story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

明けぬ冬

2008年02月29日 18時38分04秒 | 小説

2008年1月、大阪市浪速区恵比須東・・通称新世界・・路地裏、ようやく辺りが薄明るくなった時刻、薬屋のシャッターの前に、今朝も古毛布がうずくまっている。
明るい色合いの毛布は、よく見れば泥がついていて、所々、その泥が乾いてこびりついている。

毛布は時折小刻みに震える。
「こんなとこ居ったら死ぬぞ!駅へ行こうや」
毛布の横を通り過ぎようとしたリヤカーの男が、その毛布に声をかける。
毛布から初老の男が顔を出す。
「ああ・・そやけど、身体が動かへん・・あとで行く・・」
毛布から顔を出した男の顔は無精ひげに覆われ、顔色は黒ずんでいる
「外で一日寝たら、三日ほどは寿命が縮まるさかい・・風のあたらんトコで、休まんと・・」

始発電車が走る時刻になると地下鉄駅のシャッターが開くのだ。
そこでなら、風を避けて休む事が出来る。

リヤカーの男はそう言い残し、何かを毛布に向かって放り投げた。
・・わかっとるんや・・そやけど、身体がまだ動いてくれへんねん・・
毛布の男はそう呟いて、寒さで強張った体を毛布で包み直した。

その通りの少し先に、通天閣が彼を見下ろしているかのように立っていた。

・・会いたい・・
毛布に包まっている男、徳田誠一は心底、そう思う。
自分が裏切ってしまった人たち、なかでも、自分の息子である誠夫・・いやいや、息子以上に今年小学校に入る筈の彼の孫の真一に会いたい・・いやいや、それよりも、彼のかつての女だった由美子に会いたい。
しばらくは抑えていた煩悩が彼を苦しめる。

息子の怖い顔、孫の可愛い顔、そして、彼の女の眉を寄せた表情と、その女の豊かな乳房が、思い起こされる。
こんな時に、俺は女の乳房を思い出すようでは・・彼は自分自身に苦笑した。

ここに来たのは、人間のしがらみから逃れ、彼自身が生きていく上での罪を重ねる事から逃れたいからではなかったか・・
彼はけれども、世間に対して顔向けが出来ないような事をしたつもりはまったくなかった。
ただ、運が少し悪く、ただ、出会った人の中に悪人がすこし居ただけだ。
彼はその悪人たちに騙され、彼にとって味方であるべき人たちを裏切ってしまった。
裏切りたくはなかったが、結果的に裏切る形になってしまった。
もう、迷惑はかけられない・・
彼がこの町へやってきたのはその思いからであった筈だ。

苦しい・・
思わず寝返りを打ったとき、彼の脇腹に挟まるものを感じた。
さっきの、リヤカーの男、「リヤカーの太郎」が投げてよこしたものだ・・
「なんやろ・・」
毛布から腕だけ伸ばして筒のような冷たい感蝕のものを取り上げた。

それは、ワンカップの日本酒だった。
リヤカーの太郎は、駅や公園のごみ箱などで捨てられた雑誌を古本屋に売って暮らしている。
だから日に千円ほどの収入はある筈で、彼がそこから買っておいたとっておきの酒だったにちがいない。

ワンカップを眺めていると、余計に苦しくなった。
彼はようやく身体を起した。
明け方の風が刺すように痛い。
蓋を開け、カップ酒を一気にのみほす。
体の芯が、ぼうっと暖かくなるにつれて、涙が出てくる。
「俺は、ここでも、誰かに迷惑をかけて生きているのだ・・」
そう思うと悔しくなる。

あんなに冷たい体だったのに、涙は温かく、彼の頬を濡らしていく。
・・由美子、会いたい・・

いつも説教染みた話ばかりしてくれていた彼の女の名を、おもわず、口に出している。
別れたつもりもないし、由美子にここに居ると連絡を取ったこともない。
ただ、彼とつきあうことで、由美子は夫に黙って家庭の金を差し出してくれている・・その事だけが申し訳なく、黙って彼女の前から姿を消したのだ。

神戸の市営住宅を、家賃滞納で追い出されたとき、彼は身の回りのものだけを持って、放浪を開始した。
本来、入ってくる筈の年金は借金のカタにとられ、彼のもとには一円の金も入ってこない。
そんな彼が最初に連絡を取ったのは、やはり由美子で、その日、由美子は彼に居酒屋で飲食をおごってくれ、そのあと、一晩を町中のラブホテルで過ごさせてくれた。
由美子はいつも眉間に皺を寄せて彼に説教じみた話をしてくれるが、それは彼への思いからだという事は彼には痛いほどよく分かる。

その翌日、由美子は別れぎわに彼に封筒を手渡した。
「ごめんね・・今、これだけしか持ち合わせがないの・・居所が決まったら必ず連絡ちょうだいね・・」
由美子が今にも泣き出しそうな表情でくれた封筒には10万円が入っていた。

あの日の、最後の夜に見た由美子のあの乳房が思い出され、彼は今、煩悩に苦しんでいる。

酒で体が温まってきたからか、ようやく、誠一はそこから起き出すつもりになった。
ようやく明るくなった町の風景であるが、人影はまだない。
誠一は胸のポケットから手帳を出して開いた。

写真が2枚、その手帳に挟んである。
1枚はあどけない顔をした彼の孫、真一の3歳の姿・・
そしてもう1枚は、鮮やかなワンピースに身を包んだ由美子の姿。

「会いたいよ・・」
そう呟いたとき、「嫁はんと息子か?いや、孫かな」という声が耳元から聞こえた。
驚いて振り返ると「リヤカーの太郎」が、リヤカーを引かずにそこに立って、彼の手元を覗き込んでいた。
「びっくりしたやんけ・・太郎はんかいな」
「いやいや、心配してるねんで・・他の奴等も心配しとるさかいに、わしが代表で見にきたんや」
「おおきにな・・心配は要らんで・・」
「誠一さん・・あんた、顔が黒いな・・どこぞ、内臓が悪いんとちゃうか・・」
「顔が黒いんは、みんな一緒やろ」
そうやり返されると「リヤカーの太郎」は笑みを浮かべたが、すぐに「あんたの顔の黒いんは、病的なものなんや」と小さく呟いた。

「そらそうと、孫と嫁はんか?」
「うん・・こっちは孫や、こっちは嫁と違おて・・女や・・」
「嫁と別に女がおるんかいな・・なかなか捨ておけんやつやな」
「長い事、会うてないんやな・・なんや、急に会いとうなった」
「ふ~ん・・」
リヤカーの太郎は腕組みをして、誠一を見つめ続けた。

「なんや・・わしの顔になんかついとるか?」
誠一はまり長い事見つめられるので、不審に思った。
「太郎はん、なんかあんのか」
リヤカーの太郎は、しばらく考え込んだあとで、思いきったように言った。
「誠一はん、そのお孫さんはどこに居てはりまんのや」
「孫でっか?神戸やけどな」
一瞬、また太郎は考え込んだ。
そして思い切ったようにこう言った。

「誠一はん、あんた、いっぺん、神戸に帰りなはれ!お孫さんに会ってきなはれ!」
「帰るっちゅうても、電車賃もあらへんし・・」
「電車賃くらい、みなでなんとかするわいな!」

2008年2月初旬、神戸市垂水区。
人工の砂浜の、夏にしか使わない海水浴休憩所の建物の影で誠一は一人、ダンボールに包って苦しんでいた。
体が重い。
海から吹き付ける風の強さに、早くここを出て行かなければとは思うのだが、新世界とは異なり、ここでは野宿生活者が生きていけるような条件は何も存在しない。
大阪の都心部とはことなり、冬の季節風は自然のままに容赦なく彼の体から体温を奪う。
暖かいものがほしい・・

孫に会いたく、彼は息子の住んでいた筈の辺りを捜しまわった。
息子は既に何年も前に、住居を変更していて、どこへ行ったのか、まったく分からなかった。
しかたなく、海岸の公園でしばらく落ち着くつもりでいたけれども、この町では飲み水以外のものは、何も手に入らない。
駅やコンビニのごみ箱を漁る日が続いた。
「大阪へ戻ろうか・・」
そう思っても、孫の顔を見なければ大阪に戻りたくはない気持ちが強い。

健康で文化的な生活を営めない人間は・・日本国民失格やの・・そう呟きながら、行政から見放された日の事を昨日の事のように思い出す。
「家賃の滞納が半年にもなりますので強制退去していただきます」
玄関に現れた公務員は彼にそう宣言した。
「ここを追い出されたら、わしはどこで暮らしますのや」
「そんな事は、神戸市の知った事ではありません」
何も滞納したくて滞納したのではない。
年金が入らなくなり、収入がほとんどなくなってしまった彼には払いたくても払えないのだ。
区役所の窓口でも相談をしてみたが、窓口の職員はまるで邪魔者を追い出すかのような対応だった。
・・あんたらは、ええわな・・そこに居るだけで収入が充分にあるのやから・・
その悔しさは、彼が神戸を離れる大きな要因のひとつだった。

公園の目の前を大阪へ向かう電車が走っていく。

「どこか、ガードの下ででも、当面の棲み家を探し直そう」
彼は、ようやくそう決心し、立ち上がろうとした。
立ち上がった瞬間、崩れるように倒れた。
「このままでは、凍死やないか・・」
彼は精一杯の力を使って立ち上がった。
体が重く、腰から下が自分のものではないようだ。

強風に松の木が揺れ、海に白波が立ち、淡路島がくすんで見える。
風に雪が交じり、何箇月も洗濯をしていない衣服の隙間から、塩水と雪を含んだ風が容赦なく襲いかかる。

大事にしていたダンボールを捨て、誠一は身体ひとつで歩き始めた。
一歩、また一歩・・
重い体を引きずるように、海からの風から逃げるように彼は歩いていく。

こじんまりとした建物のかげて、ようやく誠一は一息つく事が出来た。
けれども、休んでしまえばもう、歩き始める事が難しい。
彼は建物の壁にもたれながらポケットから手帳を取り出した。
2枚の写真。
そして、そのページに書かれている彼の息子と、由美子の住所、電話番号。
せめて、息子の居所ではなく、最初に由美子のところへ連絡が出来たなら・・
そう思ったが、由美子がかつての面影もなく落ちぶれた彼の姿を見れば、どう思った事だろう。

会いたい・・
今となっては由美子の肌は恋しくも遠い存在だ。

やがて、その建物から女性が出てきた。
「どうされたのです?しっかりなさって!」
誠一にはもう、言葉を出す力もない。
「とりあえず、今からここへお泊まりなさい!」
彼は首を振った。
恩を受ける理由などない。
「ここは教会が作ったユースホステルです。安心して、泊まって下さい」
女性はそういうと、建物の中へ人を呼びに行った。

数日後、由美子は神戸市内の救急病院へ走っていた。
昨日、病院から誠一が危篤だという連絡を貰った。
誠一が看護士に渡した手帳に由美子の連絡先が書いてあったというのだ。

仕事も休み、急いで病院へと由美子は向かう。
連絡が携帯電話にあったので、家族に知られる恐れはない。

由美子は必死で急いだ。
駅からタクシーに・・クルマの中でも走り出したい気持ちを抑え、病室の扉をようやく開けると、看護士が一人、ベッドの傍に佇んでいる。
「ご家族の方ですか?」
それには答えず、「連絡を頂いたものですから」とだけ看護士に言う。

看護士は気を利かせて出ていった。
誠一らしき人物はベッドに横たわっている。
痩せた頬、無精ひげは、かつての精力的な誠一を思い起こさせないほどだったが、それでもそこに横たわっているのは紛う事なく誠一その人だ。

「どこへ・・どこへ行ってたのよ・・」
思わず思いが口を衝いて出る。
「連絡もくれなくってさ・・」
その時、かすかに誠一の目が見開いた。
「誠さん、あたし・・分かる?」
誠一がじっと彼女を見ている。
「あたし、由美子・・」
「ユミちゃんか・・会いたかった・・」
誠一はゆっくりと腕を動かし、由美子の頬を撫でた。
「会いたかった・・」
彼の手はゆっくりと由美子の胸のところへ向かい、彼女の乳房の辺りをまさぐる。
彼女は、求められるままに、衣服のボタンを外し、彼の手を受け入れた。
「会いたかった・・」
そう、呟いて、誠一は目を閉じた。
彼の手から力が抜け、彼の腕は静かにベッドの上に落ちていく。

「誠さん!」
由美子は必死に彼の名を呼ぶ。
彼に一瞬だけ触られた胸に残った感覚が離れない。
由美子の声に、看護士が二人、ドアを開けて入ってきた。

由美子が連絡を取った誠一の息子、誠夫とその妻、そして誠一の唯一の孫、真一が連れだって病室に入ってきたのはそれから、数分あとの事だった。

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