story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

その町

2023年04月22日 21時28分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

その町、泉大津市は大阪府南部の堺市と岸和田市の間に挟まれた小さな自治体四つのうちの一つだ。

南海電車の急行電車が停車し、大阪の難波からは大体二十分という距離である。

この街に僕たち家族が親父に連れられて引っ越してきたのは昭和四十六年の春だったか。

大阪の港で港湾荷役の職人たちを束ねる仕事をしていた親父は、仕事が順調であったものの、ある時、自殺した同僚が親父の判で借金をしていたことを知る。
それもかなり悪い筋からの借金だったらしい。

結局、親父は自ら会社を辞し、その退職金で同僚の借金を支払った。

だが、そうなると生まれたばかりの第五子をはじめとする家族六人を率いる身では

即座に明日の食べ物に困ることになる。

 

堺市の親族が泉大津市にある大手製鉄会社の下請け会社を経営していた。

その親戚に相談したところ「すぐに来い」とのこと、我が家は社宅のある泉大津に来たという訳だ。

その町は住宅が密集し、その先の海岸線には巨大な製鉄工場が何本もの煙突から煙を吐き出していて、曇り空、トラックの荷台に乗せられ街はずれの海岸近く、広大なグラウンドに面した古い社宅に着いた。

 

神戸、大阪の都会暮らししか知らない、まだ十歳の私の目には、広漠たる灰色の空と、草叢とも呼べない砂地の荒れ果てた雰囲気は心細く、なんで我が家がここに来たのか、幸せだった大阪市築港のあの優しさ暖かさが恋しく泣きそうになった。

自宅近くの小学校に五年生から転入し、新しい生活が始まった。

親父は仕事のきつさ、給料の安さ、思い通りに行かぬ人生への悔いを愚痴り、やがて酒に溺れることになる。

身体を壊し、薬を酒で飲む日々が続く。

 

この街でさらに第六子が誕生して我が家は八人の大所帯になった。

経済は苦しく、必死で親父が働いても家族を養えず、役所に相談して幾ばくかの補助をもらうことが出来た。ところが、そのことがなぜか級友たちの知ることになり、私は「税金泥棒」と揶揄(からか)われるようになる。

大阪市内では、いじめなどというものを経験したことのない私は、同級生というものに悪意があるというのをはじめて知ったのだ。

 

悪意はやがて暴力に代わり、意味なく殴られる。

それどころか、話を知った上級生や中学生たちまでが訳なく殴りかかってくる。

母に頼まれて買い物に行ったその帰り、中学生たちが待ち伏せしていて、買い物籠は放り投げられ、散々、殴る蹴るの暴行を受けた。

あちらこちら怪我して血まみれで帰ってきた私を母は抱きしめてくれたが、折角買った食品は、連中に踏みつぶされ殆ど使い物にならなくなっていた。

それでも、その連中が有力者の子弟という事、そして私を普段から揶揄(からか)っていたクラスメイトが「美しい文字を書く」ことから、「悪人に美しい文字は書けない、字の下手な人間こそ悪意のある人間なのは当然だ」と担任の教師は私に悪いところがあるかのような「指導」までしてくれるという、教師にも悪意があるのを知った。

所詮はこの街では私たち親子は余所者であったわけだ。

 

だが、面白くない学校でも仲の良いクラスメイトもあり、彼らとはよく海や川で遊んだ。

彼らもまた途中転校組で「余所者」だった。

まだ埋め立ての進んでいない海岸は立ち入り禁止柵など乗り越えて虫取り網で簡単に取れる魚とりを楽しんで、時には獲物が夕食のおかずになることもあった。

自然のままの護岸に、案外きれいな水が流れている川も楽しい遊び場だったことには違いなく、横を走る緑色の南海電車を眺めるが好きだった。

だがあるとき、足を滑らせて川に落ち、水中でもがいていると目の前をきれいな鮒が悠々と泳いでいた。

 

誰も使わない広大なグラウンドには、所々にできたままになっている水たまりがあり、私の絶好のペット飼育場所になった。

そこでカエルの卵を他所の溝や川から持ってきて、孵化させたのだ。

やがて水面が真っ黒になる程の大量のオタマジャクシがうじゃうじゃと水たまりを泳ぎ、そして天敵がほとんどないことで皆元気に生育して、大量の小さなカエルがその辺りを飛び交う結果となり、私は社宅の人たちに叱られた。

 

二年余りここで過ごし、小学校の卒業式のあと、本来は市内の中学に進学するはずだったが、親父はその頃、親戚と大喧嘩して会社を辞めてしまっていた。

社宅はすぐに出ねばならないが、親父の再就職の先が決まらない。

当時、我が家に電話などあるはずもないが、実は面接を受けた会社からの親父宛の電話を親戚の息のかかった自治会長がわざと取り告がなかったり、郵便で送られた採用通知を渡さず廃棄していたことが判明し、親父は親戚に抗議したらしい。

「俺に逆らうものはこうなるんや」

と言われて、多分その親戚は親父が頭を下げて自分の会社に戻ることを期待していたのだろうが、親父にその気持ちがないのは子供の私でもわかった。

そして親父は、進退窮まった日、私を連れて神戸の倉庫会社の事務所に行った

そこは倉庫の会社ではあったけれど、経営していたのは親父の若き日に、共に無茶遊びをしていた旧友で、さる筋の親分でもあった。

 

アルコール中毒で手が震える親父を見て「なんでもっとはように、儂のとこへけえへんかったんや」と、親分は泣き、すぐに関係先へ手続きを取ってくれた。

親父の再就職が決まるまでの間、私と弟は会津若松の親戚のところヘ一時預かりとなったが、それは可能な限り遠いところへ長男・次男を追いやることですでに理屈もわかる年頃になった子供を大人の争いに巻き込みたくなかったからではないだろうか。

大阪まで迎えに来てくれた大叔父に連れられ、新幹線、東北本線と乗り継ぎ、栃木の先祖の墓に詣で、そこから東北本線・磐越西線で会津へ向かった。

三月も末だというのに、会津は大雪で、歩くのに難儀するほどだった。

 

会津若松で人の暖かさに触れ、泉大津での子供ながらの苦渋からやっと少し癒されたころ、泉大津へ帰れと親父から連絡があった。

やがて、真っ昼間、堂々とその筋の親分が手配した大型トラックに荷物を積み込んで、親父以外の家族は南海電車、大阪市営地下鉄、阪神電車、山陽電車と長い電車旅をして、青い空の広がる加古川市に着いた。

泉大津と同じくここにも製鉄所があり、親父はそこで仕事をすることになっていた。

製鉄所は巨大などというものではなく、もはや要塞のようなそこ自体が一つの町のような大きさだった。

私は中学校の入学式には間に合わず、四月半ばの転入となった。

 

この加古川の町で、播磨の人たちの明るさ優しさに触れ、私たち兄弟姉妹は、のんびりと過ごすことが出来たが、親父は無理がたたり、せっかくの転職も僅か数か月で寝たきりとなり、夏の盛りに亡くなった。

加古川の人たちは、私たち家族がまとまって暮らせるようにいろいろな手を尽くしてくれて、やがて山の手の小さな団地に一家そろって移り住んだのだ。

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