story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

新世界のおやっさん

2008年11月17日 20時23分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

(なにわの大詩人、東淵修さんへの哀悼の思いを込めて)

2006年3月24日。

僕は、そのころどうしても二人きりで一度呑みたいと思っていた某新聞社の記者の人とこの日、ようやく時間が取れて会うことになりました。
すでにこれまでも面識があり、何度か呑んだのですが、これまではいつも何人かの集団での飲み会でしたからたとえば個人的な質問とか、ちょっと周囲をはばかるような話などは出来ずにいたこともあり、いや、何より、その方の人柄や常日頃の行動に深く共感を覚えていたのでじっくり呑みたかったというのが本音かもしれません。

地下鉄堺筋線の恵美須町駅・・そこはもう、僕にとって懐かしい大阪の入り口そのものでした。
改札脇に寝転ぶ老人・・
小便の臭い・・

僕が小学生時代をすごし、祖母がそれなりの商売を継続してきた大阪の人間臭さは、昨今の都会の、スマートなイメージとは対極にある・・ある意味、荒れた大都会そのものであり、新世界やそこから続く釜が崎、飛田といった見ようによってはトワイライトゾーンとでもいえるこの町並みこそ僕にとっては最後の「大阪」そのものに思えていました。
当時の僕の仕事は写真屋の店長で、自分の時間をとるのは難しく、それでも、何とかこじ開けるようにして時間を生み出して来ていたのですが、少し約束の時間に遅れている感じがありました。

仮にこの日、会った記者の名前をMさんとします。
Mさんは釜が崎の労働者の方々の支援活動をずっと続けてこられた方です。
それも仕事とは一切関係なく、だから、そのことを記事にすることもなく、あくまでもプライベートとして地道に頑張っておられた方です。

さて、約束の時間に少し遅れて、僕は焦り気味に改札を出ました。
時間は午後2時ごろだったでしょうか。
待ち合わせ場所はこれまた、大阪の旧来のターミナルの面影を唯一残す「阪堺電気軌道」の恵美須町駅でした。
この先の階段を上がれば、そこにクラシカルな駅舎があるはず・・
僕はそう思い、足早に進んでいきます。

ふと、やや前方に同じ方向へ歩いていく中年っぽい男性がいるではありませんか。
ヘッドフォンステレオをかけ、なにやらリズムを取りながら歩いていくその後姿こそ、Mさんに違いありません。
「Mさん!」
声をかけると、驚いて振り向いてくれた人こそまさにその人に違いありません。

「これはこれは・・」
「すみません・・少し遅れてしまい焦ってきました』
お互い合えた喜びを噛み締めあいながら、結局、阪堺電車の恵美須町駅には行かず、そのまま新世界へ行くことになりました。

地下鉄恵美須町駅の南東の階段をのぼり外に出ると、道路右手には阪堺電気軌道の、駅舎なのか、売店なのか分からないような小さな建物と、そこに停車している堺方面行きの1両の瀟洒な電車。
(ここから10数キロをひた走る路面電車の始発駅なのです)
そして、堺筋の大通りを挟んでその向かいにあるのは通天閣をバックに、そこまで続く商店街。

交差点の後ろ側・・つまり北側は秋葉原と並ぶ電気用品の専門店街、日本橋筋です。
その向こうには阪神高速道路の出入り口も見えます。

恵比須町駅前の交差点は、大阪の今と昔を一度に見られる場所のような気がします。

Mさんは僕を早足で連れて行ってくれます。
方向はまさに通天閣の方向です。
商店街は閑散としていました。
人の姿は少なく、店はどれも活気を失ったようです。

それでも、通天閣の真下まで来るとさすがに大勢の観光客があります。
串カツやふぐ料理の店が派手に看板を上げている様子はまさにかつての大阪、ミナミの賑わいを思い出させてくれます。
もちろん、今のミナミが賑やかではないというのではありません。
でも、大阪の・・足が地に着いた感じの、人間の活力がそのままに生きているような賑やかさはすでに「ミナミ」から消えうせ、代わって、いかにも東京から輸入されたような、けばけばしい都会的な賑やかさだけになってしまっているような感じがしていたのです。

新世界に来たのは数年ぶりで、そのときはもっと元気がなく、通天閣も寂れてしまっているように見えていましたから、観光客がいる通天閣は僕には嬉しい誤算でした。

Mさんが、誘ってくれたのはたくさん並ぶ串カツ屋の1軒でした。
決してきれいな店ではなく、それでも、良質な油の香りが食欲をそそります。
ビールを頼み、串カツを何本か、それと寿司を頼んで呑み始めました。
でも、Mさんはほとんどお酒を飲まれません。
そのかわり、このお店で何が美味しいか非常によくご存知でした。
僕は飲みだすと、食うよりも呑むほうに夢中になってしまいます。
からりと揚がった串カツを、大阪名物、二度漬け禁止ソースに浸して頬張ると、軽いソースの味と、上質の油の味と、しっかり下ごしらえをしている具財の味が口の中で合わさり、なんとも美味しく感じてしまいます。
冷えたジョッキに丁寧に入れられたビールは、泡立ちもちょうどよく、串カツの味わいをゆっくりと馴染ませてくれます。
寿司も値段からは考えられないような大振りで、一口に頬張るとしばらくは喋ることが出来ないほどです。

ビールをお代わりすると、小さなジョッキに入ったビールをもう1杯、持ってきてくれました。
なんでも、2杯飲むと必ずおまけがついてくるそうです。

美味しくて嬉しくて、そして、いろいろなお話をうかがうことが出来ました。
僕にとっては驚愕の・・そのお話は世界に飛び、まさに地球丸ごとを肴にして呑んでいるような気分になったものです。

さて、程よくどころか、かなり深く酔って、僕とMさんは店の前で別れました。

折角、大阪のど真ん中(人情のど真ん中という意味で)に来たのですから、僕は少し写真を撮影しようと思いました。
酔った身体はかえって撮影の躊躇をなくさせ、カメラを自由に構えることが出来るようになります。

愛用の小型のニコンカメラを取り出し、広角レンズをつけて僕はそのあたりで撮影を始めました。
ただし、Mさんに注意されていたので、労働者の方の表情が分かるような撮影はトラブルを避ける意味からしないようには気をつけました。
さて、20~30分も撮影していたでしょうか・・
さっき分かれたばかりのMさんがいきなり、角から飛び出してきました。
「ここにおったか!よかった!」
僕は意味が分からず、きょとんとしていました。
「会って欲しい人がいるんや!すぐそこや」
Mさんは僕の手をひき、新世界の裏道の、小さな住宅の前まで僕を連れて行ってくれました。
「銀河・詩のいえ」
と小さな看板があげられたそのお宅の扉を開けると、そこは広間のようになっていて、何人かの人がなにやら準備のようなことをしておられるようでした。

「この人がカメラマンのこうさんです」
Mさんが女性の方に紹介してくださります。
僕は自分を写真屋だとは思っていても、カメラマンとは思っていないので少し気恥ずかしい気がしました。
かのロバートキャパも「写真屋」と呼ばれるのを最も喜んでいたそうで、その気持ちが少し分かります。
カメラマンといえばなんだか雲の上の存在のような気がします。
写真屋といわれると、そこらでカメラを構えていそうな気がします。
僕は写真屋であることに間違いはありません。

さて、最初に紹介いただいた方がこの建物の主人たる近藤摩耶さんでした。
なんと、札幌のご出身で、詩のために大阪に来られたとの事です。

ホール脇に寝室があり、そこで老人が休んでおられました。
僕はまったく前知識を持たずにこのお宅を訪問することになってしまったのですが、このベッドの上で休んでおられる方こそ、僕がずっと以前にうわさをお伺いし、ぜひお会いしたいと思っていた「なにわの大詩人」・・東淵修さんでした。
「カメラマンのこうさんです」
Mさんがここでもそういって紹介くださります。
「あんたは・・カメラマンか・・」
東淵さんが切れ切れの声でそう言ってくださいます。
「カメラマンというより、写真屋です」
「ほう・・井上青龍と同じこというな」
井上青龍といえば、写真屋なら誰でも知っている大家です。
釜が崎のショッキングな映像はまさにロバートキャパを髣髴とさせるすばらしい出来で、僕など足元にもおよびません。
「そんな立派な人間ではないですよ」
「ほな・・あんたは何を撮っているんや」
「人物・・どちらかというと女性専門です」
「かわったやつやな」
「かわってますでしょ・・僕もそう思います」
「わしはな・・詩書きや」
「新世界・釜が崎に大詩人がおられることはお伺いしていました」
「そうか・・それがわしや」
老人の大阪弁はとても懐かしく、僕にとってはかつて小学生時代、好き勝手に遊びまわった大阪そのもののイメージでしたし、早く父親をなくした僕にとって父親代わりになってくれたまったくの他人、須磨の松尾さんを思い起こさせるような口調と声にも親近感がわきました。

「これがな・・わしのスケや」
老人は僕にそういって改めて近藤さんを紹介してくださいました。
「ええ女やろ」
「素敵な方ですね」
「そうや・・この人がいろいろ仕切ってるから聞いたってくれな」
「しかし、スケなんですか」
「そうや!こんなわしのスケなんや」
「うらやましいですね!」
「そやろ!ええ女やろ!」
「ほんまに・・」
「Mさんもスケ連れてきてはるで・・」
「え!そうなんですか!」
老人はベッドの中から笑いながら一人の若い女性を指差しました・
僕は少しおどけて・・
「Mさんのスケですか!」
そう聞いてしまいました。
すると、件の若く、美しい女性はけらけら笑いながら「うちにも選ぶ権利があるわ」とやり返してくれます。
確かに、Mさんは理知的ではありますが、さほど男前ではありません。
体型も僕とよく似ていて、イケメンとは程遠い感じです。
(人間的にはこれほど素晴らしい人格の新聞記者はいないだろうというような尊敬できる人です)
Mさんは「困ったなぁ・・」という表情で、それでもにこにこと老人を見つめています。

初めて出会った人なのに、まったく初めての感じがしない・・
それが僕が東淵修さんと出会った第一印象でした。
この、おそらく様々な人生の戦いをしてきたであろう老人の中に「大阪」の町がすべて凝縮されているような気がしたのです。
それは、失ってはいけない大阪、それは・・東京ではない日本を代表する大都会である大阪の、その人間臭さそのものであるような気がしました。

世紀の大詩人と少し酔った僕との出会いは、本当に偶然であり、僕は詩は書かないし、文学といえば小説のような真似事しかしていないし、しかも、どこかのグループに所属するわけでもなく、あくまでもインターネットのブログという手段を借りて小説を自己満足だけのために書いているような人間です。
それでも、やはり、何か、文字を綴るという事については非常な共感を覚えるのです。

その日、5月に行われる予定の総会の写真撮影を依頼され、僕は快諾してその場を後にしました。
帰り際、東淵さんが近藤さんになにやら指図をされています。
近藤さんがにこやかに僕に1冊の本を手渡してくれました。
「老人と鳩と釜が崎と」と題された東淵修さんの詩集でした。
ハードカバーの立派な装丁の本で、僕は深く礼を言って「銀河・詩のいえ」を後にしました。

帰りの環状線電車の中で、僕はいただいた本を広げてみました。
通天閣と思しき墨絵の扉を開けると目次があり、そこを開けるといきなり、こんな詩が飛び込んできました。

「命」

すきまもない命を
すきまもないところに
あなたは横になっている
生きていくのには

立って四分の一畳
座って二分の一畳
寝て一畳

命を粉ごなにして
一畳の間に閉じこめて
息を殺していること

***********

この作品が活字で描かれたその次のページには墨痕鮮やかな東淵さんの力強い自筆が掲載されていました。
なんと、柔らかな文字だろう・・
柔らかで、力強くて、優しい文字・・
我が物顔で新世界や釜が崎を闊歩しておられた方の中にある繊細で優しい心がそのまま表現されているように感じたものです。
環状線のオレンジ色の電車から見える大阪の夕景は心なしかにじんでいるように思えました。

2ヶ月ほど経った5月27日。

「銀河・詩のいえ」定例の朗読会と、「銀河・詩のいえ賞」授賞式がありました。
住宅を改造した小さなホールは満員で、蛍光灯の明かりを消し、小さなスポットライトで全国から集まった詩の同人の方々が自作の詩を詠んでいきます。
都会のど真ん中なのに、部屋の中に外の喧騒は入ってきません。
そこで行われているのはまさに詩のライブ・・

僕は最初こそフラッシュを使って授賞式の様子など撮影していましたが、朗読が始まると大口径の単焦点レンズに切り替え、フラッシュを使わず、その場の空気を出していけるようにしてみました。
露出もピントも難しく、けれども、その場の空気を表現するにはこの手法しかないと考えて撮影していきます。
詩を読む方々の表情は美しく、そこで語られているのはまさに現代詩と文学・・
この場所があの、現実的な新世界であることを思えばまさに驚愕の世界です。

言葉の一つ一つがじっくり宙を舞い、聞き手である僕らの心の届いていきます。

主催者である東淵さんは。舞台の横手で愛用の椅子に座って実に怖い顔をして詩人たちの朗読に聴きいっています。
ここは詩を読む真剣な道場でもあるのです。
カメラの、シャッターの音も憚られるような峻厳なる師弟の鍛錬の場とでもいえましょうか・・

途中、東淵さんは寝室へ入られました。
かなり無理を押しての参加だったようで、それがかえって詩人たちの気力を生んでいるような気がします。
僕は、撮影以外ではこの会の運行には関係のない人間ですから東淵さんをベッドまで支えていきました。
「ここにおっても、聞こえるからな」
確かに、ホールとはカーテン1枚隔てただけの寝室で、ホールの音はすべてここに入ってきます。
涙ぐみながら身体を横たえる大詩人は、優しい表情に戻っていました。

それから数ヶ月をあけずして「銀河・詩のいえ」に僕は通い続けました。
時間があるときは必ず、例会に参加するようにしました。
けれども、僕はいまだにそうですが、正式な同人にはなっていません。
それは、僕が味わった写真業界の激変により、経済的に非常に苦しく、僅かな資金を捻出することもままならなかったからに他なりません。

デジタル化の洪水は写真業界に大異変をもたらしました。
政府は「IT推進化法」なるものを作って、IT化への投資を促していきましたが、それにより影響を受ける業種には何の支援・・たとえば、近代化への投資への補助とか、転業への支援策とかそういったものを何も設けないで、いわばセーフティネット抜きの穴だらけの法律をこしらえ、写真業界はじめ、印刷や出版、書籍、文具といった「紙」を製品とする業界に大異変をもたらしました。
写真屋の店主で自殺する人まで出る有様で、それは僕や僕の大切な友人たちにとってもまったく同じことだったのです。

そんな中、僕はどうしても電車代が工面できず、例会の不参加を申し入れたメールにその理由として経済的事情を挙げてしまいました。
すると、数日後、東淵さんと近藤さんの連名で、これまでの写真代としてお金が送られてきたではありませんか。
僕はかえってお二人を苦しめたことを非常に後悔しました。
それと同時に、心底、優しいお二人の大詩人への感銘を深くしたものです。

さて、二ヶ月とあけることなく通い続けた「銀河・詩のいえ」ですが、2007年、ある連絡が東淵さんのもとに入ったそうです。
それは東淵さんが心酔し、また、先方も非常に東淵さんを慕っておられた世界的詩人、吉増剛造さんがフランスから来日する際にぜひとも東淵さんにお会いしたいというお話でした。
吉増さんと東淵さん、かたや大学教授で世界的な詩人、かたや大阪、新世界で庶民の中から言葉を紡ぎ出す大詩人・・
かつては深い交友のあった二人ですが、それがこのときに再現されることとなりました。
東淵さんの思い入れは深く、全力を尽くして吉増さんをお迎えしようということになり、そこで詩のライブを企画されたのです。

5月3日、その日はやってきました。
NHKや朝日放送といったマスコミの記者の方々も見守る中、超満員の「銀河・詩のいえ」はまさに詩のライブ会場となりました。
詩というものが実は読むだけではなく、聴いてもよし、見ても良しというものになりうるという実験結果をこの日のライブは見事に証明して見せました。
言葉は美しく、空気感は無限に存在する。
吉増氏は音響のなせるすべての業を用い、聴衆を無限の詩の空間へ引き込んでいきます。
東淵さんも負けていません。
大阪弁の美しさ、地に足の着いた言葉をじっくりと会場にしみこませていきます。

僕はこれまで、コンサートとか、ライブとかに参加したことは数えられないほどにあるのですが、このときだけはそれらのライブすべてが色あせて見えるほど深い感銘を覚えました。
無限というものが現実に存在するのだ。
そう思うと、自分の人生もまた捨て猫のような惨めな生き方にも思えてきたのが、あらゆる可能性を秘めているのだと・・思えてくるのでした。

この年、僕は写真の世界から足を洗い、タクシーの仕事に就きました。
僕は実はタクシーとは縁があり、僕を父親代わりに育ててくださった松尾さん、それに僕の妻の父上殿もまたタクシードライバーとして長い年月を過ごされてきた方だったのです。

タクシーの仕事は、写真屋以上に人間を眺めるに適していて、様々な人間の心模様を観察するに適しています。
そういった意味では、ネットであれ、小説というものを書いている僕には願ってもない職業だったのかもしれません。

そのタクシー会社に正社員として採用されたことを、東淵さんは我がことのように、喜んでくださいました。

ですが、一時は持ち直したかに見えた東淵さんの体調はまた芳しくない方向へ向かったようでした。
遺作ともいえる東淵さんの詩集「釜が崎と新世界と俺と」を発表されてからは、見た目にも体力の衰えを感じ、何とか、僕にとって親父のような存在である東淵さんに生きて欲しいと願う日が続きました。

「ああ しんせかい」

つうてんかく
じゃんじゃんまち
くしかつ どてやき
ふぐ ちょうちん
かようげきじょう
なにわくらぶ
いごしょうぎ
さんきち こはる
びりけん
たまいちこおひい

************

お宅におじゃまするたびに、「たまいち」の美味しいコーヒーをご馳走になりました。
このお店は。僕の祖母や叔母がミナミや阿倍野でやっていたお店そのままの雰囲気で、いかにも大阪、ミナミの風情そのままの雰囲気でした。
体調のよいとき、東淵さんはここで、ご機嫌よくいろいろな話を聞かせてくれたのです。

「毎日、一升酒や・・無茶したわな」
「一升だけではないのでしょう」
「そらそうや、ビールも飲む、ウィスキーも飲む、タバコは1日3箱や・・体が壊れてあたりまえやがな」
「でも・・面白かったでしょうね」
「めっちゃ、おもろかったで!もう、あんな時代はけえへんけどな」

僕が車椅子を押してじゃんじゃんまちを歩いていると、何人かの通行人が「東淵修や!」と叫んでいます。
東淵さんは鷹揚に手を上げそれらの人に挨拶を返しています。
新世界・釜が崎にとって東淵修はまさに伝説の人と化していたのです。

さて、写真業界から足を洗ったはずの僕ですが、やはり捨て切れないものもあり、依頼があると喜んで出かけてしまいます。
そんな中、2007年、11月3日・・
大阪、難波のホテルからの依頼で僕は撮影に出かけました。
折角、難波まで来たのだからと・・そこから歩いて東淵さんを尋ねることにしました。
難波からゆっくりと歩いて、日本橋の電気街をとおり、通天閣の下を抜け、「銀河・詩のいえ」に着きました。

アポなしの訪問でしたが、僕がお伺いすると、近藤摩耶さんも東淵さんも喜んで迎え入れてくれました。
東淵さんはベッドの中で、それでも分厚い手を差し出して握手をしてくれました。

「お身体、いかがですか?」
「もう、長いことないねん・・」
「そんなん、言わんと生きて僕らを叱ってくださいよ」
「ほんまやな・・死ぬの・・嫌や」
「まだまだ大丈夫ですって」
「そうか・・そやけど、わしには分かる・・しんどいねん」

その日、暮れなずむ新世界の・・通天閣やづぼらや、串カツ屋、パチンコ屋などが入り乱れた夕景は、僕には寂しく、切ないものに見えて仕方がありませんでした。
そのまま、しばらく新世界へいけない日々が続き・・
2月25日、近藤摩耶さんから痛恨のメールが届きました。
それは、前日に巨星が堕ちたと言うものでした。

関西が、大阪が大切な人を亡くしたわけですが・・僕は、自分にとって大切な人を失った絶望感に、しばし・・呆然としてしまったのでした。
けれども、東淵さんが亡くなっても、僕の日常に何かの変化があるわけではなく、僕は思いを封印しながらも生きていくしかない現実に向き合わなくてはなりません。

「十本の指」

夜中の二時ごろ
じぶんじしんの肩が
十本の指で
うごいているのを
夢うつつのなかで
おぼえた
それが
夢うつつであるから
いまでもはっきりとは
おぼえていない
なかでも
右のおやゆびとひとさし指
左のおやゆびとひとさし指が
強烈にうごく
あっと気づいたときは
かのじょの息づきで
ぼくははっきりと気づいていたが
声を出すまでにはいたらなかった

きっとあれは
神さまの近づいてくる
あしおとではなかったか

***********

東淵さん=おやっさんとみなから慕われた大詩人は、自らの死期も悟っておられたような気がします。
波乱万丈の人生を生き抜き、自ら大人生劇の主役を演じきったおやっさんは、いくら呼んでも会えないところに行ってしまわれました。
でも、詩人の残した作品は大阪の優しさ、美しさをこれからも語り続けていってくれます。

最後に僕の大好きなこの詩で追悼の文を締めくくりたいと思います。

「からくちやな」

おっちゃんよう
ごきげんやなあ
いっしょうびん
りょうてに
ぶらさげてからにい
それ
あまくちか
からくちか
わい
おもうねんけど
おっちゃん
にっこり
わろてるよってに
きっと
からくちやな

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