story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

夢追い娘

2005年01月21日 19時20分00秒 | 小説
南真吾は神戸駅で電車を降り、彼の恋人、清水絵里との待ち合わせ場所である地下街へ行こうとしていた。
ホームから階段を下り、改札を抜けるのももどかしく、既に待ち合わせの時間を10分ほどオーバーしているのだ。
焦らなければならない・・
「すみません!」
後ろから誰かが呼ぶ声が聞こえる。
自分には関係がないだろうと、彼はそのまま小走りに進む。
「すみません!待って下さい!」
え?・・俺か?・・そう思い立ち止まった。
息を切らせた小柄な女性がそこに立っていた。
「なんだよ・・俺は急いでいるんだ」
「ごめんなさい・・どうしても・・・」女性はそう言って、肩で息をしている。
「何かの勧誘かい?お断りだよ!」
真吾は投げ捨てるように言って、先へ進もうとしていた。
「勧誘じゃありません・・待って下さい!あなたにお願いがあるのです」
「願い・・なんだよ・・手短に頼むよ」
必死の女性の表情に負けた気がした。
女性は息を飲み込んで、姿勢を正して彼に正対した。
「あなたは私の理想の人です!お付き合いしてください!」
「は?」
「ずっと夢に見てきたんです。お付き合いしてください!」
真吾はまじまじと女性の姿を見た。
どこかに異常な感じがあるようには見えない・・けれども・・いったい何を言ってるのだ・・こいつ・・
「きみ・・いきなり何を言い出すんだ・・ちょっとへんだよ・・頭を冷やして休んだ方がいいよ」
「変じゃありません!あなたが理想の人なんです!」
「俺は今から彼女とデートだよ!じゃあな・・」
真吾はそう言い捨てて女性を振り切った。
そのままエスカレーターに乗った・・女性は今度はついては来なかった。
・・しかし・・小柄で、可愛い子だったな・・
そう思ったあと、慌ててそれを打ち消した。回りを見回した。彼の恋人になったはずの、清水絵里に見られていないか気になった。

エスカレーターを降りた先で絵里が立っていた。
携帯電話で話をしている。
「遅くなっちゃって・・ごめんね!」
真吾は出来る限りの笑顔を作って絵里に声をかけた。絵里は彼のほうをちらりと見たけれど、電話を手放さない。
彼は仕方がなく、所在なげに立っていた。
散々待たされた後、絵里は真吾に向かい、それまで笑顔で電話をかけていた表情を一変させて怒り出した。
「なによ!女の子を待たせるなんて!サイテー!」
「ごめんよ・・ちょっと仕事が・・」
「仕事?仕事のためにあたしとのデートに遅れてくるなんて、今までの男であんたが一番サイテーよ!」
「ごめん・・本当にごめん!今日は全部おごるから」
絵里はそれを聞くとさらに表情を怖くした。
「なに言ってるの!デートだと男がおごるの当たり前でしょ!もう許せない!今日は今からデパートで何か買ってもらうわ!」
絵里はそう言うと、いきなり歩き出した。
ハーバーランドのデパートへ・・その中のブランドショップへ入っていった。
真吾も仕方がなく、あとをついて入っていった。
「これを買って!」
2万3千円の値札がついている。
「分かったよ・・買ってあげるよ・・」
「何を言ってるの?買うのは当たり前でしょ・・あんたが怒らせたんだから」
絵里は店員を呼んでいる。
真吾の財布には今日は3万円が入っている。
「こちらでございますね。在庫はございませんから、現品でよろしいでしょうか?そのかわり少しお安くしておきますが・・」
「ええ!これだけなの!傷はないでしょうねえ・・で・・いくらになるの?」
絵里の問いかけに店員は真吾のほうを見て、とんでもないことを言った。
「そうですね・・1割引かせて頂いて、20万7千円でいかがでしょう?」
真吾は心臓が飛び出しそうになった。
無頓着に絵里が答える。
「展示品でしょ・・もう少し安くならないの?20万でどう!」
店員は一瞬たじろいだように、それでも笑顔を作って答えなおす。
「かしこまりました。20万円ちょうどですね。はい・・それで結構でございます」
そのまま店員は奥のレジへ言ってしまった。
「何してるの?」
絵里は今度は真吾に問う。
「いや・・絵里・・あの・・おれ、そんなに持っていないよ・・」
「カードがあるじゃない!」
絵里はこともなげに言い放つと、知らん顔をして、他の商品を見ていた。
真吾は仕方なく、財布からクレジットカードを出して、レジに行った。

奥で包んでもらったバックをかかえ、真吾が出てくると、絵里は嬉しそうな表情で、けれどもこう言う。
「ふん・・・私が安くなるよう、交渉したんだからね。感謝しなさいよ」
それから彼女は真吾の腕に自分の腕を回し、彼にくっつくように歩き始めた。
真吾の頭の中には支払いの20万円が重くのしかかり、普通に物事を考えられなくなっていた。
彼女はそのまま真吾を、ハーバーランドの入り口にあるホテルに向かわせた。
「ホテルで・・どうするの?」
ぼうっとした頭で真吾が問いただすと・・
「どうするって・・ご飯食べるのに決まっているでしょ!あなた!変なこと考えてるの!サイテー!」
「ごめん・・そう言うわけじゃなくて・・ご飯ね・・分かった」
ホテルに入るとそのまま、彼女は慣れた手つきでエレベーターに乗り込んで、18階のボタンを押した。
彼女が真吾を押し込むように入った店は鉄板焼きの店だった。
「いらっしゃいませ」
和服を着た女性が応対してくれる。
鉄板の向こうには調理師の格好をした男性が笑顔で立っていた。
その向こうは見事な神戸の景色が大きな窓一杯に広がっている。
「お任せでお願いね」
絵里が店の女性に注文をする。
いきなり、材料が並べられ、鉄板焼きが始まる。
「しまった・・」
この店はいったい、いくらするのだろう・・真吾にはそればかりが気になってきた。
高級そうなエビや魚や牛肉が惜しげもなく焼かれ、目の前に出てくる。
「おいしいねえ!」絵里はご機嫌だ。
真吾は味も分からない。心臓が重い気がする。

数時間後、疲れ果てた真吾は、絵里と別れて神戸駅の改札口を入っていこうとしていた。
結局、鉄板焼きで25000円、お茶代が2000円・・真吾が支払った。
「私もおごるわ!」
そう言って、絵里が唯一、今日お金を出してくれたのはスタンドのアイスクリームで、これは一つ200円ほどのものだった。
真吾は改札を抜けて、下り電車のホームへ行く階段を上がろうとしていた。
全身に疲労がたまっている。
カードの支払いの目処は立っていない。
絵里とはこれで3回目のデートだったけれど、ずっと金を使うことばかりしていた気がする。
遊園地や映画館では真吾がお金を出してもごく普通の気分でいられたし、そんなに高いものではなかったし・・だからその時には分からなかっただけなのだった。
「そういえば・・・いつも圧倒されて・・」
放心状態の真吾は、絵里とうまくやっていける自信をなくしつつあった。
真吾から見て絵里は憧れのタイプだった。きれいで明るくて、垢抜けていて、絵に書いたような美人に見えた。
友人が主催するコンパで出会い、一番目立ったのが彼女だったけれど、その彼女が付き合う相手として真吾を選んだ。
今までの2回のデートは映画と遊園地で、今日のように絵里が金を使わせることはなかった。
彼女は市内の女子大に通っているという。
真吾にはブランドのことは分からなかったけれど、たぶん絵里はブランド物しか身につけていないのではと、勘ぐってみたりもする。

「すみません!」
階段を上る真吾は後ろから声をかけられた。
「今まで待っていました!お願いです!お付き合いしてください!」
さっきのの女性が泣きそうな顔で立っていた。
「あの・・困るんだよね。いきなり・・」
真吾は呆れてそう言ったけれど、飾り気のない女性が必死で頼み込んでいる・・少し話を聞いても良いような気がした。
「おねがいです!あなたをずっと待っていました。おねがいです!」
真吾は息を飲み込んで、気持ちを落ち着かせた。
「なんだか知らないけれど、話だけは聞いてもいい・・」
「ほんとですか!ありがとうございます!わたし、実はずっと・・」
「あの・・ここでは人がたくさん見ているから、ホームの端に行こうよ」
真吾は彼女をプラットホームの先、長い編成の電車が来る時にしか、乗客がここまでは、やって来ないようなところへ彼女を連れて行った。
北風が吹いて寒い。
夜の暗がりの中、彼がさっき、馬鹿高い夕食をさせられたホテルも見えている。
電車がヘッドライトを照らして、こちらへ向かってくる。
「何で、俺をつけまわすのかな?」
真吾は女性に尋ねた。
「すみません・・でも・・でも・・信じてください。あなたじゃなきゃダメなんです」
「だから・・どうしてだよ・・」
「夢なんです」
「夢?」
女性は必死に彼にすがり付いてくる。
可愛い子だし、変な勧誘じゃなければいいんだけど・・さっきまでいたホテルの鉄板焼きは、あの建物のどのあたりだろう・・そんなことを思いながら、それでも必死の表情で迫る彼女をからかいたくなってきた。
「あんたの目的は?」
出来るだけ、意地が悪そうに聞いてみた。警察が尋問する時のように・・
「幸せです!」
「??・・俺と付き合えば幸せになれるの?」
「はい!」
「どうして?」
「夢です!昨日の夢なんです!」
「夢ねえ・・」
「わたし、夢の通りにしたら、絶対いい方向に行くんです。ゆうべ、あなたがそのままの格好で、夢にでてきたんです!だからわたし、今日は絶対あなたに会えると思ったんです!」
真吾は女性の目を見て立ち尽くしてしまった。
・・この子・・変なのか?・・
「わたし・・変じゃありません!夢の通りにすることだけなんです!」
「そんなことが今までにもあったの?」
「はい・・会社も夢で見た百貨店になったし、売り場も夢の通り、夢の通りなんです」
「百貨店にいるの?」
「はい・・あ・・ごめんなさい!わたし、キタノブコです。東西南北の北、信じるに子で・・北信子です。お願いです、お願いです・・私と付き合ってください!」
真吾は少し、落ち着いてきた。
言っていることは無茶苦茶な信子の、しかしそれでも何か納得するようなものを感じてはきた。
「僕には彼女がいるんだ。・・だから君とは付き合えないよ」
「大丈夫です!あなたは彼女と別れます。っていうか、そのうちに連絡もなくなります」
「勝手にきめるなよ・・折角、今、あいつに22万7千円使ったばかりだよ。そんなに急には別れられないよ」
そう答えながら、もう自分が絵里と別れることを考えていることに驚いた。
その時、真吾の携帯電話が鳴った。
「はーい!真吾!私よ・・絵里!今日は楽しかったね!また遊ぼうね!」
一方的にそう言うと、電話は向こうからきれた。
「彼女でしょ・・」
信子が訊く。
「ああ・・」
「もう電話はありませんよ・・たぶん・・」
「どうしてそれが分かるの?」
「さあ・・なんとなく・・」
真吾は頭に来て、電話を彼から絵里にかけた。
留守番電話になって、出てはくれない。
「ね・・気にしなくていいんですよ・・」
満面の笑顔を作って信子が真吾を見る。

真吾は溜息をつきながら、もう一つ、意地悪な質問をしてやろうと思った。
「じゃあ・・君と付き合うって、どんな風に付き合うんだい?」
信子はきょとんとして彼を見ている。
「俺は今すぐにでも、セックスの出来る付き合いがいいんだ」
信子は表情を変えない。
「無理してはいけません・・」
「え?無理?」
「あなたはまだ、女の子を知らないでしょ・・そんな無理をしては疲れるだけです」
真吾は一瞬、後ずさりしそうになった。何でこの子はそんなことまで分かるんだ・・
「何を言う・・女の子なんて何人も知っているさ・・」
「ダメですって・・あなたは全く知らないはずです・・無理をした青春は疲れますよ」
「じゃあ・・君は男なら手玉にとるような女なんだ」
信子は頬を赤らめた。
「そんなことないです・・私だって・・知らないのですもの・・」
真吾はそれを見て笑った。信子も照れたように笑った。

「君は面白いなあ・・俺はミナミシンゴ・・方角の南に真剣の真、吾は漢数字の五の下に口だ」
名前を教えてやると、信子の表情が感動の表情になってしまった。
「やっぱり・・やっぱりそうだったのですね!北と南、シンゴと・・私の名前もシンコって読めるでしょ・・やっぱりそうだったのです」
真吾が見ると信子は感極まって涙を流していた。
・・俺のところに来る女は・・変なのばかりだなあ・・真吾は妙に納得しながら、どういう訳かやってきた新快速電車に二人で乗り込んでしまった。
次の停車駅は明石であるという車内放送が流れる。
「え・・なんで・・俺・・この電車に乗っているの?」
「今から、明石に行くの!船を見に行くの!」
信子は混んだ電車の中でいたずらっぽく笑った。まだ、涙は乾いていなかった。

明石駅で電車を降りて、信子はゆっくりと、時折、真吾のほうを見ながら歩いている。
商店街を抜け、漁船が係留されている運河にかかった橋を渡る。
「信子さん・・」真吾は信子に声をかけた。
「はい・・ノブコって呼んで下さい」
「じゃ、信子・・君はいつも絶対に夢の通りにするわけ?」
「いつもじゃないんです」
「夢は絶対なんだろ?」
「いいえ・・目覚めた時に、なんだか暖かい気持ちになるのが、いい夢で、寒い気持ちになるのが悪い夢で・・」
「いい夢だとその通りにすれば良いのかい?」
「そうなんです・・悪い夢の時は・・こうしちゃいけないって言う・・神様からの御言付けだと思っています」
神様・・新興宗教かな?真吾はちょっと身構えた。
フェリー乗り場にはちょうど船が一艘入っていて、クルマが乗り込んでいくところだった。
二人は乗り場の右側の、店や住宅が並んでいるあたりに立った。
「信子・・君は何か宗教をしているの?」
「宗教?」
「さっき・・神様って言ったじゃないか・・」
信子はここに来てから、ちょっと楽になったようだった。
おっとりとした喋り方になっていた。
「宗教は、特にはもっていないのですけど、私には、私の神様が、宇宙から見てくれているって・・勝手にそう信じています」
港の波はやんわりと上下し、船もかすかに揺れる程度だ。
港といっても、さして大きくなく、周りの明かりも少ない。
遠くに明石海峡大橋のライトアップされた姿が見える。
「宗教を持っていないのに・・神様か・・面白いね」
「本当は神様って、宇宙そのものじゃないかって思うんですよ。それを人間が色々な形に考えただけじゃないかって・・変ですか?こんな風に思っているの・・」
信子は屈託なく、真吾を見ていた。
「変じゃないし・・とても素敵だと思う」
「素敵?本当ですか?」
「本当だよ」
二人はのんびりと歩き始めていた。駅のほうへ向かう道をゆっくりと歩く。
「君はどこに住んでいるの?」
「西明石でお母さんと住んでいます」
「ふうん・・僕は垂水駅からちょっと歩いたところのマンションだ」
そう真吾が言うと、信子は頷きながら「やっぱり・・」という。
「やっぱりって・・知っているの?」
「夢の中に、垂水駅から二人で歩くシーンが出てくるんです」
「なるほど・・」
もう、真吾は素直に信子の夢を信じるようになっていた。二人は運河にかかる橋の欄干に身体をもたらせて係留する船を見ている。
船はひっそりと静まり返っている。時折、車が橋を通過していく。
「あの・・」
信子が真吾のほうを向いた。
真吾は黙って信子の身体を引き寄せて、唇を合わせた。
ぺったりと唇が合わさる感触が不思議だった。
「やっぱり・・」真吾が信子の肩から手を離すと、信子の目が潤んでいるのが分かった。
「神様の言うとおりにして・・よかった・・」
「キスも夢に見たの?」真吾は少し頬に血が上ってくる感触を味わいながら、信子を見ている。
「はい・・ゆうべです・・」
嬉しそうに、信子は答えていた。

翌朝、真吾は絵里の携帯電話に電話をかけてみた。
「おかけになった番号は・・」味気のない機械の女性の声が聞こえる。
諦めた。
・・あの女、ああやって、男を漁っては何かをせびり倒すんだろうなあ・・
そう思った。腹が立つよりも、乗せられた自分が情けなかった。
しかし、昨日、信子と不思議な出会いをした。
夢がどうのと言うのは、正直言って合点が行かないが、信子本人は可愛くて、女の子らしい性格で、かえって良かったような気がした。
初めてのキスが新鮮だった。ペたっという感触が、あんなものだろうかと不思議な気もした。
昨夜は明石駅で別れた。
お互いに電話番号を交換したし、信子は彼の家の場所も詳しく訊きだしてきた。
今日は彼は休みだった。
出かけようにも小遣いを使いきってしまっているから、どうしようもなく、射し込む朝日に、このまま寝ていようと腹をきめた。
昼まで眠った。
けれども、昨日会った信子に会いたくなってきた。
彼女は三宮の百貨店にいるという。

三宮駅前の老舗百貨店の地下、お菓子売り場に信子はいた。
売っているものが、結構、高級志向のお菓子で、販売と同時にほとんど必ず熨斗紙をつけ、表書きをしなければならない。
何人かのお客が続いて、ようやく一息ついたとき「信子さん」彼女を呼ぶ声が聞こえた。
真吾が照れたような笑顔で立っていた。
「来て下さったんですか!」
照れた表情を隠せず、うんと頷いて「今日は何時まで?」と真吾は訊いた。
「今日は早番で、4時までなんです!」
嬉しそうに彼女が答えた。
「もう少しだね・・阪神の改札前で待っているから・・」
真吾はそれだけを言うと軽く手を振ってそこを離れた。
信子の同僚が彼女をからかう様子が見えるような気がした。
信子は、嬉しかった。
正直、昨日必死で彼を射止めたものの、本当に続いてくれるかは不安だったのだ。

「今日は、俺が来る夢は見たかい?」
三宮の歩道橋で真吾は信子に訊いた。
「それが・・」
「見なかったのかい?」
「はい・・」
「じゃ・・どうしよう?」
「きっと大丈夫です・・一緒にご飯食べましょう!」
信子は頬を赤くして、きれいな笑顔を見せた。
三ノ宮駅の売店の横を通り過ぎた時、真吾は見たことのある顔を見つけた。
売店に売り子の格好をして立っているのは・・間違いない・・絵里だ。
「ちょっと待ってね・・」
信子にそういい、彼は売店に向かった。
「すみません!缶コーヒー!」
忙しく立ち働く絵里にそう声をかけた。
「そこの扉、開けてとってくれる!」
つっけんどんに叫ばれる。
「分かりました・・絵里さん!」
え・・絵里はまじまじと真吾の顔を見た。
「こんなに目立つ場所で働いているのなら、あまり悪いことはしない方が良いよ」
「あの・・」
真吾は缶コーヒーのケースから自分で商品を取り出して120円を置いた。
「アルバイト?」
「いえ・・」
「社員なんだ・・もう少し愛想を良くしないと会社の評判が落ちるぞ!」
絵里は凍りついたように立ちすくんだまま、それでも真吾が差し出した小銭をレジに入れていた。
「じゃあな!いいオトコ、見つけろよ!」
真吾は大声で叫んでやった。
そのままそこを立ち去ろうとすると、絵里が叫んだ。
「バック・・ありがとうね!」
真吾は軽く手をあげて分かったよと、合図をしてやった。
なぜか憎めないな・・あいつは・・
そう思った。
信子が待っていた。
「彼女だった・・人?」
「うん・・」
「彼女のことが好き?」
不安そうに訊く信子に、真吾は大きく首を振って答えた。
「まさか・・」

その日、帰りの電車の中で、二人は前向きのシートに並んで座れた。
今日は真吾は彼女の家まで送るつもりでいた。
電車が発車してまもなく、信子が真吾にもたれかかってきた。
見ると、眠ってしまっている。
・・安心したのかな・・昨日も必死だったんだろうなあ・・
真吾は少しおかしくなった。

西明石駅で降りて、彼女の家へ向かう道、駅を出て暫くして彼女はこう言った。
「今ね・・今さっき・・夢の中で、ラーメンを食べて、ぶらぶら歩いて、電車に乗ったの・・」
「今日の行動パターンそのものじゃないか・・」
「そう・・夢の方があとからきたみたいです。・・神様も真吾さんのスピードにはついていけなかったみたい・・」
二人は顔を見合わせて笑った。
お金がないから、ラーメンにしたけれど、美味しかったし、神様も認めてくれた・・真吾はそう思った。
肩を寄せ合って、ゆっくり歩いて、もう少しで信子の家に着くというとき、信子が急に思い立ったように言う。
「あのね・・ちょっと・・お顔を貸してください」
ん?真吾は信子のほうを見た。
信子はあたりを見回してから、真吾に抱きついてきた。
いきなり口を寄せてきた。
「本当のキスって・・こうするんですって・・」



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僕は、あの町を歩いていた。

2005年01月07日 17時00分00秒 | 小説

1995年1月17日、僕は神戸市垂水区の自宅であの大地震に出会った。
ちょうど連休の忙しさがあけて、やっと休みになった最初の日だった。
疲れからか、なぜか深い眠りにならず、切れ切れの夢の中で、いきなり、身体が宙に浮いたような気がした。
そこから先はまさに数十秒の地獄というべきか・・寝室の中のものが全て倒れ、壊れ、僕の身体に降りかかってきた。
揺れが収まって、人心地がついた頃、あちらこちらから女性の悲鳴が聞こえ、それはすぐに小さくなっていった。
別の部屋で寝ていた妻と娘は倒れる家具の間に入って、奇跡的に傷一つおわなかった。

僕は、独身時代に永く須磨区に住んでいた。
須磨区の中でも、山陽電車の南側、板宿、東須磨、両方の駅へいずれも歩いて5分程度でいける交通至便な下町に住んでいた。
この街には古きよき下町の風情がまだ残っていて、粗末なアパートで一人暮らしをしている僕をそれこそ町中の人たちが色々な応援をしてくれたものだった。
垂水区の僕の自宅では何枚かの窓ガラスが割れて、食器類が壊れ、僕の本棚が崩壊して本がすべて部屋中に散乱したくらいで実質的な被害は小さかった。
けれども、夜が明けてから、団地の近隣の友人、数人で裏山に登り、そこから見た、須磨方面から昇る真っ黒な煙は全てを飲み込む絶望に見えたものだ。
午後には電気が通じ、いきなりスイッチが入ったテレビ画面の想像を絶する事態・・
まず、当日と翌日、家族のための水と食料、赤ん坊のミルクとおむつをなんとか数日分、近くのスーパーで並んで確保し、その翌々日、僕は単線で板宿まで再開した市営地下鉄に乗って、板宿へ出むいた。
須磨区在住時、僕をこの街で守ってくれた大切な人や、気の置けない友人達の行方がどうにもわからなかったからだ。

学園都市駅へ出ると地下鉄はほぼ二十分ごとに出ている様子だった。
やってきた電車の車内は、汗と体臭ですえた臭いがした。
人々は顔も黒く、一様にリュックを背負っていた。
「これが、あのお洒落で誇り高い神戸市民か・・」
僅か数日で何もかもがかわってしまった。電車は、ゆっくりと進む。
時折、駅ではない場所で止まっていたりする。
名谷駅手前の下り線の高架橋が崩れそうになっているのが分かった。これを避けるために、単線運転になっていたのだ。
名谷駅では電車の入れ替わりがあるようだった。
隣のホームの電車に乗り換えると、ゆっくりと動き始めた。

板宿駅は普段とさして変わらない雰囲気で、エスカレーターも動いていたし、照明も全てついていた。
けれども駅は人で溢れていた。
僕は懐かしい駅から、外に出た。
山陽電車の南側は何もかもが崩れて傾いて、眩暈がした。
大火はほぼ押さえたものの、まだ火事の煙がくすぶって、あたりを覆っていた。
傾いたビルのいくつかを見て、絶望感を覚える・・これらのビルには知り合いが住んでいるのだ。
そんなビルの下で、今、同じ町に住んでいる西本さんと出会った。
「こんなところでどうされたのですか?」
訊ねると、「僕の会社の横まで火が来てるんや・・大事な書類やらを持ち出してきたところや・・」
西本さんは、靴の町、長田でブランド物の靴をデザインする仕事をしている。昨年に独立して、新長田駅近くのビルに事務所を借りたけれど、そこまで火が来ていると言う。
「仕方ないわい・・燃えたら燃えたまでや・・」
すすけて黒い顔に笑顔を作って「君も、気をつけて歩けよ・・」そう言ってくれて別れた。

大黒小学校を覗いてみた。
入り口でたまたま、知り合いの一川さんのご主人と出会う。
板宿駅前の、倒壊したビルに住んでいた人だ。
「大丈夫だったのですか!よかった・・」
ご主人に案内され、奥さんのいる部屋へ・・教室の奥のほうで、奥さんは窮屈そうに座っていた。

・・ドカーンと揺れたでしょ・・そうしたら、床が抜けたみたいに下へ落ちてね・・部屋が斜めになっているの・・箪笥も食器棚もひっくり返ってね・・それでもなんとか二人は無事だったのだけれど、あたりは真っ暗だし、どうすればいいか分からないし・・この人ったら、落ち着こうやって言いながら煙草に火をつけようとするねんで・・信じられへんやろ。わたし、思わず殴ったがな・・あんた!このガスの匂い、分からへんのかいなって・・

まるで漫才のように、笑いながら語ってくれる。
僕のほうが逆に元気を貰った感じだ。リュックの中からおにぎりとお茶を出して渡すと「ありがとう・・ご飯が少ないの・・」そう言って、手を合わせてくれた。
小学校の玄関へ戻ろうとすると、ここに住んでいたころの悪友、中松君がこちらへやってくるのに出くわした。
二人で再開を喜んで思わず彼の手を握り締めた。
「車が壊れてしもてん」彼の第一声はそれだった。クルマの好きな青年で、特にトヨタの小型スポーツカー・レビンの大ファンだった。
少し以前に新型を購入したと電話をくれていたので、そのときの彼の喜びを思うにつけ、気の毒になってきた。
なんでも立体駐車場に入れていたのだが、その駐車場が倒壊し、クルマはそこから放り出され、外の電柱に串刺しになってしまったと言う。
諦めたように、けれど妙に明るく彼は語ってくれた。
彼に案内されて、グランドへ・・懐かしい顔がたくさん集まっていた。
湯を沸かしているようだった。
「川で水をくみ上げてな・・湯でも沸かせば、なんかに使えるやろ・・」
川の水であり、飲める水ではないけれど、身体をふくことくらいは出来る・・それと校舎の中では暖房がなく、外で、壊れた住宅の残骸を集めて焚き火をしていたほうが暖がとれるのだという。
内装工事の会社をしている林さん一族が中心になってやっていた。
「あれ・・社長さんは?」僕が尋ねると、「マンションの横で警察に付き合っている・・」とのことだった。
ここでは何人かの消息がつかめた。

自動車販売会社に勤めていた下川君一家の状況は大変だった。
彼には二人の子供がいた。上の子は女の子で5歳になったばかり、下の子は男の子でまだ1歳だけれども、生まれてすぐに心臓の病気があることが分かり、最近手術をしたそうだ。
手術は神戸市の中央市民病院で、手術そのものは上手くいったけれども、術後の管理が予断を許さない状況で、母である彼の妻は病院で付っきり、の看護をしていた。
上のお嬢ちゃんは、彼の母親・・お婆ちゃんの家に預けられ、長田区の山の手にいた。
彼一人、自宅にいて、毎日仕事に出かけていたそうだ。
そこにおきた大地震、中央市民病院は停電となり、手術後の息子さんの生命維持が極めて危うい中、医師や看護婦、それに彼の妻も加わって、人工呼吸器を手動で動かし続ける事態となった。
上のお嬢ちゃんがいた長田のお婆ちゃんの家は、崩壊し、崩れた住宅の下敷きになって、お嬢ちゃんは亡くなってしまった。
可愛い、おしゃまなお嬢ちゃんだった。
夜にお邪魔すると、良くお母さんと台所のカウンターで何かをしていた姿が思い出される。
洗い物の仕方を教わっていたのかな?
下川君の会社の建物も危なく、商品も被害にあい、彼の自宅は激震のど真ん中でありながら、頑丈に残ったのに、人生の苦しみが一気に攻めてきてしまった。

僕がこの町にいる頃、隣保に住む不動産屋さんん、桑田さんの奥さんがいつも、様々に気を配って、おかずや、おやつの差し入れをしてくれた。
桑田さんの住んでいた住宅も古い木造住宅だった。
揺れ始めてすぐに、住宅は倒壊してしまった。ご主人は難を逃れたけれど、奥さんは天井の梁の下敷きになってしまった。即死だったそうだ。顔も身体もきれいで、ご主人はいつまで寝ているのかと思ったそうだ。
奥さんの遺体はなんとか隣保の人たちが外に出したけれど安置するところがない。
仕方がなく、解体予定で誰もすんでいなかった市営住宅の一室に安置したそうだ。そこには隣保で亡くなったほかの方の遺体も運び込まれていた。
数時間してそこを見てみると遺体がない・・
他の方の遺体はあるのに、奥さんの遺体だけがない・・
その場にいた誰もが、息を呑んで、顔を見合わせたとき、ご主人がぽつりとこう言った。
「歩いて行ったんとちゃうか・・」
緊迫した空気が一気に溶けた。
結局、奥さんの遺体は市の職員が気を使って、区の総合安置所になっている区民センターに運んでくれていたそうだ。

校庭の中で竹山さんの奥さんと出会った。
この人のお嬢さん・・妙齢の美人で気さくな人だったけれど、この方が亡くなったことだけは知っていた。
テレビの画面で亡くなった方の名前が報道されたけれど、そのごく最初の頃に名前が出ていた人だった。お名前に変わった字が使ってあったのですぐに分かったのだけれども、テレビ局のアナウンサーはそれぞれ勝手な呼び方をしていた。
ちょうど、僕が住んでいたアパートの川向にあたる場所で、このお宅も古い木造住宅だった。
竹山さんとはその後も、妙な縁があって、僕が板宿で、震災後に商売を始めた時、すぐ近くで、おいしいお惣菜のお店をしておられ、よくお世話になったものだ。
そのときに、お嬢さんの成人式の記念撮影のネガフィルムが僕の知り合いのスタジオにあったので、スタジオにお願いしてお店にお届けしたこともあった。
改めてその写真を見ると、やはり気品の漂う、きれいなお嬢さんだった。

僕は大黒小学校の方々にお礼を言い、それぞれに少しずつ、飲み物とおにぎりを手渡して、そこをあとにした。
内装工事会社の林さんのご主人とも会いたいし、自分の住んでいたアパートのことも心配だった。
まず、妙法寺川公園前の自分が住んでいたアパートを見に行った。
なんと、2車線の道路の真ん中、アパートの2階が放り出されて鎮座していた。
隣にあった喫茶店は影もなくただの瓦礫と化し、店の看板が道路に転がっている。
アパートの隣には1階が駐車場になったマンションがあったけれども、駐車場はなく、マンションの2階がそのまま1階になってしまっている。

僕の住んでいた部屋にあとで入った人は、隣のマンションで娘家族と一緒に生活をしていた婦人だった。
孫も大きくなり、部屋が手狭になったことから、すぐ隣のアパートの、しかも前居住者が自分も良く知る青年・・つまり僕だが・・だった部屋を借りて一人で住んでいた。
地震の当日、この婦人は友人と九州旅行中で、それを家族に知らせずに行っていたものだから、地震の日、アパートの前で、息子さん、娘さんが泣いていたそうだ。
けれども、命からがら逃げ出した同じアパートの方が「奥さん、九州旅行中やで」と、泣いている家族に伝えたものだから、息子さんも娘さんも喜んでいいのか怒っていいのか判らず、不思議な気持ちになったそうだ。
これはもちろん後で聞いた話で、このときの僕は、ひたすら心配するだけで、何も知らなかったのだけれども・・

隣のマンションにはこの頃、アメリカへ家族で長期出張に行っている大石君の部屋もあった。
大石君はアメリカから電話をくれ「部屋は諦めているから、近隣の方々の消息を出来るだけ詳しく教えて欲しい」と言って来ていた。
大石君の奥さんは美香ちゃんといって、美人で可愛くて、僕たち地元青年達の憧れの的だった。けれど、どういう訳かその中でも一番さえなく見える大石君と結婚したものだから、その頃は皆、大石君を見直したり、悔しがったり、美香ちゃんの視力を心配したりしていた。
その大石君の奥さん、美香ちゃんも、実家の様子がわからずに、苦しんでいた。
あとで、彼女のご両親は命に別状はなかったけれども、怪我をして入院していることがわかった。

内装工事会社社長の林さんのマンションに行くと、建物は壁にひびが入っているものの、壊れてはいなかった。
けれど隣の薬局は倒壊し、商品が道路に散乱している。
「社長さん!」
向かいの焼け焦げた住宅の屋根の上に林さんの姿があった。
「おう!お前は助かったのか!」
「僕もそっちへ行きます!」
焼けた住宅に行こうとすると「来るな!この家の人の焼死体があるんや・・いま、警察に見てもらっているところや・・」
そう叫ばれた。
「俺は亡くなった人をたくさん見たけれど、お前はまだ見ていないやろ・・見るものじゃあない・・来るなよ・・」
そう言って、しばらくしてから林さんが降りてきた。
警察官も二人、林さんのいた所から這い出てきた。
見舞いを言おうとしたが、僕はすでに見舞いの言葉も出なくなっていた。
女性が崩れた薬局を見ている。何かが欲しいようだ。
「何かいるものがありますか?」林さんが声をかけた。
見ていた人はビックリしたように、それでも「子供のおむつがあれば・・」と言う。
「待ってや・・」林さんはそう言って、覗き込んでいた人と店の中に入っていった。
おむつの袋をいくらか取り出し「要る物があるときはワシに声をかけてくれたらええからな・・」そう言っていた。
「この店の番もされているのですか?」
「番やないけど、放っておいたらいくらでも持っていかれるやろ・・それでは泥棒やからなあ・・」
「この店の人は?」
「怪我をして、病院に運ばれていってしもてな・・」
長田から始まった大火は、このマンションの壁でとまった。
僕はその様子をテレビで見ていて、このマンションも焼けてしまったかと思っていたのだが、煤で多少黒くはなっても厳然とそこにある姿に安堵した。
けれども、地元の住民達は、この町内で唯一ともいえる鉄筋コンクリート5階建てのこの建物で火を止めないと、町が全て焼けてしまうと必死で消火にあたったそうだ。
妙法寺川から水をくみ上げ、人海戦術でバケツリレーをしたそうだ。つまり建物は偶然、残ったわけではなく、町内の方々が守った結果なのだと分かった。

僕はまだ、今日中に行きたいところもあるし、捜索の邪魔も出来ないのですぐにそこを離れた。
大通りに出ると福田君の実家があった。
外から見ても何も変わったようには見えない。少し離れてよく見てみると、屋根の三角がなくなっていることに気がついた。
福田君は僕と同い年の学校の先生だった。彼は結婚して実家を離れていたけれど、実家には妹さんとお母さんが残っていた。お母さんは2階で寝ていた。
地震の揺れで、こともあろうに屋根が抜け落ちて、お母さんを直撃したそうだ。即死だっただろうとのこと。
けれども顔はとてもきれいだったそうだ。
この人も、明るく、いかにも下町の人と言う感じの人だった。
僕は福田君の実家の前で手を合わせた。

西へ進む。
12階建ての市営住宅がある。そこの前は通行止めになって、自衛隊の人がそこで案内をしていた。
「ここは通れません・・大回りしてください」
そういわれた。
見ると住宅がほとんど倒れる寸前まで傾いている。
・・ここを通れないと遠回りだ・・そう思いながら、しばらく立ち尽くしていると、地面が揺れた。
余震だ。
みしみしと建物の方から不気味な音も聞こえる。
自衛隊員の顔色も変わっていた。
仕方がなく、やや山の手方向へ、先ほどの小学校の前を歩いて、板宿駅に出た。道路は建物が倒壊し、瓦礫が散らばり、その脇ではクルマが渋滞していて、歩きにくい・・
山陽電車の駅は上りのホームも、上屋も完全に崩壊してただの瓦礫になってしまっていた。
下りのホームは地下工事のために仮設状態だったが、こちらはなんともない感じだった。けれども、線路の先を見ると沿線の建物がたくさん崩れて線路に入り込んでいた。
僕は線路を西代まで歩くことにした。ここが多分、歩くには一番安全だろう・・すぐに放置されている4両編成の電車があった。
脱線はしていないけれど、乗客が逃げるのに使ったのか、電車の長いシートが散乱していた。
西代駅まで線路を歩いて、そこから怖い道路を歩く。
上沢通りに入って、僕の母の友人、高地さんの家をたずねる。
夢の台高校近くの高層市営住宅だった。
ここは数棟、同じような住宅が建つ団地だった。
けれども、何棟かの建物は下の階が押しつぶされ、その瓦礫の上に建物がかろうじて乗っかかり、傾いていた。
いったい・・どれくらいの方が亡くなったのだろう・・
高地さんの無事も確かめたわけではない。

この団地は二棟で一つのエレベーターを作ってあって、その二棟の間は各階の橋で連絡されていた。
けれども、高地さんの部屋はエレベーターのない側にあって、エレベーターのある側の建物は完全に倒壊してしまっていた。
僕はまるでバイオレンス映画のような景色を見ながら、階段を昇った。
八階の通路に出ると、高地さんのご主人が盆栽の手入れをしていた。
「大丈夫だったんですか!」
叫ぶと「おお!」と声を上げて招いてくれた。
騒ぎに奥さんも中から出てきた。
家の中はすっかり片付いて、地震などどこであったのかというくらい小奇麗にしてあった。
「すっかり片付いていますね!」
「近所の人たちが、よってたかって直してくれてん」
もう、箪笥の上にも荷物が積んである。
「あんな地震はもう来えへんさかいな・・こうやって積み上げてあるんや」
腹が据わっている人は強い。
それでも、この付近の被害の話になると、奥さんは涙をこぼした。
「あそこでも友達が亡くなって、ここでは、若い人が亡くなって・・こんなに哀しいことは今までにあらへんかった」
長田生まれの長田育ち、戦争も見てきた人だ。
部屋の中は電気がなく薄くらい。

部屋を出るときにおにぎりのパックを貰った。
「たくさんは食べられないから、途中で食べて・・」
ボランティアの人が配ってくれたと言う。重なって余ってしまったけれど、捨てるのがもったいないと言うのだ。
礼を言って、団地を出た。
歩きながらさっきのおにぎりを食べてみた。
僕も、朝、自宅を出てから昼は食べていなかった。
ご飯に芯があって、かみにくい。とてもおにぎりとは思えない。まるで生米を固めたものを齧っているようだ。
パックは二つあって、それぞれに小さなおにぎりが二つ入れてあった。
もう一つのパックはご飯は柔らかだった。でも、味がついていなかった。

僕は兵庫区の平野に向かった。
連絡の取れない妻の親友がいたからだ。
クルマが数珠繋ぎになり、満員のバスが止まったまま動けない道を、ひたすら歩いた。
平野に着いた時はすっかり日が暮れていた。
五宮小学校に入って訊ねてみた。
ここはすでにボランティアの組織が出来上がっているようで、校内もきちんと整頓され、人々の顔もきれいだった。
ボランティアのリーダー格の人が出てきてくれた。
「あ!」「おう!」
僕が板宿に住んでいた時、近隣にいて、よく一緒に飲んだ仲の人だった。
檀上さんと言う。
「檀上さん、どないしたんや・・」
「こっちに越してきて、いくらも、たたんうちにこの地震でなあ・・折角の家も潰れたわ・・」
「で・・今リーダーをしているの?」
「仕事も潰れたし、することないしなぁ・・」檀上さんはそう言って笑った。
そのとき、高校生くらいの女の子が二人、檀上さんに声をかけてきた。
「すみません・・今日の晩御飯・・あたってないのですけど・・」
檀上さんはうんと頷いたあと「僕も食べてないねん・・今日の晩御飯はちょっとしか来なかったんや・・わるい・・明日の朝まで我慢してくれ・・」そう言って少女達に頭を下げた。
「大変やな・・」僕は彼にそう言うのがやっとだった。
「ここは西からも東からも一番遠いから、食料が来ないのや・・そのかわり水はあるし、商店街の一部は明かりも点くんやけどな・・」
「水が出るの?」
「うん・・浄水場が近いからな・・」
それで、この学校には清潔感が漂っていたのか・・僕は納得したけれど、食べ盛りの少女に食べ物があたらないのは辛いだろうと思う。ボランティアも、教師も、今日は何も食べることが出来ず、水ばかり飲んでいたそうだ。
捜していた妻の友人の消息は判らず、僕は自宅まで行ってみることにした。

平野の商店街はもう営業している店まであった。
ここは祇園さんの門前町、古くからの商店街だ。僕が生まれたのもこの近くで、この町の不思議な平静さはこれまで瓦礫ばかり見てきた目にはほっとさせる何かがあった。
妻のメモを頼りに商店街の裏側に入ってみた。
二階建ての文化住宅はひっそりとしていたけれど、意外にも何軒か明かりが点いていた。
妻の友人、沢井さんのお宅にも明かりが点いていた。
玄関の扉をノックすると、見覚えのある、可愛い女性が顔を出した。
妻からのお見舞いと、最後に残ったお茶と果物をリュックから取り出して手渡した。彼女は泣いていた。
「避難所に行っても余りにも人が多くて、居場所がなくて、それでお父さんが、自分の家に戻ろうって・・」
奥からご両親も出てこられた。
「この家、ちょっと傾いとるけど、まあ、どこも壊れてへんしな・・」
お父さんが大声で明るく笑った。僕も釣られて笑った。

僕はそれからすっかり日の暮れた町をひたすら歩いた。
バスも板宿まで長田の山の手を回る便が運行していたけれど、歩くよりも遅かったし、混雑もひどそうだった。
僕自身、平野までの道で、何台、バスを抜いたか分からないほどだった。
途中、湊川公園近くの公衆電話ボックスから会社に電話を入れた。
「いつから出て来れる?」
「宿さえ手配していただければ、明日にでもそちらへ向かいますが・・」
「宿は手配できない。君は大阪に親戚がないのか?」
「親戚と言っても、僕が泊まれるほどのおうちはありませんし、どなたか会社の方のご自宅でも使わせていただければ・・」
「馬鹿なことをいうな!とにかく、出てくる日が決まるまでは毎日、連絡をくれ」
僕が勤めていた会社の部長だった。
どうしろと言うのや!そう叫びたい気持ちを、ぐっと堪えた。
僕の会社は大阪のOBPにあった。
見舞いの連絡一つなく、やっと連絡がついたら出てこいの一点張りだった。けれど宿も誰かの家に転がり込むことも出来ない・・
鉄道はまだ開通していなかった。
会社に行くにはなんとか大阪につながる鉄道の駅まで出る必要があった。
「バイクで西宮まで出てくれば電車で来られるだろう」
そんなことも言われたけれど、西宮までは僕の自宅からは軽く30キロはあった。
原付でこの距離を、それも瓦礫ばかりの渋滞道路を、毎日通うなど、ほとんど不可能だし、ガソリンスタンドすらも僕の住む地域ではまだ復旧していなかった。

腹立たしさと、情けなさと、哀しさが一度に襲ってきた。
僕は疲れた身体を引きずるように、寒く、暗い夜の街を歩いていた。
知り合いの人が一人亡くなっても普段なら、辛さを喪服に着替えて、お悔やみに列することも出来る。
けれど、今回、僕はいったい、何人の大切な人を亡くしてしまったのだろう・・
知り合いの一人の家が、例えば火事で焼けたなら、友人達は集まって彼を激励することも出来る。
けれど、今回、僕の友人の何人が家を失ったのだろう・・

全身を襲う脱力感は、ちょっとやそっとでは取れそうになかった。
西代駅付近からまた、山陽電車の線路上を歩いた。
真っ暗な線路の上、ただの黒い塊になって放置されている電車の向こうには、皮肉ともとれるきれいな星空が広がっている。
・・僕が原付バイクで山越えを敢行し、神戸電鉄の鈴蘭台を経て大阪への通勤を始めたのはそれから四日後のことだった。

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