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story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

松の木

2005年10月29日 19時08分03秒 | 小説
私は息を切らせて海岸の国道を歩いていた。
ついさっきまで走っていたのだ。
クルマがひっきりなしと言うよりは、道一杯に伸びたまま動かない状態で、私は排気ガスの漂う歩道を東へと向かっていた。
遠くに淡路島がぼんやりと見える。
海辺でありながら風がなく、秋でありながら蒸し暑さが漂う。
大きなタンカーが島との間に架けられた巨大な橋の下を通過する。

海辺のマンションでの面接はひどいものだった。
高名な写真家といわれる彼は、協会から紹介されてやってきた私を、じろじろと舐め尽くすように見て、いきなりこう切り出した。
「うちの秘書は、事務だけやないさかい、判ってるやろうな」
何のことか判らず、私は彼の顔を見つめたままだった。
彼の後ろには大きな窓があり、今見ているのと同じ海が広がっていた。
「事務だけではない・・どういうことでしょうか?私は、撮影の助手として紹介いただいたのですが・・」
彼は立ち上がり、海のほうを見た・・つまり、私に背を向けたわけだ。
「助手ねえ・・」
彼はその姿勢で海に向かってそう言った。
「はい・・私はそのつもりで・・」
突然、彼が私のほうを向いた。
「そうや・・助手や・・ええ作品を作るためのな・・」
彼は私に近づき、ビックリしている私の手をとった。
「そのためには、愛が必要なんや」
彼は体を寄せてきた。
酒の匂いがした。
私は、どうしてよいか一瞬、判らなくなった。
彼は私のブラウスに手を入れて、胸を探り始めた。

・・逃げよう!・・
私は、手に持ったアルミバックで、彼を殴り飛ばした。
彼は、不意をうたれて転び、私はその隙に彼の部屋を飛び出した。
「こらぁ!」
彼が怒鳴る声が聞こえた。
気持ちが悪かった。
怖くはなかったが、腹が立った。
私は、怒りと情けなさと、もろもろの激情を抱いたまま、マンションを飛び出し、歩道に出て、ここまで走ってきていた。
もう彼は追ってこないだろう・・
そう思うと同時に、折角、協会が探してくれた仕事をふいにした哀しさも味わっていた。

なまじ、高い評価を貰っていたのがいけなかったかもしれない。
普通の女の子なら、30近くにもなると職場ではリーダー的存在になっているか、あるいは既に結婚して家庭を持っているものだろう。
私は、自分が生きてきた道を、思い返していた。
写真一筋で生きてきたし、写真では誰にも負けないつもりでいた。
重いアルミ製のカメラバックが、今日はことさらに重く感じる。
面接の時に、作品やカメラを見てもらおうと用意したものが、入っていた。

専門学校を卒業して、最初に入ったホテルの写真館では、私はすぐに先輩の男性を追い抜いて、二番手の地位を確保した。
私は気が短く、いつも苛立っていたから、先輩は私を壊れ物を触るかのように扱ってくれていたが、私にはそれが余計に気に触った。

私は駆け出しのカメラマンとしては破格の待遇を受け、撮影時のメインカメラマンもさせてもらえるようになるのに、それほどの時間はかからなかった。
しかも、撮影した写真をプロ写真家のコンテストに出したところ、そのまま入選してしまった。
私の鼻は高く、周囲には傲慢になっていたに違いない。

ところが、あるとき、スタジオにやってきた本社スタジオの専務と意見が衝突してしまった。
専務は、たまたま、そこにあった私が撮影した写真を見て、ウェディングドレスの長い裾を全部入れて撮影するべきだと私に注意をしたのだ。
それだけならまだしも、私が後ろに流すようにしているヴェールを前に持ってきて、全部画面に入れろという。
「どうしてですか?」
私は挑戦でもするかの様に、60歳近い専務に訊ねた。
「ドレスを切ると・・切るってさ、縁起がよくないでしょ・・」
「はあ?縁起ですか?」
「結婚式の写真は、縁起物だから、切らないようにしないとね・・」
私は呆れた。
ドレスよりも花嫁が主人公のはずで、花嫁を美しく生かすには長いドレスを画面から外すことも必要になってくる・・私はそう訴えた。
「君はこの業界に何年居ると言うのだ?僕はこの業界に40年も居るのだぞ!この業界の怖さを君は知らなすぎる!」
専務はそう言って怒り始めた。
私はそのとき、素直に下がるべきだったかもしれない。
けれども、私はコンテストに入選したばかりで、今思えばつけ上がっていた。
「花嫁さんが主役でしょ!花嫁さんを引き立たせるためのドレスじゃないですか!」
私の反撃を、スタジオのチーフが腕を引っ張って止めようとしてくれたけれど、私はチーフの手も振り解いたのだ。
「君は何様のつもりだ?現実にドレスが全部、写真に入っていないというクレームがあったこともあるんだ。そういうクレームが来た時、君は責任を取れるのか?」
「責任くらいとりますよ!私は私の感性でこれがいいと思ってしているのですから!」
専務は、少し気持ちを落ち着けて、噛んで含めるように話してくれた。
「あのね・・責任なんか、君にとれっこないんだよ・・お客のクレームには、きちんとした立場の人でなければ対処できないんだ。君がいかに感性の優れた、優秀なカメラマンでも、うちの会社を代表することは出来ないんだ。それと、僕たちの仕事は、感性も大事だけれど、決められたことを決められたように実行できることが何より大切なんだよ。感性はその基本を押さえてから、基本の上に咲かせなきゃぁ・・」
私は素直に従うべきだった。
専務の言っていることは理に叶っていたのだから・・
「ですが、この作品は・・やはりドレスは切った方が・・」
専務は諦めたような表情になった。
「作品?この写真が君の作品だというのかな?君がライティングを決めたのか?君がバックを選択したのか?君がレンズを選択して、君が絞りを決めたというのか?フィルムを選択したのは君か?ポーズを決めたのは君かも知れないけれど、このポーズの何処が君のオリジナルなんだ?これは全てここに居るチーフが、長い経験から決めて撮影しているデータをそのまま使っただけだし、ポーズも猿真似に過ぎないのだ・・」
私は、怒った。
猿真似といわれて怒った。
けれども、言い返すすべはなかった。
専務はそんな私をじっと見つめ、チーフは困ったような顔をして、私の横に突っ立っていた。
「チーフ!彼女はカメラマンとしてはちょっと、どうだろうか?暫く助手をさせて基本をもう一度、一から学び直させる必要があるのではないか?」
「は!」チーフは立ったまま、なにも言い返さなかった。
「彼女は僕が良しとするまで、シャッターを持つことは禁じる。1ヶ月して、僕が今度来た時に、彼女の学習の成果を見て、シャッターの権利を戻すか考えよう・・」
専務はそう言いながら立ち上がり、私のほうを向いた。
「あのドレスは、切らなくても、きちんと枠に全部入れて、形よく決まるんだよ・・」

私は悔しかった。
見返してやろうと思った。
けれども、一度有頂天になった人間は、どうしようもない傲慢さをもつものだと、私は自分の心で思い知った。
私はホテルのスタジオに辞表を提出し、独立した。
仕事など、あるはずがなかった。
飛び出したスタジオには頭は下げられない。
必死で営業活動をしてみたけれど、どこでもこう言われたものだ。
「写真撮影?うちは自分でするからいいよ」
ちょっと気のありそうな会社ではこう聞かれた。
「カメラマンの方ですか?何が撮影できますか?」
「ブライダルとか・・」
「商品はどうですか?チラシや広告に使うものですが・・」
商品撮影など、やったことがない。
第一、私は露出というものが理解できていないのだ。
スタジオの外に出て、私は何も写真を知らない素人に過ぎなかったことが判ったわけだ。

スタジオに出入していたプロラボの人に連絡をとり、ホテルの結婚式スナップの仕事を貰った。
それは良いが、最初の仕事の時に、そこの責任者からメモ書きで「感度はISO320に設定してください。もしくはプラス0.7から1.0の露出補正をかけても構いません。絞り解放で被写界深度の浅さを生かしたポートレートを必ず数点入れて置いてください。今日の撮影は全卓撮影がありますのでよろしくお願いいたします」と書かれた指示を受け取ったけれど、私にはISO320も、露出補正も被写界深度も全卓撮影もわからなかった。
仕方なく、その責任者に色々質問したけれど、全卓撮影まで聞く余裕がなく、ただ、露出補正とは感度ISO400のフィルムで320に落とすということ、絞り解放とはレンズの絞り数値を最小で使うということだけは教えてもらった。
けれども、自分のカメラのどれを触れば絞りというものが動くのか、感度を変えるにはどうするのか、全くわからないまま撮影に望んでしまった。
撮影は全てフルオートのプログラムAEで、あとは、なるようになれと、私は結婚式や披露宴の進行に合わせてただ、シャッターを切っていった。

その仕事をこなし、自宅へ帰ると、そのホテルの責任者から電話がかかってきた。
「なんですか!この仕事は・・全部フラッシュを使っているから、写真が全て素人の撮るようなものになっていますし、露出の不足しているカットもあります。それに、何より許せないのは全卓撮影で御願いしたのに、お客さんのポートレートが一つもないじゃありませんか!」
私は、心の疼きを感じながら、それでもやっとのことで返事を探し出した。
「ええ!そうなっていますか?すみません・・気をつけたつもりだったのですけれど・・」
「つもりではダメなんです。あなたはラボの方が紹介してくださって、しかも前は別のホテルのスタジオにおられたから、そういわれたから安心して御願いしたのですよ!」
「すみません・・責任はとりますから・・」
「責任!なんですか!それは!あなたに取れるような責任なんてないのです。それとも、新郎新婦にもう一度結婚式をしてもらう費用や、列席のお客様の交通費、衣裳代、その全てをあなたが負担するとでも言うのですか?」
「え・・責任て・・そこまでしなくてはいけないのですか・・」
「あなた、今、責任を取るって言われましたよね!じゃあ、他にどんな責任のとり方があるのですか?」
「あ・・だから・・私が謝って・・」
「謝るのはうちのホテルの担当営業マンです。そのときに必ずこういわれますよ・・素人に仕事を任せたホテルの責任ってね!」
「あの・・私にも謝らせてください・・」
「お客様にとっては一生に一度の結婚式です。あなたは、それをぶち壊したわけです。営業マンが一生懸命に営業し、美容室が心を込めて美容着付けをし、宴会場ではスタッフが一生懸命にお客様にサービスをし、裏ではコックさんたちが汗をかきながら調理をしておられます。あなたは、その全ての方々の努力をぶち壊したわけです。もっとも、あなたをテストも得ずに使った私の責任はあなたよりも遥かに重いです」
「すぐに、お詫びに伺います・・」
「もう、結構です。今日の仕事はなかったことにしてください。お疲れ様でした!」
そう言って電話は一方的に切られた。

その婚礼の後始末を、あの責任者やあのホテルの営業マンがどのようにしたのか、私には判らない。
私は写真というものを甘く見ていたことを思い知った。
私が写真が撮れる気になっていた、そのバックには私が居たスタジオのチーフの技術があって、私はその上で偉そうにしていたに過ぎないのだ。

私は自分へ腹を立てた。
一度、徹底して基礎を学びなおそうと思った。
そこで、私は写真技術に関する本を読み漁り、自分のカメラを使って徹底的にテストを繰り返した。
友人や親戚の婚礼で撮影もさせてもらった。
私はカメラマンとしての道をきちんと進むために、自分にとっての師匠になるべき人物を探していて、そこで、自分が勤めていたスタジオの、あのチーフにお願いをしてみた。
結果的に私は、そのスタジオに頭を下げたのだ。
チーフは「他の写真家はよく知らない」といいながらも、自分も加盟する写真師の協会を教えてくれたのだ。

暫く海岸沿いを歩いていた私には、時間の感覚がなくなってしまっていたようだった。
気がつけば、あの男のマンションから随分はなれた、海峡大橋の近くの公園傍まで来ていた。
海はぼんやりと光をはねかえし、景色だけ見れば春先のような雰囲気だ。
「私は何をしに、こんなに自宅から遠いところまでやってきたのだろう・・」
そう思うと、苛立ちと哀しさがまた湧き上がってくる。

私は、公園の入り口近くに、ぽつんと立っている松の木を見つけた。
その松の木は、枝や葉が遥か上のほうにしかなく、細長い幹でひょろりと立っているように思えた。
その近くには他に松の木はなく、そこから少し離れた大橋の真下あたりから松林が始っているようだった。
私は、松の木を見上げていた。
なんともいえぬ親近感が湧いた。
海岸でひとりぼっちで頼りなげに立つ松の木は、写真業界でひとりぼっちとなり、それでも立っていこうとする自分の姿に重なって見えたのかもしれない。
私は、その妙な親近感を、もっと感じたかった。
周りを見渡すと、人は居ない。
国道にはクルマが並んでいるけれど、そのクルマたちはこちらを見ることはないだろう・・

私は松の木に触れてみた。
ゴワゴワの幹の表面は、心なしか暖かく感じた。
「お前は、いつからここに立っているの?」
松の木に語りかけてみた。
「もっと近くへ!」
誰かの声がした。
私はあたりを見回したけれど、誰も居ない。
「もっと近くへ!」
声は、上の方から聞こえた。
私は、木の上のほうを見た。
風にかすかに揺れる枝があるだけだ。
・・もしかしたら・・
私は、松の木が私に喋っているような気がした。
私は、松の木に身体をつけてみた。
抱きかかえるようにしようと思ったけれど、華奢に見えた幹は案外太くて、私が蝉のようにしがみつく格好となった。
暖かい・・松の木の肌は意外に暖かだった。
「教えてあげる・・あなたの事・・」
囁くような、声が聞こえた。
それは女でも男でもない中性的な優しさに満ちた甘い余韻を持っていた。
「私のこと・・」
そう聞き返す私の前に、いきなり広く豊かな砂浜と、青い海が広がった。
海には船はなく、砂浜には戯れる少女達がいた。
少女達は時代劇のような着物を着ていた。
いや、私がその少女のひとりになっていた。
私は、他の3人の少女達と砂浜で踊っていた。
海の香りが心地よい。
風が心地よい。
私は踊っていた。
手を繋ぎ、手を離し、くるりと回り、手を叩き、手を繋ぎ飛び上がりしゃがみこむ。

「子供らよ 子供らよ
花おりに ゆかん
花おりに 小米の花折りに」

「一本折りては 腰にさし 二本折りては 腰にさし
三本目に日がくれて 兄の紺屋に 泊ろうか」

指で数を出しながら少女達は歌う。
何処から声が出るのか、いつ覚えたのか私も歌っている。

「あすのさかなは なになに
どろ亀の吸物 へびの焼物
一口食うては ああうまし 二口食うては ああうまし
三口目に屁へこいて 大黒さまに聞こえて」

向かいの少女の表情が変わった。
笑いを堪えているのだ。

「大黒さまのいうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」

あはははは!
とうとう、その少女は堪えきれなくなったようだ。
「あかんやん・・はまちゃん・・いっつもここで笑うねんから・・」
別の少女がそう言って、けれども彼女も笑い出した。
私も何故か笑っている。
「だってえ・・さとちゃん、三口目に屁こいだら大黒さんが聞いてはんねんでぇ・・おもろいやんかあ・・」
はまちゃんがおどけて笑いながら応じている。
「まつちゃん、そやけど、へびの焼き物って・・食えるんかなあ?」
更に別の少女が私に向かって不思議そうな顔をする。
私はまつちゃんと言うらしい。
「ぎんちゃん、へびもそやけど、泥亀やで・・」
私は思っても居ないことを喋っている。
その少女はぎんちゃんというらしい。
みんなと笑う。
「変な歌やなぁ・・」誰かがそう言い、「ホンマに変やわぁ・・」皆が応じる。
「もいっぺんやるでえ・・」
さとちゃんがそう言いだし、また皆で手を繋ぐ。
「大黒さまののうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」
手を離し、お辞儀をし、手を叩き、また手を繋ぐ。
「五ついつもの如くに 六つ無病息災に
七つなにごとないように 八つ屋敷をひろめて」
踊りと歌が続いていく。
「九つ小倉を建てそめて 十でとんと納まった」

私は心の中に何かが広がっていく気がした。
自分の見たことのない景色・・見たことのない少女達・・
砂浜で輪を作りながら少女達が歌い踊り続けている。
けれども、それは紛れもなく私自身、私の姿・・
海岸の形は変われど、海の景色、海の向こうに見える島も、確かに私の知っている景色・・

はっとした。
私は木に抱きついていた。
木の暖かさが私を慰めてくれていた。
「ありがとう・・」
松の木に礼を言ったけれど、松の木は喋ってはくれなかった。

そう、確かに、私はあのあたりで踊っていた。
あの駐車場のあたりで・・
私は踊っていて、それはとても楽しく、穏やかな時間だった。
それはいつ頃なのだろう・・
戦前か・・それとももっと前か・・
あの着物はまるで時代劇のよう・・もしかしたら、明治より以前だったかも知れない。

私は木から離れた。
今日、ここに来ることは、私と木の約束事だったのかもしれない。
汚い世間、情けない自分・・疲れを引きずって生きてきた私。
前世かそれ以前か・・
優しい暖かさで心の中が満たされている。

「また、やり直してみよう・・」
ふと、そう思った。
くじけるかもしれない。
また失敗をするかもしれない・・
でも、私が私であるために、頑張ってみよう・・そう思った。
そうだ・・写真・・
私は、アルミバックの中からカメラを取り出し、松の木に向けた。
ひょろひょろとした松の木は、今にも折れそうでいて、でも、ずっとここに立っていた。
あの時からずっとここに立っていた。
シャッターを押した。
カシャン・・気持ちの良い音がする。
ふう・・溜息をついて、海を眺める。
少し波が出てきたようだ。

「あのう・・この木を写しておられましたよね?」
私と同年代の女性が私の近くで立っていた。
「はい・・」
「あなたも、ここで踊っておられた方ではありませんか?」
はいと、答える私の目に涙が溢れてきた。
その女性も、感慨深げに、私の方へ向かってきた。
「久しぶり・・はまちゃん」

私から、不思議な挨拶が出てきたけれど、その女性は「うん」と頷きながら、私の手をとった。
「まつちゃん、みんな・・ぎんちゃんも、さとちゃんも、もう集まっているから・・そこのマンションなんや・・」
「うん・・行く!はよう、みんなと会いたいなあ・・」
私は、その女性と連れ立って、道路を越えたマンションに向かっていった。


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桃の花をつけた赤子・・桃太郎私説

2005年10月12日 21時26分24秒 | 小説
この作品は御伽噺です。
完全なフィクションであり、登場する人名や地名などは全て架空のものであり、歴史上、もしくは現在、存在する同名のものではありません。
また、時代考証も敢えて無視した作品ですので、ご了承くださればと思います。

*******************


紀元前の日本、考霊天皇の御世といわれるころ・・
大和朝廷はいまだ、国内にいる他の民族との終わりのない戦いに苦しんでいた。
その頃の話である。

ヤマトの防人として、吉備の国の北端、山中に居を構えるイセリに赤子が生まれたのは、ようやく春になろうとする四月の始めのことだった。
春とはいえ、このあたりにはまだ雪も残り、山を超えて北から吹く風は寒く、冷たかった。
ここ数年の激戦で、ようやく出雲の者達も大人しくなったものと見え、今年は例年になく静かな春の始まりだった。
彼の仕事は、ニイミの村にいて、危急の時には狼煙を上げ急を知らせ、先ず何よりも手勢を引き連れ、敵に村へ来させぬようにすることだった。例年ならば春になると雪解けを待ちかねたかのようにイズモの軍勢がこのあたりにやってくるのだった。
元々、このあたりはイズモの領地だったと彼らはいう。
いつ頃からかヤマトがこのあたりに進出して、村を作り出したのだと言う。

赤ん坊の元気な泣き声が聞こえる。
イセリの妻、ヒトメは、まだ産後の肥立ちが悪く、臥したままになっていた。
赤ん坊は男の子だった。
イセリに良く似た眉の濃い、しっかりした顔立ちの、丸々太った男の子だ。
「よしよし、おしめを替えてやるぞ・・」
イセリは慣れぬ手つきで赤子の足を持ち上げ、尻を拭いてやる。
「ごめんなさい・・私が、弱いものだから・・」
ヒトメは哀しそうに詫びる。
「何を言うか・・お前はこんな立派な子を産んでくれたではないか・・」
イセリはそう妻をたしなめながら、おしめを替え終わる。
尻が気持ちよくなってご機嫌になったのか、赤子は手足をばたつかせて喜んでいる。
イセリは赤子に「イサセリ」と言う名をつけた。
イセリは五つの斧を持つほどの力持ち、イサセリは五十の斧を持つほどの力持ちと言う意味だ。

春が深まり、山野に山桜が可憐な花を咲かせる頃、望楼に居たイセリは遠くの山の上からの狼煙を目にした。
彼はすぐに、鉦を叩いて兵士を集めると同時に、村の裏山に登り狼煙を上げた。
「来たか・・イズモめ・・」
空はぼんやりと晴れている。
小鳥や蝶が舞い、花が咲き誇るこの季節に、今年もまた、ゆっくりと過ごすことを許さない軍隊がやってくる・・
幸い、彼はこれまでイズモに負けたことはなかった。
今年もまた、蹴散らしてくれる。
イセリは、こぶしを握り締めた。

翌朝、ようやく夜があける頃、イセリは武具を着けたままの姿勢でまどろんでいた。
いきなり、悲鳴が聞こえる。
幕舎の外へ飛び出すと、既に馬に乗った兵が、斬り込んでくるところだった。
イズモは馬には乗らないはずだ。
けれども明らかに、馬に乗って敵兵が攻めてきていた。
「迎えよ!迎えうて!」
イセリは大声で叫びながら、鉾を取った。
弓衆が敵に矢を射掛ける。
けれども、一人や二人倒れても、敵方の兵は減らない。
「石を飛ばせ!」
イセリは立ち木を弓のように曲げて、地面に打ち込んだくいにつなげ、石を満載した網をその上に載せて用意してあるその、縄を切るように命じた。
木は元に戻ろうとする力で勢いをつけ、驚くような大石を遥か遠くまで飛ばすことが出来た。
森の向こうから悲鳴が聞こえる。
けれども、敵方の人数は減らない。
ついに、イズモの射手が、火矢を射ち込み始めた。
火矢を番えた兵はいくらでも出てくる。
「石を全て飛ばせ!」
大石が空を舞う。
森の中へ飛んで行く。
悲鳴が上がる。
その石の雨の中を負けじとばかりに、馬に乗った兵が突進してくる。
こんな大人数の兵隊は見たことがなかった。
火矢が幕舎に幾つも命中する。
幕舎といっても竪穴式住居の少し大きめな建物だ。
火には弱い。
イセリの部下達が逃げ腰になってきた。
「逃げるな!ここを明渡せば我らの行く先はないのだぞ!」
イセリは叫んだ。
逆効果だった。
イセリの部下の兵たちは、浮き足立っていた。
「わあ!」
ひとりが気が狂ったかのように、大声をあげながら逃げ出した。
それを潮にいっせいに兵が逃げ始めた。

「これまでか・・」
イセリは向かってくる敵兵の大群を見て、彼の家族のことを思った。
まだ産後の肥立ちが思わしくない妻と生まれたばかりの息子だ。
先に逃げた兵士達を追って、彼もまた、村のほうへ走った。彼のすぐ脇を矢がかすめていく。
「逃げろ!」
兵士達は口々に叫びながら、村の中へ入っていった。
驚いた女や老人達が慌てて、とるものもとりあえず、走りはじめる。
「山へ回れ!」
誰かが叫ぶ・・
人々は大慌てで山の中へ分け入っていく・・
大勢の悲鳴があたりにこだました。
「山はダメだ!川へ行け!」
イズモは山の中を歩くのが巧みだ。
山には既にイズモの兵が潜んでいるに違いない。
悲鳴は大きくなり、そして一瞬にして消えた。
イセリは必死で走り、彼の家を目指した。
家から、ちょうど妻のヒトメが赤子を抱いて出てくるところだった。
「ヒトメ!大丈夫か!」
ヒトメはイセリを見るなり、その場に倒れこんだ。
「川に逃げよう!川に行けば舟があるかも知れぬ・・」
彼は妻を誘い、川に向かおうとしたが、妻は歩くのがやっとと言う状態だった。

村に火が上がる。
ついにイズモは村までやってきてしまった。
川は切り立った断崖に向かっている。
舟がなければ、この先には進めない。
村人が数人、困惑した表情で立ち竦んでいた。
「イセリ様・・これ以上は進めない・・」
老人が彼に諦めたように言う。
「ああ!神よ!」
イセリは思わず天を見上げた。
桃の花咲く川岸で、彼らは途方にくれた。
「あなた・・これ・・」
ヒトメが指差す方を見ると、そこには洗濯用の桶が放置してあった。
「これをどうするのだ・・こんなものでは人一人乗れないぞ」
「違うの・・イサセリを乗せるの・・」
「馬鹿な!途中でひっくり返ればそれまでだ・・魚の餌よ・・」
「でも、ここに居てもイズモに殺されるわ」
ヒトメが彼に抱きついて訴える。
村のほうからも悲鳴が聞こえる。
逃げ遅れた者が殺されているのだろうか・・
「わかった」
イセリは着物を脱いで、その桶の底に敷き詰めた。
ヒトメが赤子をそこに寝かせる。
赤子は何も知らずに眠っているようだった。
彼女も着物を脱いで、赤子の上にかぶせた。
「イサセリ・・お前に、神様が生きる運をくれますように・・」
彼女は拳を合わせて握り、祈った。
馬の蹄の音が聞こえる。
「居たぞ!ここにも居たぞ!」
イズモの兵たちが口々に叫びながら突進してくる。
「殺せ!殺せ!」
矢が飛んできて、イセリの横に居た老人に突き刺さる・・
「さようなら!」
腰から上をはだけたまま、ヒトメが赤子の乗った桶を、川の流れの方に押し出した。
川岸の桃の木から花びらが幾枚か落ちて桶の中に入っていく。
桶は静かに、川下へ流れていった。
イセリは鉾を持って、イズモの兵たちに立ち向かっていった。
彼の身体に何本もの矢が突き刺さり、彼はその場で息絶えた。

タカハシの村のはずれに、中年を過ぎた夫婦が住んでいた。
今日も夫は山へ獲物を取りに出かけていたし、妻は河原で衣類や野菜を洗っていた。
春ののどかな日だ。
風は柔らかく、川も穏やかに流れている。
けれども、河原で洗濯をしていると、川の水は、やはりまだ冷たく、時折、両手に息を吹きかけて暖めながらの作業だった。
遠くで鳥が鳴いている。
猫の声もする。
猫が泣きながら近づいてくる。
彼女は周りを見渡したけれど、猫の姿はない。
おかしいな・・そう思いながら、また洗濯を続ける。
また、猫の声がする。
それも声がどんどん大きくなる。
はて?立ち上がった彼女の目に入ったのは大きな桶が流れてくる様子だった。
猫の声がその桶から聞こえる。
彼女は、気になって、川の中に入り込んだ。
水の冷たい感触が、彼女の感覚を研ぎ澄ませる。
「もしかして・・」
猫の声だと思ったのが、実は人間の赤子の声ではないかと、気がついた。
彼女は流れてくる桶を、とにかく止めてみようと走り出した。
川の中に、腰までつかり、彼女は桶に向かっていった。
桶は意外に早く流れているようだった。
彼女は桶に向かっていく・・今は、赤子の泣き声だとはっきりわかる。
もう少しで取り損ないそうになりながらも、彼女はようやく、桶をつかまえることが出来た。
桶の中を覗いてみると、水に濡れた衣服の中から、大声で泣き続ける大きな赤子が顔を出していた。
彼女は桶をつかんで岸まで運び、ようやく、岸辺に上げた。
赤子が被っている衣服は大人の衣服だった。
その衣服の上に、桃の花びらが乗せられている。
「おお!よしよし!お前は何処からきたんだい・・」
彼女は赤子を抱き上げ、あやし始めた。
赤子はようやく、鳴き声を小さくし、それでも、うつろな目に涙を流して、周りを見ようとしているようだった。

彼女は、片手に自分の洗濯物や野菜の入った篭を担ぎ上げ、片手には赤子を抱いて、村へ向かった。
きっと、お腹が空いているのだね・・誰かにお乳を貰わなきゃね・・そう思いながら、今、村に赤子の居る女の内で、どの女に頼んでみようかと思案をめぐらせた。

彼女の家から村の中心へ少し歩いたところに四人の子持ちの女が居た。
その女の末の子は、まだ一つになっていないから、彼女はそこに頼んでみることにした。
「ちょっと!頼みがあるんだよ!ヒカメさん」
「なんだよ・・ああ・・サノメのおばさんか・・」
「そうだよ・・あんたのおっぱいを貸して欲しいんだ」
「おっぱい?おっぱいは貸せないよ・・あたしの身体についてるもの・・」
「そうじゃなくてよ・・赤ん坊におっぱいを飲ませてやりたいんだよ」
「赤ん坊?なんで?サノメのおばさん・・赤子など居なかっただろう・・」
「流れてきたんだよ・・川の上から・・頼むよ・・この子が飢え死にしちゃうよ」
「良く分からないが・・飢え死にされちゃいやだから、乳くらい飲ませてあげるよ・・ちょうど、おっぱいが張ってんのに、うちの子が飲んでくれなくて困ってたんだ・・」
ヒカメと呼ばれた女は、家の中に、サノメと呼ばれた女を招き入れた。
もう、衣服をはだけさせ、乳房を出していた。
「はいよ・・この子ね・・はい!ヒカメさんのおっぱいをたくさん飲んでくださいよ・・」
ヒカメは笑いながら、赤子を自分の胸に近づけた。
赤子は乳房の感触を感じたのか、乳首にむしゃぶりついて、乳を飲み始めた。
「わあ!すごい飲み方、この子、余程、腹が減ってたんだ・・」
ヒカメは目を丸くして、無心に自分の乳を飲んでいる赤子を見ていた。
「おお!良かったねえ・・おっぱいが貰えて・・」
サノメは、その様子を見ていたが、涙が出てきた。
ヒカメの子供達がからかう。
「サノメのおばさん、泣いているよ・・」
「いいんだよ・・この赤ちゃんが、どれだけお腹をすかせていたかと思うとね・・何があったんだろうって、考えただけで涙が出ちゃったんだ」
「ホントだよ・・この子の身体、すごく冷たいしねえ・・親はどうしたんだろうね・・」
ヒカメも目に涙をためていた。

その時、家の外で男達が騒ぐ声が聞こえた。
「ニイミの村がイズモにやられたそうだ!男で、手の空いているもの!すぐにムラオサのところへ行け!」
「ニイミがか!ニイミと言えばイセリがいただろう・・歴戦の勇士だ!あ奴はどうなったのだ!」
「判らん、全滅らしいぞ!」
「仕返しだ!」
「おう!イズモを皆殺しだ!」
騒ぎが大きくなっていく中、ヒカメの夫のカワヒコが家に入ってきた。
「おい!俺も戦に行くぞ!」
カワヒコはそう叫んですぐに用意を始めた。
「あんた・・いくのかい?」
「ああ・・行くしかないだろ・・」
そう言いながら、ふとヒカメの腕に抱かれている赤子と、脇にいるサノメを見た。
「あれ・・サノメのおばさん、どうしたの?・・この子は誰の子?」
「カワヒコさん、流されてきたんだよ・・桶に乗せられて、川の上のほうから・・」
「ほお・・」
そう言ってカワヒコは赤子を覗き込んだ。
「いい面だな・・こいつは強そうな男の子だ・・サノメのおばさんが拾ったのかい?」
「そうだよ、わたしが洗濯をしていたんだ・・すると流れてきたのさ・・」
「ふうん・・じゃあ、もしかしたら、イズモに襲われた村の人が、赤子だけを逃がしたのかもしれないなあ・・」
その時、家の外で大声が聞こえた。
「カワヒコ!行くぞ!」
「おう!今出るところだ!」
カワヒコは、そう答え、家を出て行く。
「あんた・・」
ヒカメが心配そうに言う。
「なんだ?」
「死なないでね!」
「おう!」
そう叫んで、カワヒコはすぐに、また家の中を覗きこみ、サノメに言った。
「おばさん、その子、大事にしてやりなよ・・なんだか凄いお人の子かもしれない、そんな気がしてきた」
そして、彼はもう一度、家の中を見回し、彼の子供達に声をかけた。
「お父さんが留守の間、仲良くするんだぞ」
はいっと、一番年長の男の子が叫ぶのを聞いて、彼は嬉しそうに、家を出て行った。
ヒカメと子供達、サノメも、彼の後姿を、家の外に出て見送っていた。

まもなく、キビの国の軍隊がこの村にやってきた。
村の者達が見たこともないような大勢の兵士達は、村の外で村から出て行く男達をその中に入れて、山の方向へと進んでいった。
男達の去った土煙のあとを、村の者達は総出で見送っていた。

夕方に、山へ獲物を追いに行っていたサノメの夫、ソラオトが帰ってきた。
「イズモが、ニイミの村を襲って、村は全滅したそうです・・」
「おお・・聞いたぞ・・山小屋に村の者が知らせに来てくれた」
「あなたは、戦に出なくても良いのですか?」
「うん、わしも、戦に出るつもりでいたがな・・このたびは村に残って、ムラオサを助けてくれといわれての・・」
座りかけて、ソラオトは寝かされている赤ん坊に気がついた。
「この赤子はどうした?」
「川で洗濯をしていたら、上のほうから桶に乗って流されてきたんですよ」
「ほう・・」
「身体」は冷えていたし、お腹も減っていたようだったのでヒカメさんにおっぱいを貰ったのですよ・・」
「ほお・・」
「この子が身に付けていたのがこれです」
サノメは、傍らにあった着物を指差した。
ソラオトは、その着物を手に取った。
桃の花びらが彼の手から落ちた。
「桃か・・」
彼は、花びらを拾って脇に置きながら、着物を調べている。
すでに外はうす暗く、家の中はさらに暗い。
土間の小さな炎だけが全ての明かりだった。
「これは・・役人の着物だ・・」
「お役人のですか?」
「そうだ・・こちらの女物の着物も、上等のものだ・・」
ソラオトは着物を眺めながら、考え事をしているようだった。
「この子は・・川上から流れてきたんだな・・」
「そうですが・・それがなにか・・」
「もしかして・・」
「そういえばカワヒコさんが、イズモに襲われた村の人が赤子だけを逃がしたのではって、言っていましたが・・」
「うん、きっとそうだ・・そうするとこの子は・・」
「この子は?」
「わしが、この間、ニイミの村に行ったときに、村の防人のイセリが赤ん坊が出来たと言ってなあ・・嬉しいからと色々ご馳走を出してくれたのだ・・・その子・・・そうだ、イセリは五つの斧という意味だそうだから、子供の名は五十の斧と言う意味にしたと言っていた。そうすると、この子はイセリの子、イサセリかも知れぬ」
「イサセリ・・でも、本当にこの子が、そのイサセリかどうか判らないじゃありませんか・・」
「そうだなあ・・証拠がないからな・・とりあえずこの子には別の名をつけよう・・神様がわしらに下さった子供として、育てよう・・」
「あらあら、私達で育てるのですね・・じゃ、大変ですよ」
「何が大変なのだ」
「おっぱいですよ・・」
「ヒカメに貰えばいいだろう・・」
「おっぱいがそんなに出るかしら・・」
「いつだったか、乳が張って仕方がないとか言ってたぞ・・あいつは、大きな胸をしているから、人一倍出るのだろう・・」
「でもねえ・・赤子って、夜中にお乳を欲しがったりするでしょう・・そんなときに、ヒカメささんの所まで行くのが大変ですし、あちらさんも夜中に起こされては迷惑でしょうし・・」
「それなら、わし達の家をヒカメの家の隣に移せばいい・・」
ソラオトはそう言って笑った。
自分で赤子のために家を移すと言う、そんな気持ちになったのが可笑しかったのだ。
「それと、あなた、この子の名前・・」
「おう・・そうだった・・」
ソラオトは、赤子が入れられていたと言う桶を見ていた。
すっかり暗くなり、土間の炎だけが明かりらしきものと言えるこの家の中で、桶に小さな白っぽいものがあるのを見つけた。
「桃の花びらか・・」
「そうなんですよ・・どういう訳か、桃の花びらが何枚も一緒に乗っていましたよ」
「わかった!」
「なにがですか?」
「名前だ!」
「あ・・はい・・」
「モモヒコでどうだ!」
「お花の名前ですか?男の子なのに・・」
「構わぬ・・それとも、もっといかつい名前にするか・・」
「いえいえ、モモヒコで結構ですよ」
二人は、暗くてあまり良く見えないお互いの顔を、それでも眺めながら笑っていた。

数日後、ソラオトとサノメ夫婦は拾った赤ん坊を連れて、ヒカメの家の隣に家を移した。
二人には子供ができす、それがずっと二人の心の中にわだかまりを作っていたから、突然の赤子は二人にとって願ってもないものだった。
竪穴式の家を解体し、その材料でまた同じような家を建て、僅かの生活道具を入れ、ようやく形が整った時、村に戦場から知らせが届いた。
イズモとの戦は大変な苦戦となり、たくさんの兵士が死んだ。
その死んだ兵士の中に、ヒカメの夫、カワヒコの名前もあった。
ヒカメは嘆き悲しんだ。
元々は美男美女の、とても仲の良い、人がうらやむような夫婦だった。
その夫が突然、戦で帰らぬ人となった。
ヒカメが嘆き悲しんでも、一番上の子がまだ四つ、一番下の子は生まれてどれほども経っておらず、子供達は無邪気に空腹を訴えた。
既に乳離れしている子供には、サノメが食べるものを作ってやったが、赤子二人、ヒカメの子供と、サノメが拾った子供・・モモヒコはそうは行かなかった。
嘆き悲しむ女の乳を無心に吸う二人の赤子の姿は、村人の涙を誘った。
ヒカメは、両方の乳を二人の赤子に飲ませながら、泣きじゃくっていた。

ヒカメの子供達は、一番上から三人目までが男の子、上の子がイヌノヒ、次の子がサルタヒ、三番目の子がキジノトと言った。
一番下、モモヒコと同じ年の子は女の子で、ユキメと言う。
モモヒコを含めて五人の子供達は、すくすくと大きくなっていった。
ヒカメの長男であるイヌノヒは、大きな体でありながら、おっとりした性格で、泣き虫だった。
次男のサルタヒはこずるく動き回るが、どちらかと言うと先頭立って走り回るような子ではなかった。
三男のキジノトは賢く、智恵が回り、勇気も人一倍あったが、体力がそれほど強くはなかった。
一番下の娘、ユキメは女の子らしい優しく、穏やかな性格だった。
ヒカメの子供達と、本物の兄弟のように育っていったモモヒコは、体が大きく、力もあり、智恵も人一倍回り、一番年下ながら、五つ頃からは子供達の中心的な存在になっていった。
「なるほど、この子はイセリの子に違いない・・体の大きさはどうだ・・智恵の良く回るさまはどうだ・・これなら、どんな若者になるか、本当に楽しみだ」
ソラオトは繰り返し、そんなことを言った。

さらに十数年後、タカハシの村にヤマトからの触れが届いた。
木簡を持った役人は、村の広場に村人を集め、こう叫んだ。
「間もなく、ヤマトはキビの国北部に兵を出し、イズモの連中に奪い取られたままになっているニイミの村を奪い返し、さらに進撃して、イズモを殲滅する。われと思わんもの、この戦に参加するように!」
十数年でヤマトはイズモを凌駕し、クマソやユラにも負けない軍隊を創り上げた。
今のヤマトはイズモ、クマソ、ユラに怯えていたころとは陣容が変わっていた。
その大きな力を持って、ヤマトは北部の山岳地帯をイズモに、南部の半島をユラとクマソに押さえられているキビの国の統一に乗り出したのだ。
モモヒコは戦に参加したいと願っていた。
彼の若く、はちきれんばかりな肉体は、暴れ回る場所を本能的に探していたのだ。
戦に出たいと言うモモヒコに、サノメは諭すように言った。
「いいかい、モモヒコ、お前のような暴れることだけが取り得の若いもんが行ったところで、敵の餌食になるだけだよ・・もうしばらく、体を鍛えてからにしなよ・・」
それに対し、モモヒコはあくまでも我を張った。
「いえ!母上!わたしは、これまでに散々修練を重ねてきました。このたびの戦で、必ず手柄を立てることが出来ます。ですのでお許しください!」
止めても行くと言う決意は変わらないようだった。
ソラオトが頷いて、モモヒコの顔をじっと見つめた。
「血は争えない・・」
ソラオトは呟いた。
「なんですか?父上!」
モモヒコが苛立って訊ねる。
「血は争えないと言ったのだ・・」
「どう言うことですか?」
「もう良いだろう・・はっきり言っておく。お前はわしらの子ではない」
サノメは心配そうに二人を見ていた。
「どういうことですか?では、わたしは誰の子なのです?」
「恐らく・・ニイミの村の兵士のまとめ役だった、イセリの子だろう」
口をぽかんと開けて、モモヒコはソラオトの顔をみていた。
「お前は、母様が川で洗濯をしていたときに、川上から桶に乗って流されてきたのだ・・ニイミの村のイセリと言う防人が、イズモに攻められて殺される直前に、赤子だけを逃がしたのではないかと、わしは見ている」
ソラオトはモモヒコからの反応がないのに、かまわずに話を続ける。
「わしは、イセリとは会ったことがある。赤子が生まれたと言って、嬉しいからと大いにご馳走をしてくれたものだ。そのときのイセリの面影に、おまえはそっくりになってきた」
「では・・では・・わたしは、イセリの子、モモヒコでございますか?」
モモヒコはようやく口を開いた。
汗が噴出していた。
「モモヒコという名はわしがつけたのよ・・イセリの子という確証がもてなかったからな・・だが、今のお前を見れば、イセリを知っていた人なれば、誰でもお前がイセリの子、イサセリと聞いても疑わないだろう・・それほどに良く似ておるよ」
「わたしは・・イサセリという名ですか!イサセリ・・五十の斧・・」
「そうだ・・」
「では、わたしが自分達の子でないのに、父上と母上はわたしを育ててくださったのですか?」
「そうだ・・それに、ヒカメものう、自分の赤子とお前を一緒にして乳を飲ませてくれたのだ」
「そうだったのですか・・わたしは母上がお乳が出ないから、ヒカメおばさんに分けてもらっていたと思いました」
「お前が来た時には、わしらはもう五十歳になるまえじゃ・・それにサノメは子供を生んだことがない・・乳など、出るはずもないのだ」
モモヒコは感極まって、泣いているようだった。
構わずにソラオトは続ける。
「ヒカメの夫、カワヒコはの、お前が来た時に、イズモとの戦に出て、殺されてしまったのだよ・・」
モモヒコは、それを聞いて、やおら立ち上がった。
「父上、母上、イヌノヒたちの父上殿も、イズモにやられたのですね!わたしは、行きます!行って、イズモを追い出してきます!」
そう叫ぶや否や、モモヒコは表に駆け出していった。
「命だけは大事にするんだよ!」
サノメは後姿に向かって叫んでいた。

ヤマトの総力を結集した軍隊は、ニイミの村に入る前に調練をした。
ここで鉾や矢の使い方を習い、ヤマトからきた兵は軍馬に乗って、各地で集めた兵は徒歩で、満を持して攻め込むことになっていた。
明日はいよいよ攻め込むと言う前の夜、真っ暗な夜半過ぎ・・雨が降る中、静かに眠っていたヤマトの軍勢は、いきなり攻撃を受けた。
おびただしい矢が飛んできて、幕舎に突き刺さる。
日のついている矢もあって、陣営はいきなり火事の対処に追われた。
そこへ、本来は騎馬に慣れていない筈のイズモの兵が馬に乗って飛び込んできた。
大勢のヤマトの兵は、寝ぼけ眼で何が起こったかの判断も出来ず、うろたえ、逃げ惑った。
火は天を焦がし、逃げ惑う兵士は馬の脚に踏みにじられ、そばの川へ飛び込んで逃げようとするものもいた。
モモヒコは、騒ぎに目が覚めた瞬間、敵が攻めてきたことを理解した。
騒ぎが大きくなるほど、彼の感性は研ぎ澄まされるようだった。
イヌノヒは既に腰を浮かせていた。
「逃げよう!モモヒコ!殺される!」
「まだまだ・・今は味方が騒いで、混乱しているだけだ・・ここでしばらく待て・・そのうちに奴らがやってくるだろう」
モモヒコは動じなかった。
「でも、おれ、怖いよ・・ちょっと怖い」
サルタヒも浮き足だつ。
二人をキジノトが小屋と小屋の間に押し込んだ。
「だいじょうぶ・・奴らは勝ったと思って浮かれてくるから、ここで鼻柱を叩き折れるって・・」
キジノトはそう言いながら、モモヒコを見た。
モモヒコは頷いて少し笑った。
そう言われると、イヌノヒもサルタヒも、少し安心したようだった。
火矢が飛んできて、彼らの後ろの建物に刺さった。
「いいものが飛んできたなあ・・」
モモヒコはその火矢を抜き、燃え始めた小屋の柱を引き抜いた。
小屋は倒れ、さらに火の手が大きくなった。
柱を炎で炙り、モモヒコはそれを手にとった。
小屋の柱だから、人間の背丈よりも長い。イヌノヒもサルタヒも火のついた柱を手に持った。
彼らが隠れているその脇を、味方の兵士が逃げ惑う・・・
そのとき、馬の駆ける音が聞こえた。
「おれが叫んだら、一斉に行くぞ!」
モモヒコは油断なく、物音を聞き分けていた。
火矢が宙を飛ぶ。
「行くぞ!」
モモヒコが小屋の陰から火のついた柱をいきなり突き出した。
馬が驚いて飛び上がる。
乗っていた敵兵が転げ落ちる。
モモヒコ、イヌノヒ、サルタヒは火のついた柱を持って暴れ回った。
転げ落ちた敵兵も柱で叩き潰す。
さらにキジノトが鉾を持って走り回る。
戦局は一変した。
敵兵は浮ついて逃げ腰になった。
「おりゃあ!」
モモヒコが叫びながら敵兵に向けて柱を振り下ろす。
逃げていた味方の兵も、戦局の変化に戻り始めた。
「今だ!一気に行け!」
モモヒコが叫んだ。
イズモの兵たちの恐怖に引きつった顔が、炎に照らされて見えていた。

ヤマトの軍隊は勢いを駆って、攻め続けた。
先頭には常にモモヒコと、イヌノヒたちの兄弟がいた。
彼らは所構わず暴れ回り、相手の出鼻を挫き、そこへ大軍が突進すると言う戦法を取るようになった。
そして、軍隊はついにニイミの村に着いた。
けれども、そこに村はなく、ただ、川岸に桃の木だけが、いくらか並んでいた。
田畑も住居も、何もかもがなくなって、深い草に覆われていた。

山に隠れていたイズモの兵隊が捕まえられた。
人生の皺を顔に刻んだその男は、みなの前に引き出された時に、諦めたような表情をしていた。
「早くおれを殺せ!」
男は叫んでいた。
「そんなに死にたいか・・それではすぐにでも殺してやる」
ヤマトの隊長がそう叫ぶと、それを遮って飛んでくるものがあった。
「待ってくれ!」
モモヒコだった。
「モモヒコ!なんだ!」
隊長が苛立ちを隠さずに叫ぶ。
「お待ちください!わたしは、この、ニイミの村で防人をしていたイセリの子です。わたしは、父や母の、最後の姿が知りたいのです。イズモの方、ご存知でしたら教えてください!」
男は何も言わずに、モモヒコを見ていた。
「ご存知ではありませんか?あなたくらいのお年の方なら、何かをご存知かと思いました」
モモヒコは男に必死で訴えている。
隊長が口をはさんだ。
「お前が、イセリの子だというのは本当か?」
「本当です。父、イセリはわたしをイズモの難から逃れさせるために桶に入れて川へ流したと聞きました。わたしの本当の名はイサセリとのことです」
「ほう・・お前がイセリの子だというのは本当らしいな。わしもイセリの最後は気になっておった。あれほどの男が易々と死ぬとは思えぬからのう・・」
「是非、父、イセリの最後を・・そして母のヒトメの最後を知りとうございます!」
モモヒコの訴えに隊長も気を変えたようだった。
イズモの男に向かいなおした。
「そのほう、察するところ、イズモでも名のあるものと見た。もしも、今の若者の言っているイセリの最後を知るなら教えて欲しい。教えてくれたなら、この場で離してやるから、イズモの国へ帰れば良い」
男はしばらく考えていたようだったが、やがて開き直った様子で口を開き始めた。
「いずれ、何を言っても殺されることは判っている。だが、聞けばその若者の思いも切実なものがあるようだ。わしの知っていることなら言うことが出来る」
「何でもいい!教えてくれ!」
モモヒコが哀願するように叫ぶ。
男は地面に座り込んで、ゆっくりと喋った。
「イセリとは、この村のモノノフの隊長だな・・そいつは、わしたちが明け方に攻撃を仕掛けた時、部下の者どもが不意を突かれて逃げるのに巻き込まれ、村のものと一緒に、そこの桃の木の下でいたところを射殺されたのだ」
「本当か!」
モモヒコが叫ぶ。
「本当だ・・矢を射たのは、わしだからな・・」
モモヒコは激情を押さえかねるように、顔面を真っ赤にして、仁王立ちになっていた。
「母も、ヒトメもそこで殺されたのか!」
男はちょっと考えているようだった。
そして、ふと、桃の木のほうを眺めた。
「あの時、不思議に着物を脱いで裸になっていた女がいた。そいつは、その場では殺さなかった。わしも戦人以外はやたらと殺しはしない・・」
男は続ける。
「女と子供は殺さなかった。わしはその女に、何故、裸なのか聞いて見たのだ。すると衣服は子供にかけて、そのまま流してやったと言うではないか・・流れていく桶を見つけたのだが、流れが速く、追いつけなかった」
モモヒコはようやく激情を飲み込んだと見えて、男のそばにきて座った。
「それでは、その流れていった桶の中におれが居たのか・・」
「ああ・・・そうだ・・」
「それで、母は何処へ行った」
「しばらくは我らのとして使っておったが、ユラの連中との交換をしたときに、こちらは女ばかりいたので、男のと換えてもらった中に入っていたと思う」
「何でそこまでお前が知っているのだ」
「あの女は美しい女だった。それに戦で攻められているときに、裸で居たから印象が強かったのだ。本当は手元においておきたいような女だった」
「ユラは、母を何処へ連れて行ったのだ?」
「それは知らぬ・・だが、ユラは最近はセノオあたりのずっと南、半島の先に大きな村を築いている。居るとすればそのあたりではないか・・」
男は、これ以上は知らぬと答え、神妙に座りなおした。
「さあ!斬れ!わしは、その若者の心に感じて喋ったまでよ・・命は惜しくはない」
そう叫んだが、隊長は彼の縄を解いてやるように命じた。
「お前がモモヒコにかけた情けは、お前に返すしかない・・行け!さっさと消えろ!」
モモヒコは男の体をもってやり、そのまま山のほうへ誘った。
「感謝する!ここは隊長の気持ちを汲んで帰ってくれ!」
男は、モモヒコの顔をみて、ふっと笑った。
「あれがおまえの親父なら、おまえは親父よりはるかに立派な戦人だ」
そう言ったかと思うと、鹿か兎のように飛び跳ねて消えていった。

数ヶ月に及ぶ長い戦が終わり、村へ帰ることが出来ることになった日、隊長はモモヒコを呼んだ。
「お前のお陰で、一気に風向きが変わった。この度の戦の勝利は、お前が切り開いたようなものだ。これで、オオキミにもよい報告が出来る。礼を言うぞ」
隊長は頭を下げた。
モモヒコは驚いたが、どのような顔をして良いかわからず、ただ、神妙にしていた。
「お前に、頼みたいことがある」
隊長が、改まって言う。
「なんでございましょうか?」
モモヒコは怪訝な顔で問い返す。
「ユラの連中がキビの国の南、ウノに、村を築いていると言う・・お前にこれの討伐の責任者をしてもらいたいのだ・・」
「は!わたしが・・責任者でございますか!」
「そうだ・・わしは、まだ少しこの方面の仕事が残っておるし、それが済めば一度ミヤコに戻らねばならない・・お前なら、ユラを相手の戦をさせても、大丈夫だと思うのだ」
「ユラですか!」
「そうだ・・お前の母もそこに居るやも知れぬ・・あまり手荒いことは出来ぬかも知れぬが・・どうだ・・」
モモヒコにとっては願ってもないことだった。
キビの国からユラを追い出し、もしかしたら母を迎えることが出来るかもしれない・・
「ありがとうございます!」
モモヒコは礼を言った。
隊長は、そんな彼を黙って見つめていた。

それからしばらくして、タカハシの村から戦に出る仕度をして数十人の若者が出発していった。
目指すはユラの居座る半島の先端だ。
出発していったのは、モモヒコ、イヌノヒ、サルタヒ、キジノトの四人に率いられた、戦巧者の若者ばかりだ。
彼らは、とびきりめでたい時に食べる唐黍の団子を腹いっぱい食べて出陣していった。
ソラオト、サノメ、ヒカメと、ヒカメの娘ユキメは、その様子を村人たちの中から見ていた。
ユキメはモモヒコが戦から帰ると、一緒になる約束をしていた。


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