story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

神吉城(かんきじょう)

2004年07月25日 10時03分27秒 | 小説
織田信長の天下制覇が現実のものとなってきた。
越前、加賀を落とし、信州、甲州でもろくな戦をせずに勝利を収めた信長が次に目指すのは播州から西の方角だった。
この方面の司令官、羽柴秀吉は戦のうまさと人心の掌握に長けているという。
上月城を捨て、三木の別所を囲んでおいて、播州を席巻する秀吉の怖さは、一度や二度の敗軍はなんとも思わず、見事な機転でその場を切り抜けることにあるという。

天正6年、まもなく梅雨に入ろうとする初夏の頃、神吉民部少輔頼定は彼の城の北にある小高い山から印南野の田植えの様子を見ていた。
田植えとはいっても、肝心の農民たちの多くはずっと北、法華山のほうへ逃げてしまっていて、田植えをしているのは普段は小作農を使っている武家の者たちであった。
まもなく、織田軍の精兵がやってくる。なすべきことがないというわけではないが、さすがに彼も今度ばかりはと覚悟を決めざるをえない。
眼下の豊かな田園地帯はまさしく、彼のものであった。
先祖がこの地に城を築いて200年余り、彼が最後の当主になる公算が高まっていた。
羽柴秀吉を先頭に立てる織田軍を、一度は撃退し、彼らに上月城を捨てさせたのは冷静に考えれば、別所の力ではなく、毛利の後ろ盾があったからだ。その毛利もこの度は鳴りを潜めて出てこない。別所は毛利の後ろ盾はあるものと、固く信じているが世の人に「猿公」と呼ばれる羽柴の事だ。すでにあらゆる手をまわしてここを包囲してしまうだろう。
別所の三木城を取り囲む周りの城一つずつを徹底的に破却し、三木本城を裸にしてから、蛇の生殺しの如く責めあげるだろう。
それくらいのことは頼定にも分かる。
けれど、神吉には神吉の意地がある。死ぬは一定、同じ死ぬなら武士として散り際を潔くしたい・・彼の頭にはそれしかない。けれども、哀れなのはこの地の住民たちである。若い者は勇ましいことを言うが、勇ましさだけで勝てるなら神仏は要らない・・頼定にはそれでも、いざというときには若い者に負けぬよう最後の戦をしてみせる気力はあった。
「城主殿」白髪頭が山を登ってきた。彼の叔父、籐太夫だった。叔父もまた、感慨深げに田園地帯を見ていた。
「田植えも今年が見納めやのう、腹は決まり申しておろう・・」
頼定は叔父のほうは見ずに、こともなげに、こう言い放った。
「叔父上、裏切りをしていただきたい・・」
叔父は言葉が出ず、彼のほうを見ている。
「このままでは、我ら一族はおろか、印南野すべてが焼け失せてしまう。ここは叔父上には我らを裏切り、敵方に寝返り、ついでに志方の衆の命をも助けてくだされぬか」
頼定はまだ、叔父の顔を見ず、遠くを見たままで話していた。
叔父、藤太夫はその場でしゃがみこんで顔を覆ってしまった。
眼下に神吉城が見える。
平城ではあるが、河岸段丘を利用した広い城地、三層の天主が神吉の意地を現していた。
けれども、もはや堅固な城もおぼつかない。織田の大軍を如何程支えることができるというのだろうか。
蛇行する大河の水が午後の光を跳ね返して輝いていた。遠くに播磨灘の水が光っているのが見える。

天正6年6月25日、高御位山から狼煙が上がる。真っ青な夏空に上がったそれは滅亡の始まりを告げるものだ。神吉頼定は天主から狼煙を見上げて、腹をくくった。稲の穂が伸びている。
印南野を滅亡させてはならない。それには人柱がいるだろう。自分がそれになるのだ・・彼の頭の中は研ぎ澄まされていく。
火急の使いと称して埃まみれの武者が彼の前に現れたのはそれからまもなくだった。「梶原様よりお言付けにてございます。先に旅立つゆえ、そなたもあとから参れと・・」武者はそういって泣き崩れた。中津の砦の方角から大きな煙が上がっていた。親族が一人、部下を連れて先に旅立ってしまった。天主から見える加古川の流れが人の姿で埋まっていくようだ。
ふと、川とは反対側、竜山の手前でも炎が上がった。
人懐こい東国の武士、高谷が先に逝ったと見える。
高谷はかつて今川に居た。
今川義元の西上作戦に馬回りとして従軍し、桶狭間の戦いでは織田の精兵を何人も叩き潰した。
けれど、今川軍は織田に敗れ、彼は駿府に戻ることを良しとせず、流浪の旅に出たものであった。
今、高谷が織田軍に命を奪われるのも前世からの宿業という訳か・・
彼の美しい妻や6人の小さな子供はどうなるだろう・・今ごろは義父のいる志方城に身を寄せているであろうが、あそこも何時までも持つまい。頼みの綱は籐太夫だけだ。
頼定はほんのひと時に様々な思いが頭をよぎることに苦笑を覚えた。
成るようになる。戦は今宵か、明日か・・
「竜山の方向から、荒木村重様、佐久間信盛様、およそ五千の兵を引き連れ、こちらへ向かう様子でござります」
「中津砦を陥した織田信忠様、羽柴秀吉様、およそ一万五千、出河原にて野営の準備と見えます。」
物見の衆が報告をくれた。敵城を目の前にして大軍の野営、羽柴がやりそうなことだわ。そう思う。どうやら戦は明日になりそうだ。
セミの声がやかましい。風が通らぬ夕刻近く、兎に角蒸し暑い。
城内にある火器をすべて集めさせた。城に近づく時刻を少しでも遅らせるしかない。幸い、西の方からは荒木村重が先鋒でやってくる。西の丸には籐太夫がいた。
籐太夫と村重は旧知の仲だ。西の丸に少しの時間的余裕を与えれば、あとは何とかするだろう。頼定はそう考えていた。

蒸し暑い朝である。
東南から真っ黒になった人だかりが攻めてきた。城内から鉄砲の応酬である。人だかりは一度は停まった。そこをついて城内から若武者たちが長柄の槍で荒れ狂う。
敵兵は勢いに押し戻され、城の南、半里ほどのところで戦が始まった。
西の丸でも攻撃が始まる。けれど、こちらの攻撃はやや緩やかであった。
籐太夫が使者を荒木のもとに送っていたからだ。
織田信長は羽柴秀吉に上月からの撤退を認める代わりに、寝返った播州三木城と、それを取り巻く諸城の徹底的な破却を命じていた。信忠、秀吉、荒木村重、佐久間信盛からなる豪勢な大軍ではあったが、高々2千の兵が守る神吉城に手を焼いている。攻め手は加古川の川を後ろにする背水の陣を取らざるを得ず、梅雨明けの頃の川は水量も多く、渡河点は限られる。
しかし、南西、竜山方向からは平野であり、高谷の砦が落ちては、この方向の防衛能力はなくなっていた。
血気盛んな若い衆と言えど、ほとんど寝ずの戦ではそろそろ限界も見えてきていた。
七月、西の丸が静かになった。天主から見える西の丸のさして広くない城内に荒木村重とその郎党が入っていく。
「これで良いのだ。我らは気の済むまで戦を楽しみ、織田の者ども共々地獄に落ちるべし」頼定はひとり呟く。
出河原の陣地を捨てた敵は、遠く高砂の松あたりから迂回し、城の真南より攻め寄せてくる。
ところが井の口あたりの広い田圃に足をとめてしまった。
「殿、やつらは何を成す積りでござろう?」頼定の脇に控えた老武者、山脇が表情は変えずに聞いてくる。
「やつらは組み上げの井楼を用意するのやろう、平城は上から攻めるに限る」頼定の言葉に山脇も「そうでござるか、ならば精一杯火遊びが出来る。せいぜい冥土の土産に華やかにしたいものですな」そういって笑った。
翌日、三層の天主と等しいくらいの高さの井楼がいくつも立ち上がった。大きく揺れながら近づいてくる。老練な火矢衆がそれに狙いを定める。城内の大筒は二つ限りだ。あとは火縄と焙烙玉しかない。
井楼が停まった。その瞬間、城内の大筒が火を噴く。井楼の一つが木っ端微塵に崩壊する。城兵が喜ぶその隙に、別の井楼に備えられた大筒から砲弾が飛び込んできた。天主の根元に着弾、付近にいた城兵が吹っ飛ばされた。城内から焙烙玉を飛ばす。井楼の上から覆い被さるように爆風が広がる。敵兵の身体が千切れてぶら下がる。
大きくはない平城、その周囲を取り囲む二万の兵。しかも西の丸はすでに敵の手に渡っている。いかに城兵が奮戦しても高々命脈は知れている。城の塀はすでに打ち壊されていた。井楼は数を知らず、爆撃の嵐は止むことがない。
頼定は天主の最上階にいた。卯の花威しの鎧は傷まみれになり、家宝の菊一文字も刃こぼれがひどい。呼吸を整え、播州平野を眺める。この戦で印南野から争いは消える。

神吉城落城の刻限が迫っている。頼定は天主の望楼に立ち、鎧を脱ぎ捨てた。立ち腹を切るのだ。菊一文字の太刀の刃を握る。手が切れて血が吹き出る。そのとき、井楼の一つから発射された大筒の弾丸が天主に命中した。一瞬にして天主は崩壊した。
その頃、藤太夫は志方城へ急いでいた。なんとしても櫛橋を説得せねばならない。それが彼の主君が彼に与えた遺言なのだ。神吉城から時折爆音が聞こえる。
「今ごろ城主殿は・・」泣きたかった。本当は彼も共に死出の旅に出たかった。けれども彼にはそれは出来ない。

志方城は奇妙な静けさの中にあった。夏の日差しとセミの声以外には何もこの世界にないかのように、城兵たちはうつろな目でたむろしていた。いずれ死ぬのだ。声にならない声が聞こえる。
「別所に義理立ては要らぬであろう、ここは拙者と荒木村重殿、佐久間信盛殿を信じられた上、城兵どもも無事に家族のもとへと帰されるのがご分別ではござらぬか」
籐太夫の必死の説得に城主櫛橋の気持ちが動いたようである。
「籐太夫殿が織田方のご使者と言うわけか・・ここは、他の者の意見なども聞かねばなるまい。しばしお待ちいただきたい」
時間はない。神吉城は落ちた。大軍がここへ来るのにどれほどの時間があるというのか・・そういいたい気持ちを飲み込んで彼は「では、拙者、そのお返事を持って帰りたく存ずる。それまでの間しばし・さよう・・辻姫にでも会わせてくださらぬか」そういって櫛橋を睨み付けた。
辻姫は高谷の妻だ。桶狭間での敗戦後、今川家に戻ることを良しとせず流浪していた高谷は、ここ播州にきて神吉頼定に拾われ、砦の守備を任せられたのだった。
高谷の妻、辻姫は櫛橋の娘で、二人の婚儀を取り持ったのは他ならぬ籐太夫だった。この夫婦は子宝に恵まれ、十二歳を頭に男の子ばかり六人の子があった。
武者溜まりの奥に親子は身を寄せあい、それでも、訪ねて来たのが籐太夫だと分かると気を許したのか、気丈に見えた辻姫は泣き崩れた。
「姫、もう大丈夫やでのう。しばらく野に潜まねばならんやろうが、姫様の命を助けに参った」
「この子達はどうなります」
「大丈夫であろう・・そう神仏に祈って参ったのじゃで」
うすくらい、奇妙に静かな城内であった。時折、高揚した若武者の声が聞こえる。
志方城は織田方に開城することになった。櫛橋はじめ、城兵すべてが助命される。ところが血気にはやる若武者にはこれに反対のものも多くいた。
籐太夫が先頭に立ち、城門から外に出ると、荒木村重の手のものが待っていてくれた。城主櫛橋、その家族たちも続いて外に出る。
暑い。風がなく、空は青い。静かに開城が行なわれると誰もが確信していたそのとき、荒木の兵の顔に矢が突き刺さった。驚く人々をめがけ矢は容赦なく飛んでくる。荒木側もすぐに鉄砲、矢で応酬する。
志方城の櫓に数人の若武者が立っていた。大音声で叫ぶ。
「腰抜け城主殿はもはや我らの主君にあらず、我ら武士として潔く散りぬべし。我と思わんもの、我らを責めあげよ」
・・馬鹿が・・籐太夫は思った。櫛橋のほうを見た。
「武士としての意地で死にたいのであろう、惜しいがやむを得ぬ」櫛橋は吐き捨てるように言った。城に火矢が打ち込まれた。頑丈な城も炎を上げる。
数刻後、志方の平野を北へ向けて歩く一行があった。
白髪頭の籐太夫を先頭に、辻姫とその六人の子供たちだった。
「西の丸殿、父上の仇を討たねば成らぬで」
一番年長の、すっかり背の高くなった辻の息子がそう言う。もう元服させてもおかしくはなかった。
籐太夫は神吉城では西の丸に在していたため、西の丸殿と呼ばれることも多かった。この子は長一といい、東国武士、高谷と辻姫の間に出来た六人の内の長男だった。高谷の仇を討ちたいという。
「もう、敵だの仇だの言うことは止めなされ・・もし、長一殿がお父上の仇を討たれても、今度は討たれた相手の息子がまた仇やぞと言うて長一殿を追うであろう・・そんなことがずっと続くと、どうなりますかな?いつまで経っても戦はやまず、民百姓はずっと、難儀な思いをするやろうて」
稲の穂が伸びていた。神吉城周辺ではせっかく伸びた稲も大軍に踏みつけられたが志方では何とかそこまで行く前に戦が終わった。白鷺が緑の田圃に佇んでいる。
辻姫は何も言葉が出ず、ただ、粗末ななりで一行について行くだけだった。
彼女にはもう、戦はこりごりだった。
夫は優しい男だった。もうここにはいない。何故自分が戦国などという世に生まれきたのか、そのことだけを恨めしく思っていた。
数年後、辻姫は夫、高谷が立てこもっていた砦の跡近くに小さな祠を立て、自分もその場所に住み着いた。いまもこの場所を「辻」と人は言う。


コメント (7)
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泣いた誘拐犯

2004年07月20日 12時18分30秒 | 小説
第一幕・・大阪、島之内、東郷社会調査相談所
グランドホテルと言う名のホテルのすぐ横に3階建ての雑居ビルがあった。
休憩2時間激安と言う大きな違法立て看板が歩道にはみ出していた。
そのビルの二階に、東郷社会調査相談所がある。
じめじめとした梅雨の雨が降りしきる中、冷房の壊れた事務所は湿気が多く、暑苦しい。
先ほどからクッションのいかれたソファで、上品な紳士がここの所長と思しき男とひそやかな会話をしていた。
「要は、セトウチデンキの社長の娘を誘拐して、身代金を要求すればよろしいのでっか」
「し・・声が大きい!誰かに聞かれたら、どないするねん」
客らしい紳士は所長の男の話を遮った。
「誰も他におりまへんがな・・」
「いやあ、分からんぞ、窓の外で誰か聞いとるかも知れんしなぁ」
「そやけど・・身代金なんか要求するくらい、カネに困ってはりますのか?」
「カネやないわ・・セトウチデンキに兵庫急行電鉄の工事への参加を止めさせたらええのや・・」
「他にやり方がおまっしゃろ・・」
そのとき、すらりとした長い脚の事務員らしき女性がお茶を持ってきた。
客の紳士は驚いたような顔をして所長の男の顔を見つめた。
「誰や・・このオンナは・・わしらの話を聞いとったがな・・」
「わてらの優秀なスタッフの一人だすねん・・気にせんといておくれやっしゃ・・」
紳士はほっとしたような顔をして、改めてオンナのほうを見た。
惚れ惚れするようなええオンナや・・そう思った。
「他のやり方はもう、全部考えたわ・・どれもあいつらには効かへんのや・・」
「真っ当なやり方ではアカンのでっか・・」
「そや、わしとこのヨドガワデンキの力では、技術力も営業力も、コネもないさかいなあ」
所長はしばらく考えてから、
「そやけど、技術力がおまへんのやったら、無理はせん方がよろしいんとちゃいまっか?」
紳士はお茶を口に運んだ。
「あっつうーー!」いきなり飲み込んだからたまらない。立ち上がり、狭い事務所の中をうごめきまわってもがき苦しんだ。
「あほか・・せっかくのチャンスなんや、ヨドガワデンキがメジャーになれるか、っちゅう所やねんぞ」
ようやく落ち着いてから紳士はそう言った。喉がひりひりする。
少しはなれたデスクで美しい女が黙ってみていた。
・・ええオンナやな・・紳士はごくりと生唾を飲み込んだ。

第二幕・・神戸、舞子、ラーメン小連
ラーメン「小連」は昼をややすぎていた時刻でもあり、客はカウンター席に女が一人座っているだけだった。
「お待ちどう・・熱いですから気をつけてくださいね」
愛想のよい、ラーメン店に置くにはもったいないような、美人の女店主である。
客の女もラーメン屋では場違いなような、きちんとスーツをまとった、すらりとした美人だ。
女は目の前に置かれたラーメンのスープを口に運んだ。美味い!
「えええーうっそーー!」女は一気にラーメンを食ってしまった。
そのとき、店の扉を開けてスーツ姿にサングラスの男が入ってきた。女の横に腰掛ける。女は男に気がつかず、ラーメンの鉢をもって汁を飲み干している。
男があっけに取られてみていると、「何になさいますかぁ」と愛想の良いおかみさんが聞いてきた。
・・あ・・ああ・・じゃ・チャーシュー麺・・そう言うと、「はあい」明るく答えてくれる。
頭の上のメニューを見ると、チャーシュー麺はなく、肉らーめんと書いてあった。
ふう・・男の横にいた女が鉢を置き、ため息をつく。
男にサッと紙片を渡した。写真の裏に書いたメモだった。
「獲物は西北、1303号室、帰宅は4時」
表を向けようとすると、女の美しい手がそれを遮った。・・ここで見てはいけない・・男はそれを了解した。写真をポケットに忍ばせて、煙草をくわえ、火をつけた。一服吸って、灰皿に置く。
いよいよだ・・俺が一流の仕事師になれるときなのだ・・男の胸は高鳴り、汗が出てきた。手が震える。
灰皿に置いた煙草を手に取った。「あっつうううう!」煙草の先をくわえていた。
「熱いですからお気をつけてくださいね」おかみさんが目の前にラーメンを置いてくれた。恥ずかしい、誰かに見られていないか・・頭の中がぐるぐる回る。一気にラーメンを口に運んだ。
「熱!あつあつあつ!」男は猫舌なのを忘れていたのだ。

第三幕・神戸、舞子、サンデンマンション
セトウチデンキの社長、山田二郎の自宅はここだった。今をときめく大企業の社長宅にしては質素にすぎる感があるが、現場出身のサラリーマン社長としては止むを得ないかもしれない。
このマンションはオートロックで、外部の人間は一応、玄関でシャットアウトできる構造にはなっていた。
今、マンションの玄関ホールに、茶髪の高校生、智恵が入ってきた。
オートロックのキーを取り出し、扉を開けようとしたとき「お嬢さん・・」男の声がした。
え・・振り返ると、この暑いのに、きちんとスーツを着てサングラスをかけていた男が立っていた。
「山田智恵さんですね・・」
男は出来る限り、声色を変えて、威圧感を与えるようにした。
「あの・・」
少女は不思議そうに男を見る。
「智恵さんですね」男が念を押す。
クスリと少女が笑う・・「何が可笑しいのだ」
だって・・だって・・少女は大声を上げて笑い出してしまった。
「だから・・何が可笑しいのだ!」
男も大声を上げた。
「ねぎが顔にへばりついてるわよ・・あはははは・・」ようやく、そう言うと、少女はさらに面白そうに笑い転げる。
男は言葉が出なくなってしまった。この上は恐怖心を植え付けるしかない・・「来て貰おうか・・」
何とか格好を取り繕って、そういって、少女が怯えるであろうことを予想した。
「ははは・・どこへ行くの?」・・こいつは馬鹿なのか・・まあどうでもいい・・俺は連れ出すことが仕事なのだ。
「来い!」・・そういって凄んで見せた。
「いいわよ。どこ連れて行ってくれるの?」
そういって少女はまた笑い出した。「ねぎがまだ付いてる・・はははは」男の後ろを少女は笑いながらついてきた。
・・馬鹿な女だ。手間が省けるぜ・・男はそう思いなおして、頬に付いたねぎのかけらを取ろうとした。
「そこじゃないよ・・こっち!」少女は背を伸ばして男の頬からねぎを引っ剥がした。
「ラーメン食べてきたんでしょ・・ばればれーー・・おいしかった?」
マンションの前に止めた車に乗った。そのとき、少女の携帯電話が演歌を流した。
「あ・・パパだ・・」
・・ほう、父親か・・脅迫する手間も省けるじゃあないか・・運が良いのも実力のうちだ・・男がそう実感していたとき、とんでもない会話が聞こえてきた。
「はーーい!今日は駄目よ!今から別のパパとお付き合いなんだぁ」
・・別のパパって・・
「えーーレストラン・・どこ?・・でも今日はもういいわ!面倒くさいもの・・別のお仕事よ!」
・・この娘、何を言ってるのだ?・・
「おじさんはどこへ連れて行ってくれるの?」電話を切った少女は男の顔を見た。
・・え?頭がおかしいのじゃないのか、こいつ?・・男のクルマは走り出していた。
「おじさんも散歩の依頼でしょ・・あ・・勘違いしないでね・・あたしは、お散歩だけの女の子ですから・・ルールは守ってね・・」
・・なんだ・・こいつ?言ってることの意味が分からない・・
「今日はたまたまスケジュールがあいてたのよ・・ホントに運がいいんだから・・今度からは予約してね」
気がつくと、さっきから少女は男の前に指をかざして、勝手に行き先を決めていた。男は反射的にその方向へ、クルマを走らせていた。

第四幕・・大阪、島之内、東郷社会調査相談所
「暑いわね、社長、いい加減にクーラー修理してくれません?」
「おう、おかえり!首尾はどないや・・今度の仕事がうまいこといったら、クーラーの三つや四つ付けたるがな・・」
扇風機からくる生暖かい風を浴びながら、東郷はそう答えた。
「クーラーは一つでいいですわ・・それより私の給料、遅れている分を早く支払ってくださらないと」
入ってきた女は、ため息をつきながら、そうやり返し、「でも、今度の鉄砲玉は男前ですわね」と言って微笑んだ。
「おう、男前やろ・・洋子はんの好みのタイプやなぁ」
・・ふん・・洋子があごの先で返事をしてすぐ、東郷の携帯電話にメールが入った。
「獲物補足、あと頼む」
・・ほう・・東郷はさっそくの朗報に笑みを隠さない。
「なかなかやり手やなぁ・・さっそくかかるか・・」
東郷はメールの返信に「獲物確保しばらく頼む。こっちは交渉開始」そう打ち込んだ。
そのとき、洋子のデスクの電話が鳴った。
「社長・・お電話です。ヨドガワさんですわ」
・・おう!・・すぐに電話を変わって、東郷の口から漏れた言葉は「なんでっか!そないなアホなこと、おますかいな!」だった。
洋子は扇風機に向かって、ブラウスの襟元を広げ、白い肌を出して風を入れていた。

第五幕・・カラオケ「ガキカラ」113号室
「今日のパパ、何歌う?アタシから歌っていいかな?」
・・まだ、本部からの指令は来ない。さっき、しばらく確保せよとの指令があっただけだ。それまではこのカラオケハウスは人目を気にしなくても良い、格好の隠れ家だ・・
男は今日の俺はついていると思っていた。
・・獲物は目の前にいる。こいつを離さなければ、俺は大金を手に出来る・・
「ねえ、今日のパパ、早く何歌うか決めてよ・・あ、そうだ、いつまでも今日のパパじゃいけないわね・・なんてお名前?」
男は心の中を見破られないか気にしてしまった。言葉がとっさに出てこない。
「え・・おれか・・おれはヒロシだ」
「へェ・・ヒロシってんだ・・じゃあ・・ヒロシパパ・・早く決めてね・・」
せかされて、彼はいくつかの曲を分厚い本から探し出した。カラオケ用のリモコンは大丈夫だ・・何度か使ったことがある・・
何とか必死でリモコンを操作して、ナンバーを打ち込んだ。
その間、智恵は電話で食べ物、飲み物を注文している様子だった。
前奏が始まり、曲が流れる・・俺の才能を見せてやろう・・後はここにいるだけで計画は万全だ・・ヒロシはそう信じて、気持ちが楽になってきた。
歌い始める・・「ぁ・・これ知ってるよ!アニメソングじゃん・・」
智恵が手をたたいて喜んでいる・・歌を大声で歌っている時に部屋の扉が開いた。
店のスタッフがお盆に乗せきれないほどのものを持ってきた。ビール、ジュース、から揚げ、ポテト、ソーセージ・・
・・しまった・・こいつに見られてはいけない・・ヒロシはスタッフから顔をそむけるようにして、それでも歌っていた。
歌い終わると智恵が盛んに拍手をくれていた。
え・・ビール?・・俺はアルコールは・・飲めないのだ。
「ビールでいいよね・・パパはみんなビールだから・・」
呑まなければ格好が悪い。仕方がないので一気にジョッキのビールを飲んだ。
「う・う・うううううーー!」
さっきラーメンで火傷した喉が痛み出す。涙をこらえてジョッキを飲み干した。・・なんだ・・ビールくらい飲めるじゃないか・・
そう思ったとたん・・彼の周りが揺れて見えてきた。
智恵はジュースを飲み、から揚げをほおばり、ヒロシには分からない最近の曲を歌っている・・いや踊りだした。
「ヒロシパパ・・カッコいい?」
・・この娘、まじで可愛いなあ・・智恵の顔を改めてじっくり見る。
茶髪、夏の制服、ミニに直したスカート、高校生にしては大きな胸が躍るたびに揺れる・・ヒロシの頭も揺れる・・
「あれえ・・疲れてるの?やっぱ、大人って大変なんだね・・・」
智恵が博の顔を覗き込む。
「ヒロシパパって・・結構・・イケメンね」顔を寄せてきた・・やばい・・キスされるのでは・・ヒロシは、必死に振りほどこうとしたけれど、智恵は博の鼻と自分の鼻がくっつくくらい、近づいて、こういった。
「じゃあね・・癒し系を歌ってあげるわ・・」
そういって、ヒロシも知っている女性ボーカリストの名曲を歌い始めた。
切ない詩が、メロディが彼の心に入り込む。酔った頭で、悲しくなってきた。
「はーい・・ありがとう!」智恵が店のスタッフから何かを受け取っている。
ビアジョッキだ。満々とビールをたたえたビアジョッキだ・・それも大きい。
「もうなくなってたから、注文しといたわよ・・どんどんいってね・・」
やけくそのような気持ちになって、ヒロシはビールを飲み干す。
智恵が続いてバラードを歌う。切なくやるせない歌詞が胸に迫る。
それにしても智恵は可愛い。
「あ、時間よ・・2時間経ったわ・・」
そういって智恵が立ち上がる。
足元のおぼつかないヒロシではあったが、ようやく立ち上がる。
「ここまでの料金・・1万円ね!・・延長する?」
・・高いカラオケだなあ・・そう呟くと、「何言ってるのよ、お散歩料金よ!延長は1時間1万円よ!」
・・お散歩料金??なんだそれ・・わけが分からずにヒロシは財布から2万円を出した。
「へえ・・すごーーい・・じゃあね、サービスで2時間延長一万円でして上げる・・」智恵が何を言っているのかヒロシには意味が分からない。
「お店から出ようか」智恵はそういって、部屋の外に出た。店の料金もヒロシが支払ったのは言うまでもない。
智恵は後姿も可愛い・・

第六幕・・ヒロシのクルマ
よろけていないふりをするのが大変だ。
ヒロシは店の外に出て、智恵とクルマに乗り込んだ。
エンジンをかける・・夏の夕方もようやく暮れてきていた。・・目が回る・・大丈夫かな・・・・・・・・?
「どこへいく?」智恵が楽しそうに聞いてくる・・そうだ、俺は仕事中だったんだ。
ヒロシは携帯電話を取り出した。メールが入っている。
「中止!撤収せよ」
・・なんだこりゃ・・わけがわからない。
「ねえ・・どこ行く?」智恵が繰り返し聞いてくる。「どこでも・・」
そう答えた・・ヒロシの思考回路は完全に停止した。
「じゃ・・右に出て!」智恵のいうとおりにハンドルを切った・・ガリガリガリ・・嫌な音がした。
・え・・窓から外を見ると、車のフェンダーが駐車場のファンスに引っかかって外れていた。
・・あ・・俺のクルマ・・
通行人が見ている、恥ずかしい・・片方のフェンダーが外れたまま車を走らせる。まだ、時折、変な音がする。
「ダイジョウブ?・・なんかかっこ悪い・・」智恵が呟く。
・・かまわないフェンダーくらい・・修理すればいい・・心の中でそう答えるけれど言葉が出ない。
「じゃ、ドライブにしようか・・そこ曲がって・・」智恵の言うとおりに走ろうとするが、うまくハンドルが切れない、ブレーキも遅れてしまう。ヒロシは完全に酔ってしまっていたのだ。
ドン!また大きな音がした。
「クルマ・・大丈夫?」
さすがに智恵も心配になってきたらしい。
「車なんて・・・壊していくらだよ」ヒロシは言葉を投げ捨てる。
「ふーーーん」智恵には合点が行かぬようだ。
バシバシ!また大きな音とショックが伝わる。
「あ!ぶつかったよ!今のクルマと・・」ヒロシは無視して走る。
「ねえ・ヒロシパパ・・怖いよ!・・運転が怖いよ!」
智恵が叫んだ・・しばらく走ったところでクルマを停めた。停車すると車体が斜めになっている気がする。
降りようとするとヒロシの携帯電話が鳴る。
「何してる!早く撤収だ!仕事の意味がなくなったぞ!」
東郷の声がした。
酔った頭に一つだけ浮いていた言葉があった。
「あのう・・俺の報酬は・・」
「後で違約金を届けさせる・・それで勘弁してくれ!」

第七幕・・道端
・・少し酔いがさめてきた。車から降りて煙草を吸おうと思った。
外に出てふと・・ヒロシ自慢の四駆の車体が傾いている気がする。・・え?・・?
フェンダーがない!タイヤがパンクして、ホイールだけになっている。車体の裾に大きな凹みが入っている。
「酔払い運転したからぁーー?サイテーーー」そう言って、あきれた顔をしていた智恵の表情が、ふと変わった。
「ネ・・臭うよ・・ガソリン臭い・・」
・・え・・ヒロシは煙草をくわえて、火をつける。車体の下から液体が漏れ出している。
・・なんだろう・・まだ酔いが醒めきらない・・そう呟き、煙草をくわえて、車体の下を覗き込んだ・・
「あぶない!!」智恵が叫ぶ。・・え・・何が危ないって・・
いきなりクルマが火を噴いた。漏れていたガソリンに引火したのだ。
「熱い!熱い!助けてえ!」ヒロシの髪に火がついて、ヒロシはそこら中を走り回る。
「あつ!あつ!あついよーー!」
走り回るヒロシの腕を智恵がつかんだ。「こっちよ!」
智恵はヒロシを道の脇から下へ突き飛ばした。「わーーー」叫びながらヒロシは道の下のどぶ川に落ちた。
川は浅かったが、ヒロシの髪の火を消すには充分だった。
呆然と川の中でしりもちをつくヒロシ。
川から這い上がると、ヒロシの車が燃えている。人が大勢集まってきた。
智恵がヒロシの手を引いた。
「ちょっとやばいよ・・あたし・・ここから帰るね・・」そっとそう言って、すぐに一人で道の反対側へ道路を横断してしまった。
道を走る車が止まって、野次馬が集まってきた。
止まった車の中に路線バスがあって、智恵は手を上げてバスに乗ってしまった。サイレンが聞こえる。
・・やばい・・ヒロシは人だかりから離れてゆっくりと歩き始めた。
しばらく歩いて、現場の人だかりが遠くなってから、思い切り走った。
連絡をとらなくては・・そう思い、走りながら携帯電話をポケットから取り出すと、もう、濡れて使い物にならなくなっていた。

第八幕・・垂水駅
上着もサングラスも捨てた。何十分も走ったのではないだろうか。息が切れ、もう、これ以上走れないと思ったときに駅前らしき場所に着いた。垂水駅と書いてある。
びしょぬれのズボンのポケットに残っていた小銭で適当に切符を買って駅の中へ入った。垂水駅の便所でようやく鏡を見た。
今朝見たときとは別人のような自分の顔がある。髪はこげてパンク小僧みたいになっている。
水で髪を直し、顔を洗った。
ホームに出ると、夜なのに人が多い。なぜか浴衣を着たカップルがたくさんいる。
新聞の夕刊が落ちていた。何気なく拾って眺めたヒロシは心臓が止まりそうになった。
*ヨドガワデンキ倒産!・・積極経営の破綻*
・・俺は・・何をしていたんだ・・
呆然と立ち尽くすヒロシの前に下りの快速電車が止まった。
大勢の乗客が降りてくる。ヒロシは人にもまれた・・どこにいていいか分からない。
「やっと見つけたわ!何してるの!」
声に気がついてそちらを見ると、電車から降りてきた女がヒロシに向かって叫んでいた。
「連絡は取れないし、クルマは火事を起こして大騒ぎになってるし・・なにしてたの!」
仕事をくれた、あの女だ。
・・きちんと事情を説明しなければならない・・もしかしたら、俺、消されるかもしれない・・
女のほうへ行こうとした時、ドッカーーン!大きな音が響いた。あたりが一瞬、明るくなった。
「あつ・あつい・・あついよーーー!」さっきの恐怖を思い出して、ヒロシはホームを走り出した。
大きな花火が次から次へと打ち上げられている。
女もヒロシを追って走り出した。ホームの乗客たちは歓声を上げて花火を見上げていた。






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舞子ラブストーリー

2004年07月18日 11時59分10秒 | 小説
涼子は海を見ていた。
風が強く、すぐそこにあるかのように淡路の島影は広がり、海峡には白波が立っている。
ここは神戸市の西の端、明石との境界近い、舞子海岸の砂浜だった。
涼子36歳、優しい夫も中学になる娘もいた。
けれど、彼女は今、明らかに夫への愛情とは別の愛が、彼女の中に芽生えてきているのを覚えていた。
駄目だ・・自分には家庭があって、こんな事をしている場合ではない・・そう自らを律しては見るものの、すでに彼女自身の心はどうにもならないところまで来ていることを知っていた。
漁船が波に揺れている。
かもめだろうか、海鳥がその回りをめぐっている。
巨大なタンカーが西のほうからゆっくりと進んでくる。

もうじき、娘が学校のクラブ活動から帰宅する時間だ。
煩悩を飲み込むように、彼女は砂浜をあとにした。けれども、彼女の足は自宅のある北へ向かわずに、海岸沿いの国道を西に向かってしまっていた。
「涼子さん、あしたは海岸のショット・バーで小さなライブをするのです。ぜひお顔だけでも出していただけませんか」
昨夜、順平が、彼女の携帯に電話をかけてきていた。
彼はやっとの思いでこの電話をかけている・・そう付け加えた。
夫や娘に知られないように、小声で、そしてやけに丁寧な言葉で、彼女は応じてしまっていた。
「ええ・・もし時間が出来ましたら、少しだけお邪魔させていただきたく存じますわ。ですが、そのお時間が取れないのではないかと・・」

夕日に向かいながら、彼女は国道を歩いた。
順平とは坂の上のライブハウスで出会った。
涼子は結婚が早かったので、恋愛の経験は余りなかった。夫からはプロポーズこそされたものの、なんとなく応じて、結婚していた。燃えるような恋がしたかった。けれども結婚して家庭を造りたい思いのほうが強かったのだ。
国道を走る車、その向こうを走る電車の騒音が拡がっては消えていく。
夏の夕日はまだ沈まない。涼子は何も考えることが出来ない自分を不思議に思ってはいた。
順平と出会ったのは、友人の転居があって、その見送りのためのパーティの2次会だった。
涼子はそれまで音楽を聞くことはあっても、ライブなどに出かけたことはなかった。たまたまその日の出演者が順平だったのだ。
透き通るような、優しい声が、ゆったりとしたリズムの曲に悲しみをたっぷり含んだ詩を乗せてその店に広がった。
酔った頭に沁み込む順平の声が、青春を満足に送らなかった自分の思いを呼び出し、彼女は泣いた。
本当は、君を愛したかった・・
本当は、君以外の何もかも、僕には要らなかった・・
アコースティックギターの透き通るような音色が、彼女の心に火をつけた。涼子は少女のように泣きじゃくってしまった。
曲が終わると、順平が彼女に声をかけてくれた。
「こちらの方、僕が泣かせてしまいましたか・・申し訳ないです」
泣き顔を見られるのが恥ずかしく、心配する友人たちの声も耳に入らず、彼女はその店を飛び出してしまった。

一緒にいた友人が彼女の連絡先を順平に伝えていた。
その夜遅く、順平から携帯電話へのメールがあった。二人の密かで、静かな会話が始まった。
けれども直接会うことはなかった。
あれ以来、今日が始めて、彼と会うことのできる日だった。
海岸と、道路にはさまれた、小さなショットバーはすぐそこにあった。店の近くまで来ると、もう、順平の柔らかい声がかすかに聞こえてくる。
扉を開けると、もう、数人の仲間たちの中で順平が歌っていた。うすくらい店内で、彼女は後ろのほうの席に腰掛けた。
順平は歌いながら、彼女を見てにこりと微笑む・・涼子は引きつったような笑みを返してしまった自分を悲しく思った。
「今日は、新曲を披露させていただきます」
順平がそう切り出して、歌い始めた。
・・もっと早く、あなたに会うことは、出来なかったのですか・・
・・もっと、もっと早く、あなたを知りたくて・・

自分のことだろうか?まさか、そんなはずはない。これは創作した詩のはず・・・涼子は自分の心の動きを見られないように、リラックスした風を装い、適当に注文し、その実、中身が何かまるで知らない、運ばれてきたカクテルに口をつけた。
すぐにグラスは空になり、場が持たないので何度も同じものを、追加した。
酔いが回る。部屋の照明も、順平の姿も、空中の出来事であるかのように見えてしまう。
順平は新曲が店の客に受けて、何度も同じ曲を歌う。

「今日は来ていただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます」
歌い終わり、みなの拍手を受けた順平が涼子のすぐそばに来て、そう言った。
「お時間はよろしいのですか?昨日は、余り時間がないと、おっしゃっておられましたが」
そうですね、もう帰らなくては、彼女はそういって立ち上がろうとしたとき、足がふらついた。思わず、順平の肩に手をかけてしまった。
「お疲れですか、失礼しました・・大変なときにお呼び出ししてしまって・・」
そんなことないですわ・・私のほうこそ、今日はありがとうございました・・とてもすてきな歌声でしたわ・・
そう言ったつもりだったが、足がしっかりせずに、順平の肩から手が離せなかった。
「ごめんなさい、僕がご自宅までお送りします」
順平が慌てたように涼子の肩を抱えて、店の外に連れ出した。
・・少し酔ったかな・・涼子の頭に、自責の念が浮かんだが、外の風にあたると少し落ち着いた気がした。
順平は店の横に停めてある彼の軽四輪に涼子を案内した。
日が沈み、夜の海に船の明かりが浮かんでいる。
明石海峡大橋のライトアップされた夜景がやけに大きく感じる。
「ちょっと、酔ったみたいなの・・少しの間、風を浴びたいの」
涼子は自分でも驚くようなことを言ってしまったと思った。順平はクルマの窓をあけ、国道を西へ向かって出て行った。
「今日の、新曲といっていた、あの曲、とても素敵でしたわ。昔の恋の歌かな?」
海岸から、明石の町へ、クルマが走る。
「ありがとうございます・・あの曲のタイトルは・・僕、言わなかったですね」
「はい、さっきのお店では単に新曲だけとしか」
明石港のはずれで、順平のクルマは人気のない埠頭に入って停まった。
フェリーボートがゆっくりと出て行く。
小さな漁船が港へ入ってくる。
「りょうこへ・・」
順平がささやくように言う。
よく聞こえない・・なんていったの?
「涼子へ・・です・・曲のタイトルですよ」
思わず順平を見た。かすかな明かりに照らされて、順平は思いつめたような顔をしていた。
もうなにも考えることなど出来なくなっていた。二人は自然に唇を合わせていた。

携帯電話の呼び出し音。ふざけたような童謡のメロディが流れる。
順平が彼女を離した。
「お母さん・・何してるの?ご飯まだぁ?」
娘だった。帰らなければならない。
「もう少しで帰るわね・・ごめんね、少し用事が出来たの、もう少しだけ待ってくれるかな?」
そういって電話を切った。
「スミマセンでした・・送ります」
彼がそういって、ハンドルに手をかけようとしたとき、まだ・・まだ・・涼子はそういって彼にしがみついた。

順平は28歳だった。
彼はアマチュアミュージシャンとしての活動を優先するために、もう、長いこと、フリーター生活をしていた。
そんな彼だが、一度だけ、恋愛の経験があった。
けれども、それは彼にとっては辛く、悲しく、甘い思い出になってしまっていた。もう3年ほども、かつての恋人を忘れられないでいたのだ。彼女は順平にはきちんとした仕事について欲しいと願っていたが、それは順平にとって、出来ることではない。
今は、彼の歌は、すべては昔の恋人を思ったものばかりになっていた。
優しく、悲しい歌が多かったけれど、ある面、そればかりになってしまい、そこからの発展は難しく、仲間内からも飽きられ始めていたのだ。
そんな彼にとって、涼子との出会いは偶然とは思えなかった。
まるで神様が結び付けてくれたような気がしていた。
ただ、もし、神というものがあって、同じ出会わせてくれるなら、何故もっと早く出会わせてくれないのか・・その思いを新曲にしたのだった。
順平の音楽は少し変わり始めてきていた。
涼子への思いを歌にしてみると、暗さの中に明るさや、暖かさが出る曲が出来た。

順平の思いとしては、涼子に家庭があるのは分かっているつもりだった。
自分が彼女をそこから奪うことが出来ないのもわかっている。
それでも、先のことよりも、今、彼女に会いたかった。
涼子のつぶらな、大きな目と透き通った瞳は何にも変えがたい宝石に思えた。
こうして、すぐ近くで彼女を見ている自分が不思議だ。
何度か抱擁を繰り返し、順平はようやく、涼子の自宅のあるマンションへ向かった。
「今度、いつ会えますか?」
そう訊ねる順平に、毎日・・そういって涼子はうつむいた。

夫の義男はもう帰宅していた。
「遅いじゃないか・・もう、晩御飯は出来てるよ」
涼子が玄関のドアをあけると、明るい義男の声が聞こえた。
「お母さん、どこ行ってたの?」
娘の理沙が口を尖らせて言う。
「たまにはいいじゃないか・・お母さんにも友達もいるんだし」
義男はそういって、テレビニュースを見ていた。ランニングシャツになって、すっかり寛いでいる義男の前には、彼が作ったらしい焼きそばと、缶ビールが置かれている。
・・汚い・・義男の汗を見て、涼子は自分でも驚く感想が出てくるのを知った。
「お母さん・・いつもよりきれい・・」
理沙が涼子を見て言う。
「お母さんはいつでもきれいだよ・・何言ってるんだか」
義男の笑い声が続く・・汚い・・申し訳ないと思いながらも、涼子は疲れていることにして、自分の部屋に入ってしまった。
夫婦の寝室は別だった。

**今日はありがとう、また遊びましょう・・順平**
携帯電話に入ったメールがこよなく大切なものに思える。
私は順平に会うために生まれてきた・・私のすべてを早く見て欲しい・・
自分でも驚くような女の情念が湧いてきて、彼女はその夜、眠ることが出来なかった。

翌日、涼子がパート先のスーパーマーケットから出てくると、順平の軽四輪が止まっていた。
夕方と呼ぶにはまだ早い時間、順平は車を海岸沿いに走らせた。
夏の瀬戸内には夕凪と言う風の吹かない時間がある。うだるような暑さの中、エアコンのさほど効かない車の中も、二人には苦にならない。渋滞の道路も、二人には、ただ二人のための風景だ。
海岸沿いの喫茶店で海の見える席についた。
小さな声、親密な声、海面に夕日が反射し、二人の姿がシルエットになる。
何年も他人に見せたことのない笑顔と、何年も味わえなかったときめきと、時間が止まって欲しい・・そう願う涼子だったけれども、楽しい時間はすぐ過ぎてしまう・・それを実感してしまう。
「じゃあ、送りますよ」
順平が立ち上がったとき、ちょっと待って、彼女がそういって携帯電話を取り出した。
「あ・・理沙ちゃん、お母さん、今日ね、お友達で東京にいる美智子が帰ってきてるらしいの・・今からみんなでちょっと飲み会をするから・・ごめんね・・ご飯・・お父さんの分も作って、済ましていてくれる?11時までには帰るから」
店の外に出ると、順平の腕をつかんだ。
「11時までOKよ」
順平はなぜか少し難しい表情をしていたが、意を決したように、車に乗り込んだ。

涼子が自宅に帰ったのは11時を少しすぎた頃だった。
食卓で義男が理沙の勉強を見ていうるようだった。
「おかえり、晩飯は済んだのかい?」
「お母さん、遅いぞ!不良主婦だぞ!」
二人が声をあげて笑う。脂ぎった義男の額が汚く思える。
「ちょっと酔ったかも・・」
涼子はそういって、バルコニーに出た。
明石海峡大橋のライトアップが他のすべてを威圧するかのように横たわる。電車がその前を通り過ぎる。
体が熱い・・それも体の芯が熱い・・
しあわせ・・そう思った。
順平との短い情事が映画のようによみがえる。夜の風が心地よい。

順平は自分のアパートへ車を走らせていた。
おれは、何をしているんだ・・・・俺が彼女に何かを与えてやれるのか?
このドラマは、どこに行き着くのだ?
僅かな明かりの中で浮かぶ涼子の裸体を思い出しながら、彼は自分を責め続けていた。
いいじゃないか・・彼女も楽しんでいるのだ・・そう思おうとしても、罪の意識のほうが強くなっていく。
「けれど・・彼女はこういった・・あなたと会うために生まれてきたの・・それだけでいいじゃないか、お前が何も自分を苦しめることではないよ」
車の中で自分に向かってそう呟いてみる。
自分より八つも年上とは思えない、愛らしい彼女の表情が浮かぶ。会いたい・・今別れたばかりなのにもう、会いたい。
それと同時に、彼の中で大きくなっていくイメージがあった。
まだ見ぬ男、涼子の夫の姿だった。

舞子駅から、坂を登りつめて、突き当たったところにある大きなマンションの一室で、理沙は眠れない夜を過ごしていた。
母から東京の友達が来るからパーティをするという電話を聞いたその日、すぐあとで、自宅の電話帳に載っていた涼子の東京の友人、美智子の家に電話をかけてみた。
明らかにその家の主婦と思われる明るい声が電話に出たところで、電話を切った。
理沙の母、涼子は娘の目から見てもここ数日で大きく変わっていた。
ほとんど自宅にいないし、いてもぼんやりとしていることが多かった。
けれども化粧は明るく、毎日少しずつ、きれいになっていくように感じた。
父の義男は気がついていないかもしれないが、父母の会話を見て、母が父に素っ気無くなったようにも感じていた。
少し前、理沙が涼子にこんな事を聞いたことがあった。
「おかあさん、恋ってしたことある?」
それに対して母は苦笑しながらこう答えた。
「お母さんは、本当の恋って、経験してないかもしれないの・・もっと熱い恋愛がしたかったなあ」
「だって、お父さんとは恋愛結婚でしょう?」
「お父さんとはね・・お父さんの熱意に負けて結婚しちゃったんだ・・いい人だとは今でも思っているけれどね」
「じゃあ。お父さんを愛していないの?」
「今は愛してるわ・・長く一緒にいると、自然に愛の力が大きくなるの」
・・なんだか、最後で辻褄を合わせたみたいな会話だったな・・
理沙は今、そう思う。
・・こりゃ、計画実行しかないわ・・
理沙はそう決めて布団にもぐりこんだ。
潜り込んでしまえば、すぐに眠ってしまった。

数日後、いつものように涼子の勤めるスーパーマーケットの前に順平のクルマが止まっていた。
涼子は時間通りに出てきて、順平のクルマに乗ろうとしていた。
「涼子さん」突然、女性の声が彼女の背中で聞こえた。
慌てた彼女が振り返ると、そこには制服姿の理沙が立っていた。
涼子は立ちすくんでしまった。逃げようか、知らぬ顔をしようか、様々な思いが一瞬の間に湧きあがっては消える。
「出てきてもらえます?」
理沙はクルマの中の順平にも声をかけていた。
順平は素直に車から降りてきて立った。
「どういうこと・・涼子さん」自分の娘にそういわれても声も出ない。
クルマの音、近くを走る列車の音、夏の日差しの下、大橋の主塔が見えていた。
「お嬢さんですか、ごめんなさい、僕が悪いのです」
順平が頭を下げた。
何もない時間が流れる。
3人は立ち止まったままになってしまった。
「本気ですか?遊びですか?」
突然、理沙が順平に聞いた。
「本気です。遊びではありません」
あなたは?理沙は涼子の方を見た。うつむいたまま涼子はやっとこう言った。
「好きなの」
しばらく理沙は大橋の上の方を見ていた。まぶしい。
「わかりました。私が許可します。そのかわり、ただの遊びにしないでね・・」
理沙の顔は笑っている。けれども涼子には涙でよく見えない。

「ただし、条件があります・・お父さんを見捨てないで。・・それから、絶対にお父さんには、ばれないようにする事・・将来もお父さんと別れないと約束すること」
順平が理沙に向かって土下座をするような格好をした。
「ごめんなさい、僕が、身を引きます」
理沙は笑顔を崩さない。
「身を引かれたら困るの・・せっかく涼子さんが生まれて初めての恋愛をしてるのだもの」
涼子は恥ずかしかった・・そして娘の言葉に驚いた。
娘は子供なんかではない・・私よりずっと大人だと感じた。
・・ついでに私も連れて、夕日を見に行きませんか・・
娘がそういって笑うのを見ているだけで涼子は何もいえなかった。

明石海峡大橋のすぐ下の公園で、海に向かって階段に腰掛けている二人があった。
大きな夕日が播磨灘に沈む。
二人は肩を寄せ合い、ほとんど動くこともなく、ただ夕日を見ている。
その二人のやや後ろで、アイスクリームを舐めながら、やはり海と夕日を見ている少女があった。
きれいだな・・理沙は二人の背中へ向けてそう言った。
「何か言った?」
順平と肩を寄せ合っていた涼子が振り向いた。
「うううん・・夕日がきれいだよね・・」
理沙がそう言うと、・・ホントだね・・と涼子はまた順平の肩に寄りかかって夕日を見る。
理沙は少し二人から離れてポツリと言った。
「お母さんのアホ・・」
理沙の頬に涙の筋が流れていた。









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