story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

ごめんね

2019年07月17日 23時25分59秒 | 小説

オレンジのバス

 

久しぶりに仕事で神戸市の郊外へ出かけた

高架の地下鉄駅を出ると

駅前には田園風景が広がっていて

ちょっとしたロータリーには橙色の路線バスが停車している

 

兵庫県の何処ででもみられる

大手バス会社の車両だ

 

そのうちの一台に乗り込もうとして

オレンジの車体が僕の視界全てになったとき

いきなり切ない空気が僕の周りを包んだ

忘れてはならないことが

いや、それでも忘れてしまったことが

いま僕の心の奥から湧き出してくるのだ

 

鼓動が激しくなり呼吸が粗くなる

冷や汗が湧き出し眩暈までしてくる

 

バスは緑の田園地帯をゆっくりと走り始めた

 

******

 

暗い部屋

かすかに昨夜の余韻が残る甘い体液の香り

夏の朝の蒸し暑さが

かえって君の身体への未練を迫る

 

カーテンの隙間から

明け始めた空からの光が差し込んでくる時刻

 

君はまだ眠っている

薄い掛け布団を被り

昨夜のままの裸で眠りこけている

 

僕は立ち上がり

君を起こさないように

ゆっくりと衣服をつける

 

無様な格好で下着をつけ、カッターシャツを着て

スラックスを履く

靴下を忘れてはならない・・・

 

君は身体を横にして眠っている

薄い布団から暗い部屋の中でわずかに見える

胸や肩の肌が僕を引き留める

もう一度、あの胸の柔らかさをとは思うが

僕はその思いを振り切ってしまう

 

「ごめんね」

フッと呟いてしまった・・・

 

ワンルームマンションゆえ、

キッチンからいきなり玄関の土間に至る部屋で

暗さに慣れぬ目でやっとのことで靴を履く

「ごめんね」

ことばがもう一度出る

 

その時だ・・・

「わたしはいいよ」

思わぬ君の声に驚く

「え・・」

「奥さんのところに、いってあげて・・」

 

僕はそのとき、何か気の利いた言葉を出そうとはしたのだ

そして、ほんの一瞬、考え込んでしまった

僕の言葉が出るより早く

はっきりと君は言った

「さようなら」

君は身体の向きを変え

僕の立ち位置からは薄暗い部屋で布団にくるまった君の背中が見えた

 

結局、僕は何も言えず、部屋のドアを閉めて

外から鍵をかけ、その鍵をドアポストに入れた

小さな鍵ひとつなのに

ドアポストの底とぶつかって

早朝のマンションの

なにも他の音がない廊下に金属の音が響く

 

僕は逃げ出すように外に出たのだが

夏の夜明けは早くて、すでに十分明るくなっていて

そこからいくらも歩かない場所に

いつも君が使うバス停がある

 

他にバスを待つ人もなく

まもなく橙色の路線バス始発便がやってきた

僕はほっとして、まだ数人の乗客しかない路線バスの固い座席に座り

車窓からの住宅街の景色を見ていたのだ

どの家もまだ眠っているのだろうなと思ったその時

さっきの君の背中が僕の頭に浮かんできたのだ

そして「わたしはいいよ」

という君の声が、家々の間から僕に迫ってくる気がした

いきなり湧き上がる自分への嫌悪感に苛まれる

 

なぜ、最初から正直に君にすべてを話さなかったのか

そうすれば、一時の遊びはともかくとして

君に余計な期待を抱かせることも

僕の妻に要らぬストレスを与えることもなかったのだ

 

いやいや一時の遊びはともかくなんていうこと自体が間違いなのだ

なぜ最初から君を苦しませる結果になることが分かっているような

愚かな行為に進んでいってしまったのだろう

 

バスはやがて田園地帯に出てゆっくり走る

男というのは身勝手な生き物

いつも女を食い物にすることでようやく存在する罪な生き物・・・

僕には、そのことがやっとわかってきたのだ

自分らしく遊べばいい

自分らしくいろんな出会いを楽しめばいい

そう考えていた

けれど、そこに嘘があれば話は別なのだ

 

今回のことで僕は何かを失ったわけではない

生活も仕事も今から先も全く元の通りだと、そう思っていた

 

そうではなく、僕は大きなものを失ったことに気が付いたのだ

それは自分への信頼

二人の女性からの信用・・・

そして独身である一人の女性が描いた未来

 

バスの車窓から田園風景を見てはいるのだが

さっき僕が言った「ごめんね」の言葉が

頭の中を何度も何度も反復して止まらない

 

ふっと君が向けた、布団にくるまれた背中が

田園の景色に上書きされる

 

*****

 

青春の過ちなどと人は言うかもしれないが

そんなきれいな言葉で済まされるものではない

 

橙色の路線バスは、ゆっくりと工業団地の中へ入っていく

 

コメント
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