story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

切ない通り道

2005年12月19日 18時53分51秒 | 小説
秋田栄一は、ふわふわした空間を歩いていた。
こんな空間が現実にあるはずはない。
これはきっと、夢なのだ・・そう自分に言い聞かせるのだが、夢は醒めそうもなく、覚めない夢なら現実として受け入れるしかないなあ・・ぼんやりと考えながら歩いていた。
彼が歩いているところは、やわらかな、暖かい空気に満たされているようで、その先がどこに通じるのかも、彼には分からなかった。
「たしか・・俺は・・」
栄一は自分がさっきまで何をどうしようとしていたのか・・考えようとしていた。
けれどもいくら考えても、肝心なところは思い出せないのだ。
彼は確かに、通勤のために自転車で駅へ向かい、間違いなく駅に着いたのだ。
彼の記憶はそこで止まってしまっていた。

無色、それは白とも灰色ともつかない、まさに無色としか言いようのない空間・・そこをゆっくり歩いていく。
歩いても息切れもしなければ、疲れることもなく、ただ、朝着たスーツのままの姿で、彼は歩いていく。
空間に少し色がついたような気がした。
青と言うのだろうか、それとも水色と言うべきか、そう言う系統の色だ。
それは、薄く、やがて濃く・・

気がつくと栄一は、木造の家屋に中にいた。
懐かしい匂いがする。
「栄ちゃん、ここにおったん?お父さんにお薬上げてきて・・」
割烹着の母親が台所で何やらせわしく働いている。
台所と言っても、昔の土間だ。石の流し、その脇に置かれた台の上に簡単なガスコンロ・・
「はーい」
栄一は、いつしか自分が11歳の自分に戻っていることに驚いたけれど、彼の口から出たのはごく普通の母親への返事だった。
お凡に医院で調合してもらった薬を数種類と水を入れたコップを載せ、父親が眠っている部屋に運び込んだ。
父親の部屋は台所から廊下を少し進んだその先にあった。
障子に手をかけ、開けると布団が敷いてあり、彼の父親はそこに眠っていた。
「栄一か?」
気配に目を覚ましたようだった。
「お父ちゃん、薬、ここに置いとくで・・」
「ああ・・薬か・・いややな・・」
父親は途切れ途切れに、そうつぶやいた。
「では、お酒でもお持ちしましょうか?」
栄一は、軽い気持ちで冗談を放った。
「こら・・こんなときに、冗談はやめてくれ・・」
父親は苦しそうにそう言うと咳き込んだ。
咳き込みながら体を起こし、さらに咳き込む。
栄一は体を支えてやり、背中をさすった。
「あれを・・」
父親が指差す方向に洗面器があった。
洗面器には新聞紙が敷き詰めてあった。
それを取って父親の手に渡してやると、抱え込むようにして、すぐに吐いた。
それはすべて血だった。
真っ赤になった洗面器を置いて、父親は、ほっとしたのか、また身体を横たえた。
栄一は薬の載ったお凡をそこにおいて、かわりに、血で一杯になった洗面器を持ち、台所の母親の元へ行った。
「お母ちゃん、お父ちゃん、また吐いたで・・」
「血いかいな・・」
「そや・・こんなにぎょうさん・・」
「アカンかもなあ・・」
「何が?」
「お父ちゃんや・・」
「いやや!僕、お父ちゃん、死ぬの、いやや!」
「そない言うたかてなあ・・」
栄一の父親は、酒がもとで体を壊し、ろくに病院にも行かず、入院しても帰ってきては酒を飲むと言う生き方をしていた。
腕の良い理髪職人であるにもかかわらず、いつまでも独立もかなわずに、流れて歩いてきたけれど、いつも酒がもとで客や店主、店のほかのものといざこざを起こしては店を変わっていくのだった。

ふと気がつくと、そこは栄一が住んでいた借家の前だった。
夏で暑い。
シキミの束が立てられている。
それらには送ってくれた人の名前や会社名が書いてある。
栄一父のの葬式の日だ。
あれから、いくらも経たないうちに彼の父親は38歳の短い生涯を閉じた。
栄一は母や祖母に言い含められ、棺の横にずっと正座を続けていた。けれども、さすがに、痺れがきて、席を立ったのだ。
親戚や参列する近所の人たちは奇異の目を向けたが、所詮小学生、放っておかれたようだ。

お経の声がする自分の家から外に出ると、担任の先生に連れられた小学生たちが並んでいた。
「あら・・秋田君、中にいないでいいの?」
担任の山口先生だ。
山口先生は若くてきれいな先生だ。
先生のすぐ後ろにコバンザメのように良一がくっついていた。
良一は栄一の手を取り「秋田君!かわいそうや・・」そう言ってくれた。
他のクラスメイトは奇異な目を向けながら、どんな表情をして良いか困っているようだ。
山口先生は他の先生数人と受付で香典を渡しているようだった。
「秋田君!」
突然、列の中からさつきが出てきた。
「頑張ってください!」
大声で彼女が叫ぶ。
「さつきちゃん!こう言うときは、しんみりするものなの・・」
山口先生がさつきを押さえ、小学生の一団はゆっくり去っていった。
良一が繰り返し後ろを振り向き、栄一を見る。
良一は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

やわらかな、暖かい空間を栄一はゆっくりと歩いている。
かすかな青い色合いは、やがてはっきりとした色合いになってきた。
懐かしく、切ない風景に出会えたことを喜びながらも、その風景をなぜ自分が見ているのか、そこまでは考えない栄一だった。

中学校、秋の昼下がり・・
授業を終え、掃除も済んで、帰ろうとした栄一をさつきが呼び止めた。
「秋田くーん!」
さつきは、ずいぶん大人びて、肩までの髪、小粋に耳を出し、セーラー服が良く似合う美少女になっている。
「なんやねん・・俺、帰るとこやねんで・・」
さつきの後ろには数人の女子生徒がついている。
彼女は女子の間ではボス的な存在だ。
「知ってる?知ってる?」
「だから・・なんやねん・・」
「男と女が、仲良くなってすること・・」
「男と女?」
「そうそう・・秋田君やったら、知ってるやろうねえ・・」
「知らんわ・・」
「ええ!・・知らんのう?・・ホンマ?」
こいつ、何を言い出すのかと思えば・・悪戯好きのさつきだから油断は出来ない。
栄一はそう思いながらも、さつきには惹かれている自分もあり、向こうから声をかけてくれたら嬉しいとの思いもある。
「男と女やろ・・」
「そうそう・・」
さつきは悪戯っぽく笑う。
栄一は思い切ってこう言った。
「性交・・」
さつきは他の女子と一緒に大声で笑い出した。
「きゃあ!セイコーやて・・聞いたあ・・」
教室に残っていたほかのクラスメイトも笑い出した。
「じゃあ・・なんやねん・・」
「そんなん、デートに決まってるやんか・・いきなりセイコーはないわよ・・」
そう答えたあとで、また大騒ぎをしている。
栄一は、どう取り繕って言いか分からず、ふてくされて、教室を出ようとした。
「秋田くーん・・」
栄一は無言で教室を出る。
「秋田君!エッチやなあ・・」
後ろから女子のきゃあきゃあと笑う声が聞こえる。
栄一は自分でも分かるくらい、顔を赤くして廊下に出た。

廊下に出ると良一が待っていた。
良一とは小学校で同じクラスになって以来、中学では一度もクラスメイトになれなかった。
校舎から外に出て、歩道を歩きながら二人は並んで帰る。
「秋田君、ええなあ・・」
良一は突然、羨望のまなざしで栄一を見る。
「何がええんや?」
ほんの少し、間を置いてから、良一が答えた。
「さつきちゃんと仲が良くて・・」
そう言った良一の顔は少し赤くなっている。
「いや・・あんなオテンバ、ちっとも、ええことあらへん」
「でも、さつきちゃん、可愛いやんか・・」
「ま・・そらそうやな・・いえるわな・・」
「そやろ・・可愛いやろ・・」
「そやけど、性格に問題ありやぞ・・ほんまに・・」
「でも可愛い・・」
栄一は、良一がさつきにこだわるのを、少し、からかいたくなった。
「おまえ、さつきが好きなんか?」
「そうや!」
良一は臆面もなく答える。
栄一はその良一を羨ましく思った。

何だか胸が熱くなってきた。
心の一番奥で眠っていたものが目を覚ましてきたような気がする。
栄一はゆったりとした優しさと暖かさを感じながら、また、空間を歩いている。
空間の色は青からやや濃い群青色に変わりつつあった。
暖かさの中に切ない、しんみりとした空気が混じるような気がする。

夜、良一から呼び出しがあった。
栄一は二十歳、高校を卒業して地元に工場のある大手メーカーに勤めていた。
栄一は買ったばかりの中古自動車で、良一の自宅近くへ行った。
田圃の中に良一が立っている。
ヘッドライトで照らされた良一は、いつものように元気そうに見えた。
「どないしたんや・・急用って・・」
栄一は良一をクルマに乗せながら聞いた。
「僕、明日から仕事に行くねん・・」
「良かったなあ・・どんな仕事や」
栄一は適当にクルマを走らせながら、訊ねた。良一は数ヶ月、無職だったのだ。
「うん、カー用品の販売や・・」
「それは良かったなあ・・おまえ、クルマ好きやしなあ・・」
「うん・・」
「で、急用って・・そのこと?」
「そうやな・・それもある」
「今からどこかで奢るわ!就職祝や!」
「うん・・」
良一は何だか気乗りがしない風だった。
だけども、彼は普段からあまり大げさに喜ぶような男ではなかった。
いつも静かな、強いものを秘めているような男だった。
その日、栄一は良一にファミリーレストランで奢り、良一の家の前まで送ってきた。
「あんな・・秋田君」
「なんや・・」
「さつきちゃんのこと・・知らんか?」
ああ・・そのことか、栄一はそう思った。
良一はまだ初恋を抱いたままなのだ。
「さあ・・大阪の有名私立から帰ってきたという話は聞いたけど・・」
「家におるんか?」
さつきは、頭も良く、地元で一番の優秀な高校でさえも足元にも及ばない大阪の私立高校に入学していたのだ。
卒業は普通にしたはずだが、栄一の母親によると帰ってきたきり、自宅に閉じこもりっぱなしで出てこないと言う。
「家にはおるらしいな・・」
「電話・・してみようか・・」
「そうやな・・してもええかも知れへんぞ・・」
そう言い残して、栄一はクルマを走らせた。
クルマは夜の町を快調に走り、エンジンの伸びやかな音も心地よく、栄一は良一のことを忘れた。

翌日、栄一が会社から自宅へ戻り、夕刊を広げた。
「二十歳の男性、焼身自殺」小さな見出しが社会面の隅にあり、そこを良く見ると良一の名前があった。
栄一はそれを見たとたん、放心状態となり、そのまま、宙を睨み続けていた。
「どないしたん・・栄ちゃん・・」
母親の声に我に返った。
息を吸いすぎて、声がまともに出ず、やっとの思いで切れ切れにこう言った。
「お母ちゃん!良一が死んだ!」

暖かな道にも、時折、切なく、悲しいところがあるものやなあ・・栄一は、つぶやきながら空間を歩いていく。
群青色の空間はさらに濃さを増し、星がきらめき始めた。
星だと思っているだけで、実はそれが何だかわからない。
とにかく、ひたすら濃い色・・黒に近い色の中に無数のちりばめられた光がある。
寒くなってきた気がする。

「さつきさんが亡くなったよ」
栄一は仕事中に携帯電話へかけてきた母をたしなめようとしたけれども、母親の口から出た言葉はあまりにも冷たく響いた。
「なんで?」
「わからへん・・とにかく、今夜、お通夜やから・・」
栄一は工場の事務所で購買の仕事をしている。
仕事は、今日は7時過ぎまではかかりそうだった。
クルマを飛ばせば、お通夜の時間内に着けるだろう・・

お通夜は、彼が行った時には半ば終わっていた。
祭壇にあるさつきの顔は、彼が知っているさつきと目のあたりこそ似ているけれど別人のように見える。
けれども、棺の中を見せてもらったときには、その目元と鼻がきれいに化粧されていて、彼の知っているさつきに思えた。
ただ、彼には、目元と鼻だけが棺の中で花で一杯にされたところから出るようにしているのが、不思議な感じがした。
「秋田君・・」
さつきの声がした。
「来てくれたんやね・・」
栄一はあたりを見まわした。
そこは、暖かい通夜の会場ではなく、荒涼とした夕方の線路際だった。
そうだ、彼女は列車に身を投げたんだ・・
栄一はそのことを思い出した。
「秋田君!」
線路際にいたのはセーラー服姿のさつきだった。
「ごめんね・・仕事が忙しいでしょう・・でも、ありがとう・・」
踏み切りが鳴る。
列車が通過していく。
「寒いなあ・・」
「ホンマや・・寒い寒い・・あたし、中学生のころが一番楽しかったよ」
「そう言えば・・俺も、楽しかったなあ・・」
「あの頃のまま、大人になってたら・・そうね、良一君か秋田君と結婚してたら・・」
「もっと楽しかったか?」
「うん・・」
「喧嘩ばっかりしてたかもなあ・・俺と結婚してたら・・」
「あはは・・そうかも知れへん・・」
「その喧嘩もしてみたかったなあ・・そういや、良一が君のことが好きだったって・・知ってたか?」
「知ってるわ・・彼、亡くなる前の日に電話くれたもの・・」
「なんて?」
「明日会って欲しいって・・」
「どう返事したの?」
「いいわよって・・時間も決めてた」
栄一には意外なことだった。
栄一は今の今まで良一が自殺した原因は、さつきにふられたからかも知れないと思っていたからだ。
「じゃ、どうして、良一は死んだの?」
「彼に聞いたらね・・怖かったんだって・・」
「彼に聞いた?」
「うん・・あとでね・・」
「不思議なことを言うなあ・・」
「でもねえ・・秋田君・・」
「なんや?」
「まだ、こっちへ来たらあかんよ・・」
「こっちへ?」
「うん、秋田君のお父さんも、良一君もこっちにいるけど、あなたはまだ来たらアカンよ」
「そやけど・・俺は・・」
「まだまだ・・またずっと後で会おうよ・・」
さつきは、そういったかと思うと、走り去ってしまう。
追いかけようと栄一は走り出すのだが、身体がまったく動かない。
貨物列車がわずかに残る残照の彼方から走ってきた。

ピーーー・・電気機関車のけたたましい警笛が聞こえる。
踏み切りの警報音が鳴り続いている。
ブレーキの鈍い音が広がる・・長い時間・・・

さつきは、どうしてあんな苦しみ方を選んだのだろう・・
そこまでして彼女が捨てたかったのは何だったのだろう・・
栄一はしばらく考え込んでいた。

気がつけば彼はすっかり暗くなった空間を歩いている。
暖かさも優しさも消えた真っ暗な空間を歩いている。
突然、彼の前に男が現れた。
「来るな!」
男が叫ぶ。
聞いたことの有る声だ。
「兼子先輩!」
そうだ、彼の職場で、いつも彼を邪険に扱ってくれた、嫌いな先輩だ。
「秋田!こっちに来るな!」
「先輩!どうされたんですか?」
「秋田よ!おまえはこっちに来たらアカンのや!来るな!帰れ!」
「兼子先輩!」
「来るな!」
風が吹き始めた。冷たい風だ。
これ以上は進めない・・
そう思いながら、ふと、後ろを見ると、暖かそうな日向が広がっているのが見えた。
「パパ!」
叫ぶ声が聞こえる。
ああ・・あれは娘の響子の声だ・・
ふらふらと、彼はそちらへ向かって歩いていく。
見ると、良一とさつきが手をつないでいる。
「おまえら、結婚したんか?」
「まさか・・デートの途中やわ・・」
悪戯っぽくさつきが笑う。
良一が照れている。
「家族を大事に・・あまり酒を飲むな・・」
その声にびっくりした。
彼の父親の声だ。
優しい笑顔で、彼を見送ってくれている。
懐かしい、大切な人たち・・
「おい!来るなら、もっと準備して来いよ・・」
兼子先輩が笑っている。
ああ・・先輩、入社当事はこんなきれいな笑顔を見せてくれた人だったなあ・・
そう思う。
「お嬢さんによろしくね!」
さつきが叫ぶ。
「パパ!」
娘の声だ。

気がつくと彼はベッドの上でさまざまな機械や人々に囲まれて横たわっていた。
「涙を流しておられますよ!」
若い男の声がする。
手に力を入れた。
暖かく、柔らかい手が握り返してくれる。
「お父さん・・気がついたんだ・・」
ぼんやりと見える、それは、まさに彼の娘の輪郭だった。

秋田栄一はあとで、彼が、あの日の朝、駅のホームで電車を待っていて、誰かに後ろから突き飛ばされ、ちょうど入ってきた電車に接触し、瀕死の重傷を負ったことを知った。
けれども、彼は、そのことで、彼が会いたかった人たちに少しでも会えたことを、じっくりと味わうことのほうを喜んでいた。
彼は優しさと暖かさを知ったような気がしたのだ。


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