story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

なおちゃんへ、ふたたび。

2016年05月19日 21時03分40秒 | 詩・散文
昨夜というか、今朝、夢を見たんだ。
白っぽくきれいな内装の建物の中、ショッピングセンターかホテル、あるいは病院といった感じのところだ。
 
僕は店のカウンターに立っていて、隣にはアルバイトの女の子がいる。
この雰囲気は、僕が阪急六甲の駅ビルの中の写真店にいた時を思い出すといえば、それはまさにそうなのだが、あの写真店はこんなに白っぽくはなかった。
 
そこへ思いがけず、なおちゃん、君がやってきて、「これ、頼むけん、あとでくるわ」と僕に何かを渡す。
あれはあの頃のフィルムではなかろうか。
六甲の写真店はスタジオだったが、系列のDPE店への取次で現像・プリントの受け付けも行っていた。
 
確か、当時は君の勤めている病院のすぐ近く・・といってもあのクラシカルな大病院から強烈な坂を下りてきた阪急御影駅前なのだが、そこには同じ系列のDPE店があって、週に一度、僕はその店へ応援に行っていたし、たしか、そこでは君がフィルムを持ってきてくれたことがあるから、夢の中では六甲と御影が同じ店になっているのかもしれない。
現実の君は、証明写真の撮影や仕上がりの受け取り、僕の仕事終わりを待ってくれるときには六甲の店にも顔を出してくれていたから、雰囲気的には六甲のスタジオだろうか。
・・いや、あの白っぽい雰囲気は、その後に僕が勤めた大阪のホテルに似ていたような気もする。
 
なおちゃん、夢の中で僕は君に「なおちゃん、いつもありがとう」と言ったと思う。
すると君はちょっときつい目をして、「気安く名前で呼ばんでくれる」と広島弁のイントネーションで僕をたしなめる。
横にいるアルバイトの女の子が気に障ったのだろうか。
僕は「あ、ごめんなさい、吉川さん、ありがとうございます」と君の名字を言い直す。
 
君は「後で来るけん、頼んだよ」と事務的な表情で念を押す。
なぜか、このシチュエーションは僕らが若いころの一シーンに近いのだけれど、僕は今の風貌だし、君は、小顔の美人はそのままに、今の年齢、五十歳台にふさわしい小皺と、髪には白髪が混じっていた。
もっとも当時の君は、僕のいる店で不機嫌に、きつく僕をたしなめるなんてことは全くなかったはずだ。
 
僕は、店を出る君を見ながら「なおちゃん、白髪、染めたらいいのに」と呟いたところで目が覚めた。
 
なおちゃん、情けないことに、いまだに僕が君のことを丸一日、忘れていられる日はそう多くないが、ここ数週間はそういえばほとんど君の事を思い出さなかった。
このまま、君と離れて二十六年の歳月が経ったいまだからこそ、ようやく僕の心の奥に居ついていた君の記憶が少し薄れる可能性があったそういう時に、この夢を見たのは何としても不思議なことだ。
 
目覚めたときは心がポカポカと暖かく、僕の眼には涙もたまっていた。
そして、この切なさは今日一日の僕を苦しめた。
 
僕が君と、いや、僕たちが君たちと出会ったのは、僕がまだ国鉄にいたころだ。
あの頃多かった大型の居酒屋、そこにはカラオケのお立ち台があって、お立ち台では音響はもちろん、照明も凝っていて、スター気取りで歌えるという店だった。
料理や酒を頼みながら、一曲か二曲、自分の自慢を披露するのが楽しみとされたころだ。
カラオケは今のように手元で操作する端末などなく、分厚い本の中から、自分の歌いたい曲の番号を探し出してそれを申し込みの用紙に書いて、店のウェイターに渡す・・
店の客は何十人もあるから、カラオケの順番まではかなり待ち時間があるが、自分の番になるとウェイターが知らせに来てくれる・・そういう店で「僕たち」は「君たち」と出会った。
 
僕たちのグループと君たちのグループの間には鉢植えの仕切りがあって、でも、それはあえて相手を遮らないように作られていて、隣の席との会話も可能だった。
僕たちは同期の国鉄マンばかり4人ほどか・・君たちも同じようにあの病院のナースばかり4人だった
 
最初に僕たちの仲間の神木君が、なおちゃん、君に声をかけてそこから始まった物語。
まだ、女の子と真っ当な会話ができなかった初心な僕は、君たちのグループのなかで一番大人しそうに見えていた「やっちゃん」と、「なんだか、みんなすごいよね・・とてもついていけない」なんて話をぼそぼそとしていた。
 
だのに、そのとき、一番君と話し込んでいた神木君はなぜか「やっちゃん」へと、僕と、別の友人友田君が君の横でいかにも大人の女性に見えた「みっちゃん」に向かったものだから不思議だ。
「誰も、うちのほうを向いてくれん」
君はそう思ったのかもしれないけれど、美人で頭の切れが良い君は、僕らにとっては高根の花に見えたのだろうか。
(全く余談だが、このとき、そこにいたもう一人、大山君はその後、僕の妹と結婚している)
 
結局、神木君はやっちゃんと結婚寸前まで行き破たん・・彼女から一方的に彼を切り捨てたことで、大人しく見えたやっちゃんの意外な一面に驚いたし、やっちゃんに捨てられた?神木君はのちに思い切って専門学校へ通い医療系へ転職、そこで出会った別の「やっちゃん」と結婚するという結末が付いた。
 
友田君と僕が自分の売込みに必死になった「みっちゃん」は、僕ら二人ともを見事に振ってくれたけれど、詳しく思い出せない紆余曲折があり、その後、しばらくは僕にとって「みっちゃん」が相談相手みたいになったのだからこれまた不思議だ。
(これまた余談だが、友田君はこの直後にやはりナースの女性と結婚している)
 
なおちゃんの横にいた「まきちゃん」も可愛く楽しい女性で、僕はこの後、しばらく彼女と何度かデートもすることになる。
 
だから・・僕にとって、なおちゃん、君は決して恋愛の相手ではなかったはずなのだ。
それが、あるとき、ふっと誘ったドライブのあと、須磨の海岸沿いのレストランへの入り口で、海からの陽光が君に降り注ぎ、一瞬、ドキリとなったことがあった。
 
それまでは僕にとって、「みっちゃん」にブッシュしたことを除けば、君たちはいずれも不思議な出会いによって得た大事な友達であり、将来をどうするとか考えたり、あるいは男女の仲になることを想像できたりする相手ではなかった。
それがその時から、なおちゃん、君は僕の片思いの相手となった。
 
このあと、僕と神木君は国鉄を退職して、彼は医療へ、僕は写真の世界へと道を替えることになるのだが、僕と彼女たちの縁はその後も続いた。
 
なぜに僕だけが彼女たちの友人となりえたのか、今もよくはわからないのだけれど、実のところ、三十年近くが経過した今も年賀状だけのお付き合いとはいえ、「やっちゃん」や、この後仲間に加わり、さらにその後、夫婦となった堀尾君と「ゆきちゃん」を通じて彼女たちとの縁が続いているのもこれも不思議なことだ。
 
思えば僕たち国鉄の同期生が二十三~四歳、君たちナースの卵たちが二十歳になったばかり、出会いといえばこれほどの出会いを用意してくれた天に、僕は今も深く感謝をしている。
 
さて、話が逸れた。
第一印象とは異なり、話をしてみると、なおちゃん、君の深い人間性、若くして苦労を重ねたその強さ、意外に感情的に脆い部分もありそこがまた可愛く見えることなど、僕はすっかり君の虜になった。
 
君には当時、付き合っていた男性があるようだったが、あるとき、どういういきさつか、君とその男性の縁が切れた。
君に言わせれば、その男性は「俺は男として、やはり家庭を持つことを捨てられない」と言ったそうだ。
 
そう、なおちゃん、君は結婚などを考えていない・・女性だった。
幼少期の苦労がそうさせたのか、それもも生来の開放的な性格によるものか、そこは僕ではわからない。
 
ただ、僕からの一方的な片思いとはいえ、君は僕の誘いにはよく乗ってくれた。
駆け出しカメラマンだった僕の要望に、喜んでモデルもしてくれたり、呑もうといえば一緒に呑んでくれたし、ドライブの助手席にも座ってくれた。
いつも屈託なく笑う君の表情はとてもきれいで、僕の気持ちはどんどんのめりこんでいく。
 
そんな時に、君はとんでもないことを僕や仲間の前で宣言する。
「広島へ帰る」という。
「田舎に帰って牧場を手伝うの?」
君の実家は比婆郡で牧場を経営していると聞いたことがあった。
「うううん、広島市内で尊敬する産科医の先生のところで仕事をしたいんじゃ」
「それは、広島へ帰るのではなく、広島市へ行くということやん・・」
「でも、神戸と違うて、言葉も広島弁じゃけ、私のまんまで居られそうな気、するし」
「その尊敬する先生の所へ行ける確証はあるの?」
「もう、連絡はとっとるんよ、いつでも来りゃあええがって・・」
 
僕は焦った。
なおちゃん、君が僕の前からいなくなる・・遠ざかっていく・・それは僕にとってはこの世の終わりともいえることだった。
ただ、僕は国鉄をやめたとはいえ、鉄道ファンであることは自認していた。
君が広島へ行ってなら行ったで、そこへ行く道は・・例えばお金のない時でも新幹線を使わず、鈍行や高速バスを乗り継ぐといった方法は熟知していたから広島へ行くのは苦ではない。
それに広島へ行けば、大好きな路面電車も見ることができる・・というか、路面電車を見に行くついでに君にも会うという口実にできた。
 
僕がとった行動は、君のいる広島に月に一~二度は通い続けるというものだった。
でも、それが僕の純粋な恋愛感情からだけなら、案外、ことはうまく運んだかもしれない。
君ははるばる神戸から訪ねていく僕を歓迎してくれたし、広島や宮島、岩国を君と二人で歩くのはとても楽しいものだった。
 
それをぶっ壊したのは僕自身だ。
浅はかな思想信条とやらに傾倒し、君との楽しい時間を第一義に考えられなくなっていった。
僕にとっては、将来を一緒に過ごしたい君との間だからこそ、その部分で共有したい思いというものがあったのだけれど、若気の至りとはこのことか、教条的なものに目を奪われ、君という大切な人との関係を優先できない浅はかさ・・
 
今思えば、思想というものと、人の感情をきちんと立て分けて考えられない己の幼稚さがゆえのこと、そしてその思想も今見れば、なんと自分勝手であやふやなものであったことか。
 
結局、広島での楽しい時間は短く、会えば君が泣くといった事態を繰り返してしまう。
それでも、君は僕が行くと会ってくれたし、見た目には恋人に見えないこともない関係にもなれたのではないだろうか。
繰り返しになるが、ぶっ壊したのは僕自身だ。
 
二人の関係はともかく、君は広島では著名な医師の元で、かなり頑張っていたようだ。
神戸の病院でも、優秀な産科ナースと言われていた君が、広島の専門病院で頭角を現すのに時間はかからなかったに違いない。
あるとき、「日経ウィメン」という雑誌がその病院の件の医師を特集した。
 
表紙には、美しく頭の切れそうな女医とともに、やはり美しく、賢そうな君がナースの白衣を着て写っていた。
 
だが、僕のこと以外で君が泣く日が来るのに時間はかからなかった。
「神戸に帰りたい」
何気なく、いつもの通りに電話をした僕は驚いて、なんとか、君が神戸に帰ってこられるようになればと思った。
 
病院で何があったかは僕にはわからない。
友人がたくさんいる神戸と、仕事で会う人ばかりの広島では寂しさを受け流す場所がないというのもあるかもしれない。
結局、元いた神戸の病院と広島の病院の話し合いだか何だかで君が神戸に帰ることになった。
 
ただ、そのころ、僕は自分の母が脳内出血で倒れて加古川市内の病院の集中治療室にいて二十四時間の付き添いが必要な状態となり、とても広島へ行く時間も君に連絡を取る時間もなくなっていた。
いや、神戸での写真の仕事ですら、何か月も休まざるを得なくなっていた。
 
母の病状がようやく快方に向かい、安心感から君に公衆電話をかけたとき、「お母さんのこと、よかったね・・んで、あのね、もうひとつ、ええこと、あるんじゃ、うち、神戸に帰るんじゃ」
やった!と思ったものだ。
「でも、あなたのことだけで帰るんやないからね、勘違いせんといてよ」
僕にしてみれば「あなたのことだけで帰るんやない」というのは、僕のためにという意味も多少は入っているということだという風に受け取った。
 
母の病状が安定し、二十四時間の付き添いが要らなくなり、そして君が帰ってくる情報・・その電話は秋の終わりごろだったと思うが、一気に春が来た気がしたものだ。
 
翌年、君が神戸に帰ってきてくれた。
君がアパートを選んだ場所は阪神御影駅のすぐ近く。
当時、僕が住んでいた板宿から、一本の電車で君のところに行けると喜んだけれど、会おうといってもいつもはかばかしくない返事しかくれない。
そして、君の誕生日に、連絡を入れずに君のアパートに行った僕は、玄関先で君の女としてのたくましい生きざまを見せられることになる。
 
いまも、夢に出てくる君が可愛く笑っている表情ではなく、ちょっと怒ったり、あるいは泣いたりしている表情なのは、あの、広島での僕自身の大失態のゆえなのかもしれない。
僕は今も、あの時の僕を責め続けているのかもしれない。
 
だから、ほかのこととは違って君のことが今も僕の心に住み着いたままになっているのかもしれない。
いや、それこそ、失礼な話じゃわ。
 
きちんと言おう、僕は今も君のことが好きであり、それが当時と何ら変わっていないということ、そして僕は今も君の姿を追い求めているということ、忘れようとした頃にそのことを、僕の深層心理が警告を発してくれたようにも感じるし、僕を君たちに出会わせてくれた天が僕に教えてくれたのかもしれない。
 
でもね・・なおちゃん、あかんよね・・いつまでも過去を引きずるの・・
「そがいにやねこいこと、言わんでよ」って声が神戸の東の方から聞こえてきそう。
 
 
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