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story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

男から女へ

2025年04月22日 21時59分26秒 | 小説

春3月、僕、大野が運転するタクシーに駅から乗車した品のいい紳士が指示した行先は、3キロほど先にある高校だ。
道は混んでおらず10分ほどで高校の正門前に着いた。
盛装した人がたくさん、高校の門前に群がっている。
「ありがとうございました」
僕は、お客に礼を言った。
「こちらこそ、ありがとう・・今日はここの卒業式にお呼ばれでね」
男性客は少し、照れくさそうに降りて行った。
あの人は、PTA役員か、いやこの街の教育委員会か、市会議員だろうか・・男性の後姿を見ながらふっとそう思った。

卒業式・・それも高校となると僕には一つの消し難い思い出がある。

高校に入ってから同じ趣味、今でいう撮り鉄だが、そのつながりで仲良くなった友達がいた。
僕も彼、久田も鉄道同好会に所属していた。
高校1年のころに既に身長は175センチ以上、まるで少女漫画に出てくるような美形で、久田が鉄道同好会などではなく、例えばダンスとかスケート、あるいは野球のピッチャー、あるいは軽音楽などというクラブに所属していたら、それはそれは女子にもてただろうと思う、

だが、当の彼はいつも淡々としていて、嬉々としてカメラを担いで線路際へ向かうのだった。
それにしても器用な男で、写真は高校生とは思えぬ力量だったし、鉄道の知識も半端なかった。
いい写真が撮影できると彼は部室で皆に見せながら、大きな少し甲高い声で笑うのが常だった。

だが、高校3年に入るころから、久田が学校を休みがちになった。
元々、見てくれよりは頑健な質ではないらしく月に一度くらいは学校を休んでいたのだが、その頃より学校に来るより休む日の方が多くなっていった。
学校に来ても覇気なく、眠そうにしていた。
ただ、鉄道写真だけは身体の無理を押しても線路際に出かけていき、時折現れる鉄道同好会で皆に素晴らしい作品を見せるのだった。
高校3年12月のある日、寒い部室の中で、間もなく引退する車両の写真を皆に見せているとき、彼が突然、苦しみだした。
皆が心配する中、「いや、いつものことなんだ」そう振り絞るように言って、心配する僕たちを「わるいけど先に帰るね」と、付き添って帰ろうとするのを手で断り、部室を出て行った。

その日以後、久田の姿は学校にはなくなった。
といっても、高校3年となれば1月からの3学期は殆ど授業がないし、何かのイベントのときだけ学校に出てくるようになっていたから、彼と顔を合わせないのは致し方ないと思っていた。

だが、彼は卒業式にも来なかった。
担任の話では「入院しているそうだ」だったが、その病院は遠く、また、お見舞いが出来る状態ではないという事でそれ以降、僕と久田の繋がりは途絶えてしまった。

高校で乗客を降ろして、タクシーを線路に沿って走らせる。
貨物列車が一瞬並んで僕の車を追い越していく。

彼の好きだった機関車が遠ざかっていく。

ある夕、繁華街でお客を降ろした。
すぐに女性が手を挙げながら走ってくるのが見えた。
ロングヘア、長身、素晴らしいプロポーションだということは、すぐに分った。
若い女性ではない、年齢は僕と同じくらいだろうか、如何にも仕事の出来そうな経営者もしくは学者といった感じだ。
「あのすみません、大至急、ホテルSへ」
息を切らせながら女性が乗り込んでくる。
女性にしてはハスキーな声だが十分色っぽい、艶のある声だ。
ホテルSというのは当地で最高の格式を持ったシティホテルだ。
「7時までに、着くでしょうか?」
ホテルまでは距離にして約5キロ、7時までだとあと20分ほどしかなく、夕方の街中かなり厳しい。
「なんとか、ギリギリでしょうか、やってみますが・・」
僕の答えに女性は「ありがとうございます!」と言いながら手を合わせる。

バックミラーに映る女性はやはり美しい。
ふと、彼女が言った。
「あの、大野君?」
こんな美女に知り合いはない。
「は、確かに私は大野ですが・・」
「久しぶり、何年振り!?」
「え?、私にはお客様のようなお美しい方に知り合いはないですが・・」
「いや、お美しいって」
そう言って女性は笑い出した。
聞いたことのある声だ。

「え?・・久田君か」
「わかった? そりゃあ、見た目が全然違もんね」
そう言ったかと思えばまた笑う、確かにあの久田の笑い声だ。
「お前、女になったのか・・」
「ええ、そうなのよ」
「性同一性障害ってやつか」
「いえ、少し違うの」
「違う?」
「わたしの場合は、男性でいいのに、男性として鉄道カメラマンがしたかったのに、女性を好きでありたかったのに、それが身体の中で変化が起きてできなくなってしまったの」
「そんなことがあるのか」
「ま、詳しくは今度会ったときに話すから、メールかライン、教えてよ」
「お、プライベートで会ってくれるのか!」
「だって、元々親友じゃない」
「そうか、親友だと思ってくれていたんだな」
「そうよ、だから貴方にだけはちゃんと会ってお詫びしたかったし、出来れば親友復活したかったし」
「親友か・・なんなら恋人でもいいぞ」
「あはは、それはそれでまた後のことってことで」

久田は日本の大学病院で診断してもらった後、外国で性転換手術を受けたそうだ。
あの頃は僚一という固い名前だったが、今は凉子と名乗っているそうだ。

Sホテル車寄せについて、久田がクルマを降りてフロントへ歩いていく。
少しだけ、振り向いてウィンクして見せた。
後ろ姿、ヒップからウェストにかけてのラインが美しい。
長い髪がさっと流れていく。

「いいオンナになったなぁ」

ホテルには「〇〇製薬新年度研究報告会」「〇〇製薬懇親会」との看板があった。
あいつは、医師になったのか。
彼の来し方に同情をもちながら、今の彼の人生が充実していることに気が付いた。
俺よりいい人生、歩いてるのか・・


苛立つご年配

2025年03月29日 20時21分08秒 | 小説

「おい、箸が入ってないぞ」
コンビニエンスストアのレジで年配の男性が叫ぶ。
「あ、ごめんです」と言いながら若い男性のアルバイト店員が箸を差し出した。
「はあ!」
男性が叫ぶ。
「これ箸です」
アルバイト店員は海外からの留学生だろうか、日本語がたどたどしい。
「おい!」
年配の男性が叫ぶ。
「店長を呼べ!」
数人いるほかの客の表情が曇る。
「はぁい」
「間の抜けた返事をするな!店長を呼べ!」
年配の男性の声が大きくなる。
そこへ、別のアルバイト店員がやってきた。
少し浅黒い顔色の若い女性だ。
「店長は3時からね」
「なんで常時、店長が店にいないんだ、おかしいではないか」
周囲の客がざわめき始める。
レジが停止してしまっているので、年配の男性客の後ろに数人が並ぶ。
我慢できなくなったのだろう、すぐ後ろに並ぶ青年が声を出した。
「コンビニなんて24時間営業だろうに、ずっと店長が居られるわけもないよ、爺さん」
年配の男性はさっと振り向いた。
「誰が爺さんだ!」
青年はおどけたような仕草をする。
「お~~こわ、俺よりは確実に爺さんだろうに」
すると年配の男性はさらに声を張り上げた。
「不愉快だ!後で説明を求める、ワシは帰る!」
自分の携帯の電話番号をさっとメモし、「ここに電話くれるように」と叫ぶと、
踵を返し、年配の男性は店を出て行った。

数分後、高台の住宅街。
先ほどの年配の男性がゆっくりと自宅へ入っていく。
玄関から仏間へ、妻の写真が微笑みかける。
「コンビニの外人はとんでもないやつだ」
そう写真の妻に話しかける。
話しかけても答えなど帰ってこない。
妻は昨年に亡くなった。

ふっと、風が入った気がした。
「あなた、あまりカッカされないで、あの子たちも一生懸命頑張っているのですから」
いきなり妻の声が聞こえた。
「え?」
その男性は立ち止まり、妻の写真を見た。
なにもない、ただの写真だ。
「あなたには、わたしのぶんも長生きしてほしいんですよ」
また妻の声がする。
「このごろのあなたは、どうも苛立ってばかりで少し心配なんです」
男性は妻の姿を探した。

仏間の隅の方に妻が端座している。
「清子・・・」
「おひさしぶり、あなた・・」
「どうして・・」
「あまりにも、あなたが心配で」
「じゃ、これからここに居てくれるのか」
「こんな、影だけの姿で良ければ」
男性は思わず妻の姿を抱きしめようとした。
けれど、腕は宙を舞い何もつかめない。
「無理ですよ、実体がないですもの」
妻はそう言って少し笑った。
生前の妻そのものの姿だ。

そのとき、男性の携帯電話の着信アラームが鳴った。
「恐れ入ります、コンビニエンス・アニマの店長でございます」
電話に出ると慇懃な声が聞こえた。
「先ほどは大変、御無礼をおかけしたようで申し訳ございません」
先方が謝る。
そのとき、仏間の隅から妻が軽くウィンクした。

一瞬の間をおいて男性は相手に返事をした。
「いやいや、私こそ大人げなかった、あの外国人のアルバイトの方々にも失礼なことをしました」
妻は小さく拍手している。
「いえいえ、お客様、これからお伺いさせていただこうかと」
店長の声には真実がある気がする。
「いいですよ、今回のことはすぐに腹を立てた私も悪かった、どうかお気になさらず」
男性はそう言って電話の✖ボタンを押した。

「あなた、やりましたね・・」
妻がにこやかに男性に近寄ってくれる。
「わたしが急に逝ったものだから、あなたの心に余裕がなくなっていたのですね」
「いや、お前が悪いわけではない」
「いいえ、本当はあと20年は一緒に居たかったのに」
妻はそう言って涙ぐむ。
「いいんだ、いいんだ、お前の寿命を読めなかったワシが悪い」
男性はまた妻を抱きしめる。
不思議と、妻の身体の感触までも蘇ってくる気がした。

 


腕の傷

2025年01月08日 23時02分34秒 | 小説

 

静かな給茶室からはお城が見える。
陽は差さないがその分お城が順光になり
くっきりと石垣やその周りの緑、櫓と白壁の塀が鮮やかに
五月の空を背景にそそり立っている

この城には天守がなく、ただ石垣、櫓、土塀だけだ
城の外の堀には水が湛えられ、白鷺が遊ぶ

女は給茶室から城の風景を見ながら
さっき用意した会議室で
いつもの小田原評定が始まったのを廊下の足音で察知している

さ、そろそろいいかな・・・
女は自分用の珈琲を入れる
砂糖やミルクは使わない

「オジサンたちもこの珈琲を美味しく思ってくれるかな」
と苦笑いしながら一口、飲む
香りが立っている
「いいブラサンね」
軽い味わいと濃い香りに少しホッとする

さてと・・
自分のバックから消毒液を取り出し、制服の腕をまくり上げる
左の腕カバーを外し、そこへ消毒液を塗る
涼しい感覚が腕から全身に繋がっていく気がする
下腕にはいくつもの横筋がある

よく砥いだ肥前守を取り出して、その刃にも消毒液を塗る
明るい城が見える給茶室
女は簡便な事務椅子に座り、肥前守の刃を見る
よく砥いだ刃は、きらりと輝く
「ふう・・・」
ため息をついた女はその肥前守を自分の左腕にあてる
すうっと刃を滑らせた後に
やがて小さな血筋が浮き上がる

自分の血って、こんなにも赤いんだ
それはいつも思う事なのに、いつも新鮮でもある
また一筋、肥前守を走らせる
また一筋、血の筋ができる
それを五度ほど繰り返す

血の筋が乱れ、やや深く入ってしまったところから
血がほかの筋と混ざる
「そうね・・」
女は呟き、ペーパータオルに消毒液を沁み込ませて血をふき取り
軽く傷薬を塗りこむ
血が傷薬と交じり合う

そこに新しいペーパータオルを切って被せ、その上から包帯を巻く
また腕カバーを付けて「ふうっ」ため息をつく
「ワタシ、生きているんだな」
そう呟く

「またそんなことしてる、駄目だよ」
いきなり、彼女もこの人だけはと、この会社で信頼している営業部長の声がした
「あ・・」
「お茶が少し足りない、美味しい珈琲だったから同じものを、みんなにもう一杯ずつ頼むよ」
「はい」
彼女が答えた時には営業部長の姿はなくなっていた

それから数日後
たまに一人で行くマスターの店で会う男性とどうした訳か泊まることになった
彼女の腕カバーを「なんでいつも腕カバーをしているの?」
と不思議そうに聞く男性に
「わたしはこんな女なんです・・あなたもきっとこれを見ればわたしから逃げるわ」
そう言って腕カバーを外して見せた
何十本もの横傷が並ぶ白い腕
男性はそれをみて、彼女の腕をとり
その傷の部分を嘗めだした
「な・・なにをするの」
「いや、変なことじゃない、愛おしいんだよ」
男性がそう言いながら彼女の腕をしみじみ眺める
「この傷は自分の命を軽んじているんじゃなくて、命の不思議を魅せてくれたんだろ」
何も言い返せなかった

そう言えばあの営業部長も彼女の腕の傷を見た時に似たことを言っていた
「命って不思議だよね」
「でも、あまり傷つけちゃだめだよ、君自身が可哀そうだ」

男性に抱かれながら「営業部長さんに抱いてもらいたい」
そんなことを思う自分が不思議な彼女だった

 


最期のそのとき

2024年12月05日 22時04分08秒 | 小説

異性の友人として付き合っている女性、裕恵が体調がよくないと言ってきたのは半年ほど前だっただろうか。
彼女は薬剤師であり、街中の調剤薬局に勤めていた。
仕事に熱心になり過ぎて婚期を逃したと時々笑うような人だ。
お互い、年齢は五十に近く、確かにいろいろな病気のリスクというものはある。
それゆえ、大きな病院でしっかり検査をと彼女の背を推した。
「言われなくてもそのつもりよ」
けれど、体調がよくない状態で何か月も我慢をしていたはずだ。

一月ほど時間をかけた検査で裕恵が癌の一種に罹患していることが分かった。
「大丈夫よ、医学は進歩しているし、まずは化学療法で緩解にもっていくから」
強がっている風でもなく心底、そう言っているように見えるのはやはり彼女が薬剤師であるからなのだろうか。

仕事中、スマホに着信があった。
彼女、裕恵からだ。
「ね、今、いい?」
「ああ、ちょうど休憩に入ったところだ」
「その頃だろうと思って電話したの」
「なるほど・・」
「今日、検査結果が出たの」
「そう、結果はどうだったの?」
「うん」
そう言ったまま、電話の向こうの彼女は黙り込んでしまった。
「どうしたの?」僕が問いかける。
「うん」
だがまともに返事がない。
これは何か辛いことを医者に言われたか・僕はそう直感した。
「仕事が終わったら会おう、メシでも食おう」
僕はそう言ってやった、詳しいことは目を見て聴こう。

その日、駅前で待ち合わせた彼女は意外にも落ち着いていた。
行きつけのレストランに入り、適当に注文した後、ワイングラスを合わせる。
「で、どうだった?」
僕は小声で彼女に聴いた。
「うん、癌よ」
「癌は分かっている」
「うん・・」
「それで・・」
「なんとかなりそう、結構辛い治療かもって先生は言っていたけど」
「なんとかなるなら頑張るしかないな」
「うん・・」
そう言いながらアスパラガスのカツを口に放り込んだ彼女は、目に涙をためていた。
そしてふっと口にする言葉。
「ね、今からお願いがあるの」
「なに?」
「抱いてほしい・・」
僕はいきなりの言葉にどう返事していいかわからず彼女を見つめる。
「どうゆうこと?」
「あなた、前にワタシの肩を抱きしめたことがありましたよね、あの続き」
そう、数か月前、一緒に歩いていた裕恵があまりに綺麗に見えて、思わず後ろから肩を抱きしめたことがあった。
あの時は彼女は軽く僕の手を払いのけ「まだその時ではありません」と小さな声で言った。

そのあと、その店近くのラブホで僕は彼女を抱いた。
齢五十、その年齢が信じられぬほどに小柄な彼女の肌は若者のように張りつめて、小さいが形の良い胸は豊かな弾力を魅せてくれた。
「もっと、もっと強く抱いて」
白い肌に汗を光らせ、彼女は僕の首に腕をかけて必死にそう叫ぶ。
僕は可能な限りの力を振り絞って彼女に応えようとする。

全てが終わったあと、彼女は「ありがとう」と言いながら微笑んだ。
そして「しばらく、頼みますね」とも。

清楚というより普段は全く性的なものを感じることのない裕恵からそう言われたのは意外だった。

それ以降、月に二度ほど身体を合わせることが続いた。
何度目かのあるとき、僕は思っていたことを口に出した。
「もしかしたら、君自身の命の限りを感じているの?」
すると彼女は僕にしがみついて大声で泣きだした。
それはまるで、赤子が母の胸の中で泣くようなものだった。
「怖いの?」
僕が訊くと即座に答えが返る。
「当たり前でしょ、わたし死ぬのよ」
そしてそのまま二人の深い海の中へ入りこんでいく。

やがて彼女は入院した。
それまでも二週間くらいの入院は何度かあったが、その時はもはやいつ帰られるか分からないと本人が言う。
そして入院した部屋での同室の病人たちとのやり取りを面白くラインで伝えてくれた。
「斜め向かいのお婆さん、食事の時についてきたものを溜め込むんですよ~~ヨーグルトや牛乳の蓋とか」
「人間は不思議だね、何かを取り込んでいないと安心できないのかも」
「ですよね~ワタシはあなたの心を取り込めたかしら」
「う~~ん、なんとも言えないが、早くまた抱きしめたい」
「あら、そう思ってくださるんですね」
「もちろん」

二か月近く入院していきなり彼女は僕の目の前に現れた。
LINEで「お近くの駅前にいます」と送ってくる。
公休日でゆっくりするつもりだった僕は慌てた。
「え・・・病院は?」
「一時的に外泊許可をもらいました」
「そうなんだ」
「今日、可能なら会ってください」
そんなに強く彼女に言われたことはない。
僕は何よりも彼女に会いにクルマを駅へ向かわせた。

さほど広くない駅前のロータリー、その脇で杖を突きやっとの思いで立っているであろう裕恵、彼女を見つけた。
「大丈夫なのか、こんなところまで来て」
彼女は大儀な風で僕のクルマに乗り込み「大丈夫じゃありません」という。
「じゃ、なぜそんなに大変な思いをして」
「ね、久しぶりに抱いてくれます?」
それを否定する気持ちを僕は持てない。
「わかった、あそこでいいか・・」
よく行っていたラブホの名を出すと「いいですよ」とのこと。

柔らかいオレンジの光線が広がるホテルの客室で彼女の肌がやや疲れて見えた。
胸の弾力はあるが、彼女が快感を感じたそのあと、大きな呼吸をした。
そして、は、は、は・・と大きな苦しそうな呼吸になる。
「大丈夫か?」
訊くと「はい、もっと、もっと」という。
いつものように愛撫を続けているとやがて呼吸が大きくなり、とてもこれ以上は続けられないと僕が感じるようになってしまった。
「無理だよ、それ以上やると命に係わる」
「いえ、もっと、もっと」
息を切らせてそう言う。
「僕は犯罪者扱いされたくない、それより今度また体調がよくなってから続きをしよう」
そういうと、彼女は僕の首に回していた腕を離した。
けれど相変わらず呼吸は荒いままで、彼女の胸に僕の耳を押さえつけると、激しく鼓動する心臓の音が聞こえた。
「続きなんてあるのかしら」
彼女は裸のままそう言って泣きじゃくった。
「帰っておいでよ」
僕がそう言うと彼女は頷いたが「優しいのね、でも無理なの分かっているでしょ」と呟く。
そしてまたしばらく泣いた。

部屋を明るくして彼女の肌を見ると、全体に黄色がかっている。
「ものすごくしんどそうに見える」
はぁはぁと息をしながら「そうなの?」と彼女は訊く。
「次に続きをするのを決めた、君は必ずここに帰ってこなくてはならない」
「ありがとう」

暫くそのまま休ませてから、僕は彼女を彼女の自宅近くの駅まで電車に同乗して送った。
「駅からすぐですから」
そう言う彼女を無理にタクシー乗り場につれて行って、止まっていたタクシーに乗せた。
結局、その日の夜から彼女はまた病院に戻っていく。

そのあともずっと彼女からの何らかのメッセージはラインであったりスマホのメールであったりはするが続いていた。
ただ、その日から十日ほどあと、彼女からのメッセージがない日があった。
そこから何日もメッセージがない。
不審に思った僕は彼女が入院していた病院に伺ってみたが「患者さんのことは、ご家族でない限りお伝え出来ません」とのことだ。
そこで、前に一度、自宅の電話番号を訊いていたのを思い出し、そこへかけてみた。
出たのは彼女の母親だった。
「娘は、数日前に病院で亡くなりました」
そう言って泣いている様子が伺えた。
そして一方的に電話は切られた。

おい、裕恵、まだ続きがあったじゃないか・・
僕はそう呟きながら意識を失った。

 


霧雨の列車

2024年09月12日 21時39分02秒 | 小説

北海道をレンタカーで走る
観光と言えば観光かもしれない
だが僕に特に行くあてはなく
このクルマを返すまでの一週間で何処まで行けるか
関心はそこにしかない

いろいろな日常が煩わしく
勤めていた会社を辞めた
僕はもう還暦を超えているが
食うためには仕事をするしかない

だがその仕事ももうあと数か月で年金が支給される・・
その前に辞めたのだ
何もしなかった人生
もっと何もしないということ
何がしたいかと言えば何もしないことをしたい

本能から出た叫びが僕の心を占めた時
僕は会社に辞表を出していた

この年にして家族もおらず
かつて恋愛の経験はあれど遠い昔だ

北海道に来てから雨が多い
今はまだ降ってはいないが寒く暗い空だ
クルマは空知から十勝へ向かう

気温が急に下がった故か
霧が出てきた

霧は進むほどに深くなる
カーブが連続する道も
沿道の樹々の影が見えるだけで
ただ霧の中へ向かう

狩勝峠を越えたようだ
展望台はあるがなんの眺望も開けない
やがてトンネルを超えて
道は下っていく
ヘッドライトはむなしく霧を照らす

坂を下り、やがて右側に霧の中にも目立つ大きな看板が見えた
この辺りで少しクルマを停めようと思っていたので
公園かレストランでもあるのだろうかと、その看板のところを右折した

ほんの少し走ると、クルマの左側、いきなり列車が現れた
霧の中、ぼんやりと佇むその列車は動いていないようだった

そこに黒い機関車に牽かれた青い客車があった
客車には車体の上と真ん中と裾に白い帯が巻かれている
この客車は・・昔の特急ではないか・・・
霧の山中に突如として現れた列車に僕は驚いた

僕が子供の頃、多くの少年たちが心をときめかして
東京駅、上野駅、大阪駅などへ眺めに行ったあの寝台特急の客車だ。
そしてその先頭には、黒い機関車
「これはキューロク(九六〇〇形蒸気機関車)ではないか」

貨物機だったキューロクが特急の先頭に立っている
それはこの列車が現役当時ならおかしな光景だったろうが
こうしてふっと出会えたこの不思議な列車に
僕は妙な安心感を覚えた

霧がやがて雨になる
粒の細かい雨が機関車と客車、森の中を濡らしていく

ふっと、客車の前に少年が立っているのが見えた
こんな霧雨の山中に子供がいる
少年は客車をずっと眺めているようだ
「君は、ここの人なんか?」
僕の問いに少年は客車の方を見たまま
「いや、ボク、神戸やねん」
「神戸?僕も神戸やけど・・どうやってここに来たの?ご家族は?」
「うん、学校が終わってから・・」

霧雨が降っている
青い客車がプラットホームに停車していた
この先、豪雨で運転が見合わせになったのは昨夜らしい
東京からの寝台特急が地元の駅に停まったままやでと
クラスメイトが教えてくれた

寝台特急は京都や大阪からのもあるが
カッコいいのはいくつも優等車を連結した東京からの列車だ
当時、熱烈な鉄道ファンだった僕は
授業が終わってから近くの駅へ行った

雨で運転が規制され駅の改札は閉じていた
「すみません、停まっているあの列車が見たいんです」
普段は内気な自分が良くそこまで言えたなと
いまでは思うが、そう駅員に頼み込んだ

「いいよ、どうせ暇やし、付き合ってあげる」
駅員はそう言い、僕をプラットホームに連れて行ってくれた。
地下道を通り、ホームに上がった僕の前にあったのは
濃い青に、三本の帯を締めた寝台特急の客車だった

客車の中は暖かそうで
停まったままの列車のなかで乗客たちが寛いでいた
こうなると慌てても怒っても先へなど行けない・・
運転開始まで待つしかないのが鉄道旅行
運行トラブルにあったときの唯一の対処だった

立派な客車だった
食堂車があったが灯りはついているものの乗客はおらず
ウェイトレスが椅子に掛けて暇そうにしていた
普通の寝台車ではたくさんの乗客たちが居て
僕を見つけて指さしてくる
上等の寝台車もあり、個室にいた乗客の少女と目が合った
向こうは僕を見て声を掛けてくれたようだが
特急の固定窓では声は聞こえない

僕も「どこまで行くの?」と訊いたが
向こうは耳をこちらに向けて声を聴こうとはするものの伝わらない
霧雨はやがて強い雨に変わっていく
少女は長い黒髪で、哀しそうな表情をしていた

「こんな立派な列車でなんで楽しくないんだろう」
独り言をつぶやいた僕に横にいた駅員が
「いつ列車が動くか分からないからやろうね」と答えた
いや、あの少女の哀しそうな眼はそんなことが原因ではなさそうだ
僕は少女と暫く向かい合っていた
「そろそろ戻ろうか」
駅員が僕を促した
少女に軽く手を振った
少女も少し寂し気に手を振り返してくれた

ふっと我に返った
僕は狩勝の山の中にいる
少年は客車に向かって何か話しかけていた
そのとき、僕にも見えた
あの寝台車の中にいる黒髪の少女が

目を凝らした
少年は楽しそうに車内の少女と会話をしている
固定窓だろ、声など聴こえまいに・・・
雨が強くなってきた
「おい、そこの少年、濡れるぞ、クルマの中に入れよ」
僕が声を掛けると、一瞬少年は僕を見た
次の瞬間、そこに少年はおらず
ただ青い三両の客車が佇んでいる

錯覚が幻覚か・・
山の中に突如として現れた青い客車を見て
大昔の自分が映し出されたのだろうか
それにしても、あの少女は東京からの寝台特急で何処へ行ったのだろうか

秋の終わり、北海道の山の中で
クルマのシートを倒して僕は目を瞑った

「わたし、あなたと、もうすぐ会えるよ」
黒髪の少女が嬉しそうに微笑んでいる
そんな夢を見た