「美人かどうか・・若いことは確かあるね!」
店の中は笑い声に包まれた。

しばらくして僕は大明飯店を出た。
雨は上がっていた。
店の主人が僕に請求した金額はあの、五目汁蕎麦600円とビール1本450円の合わせて1050円だけだった。
「また来てくれるといいあるね・・」
主人が笑顔でそう言いながら、つり銭をくれたとき、件の二人も手を振ってくれた。
「今度は新しい彼女、連れていらっしゃいよ」
「彼女が出来なくても、中華はここに来るんだぞ!」
僕も笑って手を振って、彼らと別れた。

自分が無理をして、必死で掴もうとしていたのは何だったのだろうか・・
尚美の心・・ないと分かっている彼女の心・・
けれども、彼女もまた、優しい人だったに違いない・・
男としては好きではなかった僕の求めに応じてくれることもあった・・それはきっと彼女の優しさだったのだろう。
僕はそれに甘えきって、そのまま深みにはまり込んでいた。

携帯電話のメール着信音がした。
僕は電話を取り出して、広げてみた。
尚美からだった。
「今日はごめんね、つらい思いをさせたね。でも、これからはお互いにそれぞれ、生きていこうね!」
僕は歩きながら「ありがとう!」とだけ返信をした。
夜の帳に包まれた坂道の先に、商店街らしい明かりが広がっているのが見えた。
「また・・いい子と出会えるよ・・」
僕は自分にそう言い聞かせ、雨上がりの坂道をゆっくりと下りていった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする