story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

少女ゆかりへのレクイエム

2004年09月25日 10時10分00秒 | 小説
私には忘れられない人がいる。
誰にでも、これと似た話はあるし、私自身にとっても彼女だけが忘れられない人であるというつもりはない。
けれども、この時期、秋の頃になると、かすかな憧れがよみがえり、いつもこの物語を何かに書き残そうとしていたのだ。
その思いは、そう、あの散髪屋のシャンプーやクリームの入り混じった匂いとでもいえようか・・その清潔な香りと共に湧き上がってくるのだ。

*始業式の日*

昭和49年、加古川。
加古川市と高砂市の境目近くにH中学校がある。両方の市の生徒が通う珍しい学校で、市立ではなく、組合立になっていた。
校内に小さな川が流れており、川の両側には柳の木が植わっている。
学校のすぐ西側には兵庫県で最大の川、加古川が流れ、周囲は新興住宅が開け始めたばかりの田園地帯だった。
学校の校舎は2階建ての木造で、同じような校舎が三棟と事務棟、特別教室棟の、いずれも木造の大型の建物が並ぶ姿は壮観で、当時の生徒数は1500人ほどもいて、各クラスは40人以上、各学年には12クラスがあるマンモス校だ。

2年生の始業式の日、初めて入った2年生の教室で西野浩一は胸をときめかせた。
彼の座った席の斜め後ろに、飛びきり美人の梅田ゆかりが座っていたからだ。
すらりとした細身で、背は小さいけれど、目が大きく、魅力的な口元、ショートにした髪がひときわ輝いて見えた。けれど、ずっと彼女のほうを見ていることはなぜか恥かしくて出来ず、時折、用があるような振りをしてそちらを見るのだった。
彼女の噂は聞いていたし、彼の母親が彼女の両親と知り合いということもあり、これまでも何度か話がしたくなる不思議な感覚を味わってはいて、それでも声をかけることも出来なかった彼女が、すぐそこにいるのだ。
何度目かに浩一が振り返ったとき、ゆかりと目が合った。
ゆかりは彼を見て、軽く微笑み返してくれた。浩一は知らん顔をして、前を向いた。頬に血が昇っているのを覚えた。
「梅田さん、また一緒になれたね」
男子の声がする。誰だろう?
「ほんまやね・・大久保君とも付き合いが長いねえ・・」
彼女の声だろうか、以外にも関西弁の、穏やかな、ちょっと低い声が聞こえる。彼女と話をしているのは誰だろう?
浩一は、教室の後ろにある棚に何かを取りに行こうと、思い立った。
何もそこから取る物があるわけではない。ゆかりと話をしている男子を確かめたかった。
立ち上がり、できるだけ怖い顔を作って、彼は後ろの棚ヘ向かった。
ゆかりの横に座っていた、色白の男子が、盛んに彼女と話をしていた。
棚のところまで来ると、背の高い、制服の違う男子が立っていた。
「君は、どこに住んでるん?」
いきなりその男子が声をかけてきた。
「ぼくか・・うーんと、神吉やねん。」
「あ!神吉かぁ・・一緒やなぁ。よろしく!」
「転校してきたんか?」
「うん、神戸からや!」
「へえ・・ぼくも1年の時、大阪からきたんや」
男子は村下正明といった。世事に長けていそうな、大人びた感じだったけれど、浩一自身も大阪からの転校組だったから、親近感が沸いた。
正明は浩一が適当なものを取り出して席に戻るとき、一緒についてきた。
話をしている大久保とゆかりのあいだにはいって、いきなり口をはさんだ。
「おれ、村下正明!神戸からきたんや!よろしく!」
「ええ!神戸から!私、梅田ゆかり、よろしく」「おれは、大久保庄司、よろしく」
浩一は出遅れてなるものかと、思い切って喋った。女子に声をかけるなんてしたことがなかった。
「ぼく、西野浩一!ボクも1年で大阪からきてんで!」
庄司は浩一が喋っているとき、ゆかりの顔を笑ってみていた。
「西野君・・私のお母さんと西野君のお母さん友達やねんて・・知ってた?」
ゆかりが浩一に声をかけた。浩一は真っ赤になってしまった。
「梅田さんのお母さんと・・ふーーん、知らんかったわ」わざとそう言った。言ってすぐ激しく後悔した。
正明とゆかりがすぐに話題を変えて喋っている。庄司はごく普通に会話に入っていった。浩一だけは立っているだけで会話に入れない。
やがて、新任の教師が部屋に入ってきて、会話が途切れた。

*野外活動*

授業でも、ゆかりは賢さが抜きん出ていた。
積極的に手を挙げて発言する。体育だけは苦手なようで、よたよた走る姿が教室での授業とは違う魅力をふりまいていた。
浩一の眼はいつもゆかりのほうを向いていた。
ゆかりが浩一を庄司や正明と同じ仲間と捉えてくれたのか、いつも彼女から声をかけてくれ、女子とはまともに話も出来ない浩一も自然に会話に乗れるようになっていった。
席替えがあって、浩一の席がゆかりの斜め後ろになったとき、窓側だったゆかりの姿が午後の光に浮きあがり、浩一は溜息をつきながら彼女を見ていた。
春の風が吹く。
開け放された窓に軽くゆかりの髪が揺れる。
彼女はショートばかり好んでいたようだから、決してなびく感じではないが、かすかに揺れる額や襟足の髪は、浩一の心に切なさという感情を植え付けた。
そんなとき、野外活動で市内の研修施設に宿泊した。
同じ部屋には偶然、浩一、正明、庄司と、庄司の小学校時代からの友人、高田靖男がいた。
一部屋は十数人で、一クラスの男子の半分が同じ部屋になっていた。
夜・・明かりを消してから、ヒソヒソと先輩から受け継いだ会話が始まる。
野外活動で好きな女の子の名前をお互いに言い合うのだ。
「さ・・みんな・・一人ずつ、名前だけ言おうやないか!」
靖男が場を仕切り、小さな声で言う。
「おまえから言えよ・・言い出しっぺやろう・・」
そうや、そうや・・口々に皆が言う。「あほか!何で俺が先やねん!」靖男が大きな声で反論する。
「こらあ!」「早く寝なさい!」教師の怒鳴り声が飛ぶ。
部屋の皆は一瞬静かになった。教師が部屋の扉を開けて覗く気配がする。
教師が去ってしまうと、靖男がまた切り出した。
「ほなら、俺から言うわ・・そのかわり・・みんなも言えよ・・」
「おう・・はよ言えや・・」庄司が声を殺して言う。
「おう・・おれはな・・ゆかりや・・梅田ゆかりや」
おお・・静かな感動のようなものが広がった。皆の気持ちが高ぶる。
「今度は大久保、村下、西野の順番やぞ」
靖男が勝手に決めて言う。
「大久保・・」そう促され、庄司が小さく喋った。
「梅田ゆかりや」
「村下・・」靖男が正明を指名する。
「めっちゃ・・好き言うのは居らんが・・強いて言えば梅田ゆかりや」
「西野・・」浩一も指名された。
「梅田ゆかり・・ほかにええのは居らんわ」
次々に名前を出していくと、ほとんどのものから出たのが梅田ゆかりの名前だった。
部屋の中に奇妙な連帯感が生まれた。ゆかりのどこがよいか・・その話になった。
「ああ・・ゆかりの裸を見たいなあ・・」そんなことを言うものまでいた。
「あいつとやれたら、ええやろなあ・・」
少年達は眠ることを忘れ、一人の少女の姿だけを暗闇に描き、けれども、お互いに自分はなんとなく、彼女に相手にしてもらえないのではないかと、少女の大人びた表情を思い起こしては溜息をつくしかなかった。
性を夢みても、だれも立ち入ったことのない世界だ。
「あいつは・・ゆかりは・・俺らのことは何とも思っとらんやろなぁ・・」靖男がふとつぶやいた。
「いや・・おれは頑張ってみるで」庄司は恥かしげもなく言い放つ。
浩一は自分の不細工な顔や姿を思い起こし、諦めながらも、諦めるとは言わず、黙っていた。
「よし!庄司!お前頑張れ!」
正明が言った。「俺はあの程度のオンナは別に惜しくない。お前に預けるから、頑張れ!」
「ありがとう・・頑張るぞう!」庄司が叫ぶ。
「俺も、ゆかりはお前に預ける!お前があかんかったら、俺が頑張る!」
靖男が宣言する。
浩一は何も言わず、布団にもぐりこんで寝た振りをしていた。

*理髪店*

「西野君、いっぺん、うちのお店においでって・・お母さんが言ってたわよ」
ある日、ゆかりが屈託なく、浩一にそう言った。
彼女の家は理髪店を営んでいた。浩一の母親もかつては神戸の理髪店で働いていたこともあって、母親同士は以前から気が合うようだった。けれど、浩一の自宅からゆかりの家までは遠くて、その店に行ったことはなかった。
「うん・・そない言ってくれるんやったら、いっぺん、行くわ」
浩一は素っ気無く答えながらも飛び上がりそうに嬉しくなった。
彼女の家にいける。
それも堂々といける・・そう思った。
「大久保とか、高田とかは、梅田さんのお店に行ってるの?」
「うううん・・来てはれへんよ・・」ゆかりはそう言って、にこりと微笑んだ。
彼女が、僕に微笑んでくれる・・浩一は、さらに嬉しくなってしまった。
数日後の日曜日に浩一は、ゆかりの親が経営する理髪店に行った。浩一が店に入ると、彼女の両親が愛想よく迎えてくれ、二階に居たゆかりに声をかけて下ろしてくれた。
浩一が散発をしてもらっている間、ゆかりは後ろの順番待ちの椅子に腰掛けて、面白おかしく学校の話をしていた。庄司や正明、靖男の話だった。
「大久保君たちのことは分かるけど、西野君は学校ではどうなの?」
ゆかりの母親が頭を洗ってくれながら、ゆかりに訊いている。
「西野君って・・おとなしいもんねえ・・」
僕はおとなしいのか・・浩一は妙に納得して、それでも、彼女が自分を見てくれていることが嬉しかった。
「僕・・おとなしい?そんな気はないねんけど、そうかなあ?」浩一は頬に血が上ってくる感触を味わいながら、訊き返した。
「おとなしいわ・・でもねえ・・やさしそう!」
ゆかりはそう言ったかと思うと、笑った。
明るい、きれいな笑い声だった。
その日、浩一が自宅へ帰る自転車は、空を飛ぶようだった。
うれしくてうれしくて、心の中が一気に花畑になったかのような・・田んぼの中を、風切って彼の自転車は走った。

*修学旅行*

浩一はカメラが好きだった。
彼の父親は彼が中学校に入ったころ、病気で亡くなったけれど、父が彼に残したものにカメラの趣味があった。
修学旅行はカメラを正々堂々と使える最高のチャンスだった。
浩一は班の写真係になって、父が残した小型のカメラを使う・・彼にとっては思い通りのチャンスを得たわけだ。
けれど、3年生になる時にゆかりとはクラスが分かれてしまっていた。クラスは12組もあるから、2年の時に同じクラスだったクラスメイトとまた3年で同じクラスになれる確率は12分の1で、奇跡は起こらなかったわけだ。
浩一は修学旅行の先で、ゆかりと偶然、そばに寄れるチャンスを待っていた。
1日目、白糸の滝、富士山5合目、チャンスはなかった。
彼のカメラに写ったものは、美しい富士山と、同じ班の男子女子のふざけた表情ばかりだった。
箱根に泊まって、2日目、美しい芦ノ湖の景色、やはりふざけた班の仲間達、そして、バスの影にいたゆかりを見つけて声をかけた。
「梅田さん!」
え・・彼女は振り向いてくれたけれど、逆光で、まだ現像する前から結果はわかってしまっていた。
川崎の遊園地に泊まって、3日目、東京タワーでようやく彼女を捉えた。
「梅田さん、もう一回!」
はい!明るく振り向いてくれたゆかりを浩一のカメラは正確に写しこんだ。
「おい!西野!よかったな!」
後ろからかけられた声に振り向くと、靖男が笑顔で立っていた。
「なにが・・」
「隠さんでもええよ・・梅田の写真が撮れてよっかったやないか」
何日かあと、学生服とセーラー服のシンプルな制服、その何人かと共にゆかりが、控えめな笑顔でこちらを向いている白黒写真が出来上がった。

*ピアノ*

ゆかりはブラスバンドにいた。
3年生の運動会で、最後の演奏がある。
埃が立つグランドで、彼女はブラスバンドの中では一番小さな楽器、ピッコロを吹きながら行進している。
トロンボーンだの、トランペットだの、ドラムだのに混ざって列の真ん中あたりで彼女が小さな小さな楽器を吹きながら歩く姿に少年達は心を躍らせた。
体操服の少女は一生懸命に楽器を吹きながら歩く。
小柄な彼女によく似合うその楽器は彼女の宝物のようだった。
浩一は得意のカメラでその姿を写そうとするけれど、ゆかりは列の中ほどに入ってしまって、うまく撮影できなかった。
そのゆかりは合唱コンクールではピアノも弾いた。
本当はこちらのほうが彼女らしい、趣があった。
中学生の男子に、それもまともに音楽の授業など受けていない彼らに、ゆかりのピアノのうまさがわかるはずもなかったけれど、彼らは一様にゆかりが間違えずにピアノを弾いたことを誉めていた。
もちろん、ピアノを弾くのはゆかり一人ではないし、他にも間違えずに弾いた者はあっても、そんなことは関係がなかった。
「彼女は・・ちょっと悲しい曲の弾き方をするわね」
音楽の教師がそう呟くのを聞いて、少年達はそうなのかと思う程度だった。
けれど、ゆかりが、悲しい弾き方をする・・その悲しさを知りたかった。
単純な少年達は、その悲しさを知りたくて、自分でもそれを知れば何か、彼女の力になれる気がしていた。
当時のゆかりに、悲しみなどはなかったのかもしれない。同じ年の少年達には理解しがたい感受性が、彼女のピアノを悲しい音色にしていたのだろうか。
彼女はいわゆる深窓の令嬢ではなく、彼女の口からしばし発せられる播州弁は、余計にゆかりの存在感を強くしていた。
白い肌、強くて大きな切れ長の目、整った顔立ちで、ルージュなどなくても赤く艶のある唇。
彼女が使うと、上品とは思えない播州弁も特別の言葉だった。
軟らかく、はんなりと、ゆったりと・・
けれども、ちょっと癇癪持ちのところを見せることもあった。
3年生も、もう終わり近く、放課後、浩一は正明と共に、ゆかりと同じクラスになっていた庄司を訪ねて、そのクラスに部屋にいた。
別に用事はなく、ただ叫んで、走り回っていた。
ゆかりがまだその部屋にいて、同じブラスバンドの女の子となにやら一生懸命に喋っている。
彼女の気を引こうとしてか、少年達は思い切り奇声を上げて走り回っていた。
木造校舎も彼らの卒業前にようやく一学年分だけ、新築の鉄筋コンクリートに変わっていた。
コンクリートはよく音が反射し、暴れる音はそこら中に広がる。
「うるさいやんか!」
大きな声がした。鬼のような形相で、ゆかりが浩一を睨みつけて立っていた。
「あたし、大事な話してるねん!自分の教室で暴れてんか!」
彼女は仁王立ちになって、浩一がそこを立ち去るまで、動く気配がなかった。
「ほんまに、いつまでも餓鬼やねんから!」
浩一、正明、庄司は恐れをなして教室から出て行った。
「あいつ・・梅田のやつ・・怒ったら怖いなあ・・」
「今までで一番怖い怪獣やわ・・」
「俺・・今夜眠られへんかもしれん・・」
少年達は口々にそういい、けれど、彼女の変化がまた楽しく、そのまま並んで家路についた。

*病院*

卒業をし、少年達はバラバラの進路を進んだ。
ゆかりは関西でも有数の進学校である私学に進んだ。誰も大阪で寮に入っている彼女のことは分からなくなっていた。
その年の、ちょうど夏休みに入った頃、庄司が倒れた。
浩一は庄司の母親から連絡を貰って、正明、靖男と共に庄司の入院している市民病院に見舞いに行った。
教えてもらった病室の前に来ると面会謝絶の札がかかっている。
どうしようかと躊躇している彼らの前に、折りよく庄司の母親が現れた。
「あら・・みんな折角来てくれたのに・・」
庄司の母親はそう言って残念そうだったけれど、しばらく考えて、彼らを少し離れたところまで連れて行き、こう言った。
「うん・・やっぱり入ってもらうわね。庄司は死ぬかもしれないの。最後になるかもしれないし・・だけど、庄司にはこれは言わないでね・・約束できるなら、あってもらうけれど・・」
3人は黙り込んでしまった。
しばらくして靖男がやっとの思いで口を開いた。
半分泣きながら、それでもこらえて喋ろうとする。
「俺・・よう会いません。・・俺・・そんなん・・」
浩一は、ふと思いついたことがあった。
「あの・・出来たら、もう一人、呼びたいのですけど・・」
彼はそう言うと、公衆電話のところに走った。ゆかりの両親が経営している理髪店に電話を入れた。
電話番号は散髪してもらった時に貰った小さなカレンダーに書いてあった。・・今は夏休みや!梅田は帰ってるやろ・・
そう確信していた。
ゆかりは夏休みで自宅にいた。
庄司のことを頼んでみた。
彼女が迷うだろうかと浩一は思っていたが、ゆかりはあっさりと「すぐに行くわね。待っていてね」そう言ってくれた。
20分ほどして、ゆかりが病院のロビーに現れた。
ピンクのジャケット、白いミニスカート、久しぶりに見るゆかりは、大人びていたけれど、少し疲れている感じがした。

庄司の病室にまず浩一、正明、靖男が入った。
「おう!どないや!入院してるって・・聞いたからな」
正明が努めて明るく言う。
「ありがとう!しんどくてなあ・・」
ベッドのなかで顔を上げた庄司の顔を見て、少年達は一瞬、腰を引いた。
顔面が全て黄色になってしまっていた。典型的な黄疸の症状だが、少年達にわかるわけもない。彼らには、異常という事だけが理解できた。
「今日は、もう一人、お客さんが来られています」
正明がおどけたように言う。靖男は口をキッと結んだまま何も言わない。
「誰かな?」
庄司が不思議そうに訊く。
「どうぞ!」浩一が扉の向こうへ声をかけた。
「大久保君、どないしたん・・元気そうやわ。入院してるって・・びっくりしたんやで・・」
明るく、ゆかりが入ってきた。
「おおう!」庄司は身体を起こしてゆかりを迎えようとしたけれど、ゆかりはそれを手振で遮って、庄司の枕もとに座った。
しばらくして少年3人は部屋を出た。
部屋の外で待つことにしたのだ。
個室からは明るいゆかりの笑い声と、庄司、庄司の母の声が聞こえる。
靖男は病院の廊下にうずくまって泣き出してしまった。
「案外、大丈夫かもなぁ・・」正明が言う。浩一も、そうかもしれないなあと、ぼんやり思った。

*その後*

それから3年後の春、浩一はすっかりなじみになったゆかりの両親の店へ散髪に行っていた。
「西野君、ゆかりが帰ってきているの」
ゆかりの母がそう教えてくれ、いつかのように店の二階に声をかけ、彼女を呼んでくれた。
「西野君!」ゆかりは店の裏から顔を出すと嬉しそうに叫んだ。
「変わってへんねえ・・」
彼女は浩一を見てしみじみ言った。
「ああ・・ちょっとおっさんになっただけや、・・」
明るく彼女が笑った。
「卒業したんやなぁ・・今度はどこへ行くのん?」
浩一がそう訊くと、ゆかりは表情を曇らせた。
「しばらく、家にいて、音楽のほうでもやってみるねん」
ふーん・・浩一には、ゆかりの全身に疲れがたまっているように見えたけれども、それ以上その話はせずに、友人たちの近況の話をした。
・・一度死にかけた庄司は、ゆかりの激励が聞いたのか、見事に立ち直り、1年留年したものの、進路を変えて、医療の道へ進むべく勉強中だった・・

  ****************

秋・10月下旬。
私は、ある仕事を終えて、自分の社に戻るため、電車を待っていた。
携帯電話が鳴った。
私の母からだった。
ゆかりさんが亡くなったと言う。
信じられない。
彼女はもう、十数年前に結婚し、幸せな家庭を築いているはずだった。
結婚後の彼女に会うことはなかったし、何も話は伝わってこなかった。
急病だろうか?
私はそう思い、取るものもとりあえず、その日のうちに加古川市の葬祭場に向かった。
通夜の儀式は、もう終わっていて、それでも、ご両親と会うことが出来た。
なにか、聞いてはならないような気がして、ご両親には彼女の死因は聞けなかった。

けれどもすぐにそれは分かってしまった。
彼女は自ら命を絶ったという。
それも唐突に・・
経済で苦しんでいる私などから見れば、経済的にも恵まれていた彼女に何の思いがあるのか・・
理解できなかった。
彼女は秋の夕方、人との約束の時間に、そこへ行く時に、唐突に自分の命を終えてしまった。
自殺と人は言うかもしれない。
けれど、私にはそうは思えない。
心の病・・何が彼女をそうさせたか・・もはや知るすべはなく、ましてや私のように長く便りを交わさなかった者は、彼女にとって無縁の存在だったのかもしれない。

通夜の席で一生懸命に参列者に挨拶をしている、見慣れた学生服の少年がいた。
彼女の長男だった。
白い肌、赤い頬、きちんと詰襟を留めて、小柄な少年がお辞儀を繰り返していた。
私には少年が、まるで私達の少年時代からタイムスリップして出てきたような錯覚を覚えた。
「君の母さんは君くらいの時は、ものすごくもてたんやぞ」
私は心で少年に、そう言った。
もし、今度彼に会うことがあるなら、その時は少年に、そう伝えたい。

通夜の日から何日かして、私はゆかりさんが、命を絶った場所を、ちょうどその同じ時刻を見計らって訪れた。
もう、その痕跡はきれいに消し去られていて、そこに彼女をしのぶものは何もなかったけれど、見事な夕日がまさに沈むところだった。
播州平野の夕日は、大きく、切ない。
そういえば私も、少年の頃、この夕日を見て泣いたことがあった。
自分の将来を思って泣いたのか・・もしかしたら君を想って泣いたのか・・そこのところは覚えていない。

もしかして、秋の夕方の寂寥感が君を悲しませたのだろうか・・私はそう思うことにした。
けれども・・まさに、私達は、当時の悪友連中は早くも、自分達の少年時代の大切な思いを失ってしまったことに気が付かざるを得なかった。
私達のうち、誰かが、彼女のそばにいたなら・・
私達のうち、誰かが、彼女と連絡を取れていたなら・・
悔いは残り、青春は帰らない。
私、西野浩一は、日が暮れて寒くなった住宅地を、繁華街のほうへ向かった。
今夜は数年ぶりで、村下正明、高田靖男、大久保庄司と会う約束をしていた。誰も皆、彼女のことで話がしたかった。
今夜の私達は、彼女が集めたようなものだった。

君よ!会えるなら、また会おう!
それまで俺は生きて待っているから!


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僕の閃光(フラッシュ)

2004年09月18日 18時44分00秒 | 小説
そのころ、僕、大野誠司は婚礼専門のカメラマンを生業としていた。
まだ、阪神淡路大震災の前の年で、世の中も今よりは活気があった時代だ。
それは、その年の秋のブライダルシーズンのことだった。
これは、僕の心の中に深く秘めていた物語だ。僕がこと細かく思い出すことはもう、ないだろうと思っていた。

(1)
その日も大阪城近くのホテルで、豪勢な結婚式、披露宴を二組撮影し終えた僕は、まだ生まれたばかりの赤子と妻の待つ神戸の自宅へ帰るところだった。
環状線を大阪駅で降り、そのまま5番線の快速電車に乗りかえらなければならない。
・・今日はすっかり遅くなってしまった・・
時計を見ると、あと数分で快速電車が出るところだった。これに乗らないとバスの最終に間に合わなくなる。僕は走った。
階段を駆け下りて、連絡通路を走り、神戸方面行きのホームに駆け上がる。
アルミのカメラバックが重く、中のカメラやレンズがごとごと音を立てる。
目的の電車はもうそこに停まっていて、僕はその電車の前方の車両目指し、ホームを走る。
発車のベルが鳴る。
焦って、近くのドアから電車の中に飛び込んだ。けれども、電車の入り口に躓き、転んで床に叩きつけられた。
片から下げているアルミバックが落ちて、開いてしまった。
中から今日の仕事に使ったカメラやレンズが転げ出る。ガッシャーン!いやな音がする。
僕自身も入り口の座席脇のポールに思い切り肩をぶつけてしまった。
電車はお構いなく発車する。
日曜日で電車は空いていた。車内放送が流れるている。膝と肩が痛い。
「大丈夫ですか?」
女性の声だ。
「あ・・はい、なんとか」
そう言って立ち上がり、痛む膝と肩を気にしながらも、僕は八百屋の店先のように広げられてしまったカメラやレンズ、フィルムを集め始めた。
「わあ・・可哀想!このカメラ」
女性が叫ぶ。見ると、彼女の手の中で僕の一眼レフカメラのペンタプリズムが大きくへこんでいる。
電車のポールにぶつかったのかもしれない。
「あ・・」言葉にならない声が出た。僕はその女性が招いてくれたドア横の三人掛けの座席に腰を下ろした。
レンズも2本、フィルターが割れてしまっていたけれど、このくらいは交換すれば大丈夫だろう・・でも、カメラをどうしよう?
僕は走り出した電車の中で壊れてしまったカメラを見つめた。

ファインダーを覗くと、光があるのが分かるだけでおよそ絵になっていない状態だった。
僕のカメラで仕事用として使えるものは2台しかなかった。
1台が壊れてしまったら、明日からの仕事をどうしようか・・僕が、そう思いをめぐらせていたとき、女性が言った。
「カメラマンをされているのですか?」
まだ二十歳そこそこだろうか、化粧気のない、整った顔立ちの彼女は僕のカメラを見ていた。
「そうなんです。婚礼専門なんですが・・」
「結婚式の!素敵ですね」
「はあ・・まあ、仕事ですから、やってみると結構いろいろあります・・」
そう言いながら、僕はそこで壊れたカメラのファインダーを外そうとした。
外れない。ファインダーさえ外れれば何とか、使えるかもしれない・・そう思ったがダメな様子だった。
「こうやって、カメラが壊れてしまうこともあるしね・・」やけになって、おどけて言うと、女性が笑った。
きれいな、純な笑顔だった。
電車は夜の街を疾走している。揺れて、モーターの音がうるさい。
「カメラ・・もうだめですか?修理できます?」
女性が心配そうに尋ねてくれる。
「いや・・修理は出来るでしょうけれど、明日の仕事で使うカメラを何とかしないと・・」
1台では仕事はできるが、メイン、サブという撮り分けが出来ない。明日は月曜日だが、あるタレントの大きな結婚披露宴がある。
僕はそのメインカメラマンを頼まれていた。カメラマンは一度受けた仕事を断ることは出来ない。
もし断ってしまうと、誰かがすぐに入ってくる。
・・ホテルのスタジオにお願いして予備のカメラを借りようか・・それなら明日一番に電話を入れないといけないし・・一瞬だがそんな思いが頭をよぎる。
そのときだ。「私のカメラではどうです?今ちょうど持っていますよ」
女性がびっくりするようなことを言ってくれた。
大き目の皮のバックから取り出したのは小型の一眼レフカメラだった。それも、僕のカメラと同じメーカーのものだ。
「これと、もう一つ、どちらでもいいですよ」
バックの底の方から出てきたのも同じ形のカメラだった。どちらも銀色の手入れの行き届いた輝きを放っている。
驚いた。彼女とは今、出会ったばかりだ。
「私、今日、建物を撮影していたのです。もちろん趣味ですけれど・・」そういって彼女は頬を少し赤らめた。

写真の仕事をしていると、絶体絶命のようなときに奇跡的なことが起こって助かることがある。僕たちの仲間はそれを写真の神様が助けてくれたと、言うのが常だった。
けれど、写真の神様に助けてもらうには、普段からカメラやレンズ、フィルム、暗室などを神聖なものとして、大切にしなければならない・・仲間達はそう言いあい、それを素直に受け入れて、機材を大切にすることはもちろん、レンズに変なものを見せない、暗室は綺麗に片づける・・そして時間は絶対に厳守する・・ことを実行していた。
今思えば他愛のないことかもしれないけれど、フィルムだけの時代、今のようにデジタルメディアのない時代のカメラマンは確かに写真を生み出す漆黒の闇に神に似た神聖なものを感じてはいた。
僕は、その神様が目の前に現れたのではないかと思ったものだ。

僕たちは、お互いの名刺を交換した。
僕の名刺は仕事で使うものだったけれど、彼女のそれは手作りの、可愛いものだった。
肩書きのない名刺には花の絵の横に「野村祥子」と書かれていた。

祥子は六甲道駅で降りていった。
彼女は降りるときに軽く手を振り、また顔を赤らめて電車が動き出すまでホームに立って、僕を見てくれた。
僕は不思議と心の中が熱くなるのを感じていた。もしかして・・いや、そんなことはない・・ただ少し、縁のある娘がいただけだ・・
そう思う。そう思うことにした。
祥子は写真学校の生徒で、来年には神戸のホテルの写真スタジオに就職が決まっていた。彼女は今、卒業制作で予定している戦前の建物の撮影をしに京都へ行って来たそうだ。
彼女から僕が借りたのは、あの時、最初に出してくれたカメラだった。もう一台にはまだフィルムが入っていたのだ。
彼女が降りて、電車が走り出してから、僕は一度バックにしまいこんだそのカメラを出してみた。
銀の小さな金属の塊が、祥子の代理のような気がしてきた。

須磨駅から最終バスに乗って、山手の団地に帰った。
明日の朝も早い。何時間か後には、またこの道を逆に向かわなければならない。それを思うと辛いものがあった。
自宅に帰ると、妻の京子が笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい・・きょうね、美沙が始めて立ったのよ」
京子はそのことが嬉しくてたまらないというように、笑顔を絶やさない。
すでにベビーベッドに入って眠っている娘の寝顔は何にも変えられない・・心底そう思う。どうしてこんなに可愛いのだろう・・
京子もまた、家庭にあっても美しさを失わない。
そのときは僕は素直に今の幸せを実感していた。

翌日、僕は仕事で祥子のカメラを使った。
僕がいつも使っているカメラよりは小振りで、けれども軽く、いかにもしっかりした感触は、そのまま祥子の姿となって重なってくる。
会いたい・・そう思う。
新郎新婦を見ていると、これまでは自分と妻のことが思い起こされてきたものだが、今日は新婦が祥子の姿と重なる。
始めは戸惑って、その感覚を消そうとしたけれど、仕事を進めながらいつしか、その感情をそのまま飲み込んでいた。
その日、僕は巨大な宴会場を歩き回った。
いつもは撮影コストを厳しく押さえられ、僕もそれに従っていたのだけれど、今日は違った。
何か、いくらでも撮影が出来るような気になり、フィルムを次々に入れ替えていた。
祥子のカメラも、もう一台の僕のカメラと共に僕の身体になり、僕の目になっていった。
大きな仕事の終わったあと、僕は久々に味わう充実感に、フィルムを使いすぎたことをなじるホテル写真室チーフの声も気にならず、家路についた。
大阪駅で、なぜか自分が祥子の姿を探していることに気がついた。いる筈もない者を何故探すのか・・自分で自分が理解できない・・
月曜日、夕方の下り電車はとても混んでいた。

(2)
「私の作品を見ていただけますか?」
僕は、壊れたカメラの修理が終わって、祥子に借りていたカメラを返すために、彼女に三宮のショットバーに来てもらった。
メインストリートを見下ろすビルの最上階。
静かで肩肘の張らない店は僕のお気に入りだったけれど、ここ3年・・京子と結婚してからは一度も来たことがなかった。
この店は僕の京子と出会う前の恋人、奈緒子とよく来た店だった。
その店で、祥子にカメラと、お礼の手鏡を渡したときに、彼女はそう言ったのだ。
「いいですよ・・期待するなあ・・今日、持って来られてますか?」
「はい・・」
彼女はこの間と同じ、大き目の皮のバックから一冊のファイルを取り出して渡してくれた。
手作りの表紙のファイルに入っていたのは見事な建物を中心にしたイメージフォトばかりだった。
建物は種々で、百貨店、駅ビル、病院、ホテル、博物館、銀行、・・それらの全景と部分部分のアップが六つ切りにプリントされ、綺麗にまとめられていた。
「すごい・・」僕は感嘆の声をあげた。
「すごくはないですよ・・」彼女は少しはにかむ感じで、頬を赤らめた。
「いや・・これがすごくなかったら・・おかしい」
「でも・・誰も、良いといってくれません」
祥子は笑いながら、悪戯っぽく笑った。表情が純で、とても美しく、また可愛く思えた。
彼女はカクテルを2回おかわりし、ピザを食べ、スティックサラダを齧り、そして、彼女の写真への思いを語ってくれた。
僕はそれを聞きながら、ジン・トニックばかり、何杯も飲んでいた。
写真への思いは尽きない。僕は久しぶりに自分がこの世界に足を踏み入れた時のことを思い返していた。
そして、一生懸命に喋る祥子の表情になんとも言いがたい、魅力を感じ始めていた。

「ちょっと、撮らせてくれる?」
僕は修理が出来たばかりの自分のカメラを取り出した。フィルムは感度400だ。標準レンズの絞りを開いて、彼女の顔をファインダーから眺めてみた。
ファインダーの中の彼女は不思議そうな顔をして、バックの店の風景から浮き上がってこちらを見ている。
「え?撮ってくださるのですか?」
はにかんだ表情が可愛い。
僕はてっきり彼女がカメラを向けられるのを拒むのだと思ったけれど、祥子はすっかり、その気になって僕のほうを見ている。
目がきれいだ。
シャッターを押す。スローシャッター独特のゆったりとした音が満足感を呼び起こす。
何度かシャッターを切った後、僕たちは外に出た。
三宮の夜の賑わいをバックに、ストロボを使わずに、彼女を撮影してみたかった。
生き生きとした、美しい女性の姿があった。
手足も長く、モデルにしてもよいようなプロポーションの持ち主だ。たちまちフィルムを3本使ってしまった。100カット以上撮影してしまったのだ。
「ありがとうございます。こんなに撮っていただいて・・」
彼女は駅の近くで頭を下げた。
「もう、帰るの?」
「ええ、そろそろ・・」
「もう少し撮りたいんだ。時間が許せば付き合って欲しい・・」
僕は少し酔っていた。
「私・・きれいですか?」
「きれいだ。普通のではないよ。写せば写すほどきれいになる」
彼女は少し照れていた感じだった。
「今度はどんなイメージで撮影されるのですか?」
唐突な質問に僕はうろたえた。そして思いもよらぬ言葉が僕の口から出た。
「少し、女性としての色気・・ヌードとか・・」そこまで言って、慌てて付け加えた。
「脱ぐとかではなく、あくまでもイメージで・・だよ」
彼女は少し考えているようだった。
「じゃあ・・今日はもう時間が遅いので、次の機会にしましょう・・私も自分の艶を出すことを一度、やってみたかったのです」
僕は、すっかり酔ってしまったのだろうか?
何ということを口走ってしまったのだろう・・けれども、彼女は次回ということでOKしてくれた。
不思議な気持ちだった。その日は駅で別れた。
次は彼女のゼミが早く終わる日、大阪の彼女の学校近くで待ち合わせることにした。
僕は貸しスタジオの場所を考え、待ち合わせの場所を確認して、自宅へ帰った。
自宅では少し疲れた様子の京子が娘の美沙をあやしていた。
「今日は癇が強くて・・寝てくれないの・・」
僕は美沙を抱き上げ、「眠れないなら、パパが遊んであげよう」そう言って娘の重さを楽しんだ。
ここに何にも変えがたいものがある・・美沙は喜んで手足をバタバタさせ、奇声を発して、笑顔を振りまいてくれた。

(3)
翌週の火曜日、ラボが経営する貸しスタジオに、僕と祥子はいた。
さすがに彼女は少し緊張している様子だった。
僕は最初にこの間、彼女を撮影した写真を見せた。
「すごい・・きれいです。私・・こんなの始めて・・」
数十枚のキャビネ判の写真には、どれも夜の人工の光の中で、浮き上がり艶を出す彼女の表情が出ていた。
「僕が言ってた事が分かっただろう?」
「言ってたこと?」
「普通じゃない美しさだよ」
そう言いながら、祥子が写真を見ている間に、僕はスタジオのセッティングを始めた。
バックペーパーは白一色。
ライトはタングステン、ポジのためにストロボにも電源を入れる。
カメラは2台とも持ってきていた。
一台にはモノクロ、もう一台にはポジを入れている。フィルムはあわせて十数本は用意してあった。
余分な味付けは一切なし、彼女だけを「どれだけ撮影できるか・・レンタル時間は3時間だ。

「始めようか?」
「あの・・脱ぐのですよね・・」
ちょっと躊躇している様子だった。
「別に脱がなくても、充分良いものが撮れるから・・まずそのままで・・」
上着だけを脱いでもらって、彼女にバック紙の上に立ってもらった。ミニスカートが脚の長さを際立たせる。
シャッターを押す。ポーズは自然に彼女がつけてくれる。
「モデルはしたことがあるの?」
「いえ・・モデルはないけど、いつも自分で姿見で見てますから・・」
喋りながら次々にシャッターを押す。
タングステンとストロボを切り替える。フラッシュの閃光が心地よい。
「そろそろ、艶を出そうか?」
「・・はい・・」彼女は一瞬ためらったけれど、思い切ったようにブラウスのボタンを外した。
「カーテンの中で・・」僕は慌てて彼女をスタジオの隅の更衣スペースへ案内した。
「下着を外したら、10分ほど、そのままじっとしていてね・・」
「どうしてですか?」
「下着の線が出るから・・」僕はこれで今日は大成功だと思った。
その思いもすぐに打ち消した。
・・写真の出来で全てが決まる・・そう思い込もうとした。
カーテンの中の彼女は押し黙ってしまった。
僕はその間にライティングの切り替えをしていた。出来るだけベタ光線で、はっきりと色を出す。
モノクロも、これでいこう・・そう考えながら作業をした・・考えながらを意識しながら・・
「もういいよ・・」
祥子は裸にタオルを巻いてカーテンを開けて出てきた。
バック紙の上に立って貰った。脇に椅子を一つ、小道具で置いた。
カメラを向ける。
「じゃあ、お願いします」
僕がそう言うと、彼女はバスタオルを外して、バック紙の外に投げ捨てた。
見事な裸身があらわになった。
すらりとした長い手足、豊かな胸、きっちりとくびれた腰、驚くほど均整の取れた美しい姿がそこにあった。
僕はカメラを持ったまま、しばし見つめてしまった。
「恥ずかしいから・・早く撮ってください」
彼女が困ったように言う。頬が紅い。
「あまりにきれいで、撮影を忘れるところだった・・」
僕は心の動揺を隠し切れない。
シャッターを押していく。ファインダーの中の彼女はこの世のものと思えぬほど美しい。
シャッターの音、フラッシュの閃光、我を忘れ、時間を忘れ、僕は撮影を続けた。
「寒くなってきましたから・・」
祥子がふと、そう言う。
時計を見ると、あと20分ほどでスタジオのレンタル時間が終わる。
「ああ・・ありがとう・・たくさん撮れたよ・・」
「いいものもありましたか?」
「うん・・全部だね・・じゃあ、これを」
僕はバスタオルを彼女に手渡そうとした。
「いえ、こちらこそ・・」彼女がそう言う口を僕は塞いでしまった。
唇をあわせ、彼女の胸に手をやった。冷たく、軟らかい感触だった。

けれども、ここは貸しスタジオだ。
変な噂が流れると、もう貸してくれなくなる・・僕の頭には業界人としての自分だけがあった。
スタジオを出て、受付で金を払い、撮影したフィルムを現像依頼した。
「仕上がりの日には私もきますから・・」祥子が僕をちょっと睨んでいった。

町に出て軽く食事をとった。
彼女は少し気持ちがほぐれたのか、さっきまでよりずっと気楽な様子だった。
そして、そのまま電車の駅へ行こうとした僕たちは途中にあった、ラブホテルに入ってしまった。
何か進んではいけないものが、猛スピードで進み始めた気がした。
自分への罪の意識・・そんなものはどこかに飛んでしまっていたし、家族への想いと、祥子への想いが同居する自分の心の不条理さにも気がつかなくなっていた。
遅くなって帰った僕に、妻の京子は疲れた表情を見せた。
「一日だけ、美沙の面倒をあなたが見てくれないかしら・・」
彼女は僕に哀願するように言う。
「疲れたのか?」
「うん・・たまには映画でも見て、気分をリフレッシュさせたいの」
そう言う妻に返した僕の言葉は「僕には時間はないよ・・お母さんにでも頼めば」
静かになった。どうしたのかと、妻を見ると、彼女は目に涙をためて声を出さずに泣いていた。

(4)
僕と祥子の関係は冬まで続いた。
彼女の写真はその後1回だけ、撮影したけれど、その後はただ、会うだけの、会って、食事をして、抱き合う・・それだけのことになっていった。
祥子の魅力は会うごとに大きくなっていった。
彼女には僕に妻と生まれたばかりの娘があることは話していたけれど、それはお構いなしのようだった。
けれども抱き合う時以外の彼女は清楚で美しかった。
いかにも山の手のお嬢様という感じだった。
会う回数が重なるに連れ、祥子が強くなっていく気がしたものだ。
「今日は映画を見に行こうか」
「映画ですか?私、ハリウッドは好きじゃあないんです。なんだかアメリカの資本にお金を取られるような気がして・・」
「じゃあ・・どこへ行こう?」
「美術館で写真の特別展がありますから・・」
こんな具合だった。彼女はその性格において、見事に様々のものを併せ持っているように思えた。
清楚、上品、けれど、驚くほど積極的で、例え一人でも、行きたい方向へ歩いてしまう。
彼女の全てが魅力的に思えた。

12月になると、僕たちカメラマンは暇になってくる。
自宅に居ることが多くなるのがこの時期だった。
ある朝、妻の京子は僕に「ちょっと話があるの」と言う。
「なんだよ」
「あなた、この頃、少し冷たいの。疲れているのは分かるけれど、今のうちに美沙の面倒をちょっとでも見てくれないかな?」
僕は少し思うところもあった。
たしかに祥子が現れてからは、僕は娘にもあまり関心をもてないでいた。
「もし、私が倒れたら、お母さんを呼ぶのだって、簡単に行かないわ。美沙の・・オムツを替えるとか、ミルクを用意するとか、あなたが出来るようになっていないと、どうするの?」
京子は僕に詰め寄るように言う。
僕は少し苛立ちを覚えた。
「倒れるかもしれないほど、疲れているのかい?・・僕は、毎日仕事をしているんだよ」
京子の目が僕を見つめる。
「あなた・・この頃冷たいの。以前は疲れていても、私のほうは見てくれたわ」
「この頃って・・なんだよ。僕はずっと変わってはいないよ」
ちょっと間があいた。
京子の顔が怖い。
「変わったわ。私を求めなくなった」
「何を訳の分からないことを言ってるんだ。僕が帰りの遅い日が続いているだけじゃあないか」
「うそ・・あの、野村さんて娘から電話があるようになってからだわ」
「何を言う!それじゃ、僕がまるで彼女と変なことになっているみたいじゃないか」
そのとき、ベビーベッドの美沙が泣き出した。
京子は顔を覆ってしまい、そちらへ行こうとしない。僕はやむなく美沙を抱き上げた。オムツが濡れている。
「おい、おむつを替えてやれよ!」
「あなただって、その子の親じゃない!どうしてそんなに他人事に思えるの?どうして自分でもやってみようと思わないの?」
僕は美沙のおむつを替えようとした。
べとべとになってしまったおむつの中は強烈な臭いと大量の便だった。
なんとか悪戦苦闘して、紙おむつを取り替えた。
美沙はおむつを外すと泣き止んで、替える作業をしている間、無邪気に手足をばたつかせていた。
すまない気がした。
美沙に、京子に・・
京子は涙を流したまま、僕のすることを見ていた。
「上手じゃない。どこかで習ったの?」
「一番下の妹とは14歳違うからね。中学生のとき、彼女のおむつを替えていたのを思い出したよ」
京子が笑った。涙を乾かさないまま笑った。美沙も無邪気に喜んでいる。
美沙の顔を見ていると、中学生のとき、おむつを替えてやると喜んだ年の離れた妹、清美を思い出した。
彼女は今、高校生になっている。

それでも、僕は祥子と会い続けた。
年が明けても、変わらなかったし、自分への罪の思いもいつしか消えてしまっていた。

(5)
その頃は成人式は毎年1月15日で決まっていた。
ただ、その年は1月14日土曜、15日が日曜で成人式、16日振替休日で、僕はいつも仕事をさせてもらっているホテルに成人式の応援も頼まれ、婚礼スナップの仕事も普通にあり、地獄の3日間だった。
ただ、16日の夕方、スナップを済ませてから祥子と会えた。
少し飲むには早い時間だったけれど、京橋の居酒屋で彼女と飲んだ。
たいして量を飲んだわけではなかったけれど、3日の疲れが出たのか、僕はすぐに深い酔いに飲み込まれてしまった。
もう、歩けない・・居酒屋を出てふらふらする僕を祥子は近くのラブホテルへ誘導してくれた。
部屋にはいっても、寝ることしか出来ない。
それでも、僕たちは肌を寄せ合い、襲い来る眠気の中、快楽をむさぼっていた。
まだ部屋にはいって何時間も経たない頃、彼女がいきなり叫んだ。
「大変!」
「どうした?」
「明日は火曜日ですね!」
彼女はまだ僕に対して敬語を使っている。
・・それにしても、明日は・・日月の連休の後だから・・「火曜日だよ」
酔いは少し醒めたが眠い。
僕は意識の半分を夢の中におきながら、それでも彼女の胸をまさぐっていた。
「明日の授業で作品の提出だったわ!」
彼女は僕の手をふりほどいて立ち上がった。
「帰るの?」
「うん・・一緒に帰りましょう・・」
「明日、ここを出てからでいいんじゃないの?」
「間に合わないんです。今から帰って、準備しなくちゃ・・」
仕方なくホテルを出た。もう少し、あの胸を触っていたかったと思いながら、寒い外に出た。
まだ最終電車には間に合う。環状線に乗り、大阪駅から快速電車に乗り換えた。
ドア横の三人がけのシートに並んで座った。
「すみません・・慌てさせちゃって・・」
「別にいいよ。続きはまた今度・・嫁さんにも外泊するって言ってないしね」
そのとき、祥子が僕をじっと見詰めた。
電車が淀川を渡る。
「あの時と同じですね」
・・え?・・
「大野さんと出会った日ですよ」
彼女は僕から目をそらし、溜息をついた。
「もう、止めましょう・・奥さんが可哀想です」
意外な言葉が急に出てきた。
「どうして?」
「もう、終わりです。お遊びはここまでですよ」
祥子の表情には笑みさえ浮かんでいた。僕はどう答えて良いか分からず、反対側の窓の外を見ていた。
祥子は身体を寄せてきた。
「最後ですからね・・」

自宅に帰ると、妻の京子が心配そうに待っていてくれた。
「この3日間、大変だったでしょう・・今日はゆっくり休んでね」
食卓にはいくつかの食べ物が並んでいて、娘の美沙はもう、眠っている様子だった。
僕は京子の手をとった。
「どうしたの?」
僕の胸の鼓動が大きくなってきた。
「今夜は君を抱く」・・そのまま布団に倒れこんだ。
いくらも眠らないうちに、体が大きく揺れた。揺れはどんどん大きくなった。
部屋の中のものが倒れる。僕は娘のベッドに覆いかぶさった。京子がしがみついてくる。
真っ暗な中で、数十秒だろうか・・物が倒れ、壊れ、軋む音が続き、そして、静かになった。
「地震か?」
「あれが・・地震なの?」
「まさか爆弾じゃないだろう・・」
娘は地震には気がつかずに眠っていたようだった。揺れが収まってから異常な雰囲気を察したのか火がついたように泣き出した。
とにかくじっとしているしかない。時々悲鳴のようなものが聞こえる。懐中電灯はどこにあっただろうか?

阪神淡路大震災では僕の住む地域は不思議に被害は少なかった。
部屋の中こそ、無茶苦茶になったが、3人とも怪我もせず、それ以降も僕の仕事が大変になっただけで、大きな影響も受けなかったのは奇跡ではなかったのだろうか。
けれども、その日以後、祥子との連絡は取れなくなっていた。
テレビの死亡者の名簿に彼女や彼女の家族の名前はなく、携帯電話などという便利なものもまだ普及しておらず、僕の心には未練が残ったまま、祥子は僕の前から姿を消してしまった。

(6)
自宅の電話を僕がとった。
震災から10年、僕はあの後のバタバタとした動きで一時的に写真の仕事が増えたものの、結局この仕事を諦めて、今は福祉センターの介護士をしている。
電話の相手は懐かしい声だった。
「大野さんですか?私です。わかります?」
すぐに分かった。震災以後、ずっと会いたい一番の人だった。
「ああ・・もちろんだ。元気にしているのかな?」
「はい。元気ですよ。今日はお願いがあって・・」
「なんだい?ほかならぬ祥子さんの頼みだ。なんでもどうぞ!」
明るく、普通に話が出来る自分が不思議だった。
「私、結婚するのです。その結婚式の写真を撮って欲しいのですよ」
「それはよかったね。おめでとう・・でも、もう僕はカメラマンじゃないんだ」
「知っていますよ。ホテルのスタジオに聞きました。でも、私を最高に撮影できる人は大野さんだけなんです」
不思議な、もっと不思議な気持ちだった。
けれども、彼女は案外、ドライに捉えているかも知れない。
ただ単に、自分の一番気に入ったカメラマンが僕だと言うだけなのかもしれない。
僕は快諾した。
彼女は今も写真の仕事をしているそうだ。
ただ、カメラマンではなく、プロラボの技術職について写真館の撮影した写真をプリントしているそうだ。
明日、いよいよ祥子の結婚式だ。
楽しみにしている。
祥子を射止めた幸運な男性はどんな奴だろうか?
僕は時々瞼に浮かぶ彼女の裸身を思いながら、最高の仕事をしてやる気力に溢れていた。










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どこへ行くの?

2004年09月15日 11時33分32秒 | 小説
        **はじめに**
この物語はあくまでもフィクションです。
登場する国名や地名、固有名詞はすべて架空のものとして使っています。同名の現実のものではありません。

日本国憲法(抜粋)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、
これを認めない。

*************

10月2日。
私は町を歩いていました。
仕事の帰り、三宮あたりのお店でウィンドウショッピングなどするのが、私の一番のお楽しみなのです。
今日はなんだか騒がしい・・そう思ったら、ビラのようなものをいただきました。
なんだろう・・見てみると新聞の号外のようです。
号外も時々貰いますが、この間は地元のサッカーチームが優勝したって話・・私には関係ないです。
でも・・私の彼、洋二はこのチームが好きなので大変でした。その日から1週間、会ってくれない上に、折角、電話で話をしても、その話題ばかり・・あの時は心底、別れてしまおうかって思いましたけれど・・

今回の号外は「憲法改正成立!」って大見出しがあって、その次に「これで本当の自主憲法保有に」・・まあ、だから何かが変わるわけも無いですし、どうでも良いのですけれど・・
その2行だけ読んで、号外は駅のゴミ箱に捨ててしまいました。
ゴミ箱は号外でいっぱい!あんなものをばらまくからですよね。その程度のニュースなら、家でテレビを見ていれば自然に分かるのに・・
自分のマンションに帰ると、珍しく洋二が来ていました。SEの仕事をしている彼ですが、このごろは忙しくてなかなか会えないのです。
「明日は休みだし、今日は仕事も早く終わったから、久しぶりに腕を揮うよ」ですって・・私より料理も上手で、几帳面な彼、やっぱりあの時別れなくて良かったな・・そう思いました。
彼が作ってくれたのは手の込んだ煮物でした。さすがだねって・・誉めてあげた。
彼は泊まってくれました。
結婚という形もいいでしょうけれど、こうして二人の自由な関係がとてもいい感じなのです。しばらく、この状態が続きそうだね。
でも・・本当は彼から言ってくれたらいいのにね・・乙女の心のわからないフトドキモノ!

10月3日。
朝・・気持ちのいい朝です。
二人とも会社が休みなので、散歩に行くことにしました。
駅から電車に乗って、少し混んでて座れなかったけれど、二人でドアのところに立って、海を見ていたらやっぱり、神戸は素敵だって、それと、今の私に洋二がいることが、もっと素敵な事だって、本当に思ったのです。
外はすっかり秋です。
二人で映画を見ようと、いつも仕事で降りる三ノ宮駅で降りたのです・・すると・・駅前は大騒ぎ!
街宣車って言うのかな?
うるさい車が何台も来ていてわめき合ってるのです。そごうの前、JRの前、丸井の前、うるさくて、地下に逃げようとしたら、洋二が声をかけられていました。
「おい・・洋二やないか?」
街宣車の横でビラを配っていた男の人、赤い鉢巻を巻いた人に、よりによって声をかけられるなんて・・
「お!浩司!懐かしいな!」
なんだ・・友達だったのか・・そう思ったけれど、回りには人がたくさんいるし、うるさいし・・どうしよう・・
私の思いが伝わったのか、二言三言話をしただけで、洋二は彼から離れてくれました。
「浩司は憲法改悪絶対反対!っていう運動をしているらしいんだ・・署名してくれって言ってたけど、今日は時間がないからって、言ってやったよ。あいつら・・宗教団体なら政治になんか口を出さないで、祈ってればいいんだよなあ・・」
なんだかうざい・・そう思ってしまう。
今はとってもいい世の中じゃないの・・どうして政治運動なんかするんだろう?
「あれ・・? たしか、賢人党は憲法改正に賛成したんじゃなかったっけ・・あいつは賢明教団だし・・変だね」
洋二の言葉に苛立ちを覚えてしまいました。
「もう、その話は止めて!折角のお休みだから・・」
私がそう言うと、洋二は、ごめん・・って謝ってくれました。
あ・・映画ですか?
ハリウッドのサスペンスだったのですけれど、アジアの巨大シンジケートに挑む警察官の話で、とても面白かったですよ。某国が国がらみで悪事を働いて、それを国際警察が追うってお話でした。
始めは小さな事件がきっかけで、その事件を追ううちに大きな組織が浮かび上がって・・結局その組織を運営している国家を崩壊させる・・俳優のHがカッコよかったけれど、私には洋二がいますからね。。

11月3日
ここのところ、号外が出ることが多くなってきました。
昨日は「徴兵制実施!」だったし、先週は「テロへの先制攻撃も可能に!」でした。その前には「自衛隊、国防軍に!」・・なんだか同じような内容ばかり。私は見出しだけ見たら、捨ててしまいます。後はテレビのニュースで充分ですものね。
テレビだったら、お気に入りのタレントさんが、面白くニュースを解説してくれるし・・
そうか・・号外って、今日のテレビニュースが面白いかどうかの目安かもしれないですね。
徴兵制って、若い人が軍隊に行くことですか?さすがにこれはちょっとねえ・・
自衛隊も町の中でもっと求人すればいいんですよね。
仕事のない人がたくさん応募すると思うけれどね・・
今日は遅い時間に洋二が来てくれるそうです。なんだか大切な話があるんですって・・もしかしたら!!
今からドキドキしています。

11月4日
ついに!
ついに!
言ってくれましたぁ♪
もちろん私の返事もOKです!素敵な夜でした。でもその中身はナイショです。
今日は朝から、二人で式場とか、デパートとか見て回りました。なんだか人生が前に向かって進み始めた気がするのね。
でもね・・変なものを見てしまった・・
ハーバーランドへ行ったのですけれど、そこで街宣車が出て、この間のような運動をしていたのです。
そのときは二組、道路のこっちと向こう側に別の車がいて、それぞれ正反対のことを言っていたのですけれど、そのうちのこちら側にいた人たちに警察が何かを言い出したのです。
押し問答が始まって、しばらくして、みんな、どこかへ連れて行かれてしまいました。
え?え?道路の向こうでも同じことをやってるじゃない?あの人たちには何も言わないのはどうして?
洋二に訊くと「こっちの人たちが何か、言ってはいけないことを言ったようなんだけど・・」
そうかな?ほんとうに?
私にはわからないけれど、その人たち、決して変な感じじゃなかったけどなあ・・

11月18日
今日は洋二のご両親に、ご挨拶に行きました。
ものすごく気持ちよく迎えてくださって、初めてお会いしたのだけれど・・ああ、もっと早くお会いするのだったわ・・って思うほどでした。
ご両親は福井県の森田って町に住んでおられます。
洋二もずっとここで生まれ育ったので、とても懐かしいそうです。
でも・・ちょっと遠いわね。特急で大阪から2時間・・しょっちゅう行くことは出来ないけれど、でも私にも田舎が出来るんだって思うとちょっと嬉しい気持ちです。
帰りに福井駅で電車を待っていたら、戦車が貨物列車にのっかって、走っているのを見ました。
初めて戦車って見たけれど、カッコいいです。。
男の子がプラモデルで戦車や軍艦にはまる気持ちがちょっと分かるなあ。でも、洋二は子供のころはゲームばかりでプラモデルは作ったことがないのだって・・このブスイモノめ!

11月29日
ついに・・ついに・・ケッコンシキの日取りが決まりました!!
来年の4月だよ♪
ここまで早かったなあ・・一気に進んだ感じがします。
場所は・・あのホテルオークラ神戸!
メリケンパークのあのホテルよ・・ね・・ね・・いいでしょ。。
ちょっと高いのだけれど、全部、彼のご両親が出してくださるって・・それで決めちゃったの・・
気分はサイコーです!
ね、ね、こんなに幸せになっちゃっていいのかな?
私の両親は、ちょっと遠慮してるみたいだけど・・いいよね!

今日ね、そのホテルでなんだかえらい人の会合があるらしくって、ものすごくぴりぴりした感じでした。
警察の人もたくさんいました。
でも・・ブライダルコーナーは、おしゃれで穏やかで、とてもいいムードでした。
私達の結婚式の日には、えらい人の会合なんてないよね・・きっと。

12月3日
今日はテレビでずっと総理大臣が何かを喋っている。
「世界にはびこる暴力と戦うためには、我々は国家の威厳をかけて、世界平和の実現のためにあらゆる手段をとる必要がある・・」
だから・・さっきから同じことばかり言って、何が言いたいのよ!
私の好きなドラマ・・冬の鎮魂歌・・をどうしてくれるのよ!
いつ放送してくれるの?それだけ教えてよ・・NHKさん!

って、さっき書いていたら、今度はアメリカの大統領が何か演説しているわ・・
「我々、自由の世界を守る・・わが国と同盟国は、いままさに、人類史に残る偉業を行なおうとしている。後の世の歴史家はこう称えるだろう・・あの時、世界がたしかに変わったと・・世界が一つになれたときであったと・・」
この人、何を言っているの?
戦争でも始めるの?
洋二が来てくれたから、その話をしました。
「ねえ、戦争がはじまるの?こわいね?」
「何を言ってるんだい・・あれは某国への脅しに過ぎないよ・・誰も戦争なんてするわけがないじゃないか・・」
あ・・そうなの・・安心しました。
でも、脅しなんて、テレビの番組を中止しないでニュースの時間にすればいいのにね。。

12月6日
今日、洋二が血相を変えて、はいってきました。びっくりしました。
「浩司が逮捕されたらしい・・」
「浩司さんって・・あの・・この間、三宮で出会った・・賢明教団の人?」
「うん・・俺にも警察から、彼との関係を聞きたいって、刑事が会社までやってきたよ。俺はあいつとの付き合いはないって言ってやったよ・・馬鹿な奴だよ・・要らない事に足を突っ込んでばかりいるからだ」
「宗教をしてる人って、危ないよね・・祈るだけでいいじゃないの」
「いや・・賢明教団は、何もしていないらしいよ。浩司は勝手に憲法の運動をしていたそうだ」

テレビをつけたら、その賢明教団の人が出ていて、またびっくり・・・
「私達はよき国民であることが何より大切だと考えています。従いまして今回、私達のメンバーであるものが、国家、政府を誹謗する運動をしたことは、まことに遺憾であります。、政府、国民の皆様に深くお詫び申し上げるとともに今後はこのようなことのないよう、指導を徹底してまいります。尚、このたびの事件を起こしましたものにつきましては即刻、除名処分とさせていただきました」
ふーーん、この教団も変わったね・・
「浩司は教団にも逆らっていたんだな・・馬鹿な奴だよ」
この教団が作っている賢人党も、大臣を出しているし、変な動きをする人は・・いらないでしょうね。

12月8日
今日はゼッタイ「冬の鎮魂歌」を見るのだ・・最終会だもの・・そう思って、テレビを見ていました。
悲しいですね。最後の、主人公がヒロインと別れるあの・・雪のシーンで・・まさに涙を流していたとき、NHKテレビがいきなり映し出したのは、その舞台のソウルの燃える映像!
うそ!これ!ドラマの中の話?
「ただいま、ソウルが兵器による攻撃を受けています。これはソウル支局備え付けのカメラが撮影している自動映像です」
テロップに流れる文字・・うそ!うそ!
戦争なの?

いかにも慌てた感じが思われる総理大臣の映像が出てきて意外に冷静に喋っている。
「世界平和のために、我々がなすべきことは一つです。国民の皆さん冷静に対処してください。我々は同盟諸国と共にこの事態を緊急、且つ冷静に、しかし力強く乗り越えなければなりません。あくまでも平和のために」
何をするの?ソウルはどうなったの?

12月24日
クリスマスって何?
サンタクロースって何?
何をくれるの?誰に優しくしてくれるの?
教えてください。
洋二が徴兵されました。どこにいるの?どこまで行ったの?
洋二はSEとしての技術が必要だといわれたそうです。どうしてそんなものが必要なのですか?

12月30日
戒厳令・・初めて聞いた言葉。
もちろん自分の国以外のことでは聞いたことがあったけれど、自分の国でこの言葉を聞くのははじめて。
インターネットの掲示板が全て閉鎖されました。
日記はかまわないそうです。

1月1日
生田神社へお参りに行ってきました。
戦争が終わりますように・・それより洋二が早く帰ってきてくれますように・・
生まれて初めて真剣に祈りました。
でも、夕方7時からは外出禁止です。・・みんなそうだよね。
テレビは毎日、軍服のお偉いさんが出てきて、何かを喋っています。
その人が終わると、いつもの芸人さんたちが出てきて、トーク番組になりますが、余り面白くありません。
ドラマもすっかり減ってしまいました。そういえば再放送物が多くなったようですね。
おめでとうと言われても、そうだと思えないお正月。

1月11日
福井県若狭地方で大きな火災が起こっているそうです。
時々停電になります。
洋二のご両親に電話をしようとしたけれど、電話がつながらないの。
心配です。
テレビニュースでは山火事の大きなのが起こっているということです。

1月12日
朝から真っ黒な雨が降っています。
外に出ないよう、テレビで呼びかけています。
会社も休みです。洋二はどうしたのだろう?

1月16日
洋二から手紙がきました。
文字を見ると泣き出してしまいました。
「僕は元気です。今、●●●の近くの山の中にいます。もうすぐ、ここでの仕事が終わりますので、それがすんだら国へ帰れるそうです。●●●●は大変でした。でも、大丈夫です。もうすぐですから、それまで頑張っていてくださいね」
封書の中に便箋が一枚だけの・・でもそれは間違いなく洋二の文字でした。
墨のようなもので塗りつぶされたところには何が書いてあったのですか?
早く会いたい・・早く会いたい・・
封筒には返信の方法が書いてあります。使ってははいけない言葉などがあって、結構面倒だけれど、元気でいることだけを伝えたくて、手紙を書いて、役所に届けました。検閲の上、届けられるそうです。

1月17日
洋二のご両親から電話がかかってきました。
とても心配していたのでものすごく嬉しくて・・北陸トンネルから先へはまだいけなくて、やっと電気がついて、やっと電話が出来るようになったそうです。
ご両親にも洋二から手紙がきているそうです。
お声はとても元気そうで、でもゆっくりと言葉を選んでいる様子でした。

1月20日
今年になって何度めかの外出禁止令です。
どうしたんだろう?お天気もいいのに。
外は寒いけれど・・窓から外を見てみると、警察のパトランプがところどころで回っているようです。
町は静かです。
誰も外には出ていません。
テレビをつけると、今日は珍しくドラマをしていました。
暇なのでドラマばかり見ていました。

1月21日
緊急の発表がありました。
テレビをつけると、アメリカの大統領、中国の主席、ロシアの大統領、日本の総理大臣が四分割された画面に映っていました。
「安心してください。私達の自由は・・いや、人類の自由は守られました。世界は新しい時代へと進むでしょう。後世の人は私達、現代の自由主義が行なった同盟を大きく称えるでしょう。今回の騒ぎで朝鮮半島、ならびに日本列島において、貴重な、そして人類全てを救うために犠牲になられた方々が、たくさん居られます。この方々の尊い犠牲無くしてこのたびの勝利は得られなかったでしょう」
「日本、ならびに韓半島で犠牲になられた方々、そのご家族や親戚の方、また、友人の方、本当にありがとうございました。あなた方の尊い犠牲は自由を守るために無駄ではありませんでした。どうか自由を勝ち得た喜びを、自由のために戦った喜びを分かち合おうではありませんか」
そのときでした。
テレビの画面が乱れたのです。
そこにはかの有名な某国の指導者が粗末な部屋で椅子に座っている映像が映し出されました。
彼は揺れる画面でこちらを指していました。テレビを見ている人に向けられているのでしょうか?
何かを喋りましたが、言葉が分かりません。
テレビは突然、消えてしまいました。

1月22日
空が赤いのです。
怖い。
会社に行こうとしたけれど、空の赤さに怖くなってまた部屋に戻ってきてしまいました。
洋二!怖いよ!怖いよ!


********************************

第九条【戦争放棄、侵略のための軍備及び交戦権の否定、世界平和への活動】

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、わが国が侵略を目的とした諸問題を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを世界の安定のため以外に使うことは、これを認めない。

 日本国民は世界の平和と安定のためにあらゆる活動を否定しない。考えうる最高の方法と技術で世界の平和と安定を強く希求する。










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雷の夢

2004年09月05日 13時11分12秒 | 小説
秋、僕は須磨の山を散歩していた。
須磨浦公園駅からロープウェイの脇の急勾配をゆっくりと登ると、やがて岩場に出て、ここから眼下に海が開ける。
青い海、緑の山、対岸の淡路島、そして目を移せば神戸の市街地が巨大なパノラマになって拡がる。
都会のすぐ近くにこのような散歩道があることを、僕は素直に感謝した。
汗が出る。最初の鉢伏山はたかが240メートル程の山の高さだが、45度にもなる急勾配はきつい。
もうすぐだ・・もうすぐだと山を登る。
時折、眼下に目をやる。そうすることで自らの登ってきた高さが実感できる。
息は切れるが気持ちが良い。

ロープウェイの山上駅を通り過ぎ、そのまま進むと遊園地に出るので脇道へそれた。
うっそうとした森林が気持ちよい。勾配はもうなく、しばらくは軽いアップダウンの尾根道が続く。
鉄拐山を過ぎ、まもなく高倉山の造成地に出るはずだった。
ここは山を削って住宅地にした後、その山肌を簡単な公園に整地したところだ。
森を抜けるとその「おらがやま」公園だ。

そのとき空が曇ってきた。
それもにわかに掻き曇るような、急な天候の変化だった。
空は見る見る真っ黒になり、雷が鳴り出した。稲妻も見える。
しまった・・僕は傘を持ってきていなかった。天気予報もチェックできていなかった。近くの木の下で雨が上がるのを待つしか仕方がなかった。
雷の音が近づいてくる。稲妻もはっきりと見えるようになってきた。雨がひどい。土砂降りだ。
腹を決めた。少なくとも、雷が遠りすぎるまで、じっとしていよう・・別に濡れてもかまわない・・
強烈な稲妻の光があたりを包む。頭の中で雷の爆音がする。

気がつくと雨が上がっていた。
稲妻に気を失っていたのだろうか・・とんでもない散歩になった・・そう思い、歩き始めた。爽やかな風が吹いてくる。
懐かしいしっとりとした空気が僕を包み込む。
鳥の声がする。
けれど、いくら歩いても公園には出ない。このあたりに禿山になってしまった公園があるはずだった。
尾根道が続く。
海が見える。きれいな青い海だ。今日は船がいない。
とんびが飛んでいる。尾根をゆっくりと歩いた。道を間違えたのだろうか?
それにしても静かだ。
鉄拐山から道を間違えて進めば、須磨寺に出るのだろうか・・第二神明道路にぶつかるのだろうか・・そう思いながら歩く。
だが、尾根が続くのはおかしい・・そのうちに尾根道のまま登りになった。登りきって、南を見た。
山と、田畑らしい緑があって、その向こうは海だ。
海辺は白い砂浜と松林らしい緑の帯・・僕はわけがわからなくなった。
・・そう、町が見えないのだ。神戸の須磨あたりの町が全く見えないのだ。第一、この山はなんだろう?
団地は?公園は?
空気が澄んでいる。風はあくまでも爽やかだ。

「あんた、こんなところで、何をしてるのや?」
山を登ってきた老婆が僕に声をかけた。異常な服装だ。
時代劇に出てくる百姓女の服装をもっと汚く、だらしなくしたような格好だった。
「ここはどこですか?」
老婆も僕の姿をみてギョッとしたようだった。
「ここは・・高倉山やけどなぁ・・あんた、どこからきやはったのや?」
・・高倉山・・じゃあ、団地のところではないか・・
「あんたも、はよう逃げな・・こんなとこにおったら織田にやられてしまうでな」
・・オダ?・・なんのことだ?
どやどやと人の声がした。
やがてその声が姿をあらわした。大勢の時代劇の格好をした、それもかなり薄汚い連中だった。男、女、子供、老人、十人ばかりが僕の目の前にやってきた。
「こいつは、なにもんや」「織田の侍かいな?」「変な格好やなぁ」
口々に騒ぎ立てて僕をじろじろと見る。汗の臭いが拡がる。
「織田の侍やったら、やってしまわんと・・」
老人がそう言うと、若い男がカマを僕にめがけて振り下ろそうとした。
「まってくれ!サムライって・・何のことや!」
僕はとっさに身をかわし、彼らから少し離れた。
「侍とは違うのかいな・・」「いや、信じたらあかんぞ!」「この際やってしまおうや!」
口々に物騒な言葉が出る。僕はこの連中に殺されかねない。身の危険を感じた。
「ほっとけ・・はよう行かな・・下畑やったら、べっちょうないで・・」
最初に僕を見つけた老婆が、他のものをたしなめるように言った。その隙に僕は彼らの来た方角へ走った。
「あんた、村のほうへ行ったら・・織田が来るで!」
老婆の声がしたが、殺されてはどうにもたまらない。僕は尾根を走った。
すぐに下り坂になった。一番下ったところで山道が十字に交わっていた。今のまま、まっすぐ進むとまた山を登る。
交わっている別な道を右に行くと、山を降りて海の方へ行くようだった。
左に行くと、その先に大きな池が見えて、もっと山の中に入っていく感じだった。
海のほうには煙が見えた。
僕は今の道をそのまま、まっすぐ進んで山を登るほうを選んだ。
すぐに頂上らしきところについた。視界は開けるが相変わらず神戸の町は見えない。海と反対の方角を見ると、山がずっと続いて、時折、池や田畑があるような景色だった。
須磨ニュータウンはどこに行ってしまったのだろう?
誰も追って来るものもなく、僕は頂上を過ぎ、いったん森の中に入って、そのまま道を進んでいた。
また登り坂になった。岩が多い。
けれどもこちらもすぐに頂上になった。頂上には木がなく、岩場の見晴らしのよいところだった。
・・あれ?・・岩場から岩場へ続く道が見える。
そこから先は岩場が広がる荒涼とした景色だ。・・この景色は・・
僕は愕然とした。
ここは横尾山に違いがなかった。須磨アルプスの名所だ。
ということは僕は、須磨の背山を縦走する道路をそのままに歩いてきたことになる。けれども・・どこにも団地やニュータウンは見えていない。僕がさっき、何人かの人間と出会った場所は高倉山団地のある場所のはず・・
岩山の頂上から周りを見渡した。
海が見え、山が広がり、田畑が見える。
反対側も、山と谷と池と田畑くらいしか見えない。空気はしっとりと、懐かしく、地形はあくまでも・・その先に見える鷹取山も、神戸そのものだ。
もしかして・・僕は岩場を慎重に下りた。何時もならある階段もロープもない。
ゆっくりと岩を下り、谷あいに出た。
小さな泉が湧き出している。
やっぱリここにあった・・僕は泉に口をつけて水を飲んだ。辛い、この山の味がした。
ここが間違いなく、須磨アルプスと呼ばれる須磨の背山であることを確認できたけれど、何かが狂ってしまっている・・時間が、時代が・・
僕はどうなったのだろう・・
鳥のさえずり、風で木の葉が揺れる音、かすかな水の音、何がなんだか分からず、僕は泉から湧き出る川に沿って歩いた。すぐに森の中に入った。僕の知っている須磨の背山の感じそのものだ。ただ、木々の形や大きさが違う。
少し行くと粗末な小屋があった。
小屋の前に座っている女がいた。赤みを帯びた粗末な着物を着ていた。
「ここは・・須磨ですか?」
僕の問いかけに女はびっくりしたように後ずさりした。
「すみません・・僕は怪しい者ではありません・・」
女はそれでも、警戒を解かず、小屋に自分の背を押し付けて、僕を睨み付けていた。
「あの・・そうだ、僕はサムライではありません」
女は少し警戒を緩めたようだった。
「刀は持っとらへんのやな」初めて女が口を開いた。
僕は大袈裟に両手を広げた。女はじっと僕を見つめていた。
若い、まだ少女の年頃ではないだろうか?
すすけた顔、痛んで汚れた髪をきちんとすればかなりの美人になりそうだった。

「織田が来たんや・・うちらは飛松村におったんや・・」
女はそう言った。飛松?聞いたことがある・・このあたりの地名だろうか?
「織田って・・あの・・織田信長の織田ですか?」
「そうや・・おまえ・・何も知らへんのやな・・」
中へ入れ・・女にそう言われて僕は小屋の中に入った。小屋の中は明かりがなく、薄暗い。
「一の谷まで織田の奴らが攻めてきよった。うちら、何もしとらへんのに・・」
僕は歴史の授業で習った織田信長を思い起こしていた。信長といえば、中世の英雄で安土城を作り、比叡山を焼き討ちし、明智光秀に殺された・・それくらいしか思い出せなかった。
「ここは安全なのですか?」
女は首をかしげた。
「おまえは何か訳の分からぬことを言うの」
安全・・それに代わる言葉・・どうやら彼女に分かるように言葉を使わないといけないらしい。
「ここは、べっちょうないか?そういうことや」
思い切って関西弁で喋ってみた。
「ここかいな・・わからんわ。織田は人を見たら首を刎ねるさかいなぁ・・」
「なんで?」
「荒木はんが織田を裏切って、須磨寺もそっちについたさかいや・・ほんまに知らへんのやなぁ」
そう言いながら、ええもんがあるわ・・女は僕に何かを投げてよこした。
「食いなよ」
目を凝らすと何かの干し肉のようだった。女は自分でもそれを齧った。僕も齧ってみた。固い。
「何の肉や?」
「たぶん・・鹿やな」
噛むと少し味が出てきた。けれども臭い肉だ。
この時代の人間は肉を食べるのだろうか?僕の思いとはかかわりなく、女は一心に肉を齧っていた。
「あんた・・名前は?」
「え・・僕かい・・巧一・・」
「コウイチ・・変な名前やな。まあええわ。うちはタキや」
「タキ・・あの川にある滝かな?」
「おかんが、山仕事しとって、滝のそばで産気づいたらしいわ・・そやからな」
「おもろいな・・その名前・・」
そう言うと女も笑った。

その日は僕たちはその小屋で過ごした。小屋は村のものが山で仕事をするときに使うためのものだった。村へ出て、織田とやらの餌食にはなりたくなかった。僕はもう帰れないかもしれない。その思いがあったけれど、何よりこの非常事態を乗り切らなければならなかった。
タキは魅力的な女だった。
歳は17、兄弟姉妹もいるが、織田の軍が攻めてきたとき、両親を探していて、はぐれてしまったそうだ。
両親は多分殺されただろうとのこと、兄弟姉妹はどこかへ逃げただろうという。
夜になると真っ暗だった。さすがに寒くなり、心細くなってきた。山小屋だから多少の食料はあるし、小川がすぐそこにあるので飢えたり餓えたりする心配はなかった。
けれどもこの先どうなるか何も分からず、タキも心細さは僕とさして変わらなかったに違いない。
寒さが迫ると、肌の温かみが欲しかった。人のぬくもりが欲しかった。
お互い自然に身体を寄せ合い、自然に抱き合っていた。ただ、タキの体の臭いには閉口した。僕が味わったことのない臭いだった。

朝になると、タキは村を見に行こうという。
一緒に山を下りて村へ向かった。小川に沿い、小さな滝を過ぎ、大きな岩を回りこむと、田圃が広がっていた。
のどかな田園風景だった。
棚田を降り、村にさしかかると雰囲気が一変した。
家はすべて焼き尽くされ、黒焦げの柱ばかりが残っていた。
村の路地は死体が転がり、それはどれも黒焦げで、首の無いものもあった。
僕は気分が悪くなった。けれど、タキは平然と見て回っている。
神社の鳥居があった。
鳥居も焼け焦げていた。
その脇の家に彼女は入っていった。
「やってくれたわ・・織田の奴ら・・」
家は黒こげで今にも崩れそうだったけれど、彼女はその中から何かを探し出してきた。壷だった。
「何とか、せなならんし・・」
壷を外に出してひっくり返してみた。銭がいくらか出てきた。どういう訳かタキはその銭を何枚か僕に握らせてくれた。
銭は博物館にあるような代物だった。僕は、それをズボンのポケットに入れた。
「悲しくないのか?」
僕はタキに訊いた。
「悲しいわいな・・そやけど、もう、何年もこんなんばっかりやから、慣れたわ」
タキはそう言って溜息をついた。空に向かって溜息をつく姿が美しい。
空は曇り始めていた。
雨の匂いがする。西の空が真っ黒になっている。その西の空の下には須磨浦の鉢伏山が、そのままの姿でそこにある。
不思議な気がした。ちがうのはロープウェイの駅舎がないことくらいだ。
けれど、山の麓までずっと、田圃が続いていた。
風が吹いてきた。
「危ない!」
タキが僕に覆い被さってきた。焦げた家の壁に矢が突き刺さる。
馬が走ってくる。
「まだ生きているものがあるぞ!」
馬に乗った男は叫びながら猛スピードで近づいてきた。
始めは一人、けれど、いつのまにか何人もの馬に乗った武士が僕たちを取り囲んでいる。
雷が鳴る。稲妻が光る。
雨が降り始める。
本物の武士は恐ろしい格好をしていた。まるでアニメに出てくる凶暴なロボットのようだ。
おわりだ・・そう感じた。
タキと僕は焦げた家の壁にくっついて、彼らを睨んでいた。。男の一人が弓を引き絞る。矢は僕に向けられている。
雷が鳴る。大粒の雨。
「くそう!」タキが叫んだ。
「織田の馬鹿やろう!」タキの声が雷に消される。
稲妻があたりを包んだ。何も見えなくなるほどの光があたりを覆う。全てを破壊し尽くすかのような爆音が支配する。

気がつくと僕は公園のような所にいた。
雨は上がったようだ。
「気がついた?」
女が僕の顔を覗き込んでいる。
僕はベンチに寝かされていたようだ。
「あの・・タキは?」
「タキ?」
「あ・・いえ・・」
身体を起こし周りを見渡した。
町の中の公園のようだった。
「ここは・・どこですか?」
「ここ?妙法寺川公園・・ですけれど」
・・僕は夢を見ていたのだろうか・・ここまでどうやって歩いてきたのだろう・・たしか、須磨の背山にいたはず・・
体が痺れている。雷・・夢だろう・・
ここは現実の都会の中だ。
「大丈夫ですか?」
女は心配そうに僕に尋ねた。
女の顔を見た。きれいな顔立ちが押さえた化粧で引き立っていた。
僕は立ち上がった。ゆっくりと歩き始めた。どの方向でもよかった。
いずれにせよ、駅かバス停に出るだろう。
女もついてきてくれた。僕が着ているものはびしょぬれだ。
何かがポケットに入っている。
濡れたズボンのポケットをまさぐってみた。
銭が出てきた。タキが握らせてくれたあの銭だ。
僕は立ち止まりその銭を眺めた。わけがわからない。
「あら、それ、持ってきちゃったの・・」
女が僕の手のひらを覗き込んでいう。びっくりする僕に女は含み笑いをした。
そういえば、この女の顔は・・

公園のはずれから鉢伏山が見えた。
ロープウェイの駅舎も頂上に小さく見えていた。











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