story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

届かない月

2006年01月20日 17時39分40秒 | 小説

昔、昔のこと、そう、今から千年ほどむかしのこと。
田舎の山奥の、さらに山奥に、たくさんの猿が住んでいた。
猿たちは昼間こそ元気に山や林を走り回っているが、夜ともなれば狼の咆哮に、あいつが今にもこちらへやってきそうな気がして、気が気でなく、眠ることすら出来なかった。
そんな彼らではあるが、少しは安心して眠れる夜もあった。
所謂、月夜の晩である。
半月以上の明るい月夜はたとえ狼の咆哮が聞こえても、遠くまで見渡すことが出来、見張りさえたてておけば安心して休むことが出来るのだった。
願わくば、あの月の明かりを持ってきたいものだ・・猿たちは一様にそう考えていた。

ある月夜の晩、一匹の猿が夜遅くに猿の村へ帰ってきた。
その猿はとても興奮していて、とにかく大変だとばかりを言う。
仲間が一匹帰らぬので、猿の村長はずっと心配していた。
けれどもやっと帰ってきた猿は、大変だと言うばかりで謝るそぶりも見せない。
「何が大変なのだ。まずは、お前の身を案じてくれた仲間たちに、詫びて、その心配に礼を言うのが筋だろう!」
猿の村長がたしなめると、それでも、その猿は謝るそぶりも見せない。
「大変なのです!私は大変なものを見つけてしまったのです!」
猿の村長はこれ以上、その猿を諭すことをあきらめ、事情を聞くことにした。
「では、お前のその大変を聞かせてもらおう・・」
やっと、大変なことを言う場を与えてもらった猿は、興奮しながら喋り始めた。
「村長さま!月でございます。今宵の名月!このやわらかな明るさこそ、我らが祖先より求めてきた明るさであるはずです」
「なるほど、確かに、今宵の月明かりは素晴らしいのう・・じゃが、それとお前の“大変”とはどういう関係があるのじゃ」
「はい・・実はその月が、手を伸ばしても届かぬ月が・・あるのでございます。それも井戸の中、我ら猿が力を合わせれば取ることの出来るほどのところにあるのでございます」
「ほう・・わしは、そんなものは見たこともなかったが・・」
「はい・・村長さま!あれは、最近になって、この二つ向こうの谷を開墾し始めた人間が掘ったものでございましょう・・井戸と言う、その中に月が住んでいるのでございます。さすが、人間でございますなあ・・月を井戸で飼うなぞ、我ら猿には及びもいたりません」
「井戸とな・・あれは何をするものかと思っておったが・・そうか、月を飼うものであったか」
「そうなのです。しかも、その月は空の月と違い、ゆらゆらと左右にゆれ、まことに美しいものでございます。およそ空の月よりはるかに、美しいと思いますれば・・」
猿の村長は考え込んだ。
なるほど、人間が作ったものの中に飼っている月なら我らでも取り出すことは可能だろう・・問題は如何に人間に気づかれず、それを持ち去るかだ・・
そう考えているとき、村長の次の地位にある、二番手の猿が突然やってきた。
「村長・・それは、何かに映っている月なのではないですか?」
「何かに映っているとな?」
「わたしは、以前、遠くの湖で夕日が水面に映る姿を見ました。それはきっと、何か水のようなものに月が映りこんでいるだけでしょう」
「なるほど・・」
猿の村長がまた考え始めたとき、井戸の月を見つけた猿が大声で叫んだ。
「なにをいう!人間が自分たちのために月を飼う・・そのためにあれだけのものを作るのだろう!井戸と言うものは月を飼うためにつくってあるはずだ。それは人間がやはり我ら猿と同じように、闇夜が怖いからに他ならない!私は、猿の村のことをずっと思っているから、きっと我らの神様が私に教えてくれたのだ!そうに違いない!早く井戸へ行って、月を捕まえてこなければ、人間がさらに、のさばることにもなるのだぞ!」
まくし立てるように言う。
人間には勝ちたい・・それも猿たちの願いだった。
思えば、猿たちの祖先のころには人間は猿よりも毛が少なく、体が弱く、病気になったり、他の獣に狙われたりしたものだったらしい。
それが今や、この世は自分たちのためのものだとばかりに我が物顔で振舞う・・
その人間に勝つには、人間の知恵の拝借も必要だと・・その猿はまくし立てた。
村長は心を動かされたようだった。
だが、二番手の猿がそれをさえぎる。
「村長さま・・良く考え成され・・人間が井戸を掘るのは、わたしには月を飼うためだとは思われません。わたしは、一度、人間の井戸で水をもらったことがあります。あれはきっと水をくみ出すためのものでしょう・・そんなところに月を飼うはずがありません。ましてや、人間は火を使います。夜の道も火で照らすことが出来ます。どうして月を飼い育てる必要がありましょうや・・」
井戸の月を見つけた猿はここぞとばかりに言う。
「人間も火が怖いのだ!だから、火に代わる月を飼い始めたのだ。我ら猿は火は使えぬ・・ならばこそ、優しい月の灯りを人間から奪うのだ!」
強気の意見に、猿の村長はさらに心が動いたようだ。
「わかった。今から、その井戸の月を・・人間が飼う月を皆で奪いに行こう!」
「村長さま!無駄でございます。あれは月を飼うものではありません」
二番手の猿の諫言耳に入らず、村長は、威勢の良い井戸の月を見つけた猿の言葉を採用した。
「村長さま!そんなもの・・月など世の中に二つとはございません!」
二番手の猿は必死に諫言したが、聴く耳持たぬ猿の村長は夜中に村中に号令を出した。
「今から人間が井戸で飼っている月を捕まえに行く。われと思わんもの、わしについて来い!」
村長はそう叫んで、雄猿たちを、たくさん連れて村から出ていった。
二番手の猿には「お前は留守をするが良い・・帰ってきてからお前の処分を決める。お前は猿の村の団結を乱したのだ。覚悟して待つが良い」と、言い残して・・

二番手の猿は「まあ、そのうちに、あきらめてみんな帰ってくるだろう・・」そう軽く考えていた。

さて、猿の村から雄猿ばかり10匹ほど、一生懸命に山を越え、谷を超え、最近、人間が住み始めた谷あいにやってきた。
月の光は神々しく、猿たちの前途を祝福しているかのようだ。
「皆のもの、これは、まさしく、我らの神の加護じゃ!勇んで戦おうではないか!」
猿の村長は夜間の行軍でそう皆を元気付けた。

「あれでございます」
あの、井戸の月を見つけた猿が、皆を案内して、ようやく農家のはずれの井戸についた。
上から見ると、井戸の中ではまさしく空の月と同じ月が飼われている。
一匹の猿が手を伸ばした。
けれども届かない。
別の一匹が小石を投げ込んだ。
そのとき、月はゆらゆらと揺れ、いったん左右に別れた後、またひとつの月に戻った。
「おお!」
雄猿たちは感動した。
「これは、空の月よりはるかに上等の月だ」
「この月は自由に形を変える事が出来るんだよ!」
「飛び散ってまた元に戻る・・これこそ、我らが求めていた月だ!」
口々に雄猿たちが言うのを猿の村長はさえぎった。
「良くわかった!これこそ我らの求めていた月である!この月を見つけた猿には次の村長になる権利を与えよう!」
すると、雄猿たちはまた、「おお!」と感嘆の声を上げた。
今や井戸の月を見つけた猿は、英雄なのだ。
「よし、人間に見つかる前に、我らの手であの月を捕まえるそ!」
英雄は既にこの場を制し、月を捕る方法を知恵をめぐらせて考える。
井戸の横に大きな楠があった。
一匹の猿がその楠にぶら下がって、その猿の手を次の一匹がつかんだ。
こうして、ぶら下がっていけば、いずれ月を捕まえることは出来るだろう。
井戸は人間が作ったもの・・ならば10匹の猿で届かないほど深くはないはずだ・・
猿たちは一生懸命に作戦を練り、それを実行した。
「おおい!何をしてるんだ!痛いよ!」
突然、楠が叫んだ。
「お前は黙っておけ!我らは今、猿が人間を追い越すところまで来ているのだ!」
「黙っておけも何も、夜中にいきなり人の枝にぶら下がるなんて・・痛いんだよ!折れてしまうよ!」
「うるさい!つべこべ言うと、人間の家から火を持ってきて焼き殺すぞ!」
「おお!怖いよ!猿さんたち、こんなに怖かったかい!」
「うるさい!黙れ!」
楠は黙ってしまったけれど、枝が折れそうで痛い・・うめき声を上げながらそれに耐えていた。
「もう一匹ぶら下がれるか!」
「なんとか・・行けそうです!」
枝にぶら下がっている猿も、既に7匹の重さを一身に受けていて、手がちぎれてしまいそうだった。
「もう一匹行けるか!」
「なんとか・・」
「下の猿!月に届いたか!」
「あと少し・・あとほんの少しです」
一番下になっている猿が声を張り上げる。
「私が行く!」
井戸の月を見つけた猿が、そう叫んだ。
これで村長以外は全て井戸の月を捕るためにぶら下がっていることになる。
「おお!月だ!」
一番下に行った井戸の月を見つけた猿は、狂喜の声を上げた。
「月に手が届いたか!」
村長は井戸を覗きこみ、声をかける。
「はい!」
井戸の月を見つけた猿は・・手を伸ばした。
水に手が触れた。
月は揺れて、掴めない。
揺れる月を捕まえようとするけれど、焦れば焦るほど、月はばらばらになって、水だけを手に感じている。
「ようし!」
井戸の月を見つけた猿は、身体を大きくひねって、月を一気に掬い取ろうとした。
「痛い!」手と手でぶら下がっているだけだから、上の猿になるほど重さを感じている。
「うるさい!」
一番下の、井戸の月を見つけた猿は、大きく身体を振った。
「いたーーい!」
叫んだのは楠だった。
井戸の月を見つけた猿の手が、水面深く入るそのとき、楠の枝がぽきりと折れた。
「ぎゃー!!」

哀れな猿たち・・
叫び声を上げながら、井戸の奥深くへ消えていった猿たちを見ていた猿の村長は我が目を疑った。
「月は・・月はどうなったのじゃ!」
そう叫んでから、猿たちが死んでしまったことに気がついた。
「村の雄猿たちは・・どうなってしまったのじゃ!」
叫んでも10匹の猿は戻らない。
「あーあ・・だから言ったのに・・」
楠は枝が折れてひりひりする痛みを堪えながら、一人つぶやいた。

そこへ、みなの帰りがあまりに遅いので、心配して二番手の猿がやってきた。
「村長どの・・月は捕れましたか?」
猿の村長は、呆然と立ち尽くしたまま・・「みんな、死んだわ・・」とつぶやいた。
「え?」
二番手の猿が、井戸の中を覗きこんでみると、井戸の中は猿の死骸で一杯になっていた。
「これは・・?」
二番手の猿が絶句して猿の村長を見る。
「月はここにはなかった。月は空にあるもの、それひとつしかなかったのじゃ・・」
猿の村長はそうつぶやいてから、泣き出した。

原典・・日蓮遺文「寿量品得意抄」から「摩訶僧祇律」

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その日の後

2006年01月08日 16時04分40秒 | 小説

僕は、その日、震災復興のために無料になっている有料道路をミニバイクで走っていて、何かを踏みつけた。
ミニバイクは哀れにもガタガタと揺れ、これ以上の運転が出来ない事態になってしまった。
ここは山麓バイパスの神の谷トンネル・・自宅までまだ6キロ以上はあるなあ・・そう思うと情けなさが涙に変わる。
けれども、寒いし、もともと自動車のための道路だから、ミニバイクを押して長く進むわけにも行かず、次の交差点で多少遠回りになっても、バイパスから離れるしか仕方がなかった。
時間は深夜11時、いつ、帰りつくことが出来るのだろう・・バイクは、けなげにもエンジンは快調に回っていたから、エンジンをかけて押してやると歩くよりは少し楽な感じもした。

あの大地震からやっと1週間・・僕は数日前に地元のガソリンスタンドが、ようやく再開してくれたことを知って、大阪の仕事場への通勤を再開していた。
といっても、地震が来るまでの僕は、自宅近くのバス停からJR駅までの路線バスに乗り、駅からは大阪方面行きの快速電車に乗って大阪駅へ・・環状線に乗り換えて職場近くの大阪城公園駅まで行くという毎朝の行動パターンだった。
けれど、地震でJRはもとより、平行して走る私鉄の阪急・阪神、それに新幹線までもが大きな被害を受け、いつ開通できるか到底判断できない状況の中、毎朝の通勤ルートは完全に崩壊していたし、それでも、とにかく職場に復帰しkなければならない僕がとった窮余の策が、ミニバイクで六甲連山につながる丘陵を越え、鈴蘭台から三田に向かう路線がようやく震災後の被害から立ち直り開通している神戸電鉄に乗り、これで三田まで行き、三田からJR福知山線に乗車してようやく大阪駅へ着く方法だった。(その神戸電鉄は鈴蘭台から南の都心方向へはいつ開通できるか分からない状況だった。)
これまでも毎朝、1時間40分程度の通勤時間はかかっていたけれど、ミニバイクと神戸電鉄、福知山線の通勤では神戸電鉄が一部で徐行運転をしていることもあって、ゆうに3時間を超え、寒い早朝深夜の長距離のミニバイクの運転と、神戸や播州各方面からの乗客であふれる福知山線や神戸電鉄の大混雑は、通勤に疲労を招き、社に着いてもしばらくはまともに仕事をする気すら起こらなくなるひどいものだった。

その日、ようやく家に着いた僕はバイクの修理と明日からの通勤を考えねばならなくなった。
電気と電話は使える。
暖房は電気ストーブとエアコンが使えるが、水道の蛇口からはもう何日も水は出ず、ガスがないものだから風呂は焚けない。
もうすぐ2歳になる娘の顔を見てあやしながら、妻も困り果てているようだった。
幸い、僕の家には電熱器がひとつあったから、これで湯を沸かすことくらいは出来る・・だけど、炒め物やちょっと複雑な料理はとても出来ないから、どうしても食事のメニューが限られてくるのだ。
水道が使えないから洗濯も出来ず、溜まった洗濯物ははるか郊外にある友人の家でさせてもらうしかなかった。
買い物は地震の後、1週間でほぼ、普通に出来るようになったけれど、メニューが限られるから買うものも同じようなものばかりになってしまう。

テレビのニュースで、明日からJR神戸線が西から神戸駅まで開通し、同時に代替バスも国道43号を専用道路として使うことで運行できると知った。
「バイクは壊れたし、これで行くしかないなあ・・」
僕は、レトルトのカレーをご飯にかけながら、そうつぶやいた。
これを食べた後は、風呂には入れず眠るしかない。

翌朝、僕は始発の路線バスに乗りこんだ。
会社まで何時間かかるか分からない。
可能な限り、早く出るしかない。
路線バスは始発にしては多めの乗客を乗せ、それでも、垂水駅に着いた。
けれども、いつも下車する場所とは異なる場所でバスを降ろされた。
「バス停付近の地盤が崩壊する恐れがありますから・・」
どうやらバスも間引きして運転している様子だった。

垂水駅のホームへ上がるとまだ夜が明ける前なのに、人でごった返していた。
「全ての電車は各駅停車で神戸駅まで運行」との張り紙がある。
快速はないのか・・そう思ったが、もとより快速と各駅停車との所要時間の差は五分くらいだから、まあ良いかと言う感じだ。
電車はすぐ来た。
快速に使っている電車だ。
もとより非常時で快速なんてものはない。
乗ってしばらく走ると海が見える。
ようやく少し空が白みかかってきた。

快速に使っている電車が各駅停車しかとまらない駅に停車するのは、やはり違和感がある。
どの駅からも大勢の乗客が乗ってくる。
心なしか、どの人の顔も色が濃く、車内は汗の匂いが満ちている。
誰も風呂には入れないのだ。
まだ男は良いが、女性は大変だろうと思う。
須磨駅を過ぎ、しばらく走ると電車は急に速度を落とした。
何度もポイントをわたり、そのたびに電車が揺れる。
僕の目にびっくりするような景色が飛び込んできた。

倒壊した建物は、仕事を休んでいた数日の間に市内を歩き回ったことで沢山見ていて、このころにはそういう建物を見ても特に感慨も湧かなくなっていたけれど、大きな高速道路が電車の線路を越えているその場所で、高速道路の橋脚が完全に崩れ、傾いていた。
そこを鉄骨で補強し、支えているその下を電車が今にも止まりそうな速度で通過する。
ここで余震が起こればどうなるだろう・・大きな余震であの橋脚が崩壊したら・・電車ごと僕らはぺしゃんこだ。
ようやくそこを通過し終え、電車は更にポイントを渡り、普段は通過列車しか使わないJR鷹取工場の手前の線路を走り始めた。
夜が明け始め少し明るくなってきた。
車窓に見えるのは脱線転覆した操車場の車両たち・・ここに止めてあった全ての車両が同じ向きに転覆したまま放置されていた。
寝台特急のブルーの車体がお腹を見せている。
その転覆した車両のところで電車は停まった。
いかに僕が元国鉄マンでも、転覆した車両をこんなに沢山見たのは始めてだ。
ドアが開き、外を見ると木材で仮設のホームが作ってあり、ここが鷹取駅だと言うわけだ。
そのホームの向こうは、十数年前まで僕が勤めていた懐かしい鷹取工場だ。
けれども、工場の中でも、車両がひっくり返っているのが見える。
JRがいかに無理を承知でこの開通にこぎつけたか・・僕は未だに友人として付き合っている多くのJRマンたちの姿を、悲惨な鉄道の景色に重ね合わせてしまった。
不覚にも涙が出た。
涙が止まらない。

電車はポイントをいくつもわたりながら、新長田駅は通過した。
ゆっくり通過する電車から新長田駅を見ると、焼け落ちて、路盤も崩壊した哀れな姿だった。
このあたりの景色のひどさは、歩き回って知っているつもりだったが電車の高架から見るとあまりにもひどい景色に、なんで俺の愛する神戸がこんなことになるんや・・そう思う。
まるで戦争のあとのようだ。

ようやく神戸駅について、駅員の案内に従い、駅南から三宮行きの代替バスへと向かう。
これが失敗だった。
バスは観光バスタイプだったが、詰め込まれ、立つしかない。
すぐに乗車できて「ラッキー」と思った。
走り始め、しばらくするとバスは渋滞に引っかかった。
そのまま動かない。
結局、三ノ宮駅南側のロータリーまで2キロちょっとを1時間近くかかってしまった。
これでは歩いたほうが早い。

すっかり夜は明けたが寒い。
バスを降りた僕は大勢の通勤者と一緒に案内に従い、国道43号経由という。今日から走り始めたノンストップバスの乗り場へ向かう。
すでに定期券は解約してあるから、会社はどれでも良かった。
ただ、僕は鉄道ファンの本能から青木(おうぎ)まで開通していた阪神電鉄の青木行きノンストップバスがもっとも早そうだと思っていた。
この日の時点で、阪急は西宮北口、JRは芦屋、阪神は青木まで大阪方面からそれぞれ開通していたけれど、神戸市内に乗り入れが出来ているのは阪神だけだった。
長い行列はJRのものだった。
阪神はさらにその先、三宮の東西のメインストリートを数分歩いた場所でようやく行列があった。
幸い、数台待つだけで乗車が出来た。
意外だったのは、阪神電鉄の係員がバスの定員しか乗せなかったことで、これで、補助席もあるとはいえ、観光バスの座席に全員が座れることになる。
バスが走り始めると、観光バスなのでテレビもついていて、ニュースも見ることが出来た。

暖かな、設備の整った観光バスは災害時の代替輸送には似合わないかもしれない。
だが、そのおかげで、乗車した人たちは一様に安心感を得ることが出来た。
少しまどろんで、睡眠を補うことも出来た。
けれども、車窓に、目をやると、親しみ深い会社や商店の建物が倒壊していたり、国道43号の橋脚にも鉄骨で補強が成されていたりする悲しい現実を見ることになる。
見たくない・・でも見てしまう悲しい景色・・

青木(おうぎ)だといわれて降ろされたのは駅から少し西の、やや広い道路上だった。
駅までの道は路地のような場所でしかも火災の後だった。
青木駅に入ると懐かしく感じる阪神電車の、あの赤と肌色の電車が「急行梅田」の案内を出して停車していた。
やわらかなエンジのシートに腰掛け、ここにようやく日常があることを喜んだ。
けれども、結局、この日の通勤は4時間近くを要し、僕は10時の始業時刻にかろうじて間に合うありさまだった。

僕は当時、大阪の巨大ホテルで婚礼写真の仕事をしていた。
そのホテルは大阪三大ホテルのひとつに数えられ、格式も高く、婚礼と言えど結婚式場とはけた違いの高額な費用を必要とするところで、それが受けていたのかシーズンの日曜ともなると日に25組もの結婚式が15分ごとに行われるのだった。
冬や夏の間はホテルは暇で、結婚式も日曜でも日に10組まで・・これくらいの組数だとのんびりした空気があたりに漂うのだけれど、ホテルの平和な1月は神戸を襲った震災で一変していた。

神戸の中心部におしゃれな外観を競っている高級ホテルはいずれも震災で営業不能になり、結婚式どころの騒ぎではなくなっていた。
この時点で、大抵の神戸市民は結婚式やそのほかのパーティーは延期になっているものだと信じていたけれど、事態はそう簡単には収まらない。
神戸のホテルがまとめて営業不能になったその時点で、顧客は大阪のホテルに急遽流れ込み始めていた。顧客にも都合がある。結婚式の延期など出来ないのだ。
僕のいたホテルのように、神戸、大阪両方に系列ホテルがあるところは、直接神戸のホテルから変更の形で流れてきたし、大阪に系列のないホテルもやはり大阪のホテルに移してもらうように顧客に働きかけるしかなく、結果として1月、2月とは思えないオンシーズン並みの婚礼やパーティーが行われることになってしまった。
ところが、ホテルの従業員も多くが被災してしまっている。
大阪へ神戸方面から通う人が多く、営業休止中の神戸のホテルの従業員は殆ど自らも被災して動きが取れない。
僕のいたホテルでは、さらに、高級ホテルを家族の避難所として利用する神戸や芦屋、西宮のお金持ちの方々で宿泊も満室になり、広いロビーでは休校中の小学生が遊んでいるという、わけの分からない事態になった。
ホテルは降って沸いた忙しさに悲鳴を上げる・・従業員の何割かは被災して出て来れない。
悲鳴を上げるのでも決して嬉しい悲鳴ではなかっただろう・・僕のいたホテルでは系列の神戸のホテルの顧客への対応もしなければならなかったし、神戸のスタッフによるホテル再開へ向けた動きも支援していた。
けれども、神戸の系列ホテルは、高層ビル中層階の渡り廊下は崩落していたし、宴会場の水タンクが崩壊し、写真室や宴会場は使えなくなっていた。

僕が出勤を少しでも早くと催促されたのにはこんな理由があった。
事実、先輩のNさんは住宅が被災して倒壊し、着の身着のままで小学校の体育館からようやく出勤していた。
そういった人たちに比べると、僕は家は何ともなかったから、まだ幸いと言えたし、工夫して出て来れる状態になったのなら、なんとか仕事に出てくるしかなかった。
ただ、ホテルでありながら、客室は満室で仮眠室もボーイやフロント、調理のスタッフの方々で一杯で、僕はホテルに泊まることは出来ず、結局、残業で遅くなった日や、婚礼が朝早くからあり、早朝出勤しなければ行けない日は当時の上司の家で泊まらせていただくことになった。

しかし、高級ホテルで仕事をしていると、自分が住んでいる町と僅かに数十キロ離れただけで異国に来たような気になるのも当然だった。
きらびやかな衣装、豪華な食事、豊かで華やいだムード、ゆったりと談笑する人々・・
それは僕がいる今の神戸には無縁の存在だった。
だから、仕事とはいえ、ホテルの格式を失うことなく、接客し、応対するのは苦痛とも言えた。

自分の体が臭い・・神戸方面からの通勤者たちはそう嘆いた。
水もガスも出ず、風呂には入れない。
汗をかいて帰っても、そのまま寝るしかない。
まだ、僕のように自宅へ帰られるものはマシだった。
避難所へ変える人は、疲れを休める術もない。
すると、ホテルは仮眠室のシャワールームを使って良いと言ってくれた。
一度使ったけれど、今度は帰宅途中の代替バスの長い寒い行列で、すっかり身体が冷え切ってしまい、風邪を引きそうになった。
風邪を引くわけには行かない。
通勤は体力勝負だ。
結局、身体を洗うには休みの日に友人の家へ貰い風呂に行くしかなかった。

列車は動いている区間では最終も始発も普段に近かったけれど、なぜか代替バスは朝6時から夜10時までの運行だった。
行列に並ぶ必要もあるから、帰りの時間には気を使った。
遅くとも夜9時には、阪神梅田かJR大阪駅発の電車に乗らないとならない。

ぎりぎりで代替バスに乗り、三宮の町外れでバスを降りる。
2月に入ってから動き始めた阪神の神戸側の地下線、三宮と神戸駅を結ぶ短い区間が開通し、この間の移動も歩く距離が短くなっていた。
バスを降りると、きな臭い匂いが漂う。
道を歩くと小便の匂いがする。
神戸の都心、三宮は未だ灯りも少なく、クルマも少ない。
明かりをつけずに立っているビルの殆どは大破して解体を待っているような状態だ。
それでも、大きく壊れた「そごう」の建物の脇、いくつかの屋台が店を開いている。
「どてやき」の看板を出した店のおやじが声をかけてくれる。
「にいさん!1杯、やってかへんか!」
寒さに思わず、振り向く。
「何があんねん?」
「どてやきや!」
「どてやきだけ?」
「そや!」
僕はおかしくなって、屋台の下へ入った。
「熱燗、1本だけな・・」
「はいよ!おおきに!」
潰れた町、大きく傷つき、うめき声を上げる町、見なれたビルがひしゃげ、見なれた高架がぶら下がる町・・
あまり良くない酒だろうか、やたら甘さのしつこい酒だがそれでも暖かさが身体を回る。
暖かさが身体をめぐり始めると、訳もなく涙が出てくる。
巨大な蛇のように真っ黒な身を横たえている高架に電車が走る日は来るのだろうか?
この、屋台のすぐ横に立つ廃墟のような百貨店が華やかな明かりやおしゃれな客で溢れる日は来るのだろうか?

僕は涙をこするように、屋台を出て、百貨店の建物にくみこんである地下への入り口を降り、阪神電車のホームへ向かった。
地下は何事もなかったかのように静かで、壊れているものは何もなかった。
けれども、必要以上の明かりはなく、ただ、駅の自動販売機付近だけが明るく光っている。

阪神のホームには、震災前と同じくしっかり灯りがついていて、壊れたところもなく、ほっとする雰囲気が漂っていた。
けれども、ホームに並ぶ乗客は少なく、特に上り大阪方面行きのホームは無人だ。
電車がここで折り返すしかないのだから当たり前だ。
ただ、ここで折り返した電車も、姫路のほうへは行けず、新開地までの運転でしかない。
新開地駅の次の駅、大開駅が崩壊し、地上の道路までもが、大きく凹んで通れなくなってしまっていた。
地下鉄の駅が地上の道路ごと崩壊するなんて、これまでにあったのだろうか・・

さて、三宮駅の端のホーム・・大阪方面行きの三宮始発の電車が出ているホームに、青い普通電車が止めてあった。
5000形やな・・そう思いながら、何とはなしに電車に近づいた僕は、悲鳴を上げそうになった。
車体の上のほうを見る限りでは、なんともなっていないその電車は、ドアが大きく凹んで壊れていた。
それも全てのドアがそうなっていた。
良く見ると車体の裾は傷まみれで、よほど大きな衝撃を受けたのだろうと察せられる状態だった。
停まっているその電車は、すでに死んでいるように見えた。
阪神電鉄は西灘と御影の間で殆どの高架が崩壊し、大きな被害を受けていたが、この電車は高架もろとも地上にたたきつけられたのだろうか・・

反対のホームに新開地からの電車が入ってきた。
山陽電鉄の特急用の車両だ。
この電車も線路が途切れているから、車庫へは帰れない。
やがて、数人の客を降ろしたその電車は、大阪方向へ走っていったかと思うと、すぐに転線して折り返してきた。
ドアが開くと、地下線を行ったり来たりするには場違いの、赤いモケットのクロスシートが迎えてくれた。

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