story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

夏、雨の日の乗客

2015年08月07日 21時55分54秒 | 小説

まるで風呂屋の湯上がり場に居るような、蒸し暑い夏の夜、いつもの駅前から女性が乗ってきた。
年のころは20代の後半から30代半ばまで、ルームミラーで拝見する限りかなりの美人だ。

薄い茶系統のワンピースがことさらに彼女の色気を誘う。

「こんばんは、どちらまで参りましょうか」
後部ドアを閉じる操作をしながら、僕は訊ねた。
バタンとドアが閉まるその音で、彼女のか細い声がかき消されてしまう。

「え・・どちらまでですか?」
すると不機嫌そうな声が帰ってきた。
「だから、奥山峠、峠の所に友達がいますから、そこで降ろしてください」
「奥山峠・・ですか・・畏まりました」
僕はそう答えてクルマを出した。

奥山峠は僕が待機している駅から北へおよそ20分ほど、距離にして10キロ超、タクシーメーターなら3800円ほどのところだが、そこは人家もない本当の山の中で、狭い県道はSカーブが連続し、峠といっても巨大な雑木の森の中、単に道路が上り坂から下り坂に切り替わるだけで、見通しは全くできないところなのだ。

「窓を開けていいですか?」
女性が訊いてきた。
クルマの中はエアコンの冷気が心地よいはずだが、時にはエアコンを嫌う乗客もある。
「どうぞ、クーラーを切りましょうか」
「いえ、そこまでしてもらわなくても結構、わたしがエアコンを好きじゃないだけで、運転手さんは涼しいほうがいいでしょうから」
文字にするとさほどでもないが、その言葉にはやや棘があるような気がする。

彼女は後席の窓を開けた。
夏の澱んだ風が入ってくる。
だが、それも、数キロも走ると田園地帯の涼しい風になってくる気がしたが、その日はどこまで走っても、窓から入ってくる蒸し暑い風は変わらなかった。
運転席のベンチレータからエアコンの冷気は僕の顔にかかってくるけれど、後席の窓から入ってくる不快な風はその程度の冷気では抗えないほどの強烈さだ。

山間部の道路へクルマが入っていく。
目の前を動物が横切る。
「キツネですね・・」
乗客に言ったわけではなく、僕がつぶやいただけなのだが、彼女はちょっと大きな声でこう言った。
「キツネに気を付けてくださいね、よくクルマに轢かれますから・・」
まるで教えてやると言わんばかりの口調だ。

夜の峠道には明かりも少なく、対向車もほとんどない。
それでも、時折ヘッドライトの明かりでカーブの先に対向車があることが分かり、その都度減速する。
これが日中ならカーブではカーブミラーで慎重に判断、対向車があることを前提で走らねばならないのだから、僕たちプロドライバーには夜の道は走りやすいということになる。

「対向車はヘッドライトの明かりで予見できても、道路上を歩く動物、特にキツネやタヌキには十分気を付けてください」
件の女性の声がかぶさる。
「分かってるわい」と言いたそうになるが、そこは心の中で堪えた。
後席の窓から夏の夜の不快な空気が流れ込んでくる。
森の中に入っているのに、今夜は格別に暑い。
雨でも降るのだろうか。

くねくねした森の中の上り坂を上り、道が頂上にさしかかる。
といっても、別に展望が開けるわけでもない、大木に囲まれたところだ。
「ここで止めてください」
「ここで・・ですね・・」
「ええ、いくらになりますか?」
「3380円ですね、領収書はお入り用ですか?」
「いえ、けっこうです」
女性は一万円札を出して、お釣りを受け取った。
ドアを開ける。
更に外気が車内に入り込んでくるわけで、蒸し暑い。

女性客がクルマを降りてからこの山の中、どこへ向かうのかが気がかりだったが、それよりも高飛車な態度の客と離れることが僕をほっとさせる。
「ま、好きにせえよ、どこで降りようとあんたの勝手やさかい・・」
そう独り言が出てしまう。
女性客の姿を探してみるがクルマの周囲にはいないようだった。
それでも、万が一、クルマを降りた乗客に接触でもしたら大変なことになる・・僕はクルマを慎重に進める・・
女性客が開けた窓を、運転席手元のスイッチで閉じて、エアコンの冷気がようやく車内に満ちてくる。
その場所ではクルマをUターンさせる余裕がないので、僕はそこから数百メートル先へ走り、渓流にかかる橋のところで何度か切り返しをして方向を変えた。

先ほどの峠のところ、ヘッドライトに照らされて二頭の犬のようなものが浮かびあがる。
茶色の体毛、太い尻尾、尖った耳・・「キツネのカップルか・・」僕はそう独り言を言いながら、そういえばさっきのあの高飛車な女性客の顔といい、着ているものの色合いといい、いや、細身の体、釣り上った目・・
さほど詳しく観察したわけではなかったが、それでもあの乗客が「キツネに気を付けてください」といたこと・・もしかしたら、あの人はキツネだったんだろうか・・と思った。

そう思うと人間とは不安になるもので、まさかさっきの一万円札が葉っぱなのではと・・クルマを一旦、道の脇に止めてルームランプを付け、彼女がくれた一万円札を取り出してみる。
それは紛れもなく本物の、一万円札だった。
「まさか、おとぎ話じゃあるまいし・・」僕は自分で自分が可笑しくなった。

数日後、大雨の夜、僕はたまたま奥山峠の先のA市までのお客を送って折り返し帰ってくる道すがらだった。
峠の手前の渓流の橋にさしかかると、ヘッドライトに動物の姿が浮かび上がった。
「この間のキツネか…」
だが、キツネは一頭で、本来なら人やクルマを警戒して道路の端によけそうなものだが、大雨をまともに受けながら、道路上をなにか自分を捨てに行くかのように歩いている。
僕はクルマをとめた。
しばらくそのキツネの姿を目で追う。
ぶらぶらと、対向車線をまるでやさぐれているかのように、大雨に打たれながら歩いていく。
「あいつ、失恋でもしたのか・・」
キツネの姿が闇と雨に紛れて見えなくなり、またクルマを動かす。
「やさぐれぎつね・・ちょっとした童話には・・ならんわな・・」
自分の発想に苦笑しながら、カーブをいくつか曲がり峠に差し掛かる。

いきなり、峠のところで手を上げて走ってくる人が見える。
まさか、こんなところでお客があるはずがない・・だが、タクシードライバーの本能、クルマを停車させた。
それは雨に濡れた女性だった。
「濡れてしまったのですが、乗せてもらえませんか」
いずれ、今夜の仕事はこのあたりで終業にしようと思っていたので、「どうぞ!」と、その女性をクルマに招き入れた。
終業ではなくとも、まさか山の中に女性一人、置いておくわけにもいかないだろう。

ずぶ濡れのその女性は細身で茶系のワンピースを着ていた。
「あれ・・あなたは、先だってこの辺りまで乗っていただいたお客さんでは・・」
「あ・・同じドライバーさんですね、ちょうどよかった、駅まで送ってください」
それにしても、頭の先から足の先までずぶぬれで、ワンピースには下着の線がくっきりと浮かび上がっている。
雨が降っているからだろうか、彼女は「窓を開ける」とは言わない。

走り出してしばらくして、「く・・く・・く・・」と嗚咽のような声が聞こえてきた。
ルームミラーで後席を見ると、女性客は腰をかがめて濡れた髪を前に垂らしているようだった。
「お客さん、大丈夫ですか?」
そう伺うといきなり、「大丈夫じゃないわよ!」と大声が帰ってきた。
「はぁ・・」
「振られたのよ!何もかも賭けてきたあいつに振られたのよ!」
そう言い放つと、その女性客は今度は大声をあげて泣き出した。
こうなってはもう、乗客との会話どころではない。

彼女は泣き続けたが、それでも、クルマが山を降り、田園地帯の交差点で停止する頃には泣き声が聞こえなくなった。
僕は、自分のポーチにいつも用意している真新しいタオルを彼女にさし出した。
「せめて、これで濡れたお顔を拭いてください」
彼女は何も言わず、タオルを受け取った。

駅に着いた頃には雨が小降りになっていた。
「ありがとうございます、3380円です」
彼女は言葉を出さず、五千円札を出した。
釣りを渡そうとすると、手を振って、釣りはいらないという仕草をした。
「タオル、ありがとう」
かすれた声で、ようやくそれだけ言って、彼女はクルマを降り、終電車の行ってしまった駅の方へ歩いていく。
もう、あの茶色のワンピースはずいぶん乾いていたようで、後ろ姿のスカートがひらひら揺れる。
その女性の後ろ姿を見ていた僕は一瞬、彼女の尻に尻尾が生えているかのような錯覚を覚えた。
「まさか・・な・・」
そう思い直したとき、彼女の姿は僕の視界のどこからも、消えてなくなっていた。
「シートカバーを交換せんとアカンな・・」
そう思いながら、後席を見ると、後席は全く濡れていなかった。
「キツネにつままれたようなって・・」
もう一度、視界の中で彼女を探したけれど、茶色のワンピースはどこにも見えなかった。

 

 

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