story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

なおちゃんへ。

2010年06月07日 06時31分50秒 | 小説

高速道路をひた走る。
時間はもはや深夜、11時を少し回ったところだ。
オレンジ色の照明が続く道を僕は時速90キロほどでタクシーを快走させる。

今日は6月5日。
忘れることもない、なおちゃんの誕生日だ。

そういえば・・
このあたり、なおちゃん、君が住んでいた場所だった・・
六甲山の斜面に町が競りあがってくるような、御影のあたりだ。
山の中腹、そこにそびえるあの建物で、君は今も仕事をしているのだろうか。

おかしなことに、君を思い出すとき、いつも君はちょっと苛ついたような表情で、僕に食って掛かる・・そのときの表情なんだ。

僕という人間はどうも、色々なものを引き摺りながら進む癖があるようで、例えば終わったっことを、終わったこととして理解できてはいても受け入れることが出来ない、どうしようもない人間なのだと苦笑するときがある。
それは人間関係においても、仕事においてもあるいは趣味や嗜好においても同じようなものではある。
瞬間的な切り替えが出来ない僕の精神構造は多分、僕が好きなフィルムによる写真と同じようなアナログ構造になっているのだと、自分に言い聞かせてみるが、それを捨てる気にはまったくならない。

このことは、ある意味では僕が「しつこい」性格だと誤解されることにもなるし、一つ間違えれば今の時代では「ストーカー」と認識されてしまいかねない危険性を孕んでもいる。

だが、それでも、先ほどのフィルムの話ではないが、時の流れとともに切らねばならぬ、あるいは変えなければならぬことについては自分なりに切り捨ててきたつもりでもある。
ここ数年、僕はフィルムというものを使わなくなった。
それでも、前職であるカメラマンという職業をタクシードライバーになった今でも捨てきれず、時折、依頼があれば喜んでデジタル一眼レフをぶら下げて出かけてしまう自分にはやはり妙な納得を覚えるものだ。

その僕が最大に引き摺っているのが、なおちゃん・・君のことかもしれない。

ただ、だから、なんとしても君に会いたいとか、会わねばならぬとか、そういうことは考えないし、考えたところで実現などできそうにないことは百も承知だ。
引き摺るというのは、僕の心の奥の深い部分で今も君が生きているということであり、あるいは、現実に君が生きていることを風の便りで聞くことが僕という人間が生きるうえでの少しの糧になっているかもしれないということだ。

ただ、自分にとっての過去の人間の思い出というのは美化され、「ありえないほど良い人」というものが自分の中に形成されてくるものであるはずだが、こと、君に関しては不思議にそういう美化されたものは僕の中に形成されていない。

ふっと浮かぶ君の姿は、いつも怒っていたり、不機嫌であったり、つっけんどんであったり、僕をわざと無視するようすであったり、泣いていたり、苦しんでいたりするのであり、優しくて可愛いという情景からは少し遠いものなのだ。

このあたりが、君の姿がいつまでも僕の中に残ることの原因かもしれない。

美化される人間であれば、それは所詮、上辺だけを好きであるということにしかならないのではないか。
当時の、もう20年前のあの別れの日から引き摺っていたもの、それは・・僕が好きな君は、実は女性らしい優しさ、可愛さに満ちた君ではなく、ある面では君のマイナスイメージなのかもしれないと言うことだ。
もちろん、きみは美しい女性だった。
だから、僕はポートレートカメラマンとしての最初の作品に君を選んだのは間違いがない。

その作品は今思えば稚拙なもので、カメラメーカーの宣伝カタログを鵜呑みにしたような面白みのないものだったかもしれないが、その中に写る君はまさに美しかった。
だが、美しい女性というのであれば、それこそ、それ以来、数を数えられないほどの女性を撮影した僕にとって何も格別というわけではない。

だからこそ、僕は一旦は君を忘れるために君を撮影したネガやプリント、アルバムの類を、ある日一度に焼却処分することができたのだ。

クルマは相変わらず高速道路を駆ける。
僕は速度を一定に保ちながら、最新型のこのクルマの乗り心地を楽しんでいる。
乗客がいない回送運行だからこその楽しみでもある。
乗客があればそれは仕事であり、そこに緊張感はあっても楽しみというものはないと思う。
それでも、僕は今のこの仕事も愛している。
写真の仕事とどちらが好きかと尋ねられると、それは少しその答えに困ることになるのだが、刺激的で変化の多い、そしてそれでいてストレスの少ないこの仕事を僕は愛している。
なにより、性に合っているように思うのだ。

ところがあるとき、モノクロフィルムの整理をしていて、処分していなかったフィルムが出てきた。
それは君の部屋の中で、冗談半分に君を撮影したもので、当時の仕事上の作品というものとは程遠いが、君という人間を実に端的に表していたものだ。
ひさしぶりだなぁ・・
僕はそう呟いて、そのフィルムをじっくりと眺めた。
写真と反転したそのネガから、その頃の苦渋に満ちた君との関係が思い返された。
そう、楽しい付き合いではなかった。
ただ、ネガの中の君は屈託なく寛いでいて、楽しげであり、穏やかだ。
そして、その頃の屈託のない表情の君との付き合いを楽しく出来なかったのは僕の責任でもある。

君の心や、感情を、他のもの・・
たとえば具にもつかぬイデオロギーや、安物の宗教観、荒唐無稽で幼稚極まりない哲学感でコントロールしようとしたのはまさに僕自身だった。
それは、一人の女性を愛するということに不慣れで、自分を表現できない僕が理屈で走った結果だった。

君は僕の思いを受け止めてはくれていても、その僕の態度や思考には辟易していたに違いない。
そんな状態で楽しく、心豊かな青春など送れるはずもない。
だからこそ、僕は君に愛想をつかされ、遠ざけられてしまったのだ。

それでも、君は僕との出会いを大切にしようとはしてくくれていた。
それに気がつかなかったのは、まさに僕という人間の未熟さゆえに他ならない。

その悔悟の念が、僕の心にある君を辛い表情にさせているのだろうか。

僕と君の関係を恋愛であったなどとは思わない。
青春の時期の誰にでもある失敗なのか、それともそれは、それ以後の僕の成長にとって必要な苦悩だったのか・・
ただし、僕自身が成長したとも到底思えない。
僕は今でも自分勝手であり、我儘であり、周囲に迷惑をかけて生きながらえるつまらない男だ。

6月5日を意識すると、自分の中で、どうにも止まらない感情が沸いてくる。
それはきちんとした答えを出せず、一人の女性を苦しめた後悔の念なのか、いや、そうではなく、やはり僕にとって、なおちゃん、君という女性を本当に好きだったという、若き日の淡い恋愛感情なのか・・

どうでもいい・・

ふっと、そんな言葉が漏れる。

そう、どうでもいいことなのだ。
だからこそ、ふっと思い出すのかもしれない。
だが、悔悟の念というものは始末に負えない。
もしも、あの頃の、青春の時期のあの稚拙な時期の、その頃に戻ることが出来たのなら、僕は素直に自分というものを曝け出して、そして素直に、君との出会いを楽しめるのにと、それこそつまらぬ思いがわきあがってくる。
そういう意味では、やはり僕は君に会いたいと願っているのかもしれない。
会ってどうすると言うのではなく、ただ、単に会いたいと願っているのかもしれない。
いや、自分に素直に表現すれば、心の奥で、君に会いたい気持ちは今も厳然とある。

それにしてもだ・・
やはり僕は情けない、つまらない人間であることは確かなようだ。
クルマは、早くもメリケンパーク付近に至る。
海の向こうにポートアイランドが見える。
あの人工島の公園で、僕は始めて君を撮影した。
お互い、ちょっと不慣れなその時期、君も僕もちょっと不慣れな緊張感を持って向き合っていたし、それでも僕は、知ったかぶりの知識や技術で偉そうに撮影をしたのだ。
あろうことか、夜景をバックに人物を撮影するという・・よほどの技術や感性がなければ、真っ当な作品にならないはずのシチュエーションで、それこそ若さゆえの怖さ知らず、堂々と僕は撮影をしていたのだ。
今思えば、少し赤面するかのような、あの頃の突っ張りながら生きていた自分を思い出す。

なおちゃん・・ありがとう。
自分という人間がつまらぬ人間であることはともかく、こうして今の自分が存在できるのはまさに、君という人間と出会えたからなのは確かであると思う。
そして、それがゆえに、多少は人情の機微も理解できる人間になれたこと・・生きているということを多少は意義のあるものに思えるようになれたこと。
そのことはまさしく、君のおかげであると思うのだ。

コメント
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