story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

見張られる町

2004年12月29日 17時25分00秒 | 小説

直子はクルマを走らせていた。
許可番号121-2233、許可方向国道2号加古川市往復、許可条件・・自動車専用道路を使用のこと、許可車両・・ハイブリッド式4人乗り乗用車、パスワードyg3ddte341
今日の運行許可を警察の自動車管理部から貰うのは簡単だった。けれども条件がついた。
附則・・加古川市某所にて1名乗車のあとは直ちに帰還、車両の返還を行なうこと・・

石油がこの国にまともに入らなくなって3年が経とうとしていた。
経済の混乱を避けるために国家がとった方法は徹底して国民を管理するというものだった。
行動を制限し、混乱を起こさせなくするため、モノを考えることを規制するしかなかったのだ。
電子情報保持法、自家用車運行管理法、自営事業管理法、出版管理法、電子情報管理法・・そしてこれこそ稀代の悪法といわれる劣性遺伝管理法・・
人々の不満が爆発しても仕方のない状況ではあったけれど、政府はじっくりと一つずつ法律を制定してきた。
テレビニュースから、時事や経済の話は消え、変わりにタレントの痴話話やドラマの裏話が中心になってきた。
確かに生活はある程度不便にはなったけれど、サラリーマン世帯の収入はここ数年で倍増し、ガソリンこそ買えないものの、暮し向きは随分よくなっているのも事実だった。
車が使えないので、ロードサイトのショッピングセンターは疲弊したけれど、住宅地に接してたくさんのショッピングセンターや映画館、ゲームセンター、エステティックサロン、温泉などが次々に完成し、人々はクルマを使わなくとも、それなりの便利さを享受するようになっていた。

直子のクルマは高速道路から一般道路に入った。
高速道路は空いていて、走っているのは運送会社のトラックや軍のクルマ、それにタクシーと少数の自家用車だけだった。
一般道路に出ると、自転車やこの頃流行りだしたエレキバイクが幅を利かせている。
直子がクルマの運転をするのは久しぶりだ。
丸2年ぶりだった・・

2年前のちょうど今ごろ、冬・・
政府は突然、電子情報保持法案を発表した。
当時すでに携帯電話は、クレジットカードや保険証の役目も果たしていたけれど、各個人にこれを持たせ、情報をいつでも引き出せるようにしたものだった。
最初、この法案はマスコミから大反対されていた。
けれど、政府としては一切の闇物資・・特にエネルギー系の物資を世に出させなくするために、徹底した国民の個人情報が必要になっていた。
直子の恋人、俊三は、この法案に反対する運動をインターネットを使い立ち上げていた。
この法案が通ると、全ての国民は電子情報を常に携帯しなくてはならなくなる・・警察やそのほか当局の求めに応じて、情報は常に取り出されることになる・・
国民世論の大半は法案の成立に反対だったが、おりしも、東海地方を襲った大地震が朝ラッシュ時の発生であったため、身元不明遺体が非常に多く残り、この点での個人情報の常時携帯の必要性が一気にクローズアップされてしまった。

俊三は電子情報保持法案が成立後も、携帯端末を持たずに外出を続けた。
一斉検挙の行なわれた夜、俊三は逮捕され、その後今日まで刑に服することになってしまった。
直子は、まもなく俊三に会える嬉しさと、これから始まるであろう世間への気遣いとに複雑な心境であった。

俊三が逮捕された時、直子のお腹には彼の子供が宿っていた。
法に反するものの子供は生まれてくることは許されない。
劣性遺伝管理法は、この国の国力がアジア各国に対してそれまでの優位性を保てなくなった時に出来上がった法律だった。
知能、人格、全てを満たした国民の資質を根本から追求するために、政府はある程度以上の知的レベルのものしか、出産を認めないようにした。
もしも、妊娠していることがわかっても、両親がある程度以上のレベルを保っていないと、出産の権利を剥奪されてしまう。
この法律はその後拡大解釈され、法律の存在そのものが絶対悪であるにもかかわらず、さらに悪魔的な存在となっていったのだ。
法律が制限する両親の資質に「犯罪行為」が加えられた。
俊三が逮捕され・・そして罪が確定した時、直子のお腹の子供は4ヶ月になっていたが、そのまま随胎させられた。
それは彼女にとって、忘れることの出来ない屈辱を国家が警察権力によってなした異常な事態ではあった。
彼女はそれまで、まさかこの法律がこういう形で自分に降りかかってくるとは考えもしなかったのだ。

自宅に突然現れた刑事、携帯端末の提示、そして、有無を言わされず、警察の車に乗せられて連れて行かれたのは大学病院だった。いきなり診療台に乗せられ、注射を打たれ、気がついたときには自宅のベッドで横になっていた。
俊三が刑を服し終えたから、もう、あのようなことはないだろうとは思う。
けれど、彼女の心には強引に引き裂かれた命への思いが傷になって残っていた。
刑務所が近づく・・下腹が痛む・・
「これより管理区域に入ります。これよりは誘導に従ってください。なお、従われない場合、犯罪者とみなされることがありますのでご注意ください」
クルマのスピーカーから電子音声が流れる。
カーナビがクルマを刑務所に誘導する。
クルマは何もしなくても勝手に入っていく・・建物の中で駐車場のようなゲートのあるところがあった。クルマはそこで勝手に停車した。
「前に見えるもの以外は何も見てはいけません。あなたは前だけを見ていてください」
電子音声が聞こえる。緊張する。
後ろのドアが開く。
「後ろを見てはいけません。ドアが閉まるとゆっくりと加速してください」
人が乗り込む感触がある。ルームミラーは遮蔽されて見えない。
アクセルを踏む前に、車はゆっくりと加速し始めた。
建物を出る。
眩しい・・日の光に満ちている田舎の景色があった。
「これより管理区域を離れます。どうぞ安全運転でお帰りください。本日はご苦労様でした」
ルームミラーの遮蔽が解けた。
懐かしい、恋人の顔がそこにあった。
「おかえりなさい・・」
ハンドルを握りながら、彼女は泣いた。様々な思いが込み上げてきて涙が途切れない。
「わが国に万歳!」
俊三がいきなり叫んだ。
「なに・・?」
「わが国に万歳だよ!」直子はクルマを路肩に停めようとした。
「停めてはならない・・まっすぐに君の家に行こう」
感情というものが感じられない・・俊三の声は若々しく、元気ではあるけれど、感情というものがないようにも思えた。
「帰る途中で食事でも・・」
「まっすぐに、君の家に行こう・・」
ルームミラーの彼の視線は宙を見ているようだった。
何が起こったのか・・分からないままに彼女はクルマを走らせた。
そこからは二人の間には、会話はなかった。

クルマを警察署に返し、コミュニティバスで直子の自宅のあるアパートに帰ったときはすでに冬の短い日が暮れかけていた。
アパートに入り、明かりをつけるといきなり俊三が直子を抱き寄せた。
「こわい・・やめて・・」
直子が驚いて彼を放そうとすると彼は、彼女の耳元に口を寄せて、囁いた。
「お願いがある・・すぐに布団を敷いてくれ・・できればベッドルームじゃないところで・・」
「なんなの!」叫ぼうとした直子の口を俊三は口付けで塞いだ。
何がなんだか分からず、直子はベッドルームにあった布団をリビングに敷いた。
「寝よう!」
彼が大声で言った。
「君も寝るんだ!2年ぶりだからなあ!」
あたりかまわず、大声で言う。
そのまま彼女は布団に押し込められ、彼がかぶさってきた。それも頭から掛布団をかぶって・・

「ごめんね・・意味がわからなかったろう・・迎えにきてくれてありがとう・・」
布団の中で囁くように俊三が言った。
「セックスをしている振りをしよう・・僕たちは馬鹿に見せかける必要があるんだ」
俊三の手が彼女の下腹部に伸びた。
随胎の手術の跡を触っている。
「悲しかっただろうに・・辛かっただろうに・・」
「今・・本当のことを言う・・僕はずっと監視されている。君も同じだ・・だから・・布団をかぶらない時は、当り障りのない話しか出来ない・・」
「監視・・・」
「そう・・ベッドには起床装置がついているだろう・・あれの中に盗聴器が仕掛けてある・・」
直子が驚いて、声をだそうとした口は彼の手で塞がれた。
「僕たちはセックスしか考えない馬鹿者カップルにならなければならない・・そうでなければ、今度は君も危ない・・」
「危ないって・・」
「僕は刑務所のカリキュラムで徹底的に馬鹿を演じてきた。もしもそれが出来なければ、手術で脳を触られる・・動物並の知能にされるのだ」
「つまり・・刑務所は何も考えることの出来ない馬鹿を作るための設備だった・・」
「今の世の中を渡るには、いらぬことは考えてはいけないんだ・・考え、行動する人間は今の政権から排除される・・馬鹿なテレビを見、馬鹿なゲームにうつつをぬかし、どうでもいいような仕事をのんびりとやっていなければならない・・いらぬことを考えた人間は刑務所に入って、再教育・・それも出来ない場合は手術で強制的にそう言う人間にさせてしまう・・」
彼はそう言いながら、彼女の胸をはだけた。
「しばらく・・馬鹿で居よう・・君を苦しませないために・・」
そう言って、今度は本当に彼女を愛撫し始めた。

テレビをつける。
さして面白くない番組で、出演するタレント達が大笑いしている。
俊三は声を上げて笑っている。
直子には面白くないものにでも声を上げて笑っている。
彼女にも、少し事情が飲み込めてきた。彼が彼女を愛しているからそう言う態度をとることは分かった。
けれど、さっき、彼は愛撫はしてくれたけれど、そこまでだった。
永い永い、愛撫だけの行為が続いた。
今、彼を見ていると、やはり刑務所で何か人格が変わったような気がするのだ。
彼女が冷蔵庫にあったもので、簡単な夕食を作って彼に差し出しても、彼はテレビを見ながら、笑いながら、それを食べていた。
チャンネルを替える。
ニュース番組になった。
司会者はこの間まで人気絶頂のバンドグループのリーダーだった青年、それに先日オールヌードの写真集を出版した女性歌手の二人だった。
火事や交通事故のニュースが、被害者の心情にまで入って報道されるので人気のある番組だ。
一昔前まで、ワイドショーといわれたノリの路線だった。
そして、夜・・彼はやはり布団はリビングに置くように言い、また頭から二人で布団をかぶりこんでその中に入った。
「僕の実家へ行こう・・明日・・鉄道ならキップは買えるんだよね?」
俊三が囁くように言う。
「買えるわ・・電車賃はすごく値上がりしたけれど・・」
「じゃあ・・明日の”はまかぜ”で僕の田舎へ行こうよ・・なるべく気軽な格好で、僕の両親に久しぶりに会いに行くことにするんだ」
鉄道の旅行は警察に届を出す必要がなかった。
クルマを借りるわけではないからだ。でも、鉄道の運賃はここ2年で、2倍以上に跳ね上がっていた。
俊三は夜も直子を少し愛撫しただけで、そのまま眠ってしまった。

翌朝、携帯端末から”はまかぜ”の乗車券を求めようとしたけれど、本日のはまかぜ号5本の列車は全て満席だった。大都市では、クルマによる移動が警察の許可を要するため、勢い、列車に旅行者が集中するので、なかなか優等列車の切符は当日では手に入らないのだ。
「だめだわ・・満席・・」
直子が溜息をつくように俊三に言う。
「それなら・・普通電車で行こうよ!」
俊三は大声で答える。誰かに聞かせているかのように・・

電車に乗るには携帯端末を改札口の機械にかざすだけでいいことになっている。
「端末は持っているの?」
直子が訊くと俊三は軽く頷いた。
二人は改札を入り、やってきた普通電車に乗り込んだ。
途中の駅で快速電車に乗り換え、姫路駅からさらに播但線に乗り換えた。この間、二人は一言も言葉を交わさない。
直子にも、俊三が喋らない時は、喋ってはいけない時だと、おぼろげに分かってきていた。
何も考えずに、何も喋らずに、それでも手をつないで、二人は山陰本線の香住駅を目指した。
寺前駅で気動車に乗り換え、座席に座って初めて俊三が口を開いた。
「やっと・・監視から逃れたね・・」
「ここは監視されていないの?」
「国土全体を監視するわけに行かないから、今の所、ここから北は大丈夫らしいんだ」
「じゃあ・・おおっぴらに喋ることが出来るわけね・・」
「だけど、監視役員がどこで見ているか分からないからね・・迂闊なことはいえない・・特に運転士や駅員あたりが危ないよ・・」
列車はかなりの速度で走っている。
しかもこの列車はワンマン運転だ。
今の列車の運転士が二人を監視することは出来ない・・
車窓が雪景色に変わる。立派な高速道路が見えるがクルマは走っていない・・
「雪景色は、久しぶりだわ・・」
直子はガラスの曇りをぬぐいながら、一心に外を見ている。
「ああ・・もう、街には帰りたくないなあ・・」
俊三は屈託ない表情でボックス席で足を伸ばして、直子の横から外を見ていた。

香住駅で山陰線の列車から降りた二人は、そのまま漁港に向かった。
漁港のはずれに一艘の小型漁船が係留してあった。
「俊三!」
漁船の横で年配の男が声をかけた。
「おやじ!」
声に気がついて船から女性が出てきた。
「お袋!」
家族3人は抱き合って再会を喜んだが、すぐに直子のほうを向き直った。
「この方が、直子さんかい?」
俊三の母が訊く。うん・・頷くよりも早く、彼の母は直子に頭を下げた。
「辛い思いをさせたねえ・・すまなかった・・本当に申し訳がなかったねえ・・」
彼女は深々と直子に頭を下げた。
横にいる父親は、悔しさをにじませた表情をしていた。

「昨日、出所する・・それだけの手紙を送ったんだ。僕は出所すると、旅に出ることにしていた。ちょうどいい雪だ。これなら海上保安庁も追ってこないだろうし・・」
直子は驚いた。
「今の日本に僕の居場所はないんだ。君さえよければ、今から一緒に船に乗ってもらうよ」
俊三は雪にまみれながら、しっかりとした口調でそう言った。
直子は寒さで下腹部が少し痛むのを感じた。・・屈辱を思い出した。
自分の両親が心配するだろうと思った。
「ここに来るまで、君にもきちんとした説明が出来なくて・・心の準備が出来ていないだろうけれど・・」
俊三は直子を見つめた。
「さあ・・雪がやむ前に行きなさい・・食べるものはたくさん、積んでおいたから・・」
母がそう言う。
「直子・・来てくれますか?」
俊三が直子を見ている・・直子はそのまま彼に抱きついた。

冬の日本海、雪が舞う灰色の海を波にもまれて一艘の漁船が北へ向かっていった。
「うまいもんだろ・・」
「ロシアが日本からの政治難民を受け入れてくれる・・そこまでたどり着けばの話だが・・」
舵を握る俊三の横で、直子はただ海を見ていた。
始めて誰にも監視されない時が来た・・彼女の心にあるのはそれだけだった。

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おやじ

2004年12月12日 14時51分40秒 | 小説
私は冬の寒い夜、自宅で焼酎のお湯割などを軽くやっているといつも、ほぼきまって、おやじのことを思い出すのだ。
おやじとは、他の誰でもない、私の、自分の父のことである。

おやじは私とは違ってウィスキーのお湯割が好きだった。
ウィスキーのお湯割を機嫌よく飲みながら、目の前にいる私達兄弟姉妹にさして面白くもない冗談を飛ばして無理に笑わせるのが好きだった・・おやじ。
私の家庭は、私が覚えている限りにおいては、ずっと貧乏だった。
時には生活保護を受けなければならない状況に追い込まれたりもしていた。
それは、みさかいなしと言っていいだろう、たくさんの子供と、おやじ自身の無計画な相次ぐ転職によるものであったけれども・・

おやじ・・満男は、昭和12年1月、東京本郷の一角で生まれた。
母親、静江と、本来の父親精一は、将来を約しあって栃木・佐野で暮らしていたが「女は若いうちは稼ぐもの」という静江の母、フデによって別れさせられていた。
静江は泣く泣く故郷を捨て、身重の身体を引きずって東京へやってきた。
大きなお腹ではいくらも働けない・・けれども静江は持ち前の明るさと、頑張りとで華やいだ世界の中でめきめき頭角をあらわし、満男の出産で数日休んだ以外は、お座敷の仕事も欠かしたことがなかった。
満男が生まれると、生まれたばかりの子供は貰い乳に出され、静江はすぐにお座敷に戻ったばかりか、当時、急速に発展しているかのように見えた満州へ稼ぎに行かされる事になった。
このときの、満州への出稼ぎがどこぞのお大尽による勧めか、それとも静江の母フデによる勧めか、はたまた静江自身の希望だったのかは、私には分からない。
とにかく、生まれてすぐ、東京の本郷で満男は祖母と二人きりになってしまったことだけは確かであった。

静江は気になるのか、満州からでも母と息子の下へ時折、仕送りもしていたし、息子が好きそうなおもちゃや着物なども送ってよこしたりはしていた。
昭和も16年ごろになると満州では時局に敏感な者は、戦争の匂いをかぎだしていた。
静江も、あるお大尽から「国へ帰るなら早めに帰ったほうがよい・・」そう忠告されたという。
そうでなくとも、彼女にも、きな臭さは伝わっていた。
静江は意を決して、満州から帰国した。
ただし、日本に帰ってきただけであって、彼女が居着いた先は息子のいる東京から遠くはなれた神戸であった。
神戸の店でお大尽に可愛がられ、けれども神戸のあまりの埃っぽさに嫌気がさし、彼女は大阪へやってきた。
当時、彼女を可愛がってくれたお大尽の一人に、高名な画家がいて、その人が大阪へ移る手助けをしてくれたそうだ。
ここで、当時鉄道マンだった草野と出会う。
草野は野心の多い人物で、鉄道に勤める傍ら、戦時で不足しがちな物資を闇に流しては金を溜め込んでいた。
けれど、商売のあくどさ以前に草野は静江には優しかった。
彼にはすでに妻もあり、小さな娘も二人あったものの、やがて、草野は妻と別れ、静江と暮らすようになる。

戦争の風は、静江の心に不安をもたらした。
大阪の町もきな臭くなっていく。
静江は息子、満男を東京から呼び、共に暮らすことにした。草野の快諾があってのことだ。
満男、まだ五歳・・甘えたい盛りの小さな息子は、母と共に暮らせることに期待を抱いて、祖母に連れられ、東海道線の長旅をして大阪にやってきた。
やっと母と共に暮らせる・・大阪駅で「お母ちゃん」と抱きついたのも、その時限り、彼には突然、二人の妹が出来ていた。
静江は優しくしたい息子には厳しかった。あえて厳しくしていた。
それは草野の二人の娘を満男よりも可愛がることで、戦時の大阪で、生き抜こうとした本能であったに違いない。
満男まだ五歳・・大阪で、ひとりぼっちだった。
甘えは許されず、母は厳しく、義父は容赦がなかった。
自分だけが妹達とは違うものを食べさせられた。
「おまえは、男だから、これくらいは我慢しなさい」母、静江のいつもの言葉だった。
草野の一家は大阪、道頓堀の片隅で生活をしていた。
鉄道を辞め、折角建てた八百屋が、空襲で跡形もなく消えてしまった。
空襲の中、満男は妹二人の手を引いて必死で逃げた。
義父や母を見失わないように必死で逃げた。
赤い空・・空襲とは、戦争とは空が赤くなること・・
一家はその後、奈良に逃れて終戦を迎えた。

戦争が終わって、平和な暮らしが帰ってきた。
食料難は草野の器用さで乗り切っていった。草野は始めは八百屋をバラックではじめ、やがて、食堂を建てた。
みどり食堂はミナミでは芸人達に愛される有名な食堂になっていった。
それは、草野よりも静江の働きが大きかった。
ある日、草野が機嫌よく外出から帰ってきた。
「みやげや!」そう言って投げてよこした風呂敷にはどこぞで貰った饅頭があった。
「おい・・食べろよ・・」草野は娘二人に饅頭を与えた。
饅頭はまだ残っている。
「僕も!」
満男が伸ばした手を、草野は振り払い、残った饅頭は自分が食ってしまった。

満男は優秀な子供だった。
勉強も良く出来たし、弁も立った。
母、静江はろくに学校も出ていなかったけれど、お座敷ではお大尽も舌を巻くほどの時勢感を持っていたが、満男もまた、静江譲りの頭の良さを持っていたのだ。
けれど、弁がたつぶん、義父草野に逆らうことも増えてくる。
如何なる場合も草野に逆らうということは、静江には許容できず、その都度、息子を思い切り叱り飛ばしていた。
満男は家を出ることを考えるようになっていった。

中学を卒業すると、満男は家を出た。
神戸の理髪店に住み込みで働きながら、理容学校へ通ったのだ。
この理髪店で、満男は同じように住み込みで働いている留美子に恋をした。二人は二十歳前にすでに結ばれていた。
やがて留美子のお腹に子供が出来る。こうなると住み込みで働くわけにも行かず、神戸、湊川のはずれ、バラック立ての二階の部屋を借りた。
小便の匂いが立ち込める、廊下には砂が散らばるアパートだったが、二人には希望の家だった。
留美子のお腹の子供は二人目まで流産した。三人目が私だ。
場所柄、アパートにはやくざ者も住んでいた。時折聞こえるピストルの音、誰も珍しく思わない血まみれの怪我人・・神戸の闇の部分を凝縮した様な場所で、二人は三人まで子供をもうけた。
生活は苦しく、それでも夢があった。
この時期、満男は様々な人間関係を作っていった。警察官、やくざの親分さん・・

理髪店では生活が成り立たなくなり、満男は転職を決意する。
神戸らしい、港湾荷役の仕事だ。
知り合ったやくざものからの勧めもあったのかもしれない。
仕事はいくらでもあった時代だ。男一人、身体一つあれば、食うには困らないはずだった。
ここで、満男は組合運動に傾倒していく。
自分が貧しいのも、不幸も全ては帝国資本主義のせいである・・満男は社会主義運動にのめりこんでいった。仕事をそっちののけで街宣車に乗り込み、街を走った。
社会主義革命目前にあり・・そう信じて走り回った。
走っても走っても革命は近づいてこず、時代は彼の思いの反対へ、帝国資本主義の方向へ進んでいく・・少なくとも満男にはそう思えた。
始めはその憂さを晴らす酒だった。
革命が、呑めば近くなる気もした。
革命が出来れば、俺達労働者の時代だ。俺達の階級の時代だ。
本気でそう考えたけれど、労働者の時代は遠のくばかり・・思いは夢に、夢は幻に、・・幻は追いかけても近づけない・・そのことには気がつかなかった。
革命はともかく、満男は子沢山になった。
4人目の子供が生まれた。続いて5人目、5人目の子供はすぐに死んでしまう。
そのあと、会社の人事異動で満男は大阪へ転勤になった。
またあの町・・少年時代に苦しんだ大阪へ行くのは気が引けたが、会社の命令とあればやむをえない。一家は神戸から大阪・築港へ引越しをした。

大阪での生活にも慣れたある日、満男の職場の同僚が自殺した。
なんと、満男の引き出しに入っていた判を使って、多額の借金を残していた。満男は会社を退職し、退職金で友人の借金を支払った。
このとき、満男は神戸、新開地で親しくなった親分さんに頼ろうかとも考えたが、まだ、その時ではないと思い直したという。
一家は路頭に迷うかに見えたけれども、誘ってくれる人もあり、以前の会社のライバル会社に入ることが出来た。
けれども、人間関係でつまづいた。
酒の量が増え、昼間から酔っ払っていることもあるようになった。
仕事は半年ももたなかった。
6人目の子供も生まれて、しばらくして死んだ。
何かが狂い始めていた。それが何かわからなかった。
自分の力を信じたかった。けれども自分には何の力もなかった。
頭のよい男だから、自分の力を、冷静に見つめることは出来た。
けれどもそれを受け入れることは出来なかった。
自分の力のなさを、思い通りに行かない人生への思いを、安物のウィスキーで紛らわせるようになったのもこの頃だ。
その会社では半年持たず、満男は流れるように、泉州の製鉄会社の下請けへ、親戚を頼って入っていった。
けれども、親戚とはいえ・・親戚であるからこそかもしれないが、人は冷たく、給料は生活することも出来ない安さだった。
酒は増える・・しまいに呑まないと仕事に行かなくなった。
酒は彼に酔いは与えたけれど、確実に彼の体を蝕んでゆき、彼の人生を狂わせて行った。
時々、血を吐くようになった。
ある日、いつものように晩酌をしていた満男のこめかみから、急に血が流れ出した。
「あれ・・あれれ・・」満男は体調の異変に気がついたが、だからといって酒の量が減ることはなく、むしろ増えていった。
そんな中で、また続けて子供が生まれた。
7人目、8人目の子供は、親の苦労があっても、すくすくと育っていった。
ある日、草野に会って欲しいと、静江が満男に伝えてきた。
草野には、もう15年も会っていなかった。
満男は、長男を連れ、入院していた草野に会いに行った。草野はすでに脳軟化症で、ものをまともに言うことが出来なくなっていた。
病床の草野に、満男は「息子です・・」そう言って、長男を見せた。
長男をしばらく見ていた草野は、突然泣き出した。
「遅いよう・・遅いよう・・ごめんよう・・ごめんよう・・」回らぬ舌で、必死にそう言いながら、大泣きしていた。

それからまもなく、昭和48年1月、満男をかつて苦しめた草野が死去した。
草野は、退院してからも、脳軟化症が良くなるわけもなく、自宅で横になりながら、時折、散歩をすることが日課になっていた。この日も、ふらりと杖をついて、いつもの散歩に出かけたのだが、道頓堀のほとりの橋の袂で、石に腰掛け、休んだ姿勢のまま亡くなっていた。
その頃には「みどり食堂」は、すっかり、静江の店になっていた。
静江の、いかにも関東者といったキップのいい人当たりと明るさは、自然に道頓堀の中で、彼女の存在を大きなものにしていった。
草野が病床にある間も、亡くなってからも、みどり食堂の経営には全く差し障りはなかった。
満男は葬式のあと、何を思ったか、彼が会いたい人々に全て会いに行くための旅をした。
名古屋、東京、佐野、会津若松・・彼は義父の死を見て、自らも死期の近いことを悟ったのだろうか?

旅行から帰ると唐突に満男は会社を辞めた。親戚がやっていた会社だ。辞めるに辞められない状況で無理に辞めた。
就職活動を始めた。けれども、郵便物を止められてしまい、連絡が来ない。
そうこうしているうちに、時間は過ぎる。
今なら、いくら会社の経営者といえど、郵便物を止めるようなことをすれば世間からの指弾もあると思うが、当時は、どうしようもない状況だった。満男は困り果てて、昔知り合った、新開地の親分さんを頼ってみることにした。

親分さんは満男を見て泣いた。
手が震え、アルコール中毒の様相を呈し、顔色は黄色く青く、肝臓がすでに、かなり悪くなったことを示していたからだ。
「ミツオ・・お前、何でもっと、早ようにワシの所へ来んかったんや・・」
泣きながら、かつての盟友の肩を自らなでた。
満男の横にはもう小学校を卒業するかという長男が(つまり私が)いた。
「子供は何人おるんや」
「この子を頭に6人です」
「あほやなあ・・お前は・・ホンマに阿呆や・・こないになるまで・・エライ目してからに」
親分さんは涙を隠さず、そばにいた私にも、いくばくかの小遣いを持たしてくれ、その場で、加古川の会社へ満男の就職を斡旋した。

加古川・・満男が留美子と暮らし始めた頃、人の勧めで、この町の片隅に小さな理髪店を出したことがあった。
けれど所詮田舎ではあるし、余所者である。
店は続かず、満男には借金だけが残った、苦い思い出のある町だった。

春の花が曇り空に揺れる加古川・別府の駅に降り立った大家族を待ち受けていたものは、満男の急激な体調の悪化だった。
苦しく、腹と胸が痛む満男は、きついウィスキーでその痛みを紛らわせた。
紛らわせてはそのまま仕事に出かけていったけれども、そんな状態でいつまでも続く筈がなかった。
4月に加古川に移り、7月を待たずに満男は倒れてしまった。
病院には行くが、入院の必要を医師から聞かされても満男は拒み続けた。
薬と酒を一緒に飲む日が続いて・・ついに大出血を起こした。
満男は救急車で姫路市の病院に運ばれ、そこで1週間ほど入院した後、この世を去った。
入院後は苦しくて暴れるか、意識が泣く昏睡しているかのどちらになってしまった。
緊急で手術をすることになったが、担当の医師は「この人は生きようとする生命力がまったくない・・まるで死に急ぐかのようだ」とつぶやいた。
亡くなる前の日、一瞬、目が醒めた満男は、見守る妻に長男はどうしているか訊いた。
「あなたの病気平癒祈願に、堺の神社へやっています」
妻がやっとそう答えると「可哀想になあ・・」そう言って、また目を閉じたという。

私はおやじの死に目には会っていない。
病気平癒祈願を済ませて、ようやく親戚と共に病室に入った私を待っていたのは、母の泣き声と、おやじの名を呼ぶ親戚の声だった。
タッチの差で、私は間に合わなかったわけだ。
それからが大変だった。
とにかく子沢山で、子供達は親戚の家に分けて預けようと、親戚達が話し合ったそうだが、私の母、留美子がそれを拒み、結局家族一同、そのままで暮らすことになったのだが、それからの母の苦労話はまたの機会に譲ろうと思う。

私もおやじに似て、酒飲みの部類に入るようになってしまった。
こうしてほぼ毎日、焼酎のお湯割などを舐めてはいるけれど、おやじのよく飲んでいた安物のウィスキーには手をつける気になれないのだ。
少なくともそれくらいは、おやじが身体を張って教えてくれているのだと自分に言い聞かせ、酔いが過ぎるほど呑むこともないように気をつけている。
おやじは確かに酒が元で、身体を壊したのだけれど、その酒は何が元であったのか・・
戦争か、戦後の不安定な時期か、それとも、なるはずのない革命か、あるいは沢山の子供か・・
子供が多いのが嫌なら、いくらでも子供をつくらずにすむ方法もあったろう・・それにおやじは心底、小さな子供に接している時が嬉しそうだったように思う。
子供は本当に沢山欲しかったのかもしれない。
それは自らが、かなえることが出来なかった人生を泳ぎきる可能性を、沢山の子供に託したかったのではないだろうか・・

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何かを見つけた日

2004年12月01日 19時00分00秒 | 小説
冬の夜・・須磨から塩屋への国道を、エクゾーストノートも高らかに一台のスポーツカーが疾走していた。
車体は黒、それもつや消しの、いかにも自分で塗った色という感じの、荒れ果てたクルマだった。タイヤは異常に太く、クルマの窓は全てスモークフィルムで覆われていた。
国道もこの付近では片側1車線の普通の道だ。
スポーツカーは前の車には異常に接近し、恐怖感を与え、反対側の車線が空いた瞬間に抜きさっていく・・
JRの快速電車が国道と並行する線路に姿を現した。
黒いスポーツカーは、快速電車と競走でもするかのように、速度をあげ、反対車線にクルマがいようがお構いなしにはみ出しては、電車と併走していく。
恐怖心からか、このクルマに抜かれたクルマが、ハンドル操作を誤り、道路脇のガードレールに車体をぶつけ、横転した。
黒いスポーツカーはお構いなしに電車との競走を楽しんでいるかのように、走り去っていく。

国道を少し先に走ったところにコンビニエンスストアがあった。
駐車場にスピンして、先ほどのスポーツカーが入ってくる。駐車場でたむろしていた少年達が驚いて逃げる。
駐車場の枠など構わずに、そのクルマは斜めに停車した。
逃げた少年達が近づいてくる。
「われ!どこのもんじゃ!」
少年の一人がスポーツカーからゆっくりと降りてきた男に、怒りをぶちまけた。
「ケン、やめとけよ・・そいつにかかわるな・・」
別の少年が怯えた口調で、たしなめる。
黒い皮ジャンパー、サングラス、金髪に髪を染めた男はクルマから出ると、少年には構わずに店に入ろうとする。
「待たんかい!先に詫びろや!」
少年は男を追いながら、それでも声を荒げる。
「ケン・・やめろ・・そいつはあぶない!」
別の少年の声が上ずり、泣き声のようになる。
男が振り向いた。次の瞬間、少年の身体が吹っ飛んだ。
少年は店の前で倒れこんだが、男は意に介さず、店に入っていく。

コンビニエンスストアで男は缶ビールを数本、抱え込んだ。
レジには先客が二人、並んでいた。
男は無視して、自分の買い物をレジのカウンターに載せ、さっさと金を払っていく。誰も何も言わない、いや、言えない雰囲気のようなものが全身から溢れ出ている。
そのとき、店のドアを開けて、先ほど殴り飛ばされた少年が入って来た。
手にバールのようなものを持っている。「殺してやる!」少年は男めがけてバールを振り下ろした。
男はさっと身をよけた。
カウンター横の肉まんのケースが木っ端微塵に割れた。少年は次の瞬間には男に首を前から押さえ込まれ、店のウィンドウに押し付けられた。
「いま・・なんと・・言ったかな?」
少年はのどが押さえられ、声がでない。
「殺してやる・・か・・あまり残酷なことは言わない方が・・良いと思うよ・・」
男は少年をウィンドウに押し付けたまま低い声でそう言う。
少年はいったん、男の方に引き寄せられ、次の瞬間、思い切り、ウィンドウに叩きつけられた。
ガラスが割れる。血が吹き出る。
少年の身体が店の外にガラスまみれとなって倒れたのを見届けてから、男はレジの方を振り向いた。
レジにいたアルバイトの少女は怯えて声もでない。
「悪かったな・・救急車を呼んでやってくれ・・」
男はそのまま店を出て行ってしまった。
すぐに黒いスポーツカーが、国道の車の流れを無視して、スピンして駐車場から出て行った。
割り込まれた、国道を走っていたクルマが、慌ててハンドルを切って、反対側の歩道に飛び込んだ。

疾走するスポーツカー
クーペであることだけは判断できるが、ほとんど原形が残っていないそのクルマは、トヨタスープラを改造したものだった。
彼は、走るクルマから携帯電話をかけた。
「おう・・親父よう・・またやっちまったよ・・ちょっとコンビニで、ガキに怪我をさせてしまった・・また・・頼むよ」
「お前は!今通報が入った事件はお前か!これ以上どうしろというのだ・・」
男は電話を切った。
男の名は甲斐正志、23歳だ。
仕事はしていない。
彼の父、甲斐康正は、地元警察署の所長だった。

クルマは夜の街を疾走する。
ほとんど信号は守らない。
先ほど買い込んだ缶ビールを飲みながら、酔いが少しはいるのか正志の運転はさらに、荒く、危険極まりないものになっていく。
30分も走っただろうか・・お気に入りの漁港に着いた。
播磨灘が遠くまで見渡せる。
冬の月が澄んだ光を海面に投げかけている。
正志はさらにビールを飲んだ。
「助けてくれ・・」
そう呟く。
「助けてくれ・・何かが・・何かがしたい・・」
正志は月に語りかけている。
自分にはすることがない・・進むべき道がない・・未来が全く見えなかった。
彼とて、今のような生活で人生を終えるつもりはなく、何かが、何かがしたかった・・
涙が溢れる。今夜は海に浮かぶ船も少ない。風がなく、ちゃぷちゃぷと波が頼りなく防波堤に打ち寄せる。
つながれた漁船がゆらゆらと波に乗って動いている。

彼は優秀な子供だった。
中学での成績は抜群で、県下最高の進学校に入学した。
スポーツも万能で、背が高く、ルックスも良く、世界の全てが自分を中心に回っていると思えたほどだった。
・・けれど、どういう訳か大学受験でつまづき始めた。
一流の国立大学への受験に失敗した。
そのあと、考えうる全ての学校の受験に失敗した。
それからは成すことすべてがうまくいかず、卒業式から少しして、同級生のほとんどが進路を決めた後、彼は自分のいた学校へ出かけていった。
学校は3年生がいない分、静かで、ひっそりとしていた。
職員室へ乗り込んでいった彼を見た教師達は驚いた。
真面目で、優等生だった面影はどこにもなく、僅か数週間で彼の表情からは穏やかさは消えていた。
髪も金に染めていた。
煙草をくわえたまま、担任だった教師に近づいた。
そのとき、彼の心を占めていたものは、自分をだめにした教師や親への憎しみだった。
彼はそれまで、教師や親の言うとおりにしてきたつもりだった。特に進路には担任や指導教師のアドバイスにきちんと従ってやってきたつもりだった。
「どないしたんや・・甲斐、煙草はまだアカンで・・二十歳までは・・」
そう彼に言った教師は一瞬にして吹っ飛ばされた。
学年主任の教師が止めに入った。
すでに定年近い老教師にも、彼の一撃は容赦がなかった・・
二人を殴り飛ばしたあと、驚いて呆然としている教頭の頭をわしづかみにし、机に叩きつけた。
女性教師の叫び声が響いた。
彼は、叫んでいる女性教師にも近づいたけれど、彼女の口を手で押さえただけで、職員室から出て行った。

それからは、何があっても、彼の父親が警察幹部としてもみ消してくれた。
むしゃくしゃいている彼の気分を押さえるには、世間からごみのように思われている不良少年達を相手にすることが一番だった。
気が晴れるし、本人以外からは苦情はこない・・
彼は夜な夜な、不良少年達を探すようになった。
もっとも、彼は暴力だけで生きていた訳ではなかった。
何かが欲しい時に、金を払わずに奪うといったことは、したことがなかった。

海岸で、散々泣いた正志は、少し気分が楽になったのか、クルマに戻って、エンジンをかけた。
彼の自宅のある、神戸の郊外へとクルマを走らせた。心が穏やかになったのか、車はごく普通に、彼にしては控えめに走っていく。
先ほど、少年を殴り倒した店の近くで、山手へと道をかえた。
自転車が前を走っているのが見えた。女だ。
彼は自転車を避けようと、少しハンドルを切った。
自転車を追い越してから、ルームミラーで見ると自転車が見えない・・胸騒ぎがして車を停めた。
自転車が転倒していた。
女が倒れている。
「大丈夫か!」
女に近づいた。
気を失っている・・
「しっかりしろ!」
高校のものらしい制服の少女だった。
彼は少女を抱えて、歩道におろした。自転車も歩道に寄せた。
「大丈夫か!」
また声をかける・・少女は目を見開いた・・
「すみません・・眩暈がしてたので・・」そう言った少女は彼の顔を見ると震え出した。
「あのときの・・」
彼は少女の背を抱え、抱き起こそうとした。
少女の震えが止まらない。
「どうした?」
「怖い!」「何もしないで・・助けて!」
少女は震えている・・
「俺は何もしない・・どうして怖がるのだ・・」
「だって・・あなたは・・さっきの・・犯人・・」
正志は、ようやく理解できた。この少女は先ほど彼が暴れたコンビニエンスストアの、レジにいたあの娘だ。
「さっきはすまなかった・・驚かして悪かった。でも・・悪いのはあっちの方で、オレではない」
しばらく、少女は彼を見たままだった。
「それより、眩暈は大丈夫か?」
彼自身、他人に何年振りかで優しい声をかけていることに気がついた。
「オレのクルマがあたって倒れたのか?」
少女は首を横に振った。
「もしそうなら、怖がらずに、そうだといってくれ・・」
彼はサングラスを外し、少女の目を見た。
優しい、穏やかな目だ。
少女は少し安心したかのようだった。
「いえ・・違います。怖がって、そう言っているわけではありません・・本当に眩暈がして・・」
そう言いながら、少女は立とうとした。
「あ・・」立てなかった。膝にけがをしているらしい。何度か少女は立とうと試みたけれど、結局そのまま歩道に座り込んでしまった。
「どうしよう・・」
「俺が送るよ・・家はどこ?」
そう言ったかと思うと、正志は少女の身体を抱き上げて、彼の車の助手席に乗せた。
ハッチバックをあけて、そこに少女の自転車を積み込んだ。けれども自転車がクルマの車体からはみ出して、ハッチバックドアが閉まらなかったので、軽く上にドアを乗せるだけにした。
「ゆっくり走れば大丈夫だろう・・」
正志は運転席に乗り込みながら、少女にそう言った。
「あの・・」
「なんだ?」
「本当に送ってくださるのですか・」
「うん・・俺を信じろ・・信じろといっても無理かも知れんが・・」
彼はそう言って軽い笑みを見せた。少女は少し安心したようだった。

少女の家はそこから1キロほど山手の公営住宅だった。
「どうしてこんなに夜遅くまで、アルバイトをしているのだ?」
正志は少女に聞いた。
「大学にいきたいのです。大学にいって、幼稚園の先生になりたいのです・・私、子供の姿を見るのが好きなんです」
「大学なら、勉強さえ出来ればいけるだろう・・」
彼は心の中で舌打ちをしながら、投げるように言った。大学という言葉に彼の心は少し過敏になっている。
「うち、母子家庭でお金がないんです。大学の試験を受けるのにもお金がいります。入学前にもお金を納めなければならないでしょう・・」
「そんなに金が必要なのか・・家にその金はないのか?」
「ないんです・・お母さんも、パート、二つもしているけど、生活で一杯一杯なんです」
「そうか・・だけど、女の子が遅くまでアルバイトするのは、危ないからな・・」
公営住宅に着いた。
正志は少女をおぶって、三階の彼女の部屋まで連れて行った。
少女の母親が、驚いて、彼に何度も頭を下げた。
気の弱そうな、質素な感じの母親だった。

正志は自分の家に帰る道で、少女と自分を思い合わせていた。
大学に行くには、お金が、かかる・・自分はそんな事を考えもしなかった・・
「オレは・・何のために大学へ行こうとしていたんだろう?」
始めて考えたことだった。
ただ・・いい学校へ行きたい・・行けばいい人生がおくれる・・それがつまづいて、自分はおかしくなった。
いい人生とはなんだったのだろう・・
彼は、ぼんやりと月夜の道でクルマを走らせた。

翌朝、彼は、自宅近くの幼稚園を園庭の外から眺めていた。
小さな、四,五歳の子供たちが、若い女の先生について楽しそうにはしゃいでいる。
先生の笑顔も作ったものではなかった。
ふと、思い出した。
自分が幼稚園の頃を・・
カトリック系の幼稚園で、園長先生はシスターだった。
彼のクラスはひまわり組、きれいで、優しくて、けれど声の大きな、怒ると怖い秋子先生を思い出した。
その瞬間、当時の友達の姿をいっぺんに思い出した。
シンジ、タロウ、ケンタ、ショウちゃん、まりちゃん、ゆりちゃん・・
仲良く、園庭で、暖かい陽の光に包まれて、かけっこをしていた自分の姿が、浮かび上がった。
一輪車では誰にも負けなかった・・竹馬では女の子だのに、まりちゃんが一番上手だった・・
きらきらした陽の光に浮かび上がる秋子先生・・本当にきれいな先生だった・・
正志には、前が見えなくなった。
涙が溢れ、その場でうずくまってしまった。
「なんで・・なんで・・おれは、こんなになってしまったんだ・・」
歩道を通る人が怪訝な面持ちで、彼を眺めていく。

数日後、T警察署に正志が入っていった。
金髪、黒の皮ジャンはいつものままで、つかつかと当たり前のように警察署に入って来た彼を見て、驚いた署員が、彼に何かを聞き出そうとしたが、横にいた別の署員が耳打ちをすると、その署員は知らぬ顔で彼を通してくれた。
署長室の扉をいきなり開けた。
そこには少し驚いた表情の彼の父、康正の制服姿があった。
「どうした、正志、警察には来るなといっただろ・・」
「親父・・教えて欲しいことがある・・」
「なんだ・・珍しいじゃないか・・どうせろくでもないことだろう・・」
正志は父の前の椅子に座り込んだ。
「ろくでもないこと・・かもしれないなあ・・幼稚園の先生になるにはどうすればいいんだ?」
父、康正はしばらくそのまま黙っていた。
思いもよらぬ相談だからだ。息子が本気だとはとても思えなかった。
「しかるべき大学にいって、免許をとって、それから就職させてくれる幼稚園があればなれる」
「男でもなれるのか?」
「いまは、なれるはずだ・・雇用機会均等法というのがあっただろう・・しかし・・何故そんなことを聞くのだ?」
「その大学は、オレには入れるか?」
息子は父の顔をじっと見つめている。
「お前が、昔のような頭を、今も持っていたら・・お前なら入れるだろう・・」
「金はかかるか?金がかかるのだったら、それは出してくれるか?」
父は黙ってしまった。
二人の間に見つめあう時間だけが過ぎる。
「金は出してくれるのか?」
「なんだ・・やはり金の無心か・・」
「違う!」正志は父を睨みつけた。
「本気だ・・金は出してくれるか?」
少し間をおいてから、康正は答えた。
「お前がまともに生きていくための金なら、いくらでも出そう・・」
「本当か!親父・・ついでにもう一つ頼みだ!」
父、康正は息子を見つめた。
「二人分出してくれ!俺の友達に金がなくて、試験のためにアルバイトしているやつがいる!そいつの分も出してくれ!」
「お前の言っていることが本当で、お前が真剣にそれを考えているのなら、それくらいは訳のないことだ」
「本当か!」
「本当だ・・お前の言っていることが本当ならば・・だ」
「ありがとう!親父!」
正志は署長室を飛び出した。
車のエンジンをかけ、いつものように一気に発進させようとして、気がついた。
署長である父の顔に泥を塗ってはいけないと・・
これまで、父親の顔は泥を塗り、踏みつけるためにあったといっても良かった。
父親の言うように勉強をし、父親の言うように身体を鍛えた。
父親の言うようにして・・受験に失敗した。
彼自身の油断や、不運を考えたことはなかった。
彼は、ゆっくりと、静かに、警察署の駐車場を出て行った。
父、康正は、その頃、署長室でひとり泣いていた。男泣きに泣いていた。

警察署近くの高校
学生達が一日の授業を終えて、校門から出て行く。
正志はそれを眺めている。
生徒達は学校前に突然、現れた不気味な男に、声をひそめ、刺激しないよいうに気をつけて、ひっそりと通り過ぎていく。
やがて、松葉杖をついた少女が現れた。
「やあ!」正志が声をかけた。
先日の少女だった。
「あ・・この間は本当にありがとうございました・・お母さんがお名前も聞かずにって・・」
「いいよ・・今日もアルバイトにいくのかい?」
「いえ・・この足では自転車はこげないし、しばらくお休みさせてもらうのです」
「それは仕方がないなあ・・」
彼は少女には軽く笑みを見せた。
「送るよ・・歩くの大変だろ・・」
彼はそう言って、少女を自分のクルマに案内した。

「由香ちゃん!」
少女が振り向いた。教師が彼女を呼んでいる。
「その人は?」
「この間、助けていただいた方です!」
そう・・気をつけてね・・教師はそう言ったあとも、彼の車が動き出すまでそこで見ていた。
メモをとっているようだ。
「ナンバーをひかえているみたいだな・・あの先生」
「そりゃあ・・怖いお兄さんが迎えに来たんじゃあねえ・・」
少女はそう言ってくすくすと笑った。
「俺は怖いか?」
「怖いですよ・・ぱっと見たら・・でも本当はすごく優しい・・」
正志は少女に軽く笑みを見せた。
「もう・・バイトに行かなくていいよ」
正志が突然、何の脈絡もなく、そう言う。
「ダメですよ・・私、お金を作らないと・・」
「俺も大学を受ける・・君の分も資金を出してもらう・・俺の親父から・・」
少女は訳がわからないという顔をした。
「俺も幼稚園の先生になってみたくなった・・だから俺も君と同じ大学を受ける・・構わないだろ?」
「はあ・・」
「今から、俺も勉強する・・大丈夫だと親父も言ってくれた・・」
「はあ・・でも・・」
「なんだ?」
「私の受験するところは女子大ですから・・男の人は・・」
彼が笑い出した。
笑いながら、こんなに大声で笑うのは何年ぶりだろうと思った。
「じゃあ・・オレは別のところを受験する・・それでも君の費用は出すから・・」
「はぁ・・」
少女は怪訝な表情で運転する彼の横顔を見ている。
「今日は暇か・」
「はい・・バイトがないですから・・でも・・勉強をこんなときにしておかないと・・」
「ちょっと付き合え・・」
正志はクルマを海岸に向けて走らせた。

「由香って言うのか?」
「あ・・はい・・下村由香です」
「俺は甲斐正志ってんだ・・よろしく」
彼がいつもやってくる漁港近くの駐車場に車をとめた。
「きれいな海岸ですね・・」
「来たことがなかったのか?こんなに近くなのに・・」
「はい・・噂には聞いていましたけど・・ここに来たのは初めてです」
「降りるか?」
正志はそう言って由香を抱き上げ、外に出した。由香は、慣れない松葉杖を扱いかねるように、そろりと歩いている。
岸壁に降りそそぐ冬の日差しは、暖かく、気持ちがいい。
すでに夕方近く、短い冬の太陽はかなり水平線に近いところまで降りてきていた。

「俺・・幼稚園の先生になれるだろうか?」
くすくすと由香が笑っている。
「何が可笑しい?」
「だって・・勉強はすれば大学には入れるでしょうけれど・・」
「じゃあ・・いいじゃないか・・」
太陽の色がオレンジ色に染まり始める。
空の色が少し深くなる。
「そんなに・・怖い格好をしていたら・・子供たちが寄り付かないですよ」
そう言って由香は声を上げて笑った。
正志は始めて自分の風貌を思い浮かべてみた。
「なるほど・・そうかもしれない・・」
そう言って彼も笑った。

「正志だ!」
少年らしい声が聞こえる。
正志が振り向いた。
いつも、見かけるたびにいじめ回している少年たちだった。
少年たちは3人連れだった。
「来い!」
正志が叫んだ。
「やめて!」由香が正志の足にしがみついた。
由香の手をそっと外して、正志は猛然と少年達の方へ走った。
「俺から逃げられるはずがないだろ!」
少年達は逃げようとするが、そのうちのひとりが正志に首根っこを押さえられた。
捕まえた少年を正志は地面に押し倒した。
「やめて!」
由香の叫びが聞こえる。
正志は少年を睨みつけた。少年は勘弁したように目を瞑っていた。
あと二人は遠くから見ているだけだ。
「俺の前に、姿を見せるな・・オレはもう、お前達には構わない・・」そう言って、少年から手を放した。
少年は引きつったような表情で、正志を睨んでいる。
「消えろ!」
次の瞬間、少年は正志の足を蹴り上げた。
正志が倒れた。少年が正志に馬乗りになり、正志の顔を殴った。
少年の仲間もやってきた。
彼らは3人で、散々に正志を殴りつけ、蹴った。
正志は何もしなかった。殴られるに任せていた。
やがて、やおら立ち上がり、少年のひとりの胸倉を掴んだ。
そのまま少年の体を持ち上げる。
「もう・・気が済んだろう・・これ以上はオレは我慢しないぜ・・」
そう言って少年を睨みつけた。
正志が手を離した。
少年達は次の瞬間には走って逃げていた。

正志は少しよろけながら、由香のところへ戻った。
「大丈夫ですか・・怪我が・・」
顔中傷だらけだ。血も出ている。
「いいよ・・これぐらい・・あいつらも、いつも殴られるより、たまに俺を殴った方が気も晴れるだろ」
正志はそう言って笑った。
「あ・・その顔なら、子供がついてくるかも!」
由香が笑った。
「なんだよ・・子供は不細工な顔の方がいいってことかい・・」
正志もそう言って笑った。
ちょうど夕日が沈む頃だ。
正志は由香の顔を見た。
きれいな瞳をしている・・おれも、あんな瞳ができるようになるだろうか・・
少し風が出てきた。
「あの・・ひとつだけ・・いいですか?」
由香が正志に少し言葉を選びながら訊く。
「なんだ?」
「私・・学校に入るためのお金は自分で、用意したいんです・・」
ああ・・そのことか・・変わった娘だなぁ・・
そう思いながら、正志はかつてなかった穏やかな気持ちで、海を眺めていた。


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