story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

詩小説・寝台急行「銀河」

2011年08月28日 21時41分29秒 | 小説

本当にこの列車に乗ってしまってよかったのかと

今更になって強い後悔が湧き上がる僕の気持ちを当時の君が知っていたのかは判らない

だけど寝台急行「銀河」という名の列車は東京駅を出発し大阪へ向けて走り出していた

そのときの僕はこの列車の寝台券が発車直前の東京駅で買えるなどとは思わなかった

そう僕はついその二時間ほど前に東京駅の窓口で駅員氏からの事務的な口調で

「今夜の銀河の寝台券など今更有る筈がないじゃないですか」

そう言われるのを半ば期待していたのかもしれない

だが僕の期待に反して駅員は愛想よく手元のコンピュータを操作して

二枚の薄緑色の急行寝台券と二枚の大阪行きの乗車券を発行してくれたのだ

それは僕という人間の煮ても焼いても食えぬいい加減さが

ここに来てついに自分の首を締めるということになった瞬間でもあるのかもしれない

初めは不安そうな表情で僕の後をついてきた君は

必要な切符が発行されたそのときから自信ありげな表情に変わったように見えた

僕はといえば他人から見れば多分青ざめた顔色に

少し震えも出ているようで落ち着きのない焦燥が表に出ていなかったか

夜も十時半ともなるとさすがに東京駅でも涼風が吹く夏八月

すでに寝台列車の蒼い車体がホームに横付けされ列車の発電機がうなり

旅立ちの興奮のようなものがあたりに立ち込めている

僕たちはホームの喧騒を薄緑色の寝台券に表示された七号車へと向かう

蒼いボディに三本の白線が誇らしげな夜行寝台急行「銀河」

そしてそれは僕が決めて君が付いてきたこれからの人生の

本当に先が開けるのか全くその光すら見えない闇の中へ向けた

出発というには余りにも心細く何かに急かされるように生き急ぐ象徴であるかのようだ

君は寝台列車の蒼い車体の横を僕について歩きながらこういった

「なんかさ、かっこいい旅立ちよね、まるでヨーロッパの映画みたい」

ヨーロッパの映画にこういうシーンがあったかどうかは僕には分らない

だが君の言う「かっこよさ」よりは何も後先を考えずに

二人で中央線のオレンジ色のあの快速に乗車してここまで来てしまったその無様さ

そして僕たちが自宅に居ないことを気づいて探しだすだろう双方の家人の

驚いた表情や叫び声がこの東京駅十番ホームにまでやってきそうな気がするのだ

情けないことにそのときの僕はまさに発車しようとする列車に対して

「どうか、どうか発車しないでくれ」そう矛盾した願いを抱いていた

だが僕の気持ちを他所に寝台急行「銀河」発車時刻の二十二時四十五分が来てしまった

長く喧しい発車ベルが鳴り響き構内放送が乗客を急がせる

客車のドアを駅員が閉めて回る音が僕たちの人生を閉じ込めてしまったかのように

ここにきてついに僕は観念するしかない

列車は軽いショックとゆっくりした加速で夏の喧騒の余韻を残す都会の駅を通過する

京浜東北線の水色や横須賀線の青と白の車体とすれ違いあるいは追い越していく

もはや僕は明日からあのホームやあの電車そしてこの町に居ることは出来ない

列車はただひとつしかない伝手を頼って大阪へ行く僕たち二人や

大勢の、いろいろな想いを抱えて乗り込んだほかの乗客を乗せて東海道を西へ走る

「東京よ・・さらば・・ね」

君は通路の折りたたみ式の腰掛に座り屈託なく窓の外を見ている

窓ガラスの暗がりに反射する自分たちの姿や客車の車内の様子を透過するかのように

町の派手なネオンサインやサラリーマンが溢れる夜のホームが時折後ろへ流れていく

品川、横浜、大船と停車するたびに東京が遠くなるのはまさに実感か

未だ就寝前の軽い興奮状態にある乗客たちのあるものは洗面所へ向かい

あるものは早々と蚕棚のような三段の寝台に潜り込んでカーテンを閉め

やがては僕たち二人だけがいつまでも通路から窓の外を眺めている

「怖いんでしょ」君がふっと僕を睨みつけてそう口走りそして少し笑う

「怖いさ・・本当に怖い」僕は君の表情に正直な気持ちを告白する

大きく溜息を吐いてから君は立ち上がり僕の肩に腕を回してきた

「大丈夫、大丈夫って決めるしかないわよ」

ちょっと笑顔を見せた君が僕の腕の中に入り込み僕たちは揺れる列車の中で抱きしめあう

君の身体の柔らかさと暖かさが、僕を包み込んでくれる

「そう、大丈夫、大丈夫なはずなんだ」僕は」自分に言い聞かせるしかない

列車は規則正しいレールジョイントの響きを伝えながら滑るように走っていく

電気機関車の警笛が漆黒の闇の中へ流れていく

やや効きすぎの冷房が僕を少し不安にさせ心が氷の中へ落ち込んでいく

抱きしめる君の身体から心臓の鼓動と声にならない小さな叫びのような息遣いが聞こえる

それは君の心臓の鼓動であり君の叫びであるかもしれないし

もしかすると僕の心臓の鼓動で僕の叫びなのかもしれない

あるいは君の中に宿った小さな命からの叫びだったのか

君が泣いているのが判る

他の乗客たちは紺色のカーテンで仕切られただけの狭い空間に入り込んでしまった

軽い寝息も聞こえる寝台車の通路の蛍光灯の下で僕らは抱きしめあったまま立ちすくむ

昭和五十八年夏、大阪行き夜行寝台急行「銀河」は夜の闇の中をひた走っていた

                     (銀河・詩の手帖248号掲載作品・那覇新一名で発表)

コメント (2)
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