story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

二つの糸

2006年03月01日 14時28分44秒 | 小説

早朝の京王線・・まだ乗客も多くない新宿駅の、昨夜の酔いを残したような妙な気だるさの中で、私はややもすると迫る吐き気を押さえながら、臙脂色のシートに腰掛けた。
向かいの座席にはネクタイをだらしなく緩めた男が、夢の続きをむさぼっている。
この男は、昨夜は何処で寝たのだろう・・

神戸からこの町に流れてきた私が、右も左も分からぬままに、なんとかこうして生きているのは奇跡ではないかと思う。
女ひとり、ただ、自分の夢のためだけに突っ走ってしまった・・自分ではそう思うことにしているが、本当のところ、仕事への夢のためにこの町にきたのではないのだ。
私がしている仕事なら、それこそ神戸の街でもできる。
東京には最新のファッションがあり、それがある故に私はこの町で学ばねばならない・・そう言い続けてきた屁理屈・・
この町が所詮は田舎の集合体であること・・
むしろ、神戸の町の、まるで町が持って生まれたかのような進んだ感覚こそが、私に必要だと言うことも十分に分かっているのだ。
だのに、この町へきた理由は、男だ。
昔、私を愛してくれた男・・彼は、散々悩み、苦しんだ末、何もかもを捨ててこの東京に来た筈だった。
私は彼に、とにかく彼に会いたかった。
彼が神戸を発つ前、彼の希望するスタジオは新宿にあり、彼が、しばらく多摩方面の親戚の家で厄介になると言っていた、その言葉だけを頼りに、私は単身でも申しこめる公団住宅を多摩で借りて、新宿の店に勤めるようになったのだ。
彼は自分の夢のためには、一切のものを捨てるといっていたから、私にもきちんと住所を教えることもしなかったし、携帯電話も代えてしまったようだった。
私は最後に彼と会った夜、私から頼んで抱いてもらった。
それは、私達にとって何度目かの、そう言う夜だったけれど、その夜の彼は、溜息をつきながら、私の身体を撫でてくれた。
私は彼が去って三月ほどしてから、ようやく、ありとあらゆる人脈に手をつくし、この町の店での仕事を得、一人でやってきたと言うわけだ。

今は私はこの町の住人なのだ。
もう3年・・私なりの人間関係も出来たし、時には私に言い寄ってくれる男性もある。
だが、私はまだ、彼を諦める気にはなれなかった。
彼のほうが、とうに私への気持ちを失っていたとしても、とにかく、一目彼に会いたかった。
会って何をするのか、自分でもわからなかったし、そこからどうする積りなのかも決めてはいなかった。
とにかく会いたい・・それだけの気持ちなのだ。

京王線の電車は、地下の線路をかなりの高速で突っ走る。
疲れている・・夕方から明け方まで呑んだ酒がまだ身体に残る。
嫌いなタバコの匂いが、髪や着ているものについている。
帰れば、すぐにシャワーを浴びねばならない。
電車はまもなく地上に出るだろう・・明るい日が射すだろう・・私はそう思いながら、意識のはるか奥へ引き摺り込まれていく。
もうすぐ・・もうすぐ・・明るいところに出るだろう・・
地下の壁に反射して大きく響く電車の轟音は、私の意識の底でも同じように響いている。

助けて・・私は何かから逃げていた。
助けて・・叫ぶけれども、誰も振り向いてくれない・・助けて・・轟音が大きく私に迫る・・
やがて、轟音が小さくなると私は海岸にいた。
母が海岸に立っている。
「帰っといで・・もうええやろ・・」
母は見せたことのないような優しい笑顔で、私に向けて手を広げて迎えるしぐさをしてくれる。
「あたし、帰ってきてるやんか・・」
私は、私が神戸で住んでいた場所のすぐ近くの海岸にいたのだ。
松林、砂浜、淡路へ渡る大きな橋・・
「はよ、帰っといで・・」
「そやから、おるやんか・・ここに」
そう言った瞬間、また地下を走る轟音が聞こえてきて、そして私は駅の雑踏の中にいた。
電車の発車する音が聞こえる。アナウンスが行き先を告げる。

「お嬢さん・・」
私はその声で起きた。
「ここは終点ですよ・・」
年配の婦人が私の肩をゆすり、声をかけてくれていた。
「あ・・すみません」
私はさっと立ち上がろうとした。
少しふらりと、体が浮く感じがする。
「大丈夫ですか?」
その婦人が訊いてくれる。
「有難うございます」
そういって、慌てて電車を飛び出した。
ここは・・何処だろう・・
地下の駅のようだった。
けれど、ホームへ出た途端、私は急激な吐き気を催した。
トイレを・・
エスカレーターをかけあがり、トイレの表示を見つけて、私はそこへ飛びこんだ。
幸い、トイレはあいていて、個室に入るなり、私は溜まっていた物を全て吐き出した。
苦しい・・こんなに酷い酔い方をしたのは始めてだ・・
便器を抱えこむように、私は吐き続ける。
胃をその上から掴んで激しく揉まれているように・・私は吐き続ける。
涙が出てきた。
昨夜は結婚が決まった同僚を冷やかす飲み会だった。
幸せそうな彼女の顔が、私には眩しかった。
それが余計に、普段飲まないほどの量の酒を飲ませたのだろうか・・
それとも、彼女の幸せそうな顔が私に悪酔いをさせたのだろうか・・
吐いても吐いても吐き気がおさまらず、自分の声とは思えない獣のような唸り声で私は吐き続けた。

ようやく気分が納まり、私は、フラフラと立ち上がった。
スカートも靴も吐いたもので汚れている。
トイレットペーパーで、それを拭い、個室を出た。
心配そうな顔をした人が数人、私を見ていた。

ようやくトイレを出て、何も考えず、私は改札口を出ようとした。
定期券を改札機に入れると改札機のチャイムがなり、扉が閉まる。
ぼんやりと、立っていると駅員が飛んできた。
「こちらで・・清算を・・」
駅員が私の腕を掴み、清算機の前へ連れていってくれる。
「あの・・ここ・・・どこですか?」
駅員は一瞬怪訝な顔をして私を見ていたが「ここは、八王子ですよ」と教えてくれた。
「八王子・・」この電車が八王子へ行くのは知っているが、来たことはなかった。
乗った電車は新宿からここまで各駅に停車してやってきたのだろうか・・
私はまだ酔いの醒め切らない頭で、駅員の指図のとおりに清算し、改札の外へ出た。
地上への階段を上がる。
土曜とあってか、こちらへ向かう人が多く、学生風、家族連れ、恋人同士の風・・それらの人々が少なくとも私よりはきちんとしているように見える。

私が今出てきた駅以外の方向へ歩く人たちもいる。
何をどうしたいのか、私自身にも分からず、ただ、人の歩く方向へ同じように歩く・・人の匂いが恋しい。
クルマが走る。
信号がある。
私は交差点で立ち止まり、一息入れた。
また吐き気が催してくる気がする。
建物の影に入ると春先の冷たい風が吹く・・自分が惨めで救いようのない女に思える。
「あれ・・」
信号が青になった方向から、渡ってきた男性が私を見て、ちょっと驚いたようだった。
私は、ぼんやりと、その男性を見た。
会いたくて、会いたくて、懐かしいその人がそこに立っていた。
「あなたは・・」
会いたかった・・そう言おうとした。
けれど、彼は小さな男の子を抱いていた。
後ろからきれいな女性がついてきていた。
「君は・・神戸から来たの?」
彼は私にそう言った。
私は、彼と、小さく無邪気な男の子と、きれいな女性を何度も見回した。
「神戸から・・来たの?」
彼はもう一度、私に聞いてくる。
私は、ようやく「いえ・・今は東京に・・・」とだけ答えることが出来た。
「どなた?神戸でのお知り合い?」
女性が彼に訊ねている。
彼は放心したように、私を見ている。
「東京に・・居るんだ・・」
私は少し頷いた。
「一度改めて、ゆっくりと話をしたいね」
彼が優しい目で私を見る。
その目だ。
私の好きな目だ。
「神戸でのお友達?」
女性がまた彼に訊く。
彼に抱かれた子供は無邪気に女性のほうを見ている。
「ああ・・そうなんだ・・」彼は女性にはそう答えてから、また私に言った。
「また、ゆっくりと・・そうだ・・携帯を教えてくれないか?」
この声だ。
優しい声だ。
でも、言葉が違う。
関東の発音で喋る人ではなかった。
「いえ・・」
私は、彼の目をしばらく見つめてしまった。
「結構です・・私、行くところがありますので・・」
私はそれだけ言うと、その道を走り出した。
今、幸せそうな彼は、きっと昔から私のことなど、好きではなかったのだ・・
私は、自分が小さく、惨めな生き物になった気がしていた。

優しい声、優しい目・・けれども、あの柔らかな関西のイントネーションではなく、彼は東京の人になっていた。
彼に抱かれた子供・・あの子は1歳くらいだろうか・・彼に似ていたあの子供は、私の子供ではない・・それが現実だった。
私は、そのまま、百貨店のある大きな駅の中へ走りこんだ。
切符の自動販売機の前で、何も考えずに500円玉を放りこんで、適当にボタンを押した。
お釣りと涙が一緒に出てきた。
「きらい、きらい・・みんなきらい・・」
私はつぶやきながら、泣きながら、人の波について歩き、オレンジ色の電車に乗った。
「きらい・・きらい・・わたしもみんなも、大嫌い・・」
周囲に居た人から見ると、私は異様に見えただろう。
そうでなくても吐いたり転んだりして汚れたスカート、昨夜からほつれるにまかせた髪、化粧が落ちているその格好は、充分、人目を引くに値するだろうけれど、私は時に独り言をつぶやきながら泣いていた。
電車は混んでいて、他の乗客達は私のほうを見ないようにしているらしい・・
私は、敢えて私から視線を外しながらも、時折盗み見るように見る目があることは分かっていた。

何処をどう通ったか・・
どう乗り換えたか・・駅員に聞いたのか、車掌のアナウンスで乗り換え放送を聞いたのか・・
私は、いつも自分が降りる駅で、モノレールを見ていた。
銀色の車体が、鈍く光を反射させ、ゆっくりと出ていく。
涙は呆れるほど出てくる。
それでも、ようやく落ちついてきたのを汐に、私は携帯電話を取り出した。
実家へ電話をしたのだ。
母の、いつもと変わりない明るい声が聞こえる。
「お母さん!わたし・・」
「どないしたの・・昼間に電話くれるの、珍しいやんか・・」
関西のイントネーションで母が答えてくれる。
「お母さん・・わたし、帰るわ・・」
「帰るって?」
「神戸に!神戸に帰りたくなった・・」
「あらら・・どないしたんやろ・・東京には赤い糸はなかったんかいな・・」
「赤い糸・・?」
わたしは母のその言葉を聞いて笑い出してしまった。
「赤い糸は、東京には、ないみたいやね・・」
久しぶりに関西弁がわたしの口から出る。
「しゃあないなあ・・ほな、こっちにええ男は仰山おるから・・」
「お母さん!わたし、男探しに東京へ来たのとちがうで・・」
「あら・・そうやったかしら・・」
わたしは母には、彼のことは一度も喋ったことがない。
でも、もしかしたら、母はとうに感づいていたかもしれない・・母もまた、わたしと同じように青春を過ごしたのであるならば、それくらいは分かったかもしれない・・
「そうや・・ただなあ・・」
「ただ?どないしたん?」
「神戸から糸が送られてきたみたいな気がしてなぁ・・神戸が懐かしなってん・・」
次のモノレールが、頭の上を通る。
銀色の車体は目に染みるような青い空を散歩するかのように、ゆっくりと駅へ入っていく。
「ほな・・神戸に赤い糸があるわ・・はよ、帰っといで・・」
「うん!早ように帰るわ!」

さっきまでの冷たい涙とは違う、暖かい涙が溢れてきた。
はよ帰って、海を見たいなあ・・わたしは歩きながら空を見上げ、ぼんやりと考えていた。

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