story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

秋子

2012年06月01日 16時19分26秒 | 小説

今から十年と少しほど前になるだろうか。
その頃、僕は写真スタジオのカメラマンとしてはようやく駆け出しの時期を終え、自分のスタイルで写真を撮影するようになっていた。
師匠であるG先生は、こと仕事に関する限りは僕には何の注文もつけず、任せっぱなしにしていてくれた。

ただ、「神戸で女を撮らせたらGの右に出るものはいない」とまで同業者から囁かれるG先生とは違って、僕の写真は不器用で、型にはまったような面白みのないものであることは自分でもわかっていた。

ある日のことだ。
G先生がフィルムメーカーのプロ写真コンテストにいつものように入賞したそのお祝いの宴席で、僕は自分が抱いている悩みを先生にぶつけた。
「先生、先生のように女性を美しく撮影したいと思うのですが、僕に何が欠けているのでしょうか?」
先生は上品にワイングラスを傾けながら、しばらく僕を見つめてから答えてくれた。
「うん・・大島君、君に足りないのは本物の恋愛ではないか?」
「恋愛ですか?妻とは一応、恋愛結婚ですが」
「よくよく考えてごらん・・奥さんと燃えるような恋愛だったか?たとえ、この女性をさらってでも自分のところに連れてきたいと思うような恋愛だったか?」

実際、僕と妻とは恋愛とは言っても友達の紹介による出会いで、妻のほうはどう思ったか知らないが、僕としては断る必然性が何もなかったというのが本音だろう。
「大島君、女性を美しく撮る、色っぽく撮るには、女性への強烈な憧れ・・それは一人の女性に心底惚れぬいた男だからこそ醸し出せる女性への畏敬の念が必要なのではないかと思う」
僕の横に座っていたスタジオの受付係をしている女性、Sさんが話に割って入る。
「本物の恋愛を知らない男は、どうにも使いようがないのよ」
決して悪気で言っているのではない。
彼女は僕とおなじ年頃だが、さまざまな恋愛を経験しているし、何よりその当時、妻子ある男性と「楽しい不倫」の真っ最中だった。
僕は彼女に恋愛感情を抱いたことはなく、ただ、時折、彼女が暇をもてあましたときにスタジオ近くの焼き鳥屋でお酒のお付き合いをするくらいだったが、そのときも彼女はよく僕を「恋を知らないガキんちょ」とからかってくれていた。

G先生はSさんを軽くたしなめながら僕に向かった。
「大島君、君はまだ子供がないだろう・・子供が出来て、その子を心底愛するようになると、子供さんの写真で良いものが出来るようになる・・同じように、本当の恋愛を知れば女性を美しく撮影することも自然にできるようになる」
「そんなものでしょうか」
「小説家は自分の経験以上の世界は書けないそうだ・・写真屋も自分の内面にあるもの以上のものは出そうと思っても出るものではない・・」
「じゃ、先生は僕に今から恋愛をしろと・・」
「間違えて貰っては困るが、なにも奥さん以外の女性を好きになれとは言っていない・・奥さんで十分だ・・その奥さんに心底惚れぬく、奥さんを心底好きになれれば必然的に君も女性の撮影ができるようになる」
技術の問題ではない、感性というより、人間としての深みの問題ではないかと・・先生はそう言ってくれた。
「写真屋が女性を撮影するとき、一番大切なことは被写体であり、顧客でもあるその女性に瞬間的に惚れぬくことが出来るかどうかなんだ・・」
ワインの酔いが回ってきたのか、G先生はふっと、そう呟いた。

だが、そう言われると、かえって僕には自信がなくなっていく。
僕は未だに結婚して4年目の妻に惚れることが出来ないでいた。

それから数ヶ月、僕はさるピアノスクールの発表会の撮影に出向いていた。
小振りだが、音響のしっかりしたホールで、最初は幼稚園児から、やがて小学生、中学生、高校生とピアノの演奏が続き、最後のほうで講師陣のさすがにプロフェッショナルと思える演奏になる。
僕はそのすべてのプログラムを2台のカメラで定位置から撮影していく。
後で撮影する集合写真と合わせて台紙に張り込んで教室に納入するのだ。

講師陣の「大先生」の手前の演奏で、若い女性がピアノの前に立った。
硬い表情、他の講師陣が肌を出した華やかなドレスだったのに、彼女はスーツ姿で、軽く礼をしてさっさとピアノに向かう。

曲は「八ップルベルのカノン」だった。
ピアノ発表会では良く弾かれる曲だが、お手本的な演奏ではなく、感情のこもった、激しくも優しく滑らかな演奏・・
硬かった表情は、音色に合わせて厳しくなったり優しくなったりする。

ピアノ発表会の写真は定位置からだけでは、うまく表情が収められない時がある。
ピアノと演奏者の全体を入れるとなると必然的に写真は真横からの撮影となるが、被写体の大半は女性であり、年齢に関わりなく長い髪が頬にかかってしまって表情が見えないとき、あるいは鍵盤の左のほうばかりを見る癖がある演奏者や、時にはそういう曲の場合、一瞬でも右・・つまり、手前のほうを向いてくれないときなど、時として写真屋は定位置のカメラでとりあえず抑えるだけ抑えて、あとは別に手持ちに用意したカメラを持って舞台袖近くまで行き、何とか表情を収めなければならない。

そういうときのために、いつでも取り出せる予備のカメラを持って、僕はその女性が演奏している舞台の袖に向かっていった。
別に定位置からの撮影で何か問題があるわけではない。

ただ、ピアノ発表会というお行儀の良い場所での演奏に、殴り込みをかけたかのような女性の、その表情をアップで見たかっただけだ。
ニコンのファインダーには、照明に汗を光らせながら、表情豊かに演奏する女性がアップで映し出されている。
僕はこのとき、初めて女性というものがなんと力強く、美しいものであるのかを知ったのだと思う。

発表会が終わり、集合写真を撮影、講師の大先生に納品時期の確認、そのほか仕上げでの注意事項を伺って、舞台の上で並べた椅子やら、ひな壇を片付け、僕はホールから外に出た。
ホール前のタクシー乗り場に、先ほどの演奏をした女性が立っていた。
僕は思わず近寄り「タクシーでお帰りですか?」と件の女性に声をかけた。
「そうなんですが、なかなかタクシーが来てくれないですね」

先刻の演奏前の挨拶の硬い表情、演奏中の厳しい表情ではなく、笑顔の可愛い、人懐っこい女性の姿があった。
「先ほどの写真屋です。よろしければ駅まで会社の車でお送りしますよ」
「あら・・助かります!甘えさせていただこうかな・・」
「どうぞ、ご遠慮なく、ライトバンですけどね」

スーツ姿のその女性は花束を持って僕の後ろについてきた。
「他の先生方とはご一緒じゃなくてよろしいのですか?」
「ええ・・私は大先生の以前の教え子で・・今日も講師ではなく一生徒として演奏しましたから」

屈託なく話すその女性を、駐車場に停めたライトバンに案内し、僕はまず撮影機材を積み込んでいく。
「写真屋さんって・・体力勝負みたいなところありますね」
「そうなんです・・スーツを着た土方みたいなもんです」
僕が汗をかきながらそういうと、彼女は明るく笑う。

「M駅でいいですか?」
僕は車のエンジンをかけながら、助手席の彼女にそう訊いた。
「あの・・M駅からK市まで・・・どうやっていけるのでしょう?」
「K市ですか?」
「はい・・」
「M駅からだと、終点のA駅に出て、そこからJRに乗り換えてK線でしょうか」
「あ・・そうなんですね・・ありがとうございます」
「しかし・・電車の本数が少ないんのです・・M駅はそれなりにありますが、接続するK線が毎時一回くらいではないかと・・」
「そうですか・・仕方ないですね」
「来られるときは、どうやって来られたのですか?」
「時間がなかったからタクシーでした」
「タクシーですか!20キロ以上ありますから相当高くついたでしょう」
「はい・・5000円ほどかかりました・・でも、帰りは焦らないで良いんで、電車かバスで帰ろうと・・」

僕はクルマを動かして、ホール前の信号を駅と反対方向に曲がった。
「じゃ、このままお送りしますよ!K市まで寄り道しても、30分もかからないでしょうから」
実際は1時間ほど遠回りになるだろうと思ったが、なぜか、そのときの僕はそう言って半ば無理やり、彼女を送ることに決めていた。

「今日の演奏は素敵でした」
およそ、女性を誉めたことなどない僕だったが、そのときは素直に彼女にそう言えた。
「そうですか・・自分では60点くらいの出来です・・」
「あれが60点なら90点や100点って・・どんなのだろう?」
「う~~ん・・たぶん・・すごい・・はず」
彼女はそういった途端、吹き出した。
「そんなことないですよね~~晴れの舞台で60点しか出来ないのだもの・・」
「いやいや、僕には今日の演奏は素晴らしかったです・・こういう仕事をしていると、音楽の詳しいことは知らないでも、その演奏がどういったレベルかは自然にわかるようになりますから」
「音楽はあまりご存知ではないのですか?」
「ええ・・クラシックは特に解らないです・・普段はニューミュージックしか聴かないですし」
「それでも、演奏の上手い下手はわかると・・」
「ええ・・撮影するポイントも曲によってわかりますよ」
「撮影するポイントって・・あるんですか?」
「ええ・・一瞬でもお顔が右を向いてくれるようなところ・・音程の高い鍵盤を叩くようなところとか・・曲が急展開するところとか」
「はぁ・・すごいですね・・」
「それでも、なかなかこちらを向いてくれないようなときは・・定位置から降りていって、手持ちのカメラで接近して撮影します」
「そういうこともあるんですね」
「おたくの場合も定位置以外から撮影したカットが何コマか・・ありますよ」
「あら・・」
「定位置での撮影で十分だったのですが・・なんだかとても表情がよくって」
「ま・・嘘でもそう言ってくださると・・嬉しいですね」
「嘘じゃないです・・おたくの・・」
「私はおたくという名前ではありません」
「あ・・すみません・・」
「黒川秋子と申します・・」
「失礼しました・・僕は大島俊一です」
「女性に”おたく”って・・言ったりすると嫌われますよ」
きつい口調にびっくりして助手席のほうを見ると、彼女は悪戯っぽく笑っていた。

発表会の写真の仕上げには10日ほどかかった。
教室に納品するのは台紙に貼りこんだものだけだが、僕はスタジオの仲間には黙って黒川秋子の定位置以外の写真を全部キャビネ版にプリントしていた。
どれも、表情が良く、彼女の美しさ、強さが出ているような気がする。
「それ、プリントしてどうするんだ?」
G先生が不思議そうに訊く。
「この人に上げようかと思うのですが・・」
「じゃ、さっき、教室に送ったほかの写真と一緒にすればよかったのに・・」
「いや・・なんだろう・・自分で届けてあげたいのです」
「ほう・・」
「だめですか?」

G先生は一瞬、僕を見つめてから「好きにすればいいさ」と言ってくれた。

その日、スタジオの営業が終わると、僕は電車に乗ってK市に行った。
彼女、黒川秋子の家は、K市の山の手の住宅街にあった。
スタジオを出る前に、彼女の家に電話をいれたが、電話には彼女の母親が出、すぐに彼女に替わってくれた。
「今から、先日の写真でおまけに撮影した黒川さんの写真を、お届けしたいのですが」
僕がそういうと、彼女は「自宅まで来てもらうのも申し訳ないので、K駅前の喫茶店でお会いしましょう」と言ってくれた。

夜の帳が下りた駅前の、シックな明かりで満たされた喫茶店で、彼女、黒川秋子は待っていてくれた。
「すみません、遅くなりました・・」
「いえいえ、わざわざ遠くまで来てくださって、ありがとうございます」
早速ですが・・と言いながら、僕は件の写真の入った封筒を彼女に手渡した。
彼女はゆっくりとその封筒を開け、キャビネ版の写真を取り出す。
「如何ですか?」
彼女は「は・・」と言ったきり、写真を見つめている。
しばらくして彼女の表情が変わってきた。
頬に赤みが差している。
紅茶を一口含み、ちょっと深呼吸して彼女は言った。
「私・・すごく綺麗に撮れていますね・・こんなに綺麗な自分を見たの・・初めて・・」
そういいながら、写真をまた見つめる・・
写真を持つ指は細く、長い睫に挟まれた大きな瞳が美しい。
「そう言って頂いて・・ほっとします」
大口径の中望遠レンズを絞り開放で使ったその写真では、黒川秋子以外のものすべてが柔らかくぼけて、照明の形も柔らかな円形になっていた。

「実は・・お願いもあるのですが・・」
僕は写真に見入っている彼女に、改めて姿勢を正した。
「はい・・」
「しばらくの間、僕に、あなたの・・黒川さんのポートレートを撮らせて戴けませんか?」
「ポートレートですか?」
「はい・・」
「何のために・・」
「僕自身の感性と技術の向上、それにあなたの美しさを作品にとどめるために・・」
「あなたの技術と私の美しさ・・」
「そうです、僕の師匠はG先生といって、神戸で女を撮らせたら右に出るものはいない・・と言われている人です。すこしでも、先生の感性に近づきたいのです・・」
「私は・・ホールの照明では綺麗に見えるかもしれませんが、現実はたいしたことないですよ・・」
「いえ、きっと、あなたの、黒川さんの美しさをきちんと表現できるようになると思うのです」
彼女は少し考えてからこういった。
「親に相談しても良いでしょうか?」
「もちろんです。何も疚しいことはありませんから」
「それと・・」
「はい・・」
「あなたは、大島さんは独身ですか?」
「いえ・・僕には妻があります・・子供はいませんが」
「奥さんは撮影してあげないのですか?」
「妻も何度も撮影しています」

僕はそこのところは誇張した。
妻を撮影と言っても、それは観光地などでの所謂ピース写真であり、まともなポートレートなど撮影したことがなかったのだ。

「撮影したら必ず写真をその都度、アルバムにして差し上げます、撮影に関する交通費や、食費などもこちらで全部負担します」
それが僕が彼女に出した条件だった。
彼女はしばらく考えてから「私でよければ・・」と言ってくれた。
「では、最初に、僕のスタジオで、スタジオポートレートからはじめましょう・・ご都合のよい日を教えてください」

そこから僕と秋子の付き合いらしきものが始まったのだ。
撮影は週に一回ほど、スタジオポートレートから始まって、夜景をバックにしたポートレート、明るい日差しの下、ちょっと洒落た喫茶店などの店の中。

秋子は一種独特の感性を持っていて、すぐに彼女のほうから自分を撮影するそのシーンについての提案をするようになった。
彼女が提案して撮影したそのシーンとは、たとえば日曜日の工業地帯のど真ん中、汚れた工場建屋をバックにしたり、花の季節が終わったアジサイの枯れた姿をバックに撮影したり・・なにより紅葉の季節に、街中の紅葉に映える彼女の姿は美しく、それらのどれもが、そこで秋子がふっと浮かび上がる見事なポートレートになっていった。
いつのまにか、僕は光を読み、彼女の中にある自然な美しさをきちんと表現できるようになっていった。

あるとき、港の夜景をバックに、そこにある人工の光だけを使って撮影したのだが、そのときの彼女は下着が透けて見えるような刺激的な服装で現れ、僕をどぎまぎさせた。
けれども、まだこの時期までは僕の中に一種の倫理観のようなものもあり、僕はただ、写真の題材としてだけ彼女を見ていたはずだ。

それはあるとき、突然にやってきた知らせ。
G先生が亡くなった。
もともと病弱な体質だった先生だが、この年の気候の変化が激しく、ある日、一気に体調を崩してそのまま帰らぬ人となった。
僕はG先生の葬儀に参列し、キリスト教式の、一種独特の清潔感に溢れた葬儀場で、不安な気持ちを抑えることが出来なかった。
僕がスタジオの仕事が出来るのはG先生が認めてくれるおかげだった・・その先生が居なくなったのだから・・
先生はスタジオの看板ではあったが、スタジオの経営者ではなかった。
スタジオはDPE店チェーンでを営む会社が経営していたものだった。
祭壇に飾られたG先生の遺影、そして遺影の前に置かれた愛用のカメラ・・悲しみより不安が先に来る僕という人間の弱さを自分で感じていたがどうしようもない。

もともと、会社のオーナーは流行に敏感で、それは敏感と言うよりただ、世間の流れに身を置かなければと言うような感覚の持ち主だったが、少なくともG先生が居られる間は、先代からのG先生への深い傾倒があり、流行への志向性も押し黙っていたものだった。

けれど、先生の突然の死は、スタジオの大看板の消失を意味し、焦った経営者は今をときめく名カメラマンと評判の、コマーシャルフォト分野の人を口説いてスタジオの新しいトップに据えた。
それはまさにコマーシャルフォト全盛からやや過ぎたその頃の風潮をもろ、スタジオの方針とすることを意味していた。
結果として、新しいトップはG先生の遺作である展示写真をすべて破棄し、何もかも新しくすると宣言。
僕に対しては「俺のやり方についてこれないものは居ても仕方がない」とまで公言する有様だった。

スタジオ写真は基本的に被写体=顧客であり、顧客の要求を満たすことが必要なはずだが、そのトップはコマーシャルフォト風のショッキングなものを目指そうと言う。
優しいポートレートの代わりに展示された全倍の写真はどれもファッション雑誌から抜け出してきたかのような、ショッキングでどぎつい表現のものだった。
なかでも、スタジオに飾られたヘアヌードの白人女性の写真は、スタジオに入ってくる若い女性の足を躊躇わせたように僕には見えた。

そして「感性を安く売ることはしない」と言って、撮影料金を大幅に値上げ、派手な宣伝を地元のラジオやタウン誌で繰り広げる。
いち早く、地元新聞社が目をつけ、取材に来てくれたが顧客は思ったほどには増えず、むしろ、これまでの大切な顧客だった地元の名士たちが離れていく。

「うちではお前はもう雇えない」
髪を金色に染め、髭を生やしたトップは僕を解雇するという。
「こんな、つまらない写真をポートレートだと思っているような奴は俺のところには要らないんだ」
彼は僕が撮影して、自分のデスクの上においてあった秋子の写真を見てそういう。
「これの何処がいけないのでしょう?」
「こんなのは誰でも撮れるさ、俺たちは普通の奴らが撮れないものを撮る・・プロだからな」
「これは誰でも撮れる写真ではないと自分では思いますが」
「だから、お前は要らないんだ。女一人、脱がすことも出来ないでそれが写真だなんて、どうしようもないだろう」
「脱がさなければならないのですか?」
「俺は次のブライダルフェアでも大々的に花嫁のヌードを売り出すつもりだ」
「それは・・ちょっと・・」
「文句があるのか」
「スタジオポートレート、あるいは営業写真でお金を払うのは被写体でもある顧客です・・綺麗に、優しくが基本でしょう・・」
「だからダメなんだ!」

僕は失意の末、会社を辞める決心をせざるを得なくなった。

ちょうどその頃、フィルム会社の伝手があり、独立するなら何か応援する・・そういう話を貰った。
僕は前のスタジオから電車で二駅離れた駅前の、雑居ビルの一階に自分のスタジオを持つことにした。

スタジオだけで食っていけるはずもないから、中古の業務用プリンターを入れ、一般の人たちのDPEも受け付けることにしたのだ。
こうすることで、自分が撮影したフィルムも、自分で現像、焼付けの処理が出来ることになり、大きなコストダウンが図れる・・はずだった。
だが、早速、店の運営に困ることが判明する。
旧顧客のうち、自分についた一部の顧客を僕は持って独立したわけだが、そうなるとDPEの比率が高い店では、店番が必要になる。
それも、機転が利いて、多少のことは一人で切り盛りしてくれなければ困る。

当然、それには自分の妻が一番なのだが、その頃、僕たち夫婦にはようやく一人目の子供が授かり、妻は身重になってしまった。
そこで、僕が取ったのは、自宅の保険事務所の手伝いをしているという秋子に声をかけるという策だった。

もとよりは、音楽に打ち込むために会社勤めはせず、自宅の仕事である保険屋の仕事を手伝っている秋子だ。
僕からの頼みに多少、躊躇いながらも結局は応じてくれる。
ようやく店を開けて、秋子と二人の写真屋稼業が始まった。

だが、開店初日、ささやかに始めた店に来てくれた客は、前のスタジオの馴染み客一人で、それもフィルムを購入しに来てくれただけだった。
いや、もう数人、店の扉を開けてくれた人があった。
「デジカメの写真をプリントして欲しいのですが」
「はい!仕上げは明日の午後3時です!」
「なんだ、すぐに出来ないのか・・」
客はそういって去ってしまう。
新しい店だから流行り始めたデジカメの処理が出来ると思っていた人たちで、時代は既にデジタルカメラの流れの中に突入していた。

仕方なく、することがないものだから、僕は自分のスタジオで秋子の写真を撮影した。
さまざまなポーズ、さまざまなライティング、撮影機材もスタジオの大型フラッシュも僕の理想としたものだ。
秋子を撮影すれば、それは当然、自分にとって理想的な仕上がりの写真になる。

だが、撮影している間も結局、一人の客も、一本のフィルム現像も入る事はなかった。
開店初日の売り上げは僅かフィルム一本480円だけ、時代は既にデジタル時代になっていたのに、スタジオの中に閉じこもっていた僕にはその情報が届いてなかったのだ。
いや、届いてはいた。
業界専門誌などから提供されるそれは遠く離れた・・例えば東京とかニューヨークの話だと思っていたのだ。

夜7時、店のシャッターを下ろした僕の、どうにも苦悩に満ちた表情を見たのだろう・・秋子がすっと近づいてきた。
「だいじょうぶ・・あさっては私の会の発表会もあるじゃないですか」
そうだ・・日曜日は店の定休日でその日にちょうど、彼女と出会ったあの、大先生の会の発表会がある。
少なくとも30万円近い売り上げは見込めるはずだった。

「だから・・大丈夫ですって・・最初から良いなんてこと、あるはずないもの・・」
そういって僕を見つめてくれた彼女を僕はいきなり抱きしめた。
「え・・」
反射的にそう声を出した彼女だったが、そこからは従順に事が運んでしまう。
唇を奪い、まるで猛獣が餌にありついたかのように貪っていく。
そのままスタジオの奥へ流れ込んでいき、そこで彼女の身体を絨毯に押し付けた。
ただ、目の前にあるのは豊かな胸と、色白ではないが引き締まった体のライン・・僕は自分が今、何をしているのか、判らなくなってしまった。
自分でも自分をコントロールできず、僕はその戸惑いを秋子へ向けていたのかもしれない。
だが、彼女もまた、その時を待っていたような気がするのだ。
喘ぎ、身をくねらせる彼女の身体の汗が、僕の汗と交じり合う。

どこかに妻への申し訳なさがあったのは間違いがない。
だが、僕の不安定な精神状況は、自分で作った倫理観を崩壊させるのに、十分な弱さでもあったのだ。

僕は実は心配だった。
秋子が翌日も店に来てくれえるだろうか・・もう、僕の顔など見たくもないと・・そう言っていないだろうか・・
あるいは、僕のことを彼女の両親に告げていないだろうか・・

だから、僕は足取り重く自宅に帰り、身重の妻が用意してくれた夕食を少しだけ食べると、疲れ果て眠ってしまった。
「あなた・・今日のオープン、どうだったの・・?」
妻が心配そうに聞いてくれたが、僕には妻に答えられるような心の余裕などあるはずもなかった。
「ごめん・・疲れたから眠る・・」
「忙しかったのね・・良かった!」
妻の無邪気ぶりが羨ましかった。

翌日、開店時間の少し前に店に行くと、店はもう開店していた。
しかも、フィルムハンガーには現像が終わったフィルムがぶら下げられている。
「おはようございます!」
秋子が元気に声をかけてくれた。
「おはよう・・昨日は・・」
「ごめんなさいね、私、ちょっとあなたの弱いところに入り込んだでしょうか・・」
「いや・・」
「そうそう、このフィルム、ここのマンションの上の階の人らしいの・・早速仕事を貰っちゃいました」
明るく喋り続ける彼女の、フィルムメーカーのエプロンの下の、あの豊かな胸が僕の中に沸いて出てくる。
だが、外は明るい朝だ。
「店長、仕事がないならチラシでも撒いてきてくださいね」
「機械の点検は?」
「もう、済ませました!朝の勝負ですよ!」
「チラシって、自分で撒くのか・・」
「私、自分の家の保険のチラシ、いつも自分で撒いてますよ・・お店は女の子で十分、さっさと配ってきてください」
そういわれ、僕は既に手提げの紙袋に用意されているチラシを持って外に出た。

街中の、家や店の郵便受けにこれを入れてくるのだ。
こんなことは新聞屋にやらせることだとばかり・・僕は思っていた。
秋子は新聞折込のチラシを余分に刷らせて、地元に自分で撒くように取っておいてくれたというわけか・・
「お手伝いする以上は精一杯やりますので、ある程度は任せてください」
彼女が、僕の店に来てくれることが決まったとき、そう言っていたことを思い出した。

その日はいくらかの仕事の依頼があった。
証明写真の撮影もあったし、DPEの依頼もそれなりの数があった。
夜7時にレジを〆ると売り上げは2万円少々になっている。
「ありがとう・・黒川さんのおかげだ」
僕は素直に秋子に礼を言った。
「いえいえ、お店が地元の方々に少しずつ広まっているのですよ・・」
彼女はそういって、僕を見つめてくれた。
僕は店のシャッターを下ろし、鍵をかけて、裏口から出る段取りで、秋子を抱きしめた。
「ありがとう・・ありがとう・・」
今思えば何がありがとうなのか、店を頑張ってくれてありがとうなのか、僕に抱かせてくれてありがとうなのか、よく解らないのだが、とにかく僕は礼を言いながら彼女をまた絨毯に押し付けていた。
そして、その日の彼女はまさに、乱れるという言葉がぴったりと当てはまるかのような激しさを見せてもくれたのだ。

その翌日がピアノ発表会だった。
いつもと違い、僕は必至だった。
この人たちに今後も継続して仕事を貰うためには、今日の撮影、仕上げが顧客の・・つまりは音楽教室の大先生の満足の行くものでなければならない。
だから、僕は型モノの定位置の写真だけではなく、すべての演奏者の、定位置以外からの撮影を行った。
何かに打ち込む女性は美しいものだ・・手持ちの大口系レンズでニコンのファインダーに浮き上がる女性の表情はどれも美しい・・僕の中に、そのときに湧き上がった一つの概念でもある。

秋子は前回と同じように、講師陣演奏の手前の順で演奏をすることになっていた。
そして、それは僕の聴いたこともない、前衛的で、けれど感傷的な曲調だった。
プログラムを改めてみると、そこには作曲者が日本人のNという女性であることが記されている。
曲名は「やさしく あたたかく、いとおしいもの すべてに」とある。
僕は彼女を抱いた今も、彼女のことをほとんど知っていないことに気がついたのだ。

「今日の曲はクラシックじゃないね」
ホールからの帰途、自分の軽四輪に精一杯の荷物を積み込み、少し窮屈な助手席に座った秋子に訪ねた。
「現代音楽です・・私、Nさんの曲が好きなんですよ・・」
「ものすごく感動したけど」
「ほんと?」
「ああ・・」
「大先生が・・現代音楽はどうかなって・・言っておられたの・・でも、私、今回はこれでいきますって・・押し切っちゃった」
「結果的に良かったわけだ・・」
「だといいんだけどね・・」

彼女は屈託なくそう答えて、自然に運転する僕の肩にもたれかかってきた。

翌朝、店に入るとあの曲が流れている。
「おはようございます!昨日の曲のCD、かけてますよ」
「おはよう・・ありがとう・・」
いい曲だなぁ・・そう思って、秋子を見ると、彼女は既にプリンターのモニターに向かって打ち込み作業をしている。
仕事をしている女性は美しいものだ・・心底、そう思ったのだ。

だが、仕事をしている女性を撮影することでは商売は成り立たない・・
どうすれば、女性が本来持っている輝きを表に呼び起こすことが出来るのだろう・・
「黒川さん・・ちょっと一緒に考えて欲しい・・」
「なんですか?」
小首をかしげ、彼女は固めの笑顔で僕を見つめる。
「女性が何かに打ち込んでいるとき、女性ってすごく美しいと思えるようになった・・」
「は・・」
「だけど、例えばお見合い写真を撮影すると女性はどうしても硬い表情になってしまうだろ?」
「ま・・そうかもですね」
「その硬い表情を、仕事や何かに打ち込むときのような、あの輝いた表情にするにはどうすれば良いのだろう?」
しばらく、彼女は考えていた。
「何かに打ち込むことで・・輝いて見えるのでしたら・・だったら、撮影のモデルとしても打ち込むように持っていったら如何でしょう?」
「モデルとして打ち込む?」
「それにはあなたがお客さんであるモデルさんに心から近づくこと、だから何より会話が大事なのではないでしょうか」
「なるほど・・」
「それに、例えば8カットのお見合い写真台紙に貼りこむと言う仕事でも、撮影はその十倍くらいするようにして・・お客さんが乗り出してからの写真を使うとか・・」
「そうすると、コスト面も一気にアップする・・」
「フィルムは仕方ないにしても、例えば、最初のフィルム一本は捨てて、後のほうのフィルムだけ現像するとか・・」
「最初の一本は、僕にとってもお客にとっても練習というわけか」
「そうですね、乗ってくると人は何でも出来ちゃいます。その、たがを外すことが出来れば、写真はたとえお見合い写真でもずっと今より良くなるのじゃないかな」
「う~~ん・・君は、それを何処で学んだんだ?」
「あなたですよ、店長」
「え?」
「私を随分楽しく乗せて撮影してくれました。あの感覚でいいと思うんです」
「そう・・か・・」
「ただね・・」
「なんだ?」
「お客には手を出さないでくださいよ・・」
秋子はそういったかと思うと、綺麗な声で笑い出した。
きつい冗談か、それとも僕へのあてつけか・・いやいや、彼女は単純に面白がっているだけなのかもしれない。

乱れるときは存分に乱れ、前衛的で感傷的なピアノ曲を自分のものとし、しっかり店の経営にも自分の意見を持っている彼女が、コントラストの鮮やかな写真そのものであるかのように思えた。

「お店はどう?」
妻が遅くに帰宅する僕に心配そうに尋ねる。
「なんとか、軌道に乗ってきたようだよ」
「そう、それは良かったわ・・私もお手伝いしなくちゃと思うのだけど・・」
「いや、今はいい・・君はしっかりと子供を生んでくれ」
「うん・・」
真摯な瞳で見つめる妻を、僕はようやく愛しく思えるようになった。
元々は、それなりの美人でもある。
黒川秋子と比べても、美しいという点では見劣りなんかしないだろう。
だが、比べるという思考にいたる自分を恥じてしまう。
では・・秋子は僕にとって何なのだ・・

店も軌道に乗り始め、それなりに忙しくなってきていた。
流行のデジカメプリントへの対応では、ラボからの支援により即日仕上げを実現するとともに、小型の熱転写型プリンターを入れて、何とかその場しのぎは出来るようになってきていた。
時代はまだデジタルよりフィルムへの志向が強い頃だ。
当初の閑散さが嘘だったかのように、店内のフィルムハンガーには常に現像済みのフィルムがぶら下げられるようになって来た。

ただ、店の繁盛は、僕のさまざまな試行錯誤というよりも、人受けの良い、明るい美人の秋子の存在が大きくなっていたかもしれない。

そして、僕に初めての子供が出来た。
女の子だ。
くしゃくしゃの顔をした赤子を病院で見たとき、僕にはなんとも表現しようのない気持ちの高ぶりが出てきていたのを抑えることが出来なかった。
自分の子供・・自分の娘・・
今思うと、それは僕が親としての実感を得た最初だっだ。

「女の子だったよ」
僕は病院から店に戻るなり、秋子にそういった。
もしかしたら、僕の声は弾んでいたのかもしれない。
「わぁ!それはおめでとうございます!」
秋子は最高の笑顔でそう返してくれた。

僕はその夜も彼女を抱いた。
店の中ではなく、所謂ラブホテルでだ。
妻がお産で入院している間、僕は一人住まいのような形だったのだから、自宅に帰る時間は拘束されない。
もとより、妻も僕を拘束などしていなかったと思うが、そこにはやはり男としてのやましさもある。

妻の入院中、僕は秋子と町外れのラブホテルでのひと時を楽しむようになっていた。

だが、その夜の彼女はいくら攻めても落ちなかった。
二人で醸し出せるはずの喜びも得られず、秋子はただ、裸で横たわっているだけだった。
「どうしたの?」
「べつに・・なんともないわよ・・いつもとおなじ・・」
そういいながら、それでも僕に口づけをしてくれる。
店では僕に敬語を使う彼女だったが、ずいぶん以前からプライベートな時間になると対等の言葉遣いをするようになっていた。
けれども、彼女は汗もかかず、喘ぐ声もつくりもののような味気ない声になっている気が・・僕にはする。

僕がそう感じたのは、彼女が僕との距離を開けようとし始めたのを僕が直感で感じたのか、あるいは、彼女は何も変わっていなくても僕の心境に微妙な変化があって、それを彼女が感じてしまったからなのか・・今となってはわからない。

妻が退院して、しばらくは妻は自分の実家で赤子とともに過ごさせてもらっていたが、やがてお宮参りの写真を撮影することになった。
双方の両親・・つまり赤子から見て祖父母と僕たち夫婦での記念写真だ。
もちろん、自分のスタジオでの撮影で、店に初めて来る妻の両親は「立派な店だね」と誉めてくれる。
僕は集合写真や親子の写真では被写体にならねばならないから、カメラのシャッターは明子に任せるしかない。
秋子は最高の笑顔を崩すことなく、いつの間にか精通したプロ用の大型カメラを器用に操って僕たちを撮影してくれた。
いや、それどころか、宮参り用の衣装を赤子に着せて撮影する一人写しの際には、なかなか自分の子供をあやせない僕からカメラを奪って、上手に赤子をあやしながら撮影してしまう。

撮影が終わると、妻も双方の両親もにぎやかに店を出て行って、一気に静かになった。
「黒川さん、いつのまにかスタジオカメラマンらしくなったね」
彼女はちょっと硬い表情で「そう見えますか?ありがとうございます・・」と言う。
「僕が君のレベルに達するには何年もかかったものだが・・」
「じゃ、先生が良いのですよ・・きっと・・」
「いやいや、君が持っている素質だろうね・・」
そういうと彼女はじっと僕を見詰め、ちょっと意を決したかのように言った。
「私、もしかしたら・・天職を見つけたかもしれません」
「天職・・かもなぁ」
僕が呟くと、秋子はさっさとフィルムプロセッサーに出ていた35ミリフィルムをプリンターにセットして焼付作業を始めた。
その姿を見て、僕はまた彼女を抱きたくなる衝動に駆られた。
プリンターに向かう横顔がことのほか美しく感じたのだ。
けれど、その夜、彼女は僕の誘いを「今夜は早くおうちに帰って、赤ちゃんと奥様のお顔を見てあげてください」と断り、一人で店を出て行った。

数ヶ月後、季節は秋になっていた。
その間も僕は幾度となく秋子を抱き、家に帰るとよき父親の顔になっていた。
もっとも、それが矛盾したことだと言う罪の意識のようなものは僕にはない。

店の定休日に、僕は一日時間をとって、紅葉の名所で秋子のポートレートを撮影していた。
不思議に秋景色によく似合う女性だと実感する。
「君は、秋景色が似合うね」
ファインダーを覗きながら、そう僕が言うと秋子は少し照れたかのように、頬を赤らめる。
「私、名前のごとく・・秋が好きなんです・・」
「生まれは秋だったかな?」
「いえ、冬ですよ・・」
撮影時にはプライベートだとは思わないらしく、彼女は敬語で答えてくれる。

その撮影が終わって、喫茶店でコーヒーを飲んでいるときだ。
秋子は僕に向かって驚くようなことを言った。
「大島さん、私、お店を辞めさせてもらおうかと思っています」
僕を見据え、彼女は居住まいを正して言う。
「どうして?」
「実は、今のお仕事で自分の天職が判りました・・・私、写真スタジオに向いています」
「だったら・・なぜ・・」
「今のお店に居ても、社会保障もないし、収入といってもバイトの時間給だけでしょ?」
「うん・・」
「やはり、自分の職業として、きちんと働きたいのです」
「だったら・・時給をアップしてもいい・・」
「時給じゃないんです・・社会保険や年金、それにボーナス・・」
僕は一気に奈落の底へ落とされたような気になってしまった。
それは、今の僕ではどうにも出来ない要求でしかない。
「なんとか、少しでも、君が居やすいようにするから・・」
「ありがとうございます・・でも、もう決めてしまったんです」
「もう・・決めたって・・」
打ちひしがれる僕を見下すかのように・・少なくとも僕にはそう見えた・・彼女は固い表情で平然と言う。
「Oホテルのスタジオのスタッフとして、来月から・・」
そこは神戸の港を見おろす超高層の、しかも東京資本の一流ホテルだ。
「ホテルに勤めるの・・?」
「そのホテルのスタジオには東京の名門、Ⅰ写真館が入っています・・そこの正社員として採用してもらうことになりました」
僕はもう、なにも彼女に言えなくなってしまった。
彼女は、コーヒーカップには手をつけず、背筋を伸ばして僕を見つめている。

しばらくしてようやく僕は言葉を見つけた。
「それは、よかった・・僕はちょっと困るけれど・・おめでとう・・」
「ありがとうございます・・」
「さて、来月からお店をどうしようか・・」
「奥様に手伝ってもらってください・・まだお嬢さんは小さいから大変でしょうけれど、出張のときだけ手伝ってもらえば・・人件費もかかりませんし・・」
「うん・・」
実際にその通りだった。
実は、妻からも「お店、経営がしんどいなら、私がお手伝いしましょうか」と何度も言われてきていた。
まだ数ヶ月の娘は、妻の母親がその間だけ面倒を見てくれるように頼むと言うのだ。
それに、今現在のところ、店の経営は成り立っているとは言いがたく、どうにか、自分の生活を切り詰めて秋子への給与を支払っているのが実情だった。
妻が手伝ってくれれば、せめて店の利益だけはそっくり、我が家で生活費に使うことが出来るのだった。
「実は・・」
秋子が冷めかけたコーヒーを少しすすって言う。
「先月、奥様が買い物ついでにお店に立ち寄られたんです」
「え・・?」
僕の知らないことだった。
「大島さんが営業に出ている間にです・・お嬢さんを乳母車に乗せて・・」
「・・・・」
「そのとき、私、お店を奥様が手伝われたら、少しはおうちの家計も楽になるのではないでしょうか?って、申し上げたんです」
「それは・・・・」
「奥様は、私に・・それはそうだけど、でも、あなたのお仕事を私が奪うような気がして・・とおっしゃりました、だから私は・・外に自分の居場所を見つけますからご安心くださいって・・」

そういえば、妻が強く自分を店の手伝いとさせてと、迫ってきたことがあった。
秋子と妻との間に、そういうことがあったのを僕は知らなかった。

「あの・・ちょっと訊くけど・・」
僕は、不安に感じている一番のことを秋子に訊ねた。
「僕と、君との関係は・・妻には言ってないだろう?」
秋子はふっと笑みを漏らした。
「奥様にお伝えしていたらどうしますか?」
心の底が抜けていくのを感じながら「それはちょっとなぁ・・」とだけ、ようやく答える。
「安心してください・・もちろん、そんなこと、言うはずもないじゃないですか・・」
少しホッとした。
「でも、お店を辞めたら、もう、そんな関係はなかったことにしましょう・・私も自分の本当のパートナーを探しますから」
この言葉は僕を俯かせた。
秋子が僕の下から去ってしまう・・
そしてその秋子が僕よりはるかに強い人間になって、僕の前で堂々としている。
惨めな気持ちになりながら、僕がそのときにいった言葉は、自分でも信じられないようなさらに惨めなものだった。
「頼みがあるんだ・・それまでは抱かせてくれ・・」
秋子は一瞬、驚いたように目を大きくして僕を見つめ・・ちょっと溜息をつく。
「だったら・・今から行きましょう・・これが最後です・・」

その日の秋子は大胆だった。
喘ぎながら僕をリードして、自分を絶頂の極みに持っていこうとする。
僕は己の力のなさを強く実感し、彼女がくねらせる身体を見ながら敗北感に包まれていく。
まるで秋子が今まで隠し持っていた実力を、僕に向けてすべて曝け出したかのような・・そして僕がそれを何も知らずに彼女を求め続けていたことを恥じるように持っていかれたかのような、見事な敗北感だった。
僕には性の悦びはなく、全力で戦い抜いたかのような彼女は、事が終わったあと、しばらく・・小一時間ほど寝入ってしまった。

翌月の初め・・
秋子が座っていたプリンターのデスクには妻が座っていた。
妻もまた、仕事に向かっているときは美しい女性だった。
「ごめんなさいね、黒川さんのように上手に機械をコントロールできなくて・・」
「最初は仕方ないよ・・そのうち、慣れるさ・・」
このときになって僕はようやく、「夫婦で二人三脚」と言う言葉を実感するようになったのだ。

しばらくは平穏なときが続いた。
少し無理をしてデジタルカメラ対応の新型プリンターも導入したし、人の伝手で地元の幼稚園を二つと、小学校を二つ、卒業アルバムやスナップショットの仕事で専属にしてもらうことが出来るようになり、店の経営もそれなりに安定した。
僕たち夫婦には、2年後はもう一人、男の子が授かり、妻のお産での入院や産後の数ヶ月、なんと、妻の母親が五十台半ばで僕の店の仕事を引き受けてくれ、しかも、義母は実に年齢を感じさせない能力をも見せてくれた。

十年ほど経ってから、僕たち家族は妻の弟の結婚式に呼ばれた。
それはまさに黒川秋子が勤めに行った「Oホテル」で、豪華で盛大な披露宴だ。
僕は秋子のことはずっと気になっていたが、あれ以来、連絡もとってなかった。
なにより、彼女が最後に見せてくれたあのときの、強烈なイメージが付きまとい、僕に連絡をする勇気を持てなかったというのが正しいのかもしれない。
もちろん、勇気を持って僕が連絡したところで、彼女はもはや僕のところに来る筈もない。

結婚式が終わり、披露宴に移る間に親族の集合写真を撮影すると言う。
係りの女性が、引率するのを、遠足にいく生徒宜しく、ぞろぞろとついていき、写真スタジオに入る。
なにやら懐かしい音楽が流れている。
若いスタッフが親族たちをひな壇に並べていき、僕はひな壇の上から前方のカメラを見た。
カメラを操作していたのは女性のようで、カメラ付近の照明は消えているから、僕からでは良く見えない。
「それでは、皆様、お揃いになられたようですね!お待たせいたしました!当写真館の黒川と申します・・よろしくお願いいたします」
僕は驚いた。
声は紛れもなく懐かしい秋子のものだ。
張りがあり、しかも強い声だ。
「それでは只今から数枚、撮影させていただきます・・笑顔でこちら、カメラのほうをご覧くださいませ」
フラッシュが三度光り、また彼女の声がする。
「それではカメラを変えます、今度はこちらをご覧くださいませ・・おじょうちゃま、こっちですよ・・大人の方はずっと良い表情をしてくださいませね・・」
参列の子供の視線を引きつけ、他の大勢の大人の表情を緩ませる上手な語り口・・
またフラッシュが二度光る。

撮影が終わって、照明がすべて点けられたスタジオで、秋子に最初に声をかけたのは妻だった。
「黒川さんでしょう!頑張っておられますね!」
秋子は妻を見ると駆け寄って「わぁ!うちに、いらっしゃってくださったんですね!」
「お元気そう・・それにきらきらされて・・かっこいいわぁ」
妻は秋子の仕事振りに感嘆したようだ。
「黒川さん・・」
僕も一歩遅れて彼女に声をかけた。
黒のスーツで身を包んだ彼女の雰囲気は、まさしくプロカメラマンのそれだった。
「店長!そのせつはお世話になりました!おかげさまでこのように楽しく、生きがいのある仕事をさせてもらっています」
はきはきと明るく、僕に向かってそういう彼女に僕は少し嫉妬心のようなものも感じている。
「本当に天職だったんだね・・スタジオの仕事・・僕などすっかり追い越されてしまった・・」
「そんなことないですよ!店長は店長、私にとってはいつまでも師匠です!」

明るくそう返す彼女のスーツの、やはり大き目の胸のふくらみが僕にはまぶしい。
黒川秋子と言う女性は僕にとって、勝てるはずのない相手だったのかもしれない・・
そういえば、スタジオのBGMは女性ピアニストNの「やさしく あたたかく、いとおしいもの すべてに」だった。

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