おもしろき ー熊本、鹿児島、宮崎で過ごした日々🌟🌟🌟

おもしろきことのなき世をおもしろく!Carpe Diem. 人間万事塞翁が馬。人生いろいろあるから、おもしろい!

サンポー焼豚ラーメン

2022年05月24日 21時41分51秒 | 回想録

今日から中間テストが始まった。

夕方は募集のための塾訪問。

忙しい日々が続く。

それはそれとして、最近はやたらと腹が減る。

夜食にサンポー焼豚ラーメンを食べた。

いつぶりだろう。

どんな味か忘れていたが、口にした瞬間、いろんな思い出がよみがえった。

小学生の頃、よく食べていたのを思い出す。

その頃の部屋の様子や弟とのやりとりなど、いろんな情景がよみがえる。

すっかり忘れてしまっていたが、その当時、弟は電車のおもちゃにはまっていて、毎日のようにレールを繋いでおもちゃの電車を走らせていた。

僕はと言えば、宇宙戦艦ヤマトに出てくる宇宙船や戦艦のプラモデルが大好きで、数え切れないほどのプラモデルを作ったと思う。

趣味はどんどん発達し、お城やたこ焼き屋さん、牧場などのプラモデルまで作った記憶がある。

思い起こせば、本当に楽しい小学生時代だったと思う。

それから40年。

ずいぶんと成長した気もするが、いつまでも子供のままのような気もする。

いずれにせよ、サンポー焼豚ラーメンのおかげで昔を思い出すことができた。

消えることなく、続いている商品に感謝。

よきものは変わらないで欲しい。



今日の晩御飯















夢の都 塩見

2020年09月05日 23時02分45秒 | 回想録

昨夜は、10時過ぎに寝落ちし、雨音でちょっと起きてしまうことがあったが、朝まで基本爆睡だった。

今日の叔父の葬式が終わった後もまた眠り、眠りの周期が訪れたようだ。

それはそれとして、今日は僕が小学校の時のことを語りたい。

今僕は48歳。

僕が小学校の時は無論、昭和である。

小学5年まで日向市の塩見というところに住んでいて、周りには自然しかなかった。

当時、天体に興味を持っていて、たまたま眼鏡屋で見つけた天体望遠鏡を欲しいと両親にねだると買ってくれた。

10万を超える品だったので、その時の店でのやりとりを鮮明に覚えている。

父は公務員で、浄水場の管理をしていた。

僕たち家族は浄水場のなかの小さな家で四人暮らしだった。

猫を数匹飼っていて、池には鯉や亀もいた。

住んでいる家は小さかったものの、市有地である浄水場が自分たちの庭だった。

夏の夜は、カブトムシ、クワガタを採り放題だった。

話を戻すが、天体望遠鏡を買ってもらったのはそんな時だった。

恒星はただただ光っているだけなので、面白くなかったが、惑星は綺麗に見えた。

それでも月を見るのが一番好きだった。

クレーターがくっきり見えて、飽きることがなかった。

現在住んでいる家を建てたため、小学生にとっての夢の都、塩見から引っ越しすることになった。

どういう心境だったか思い出せないが、自分の性格から考えると、前向きだったと思う。

幼稚園から6年間住んでいた塩見という地は僕にとっては夢の都で、色褪せることはない。

最近たまにその地を通ると、こんなに小さかったのかと驚かされる。

背も心も伸びて、すっかり目線も変わってしまったのだろう。

叔父の旅立ちで、昔のことが何かしら懐かしいと感じる僕だった。



その頃の写真(左が僕で、右が弟)














僕の音楽史

2019年04月25日 22時23分21秒 | 回想録
今日は尾崎豊の命日。
尾崎豊が亡くなったのは僕が大学生の時で、毎日のように特集があり、感化されたのを覚えている。
たまには僕の音楽史でも書こうと思う。
小学校の頃から楽器はまるでダメだったけれど、歌うことは好きだった。
親の影響で、小学生までは演歌ばかり聞いていた。
無論、歌詞の意味もわからなかった。
中学校になると、人並みに、松田聖子、中森明菜、菊池桃子などのカセットテープを聞き始めた。
最初にはまったのは中島みゆきで、次にユーミンだった。
初めて、自分でレコードを買ったのは渡辺美里だった。
全て友達の影響だったので、そこまで熱心なファンでもなかった。
高校生になり、長渕剛にどっぷりはまり、全てのアルバムを集め、熱烈なファンになった。
一時期、永井真理子にもはまったが、すぐに熱は冷めた。
高校を卒業しても、長渕剛のファンであり続けたが、佐野元春や尾崎豊にもどっぷりとはまっていたと思う。
だいたいその3人の波が交互にやってきて、他のアーティストに短期間はまるという流れである。
それはそれとして、今日は平成最後の木曜日。
あと少しで平成も終わる。
中1の担任も楽しさが増してきているこの頃である。
さて、明日は歓迎遠足、明後日から10連休。
今、この時間がこの上なく幸せである。
最善を期待しよう。




ALL TIME BEST
尾崎 豊
Sony Music Records Inc.

カカポ

2019年02月27日 21時54分56秒 | 回想録
ねずみに支配された島
クリエーター情報なし
文藝春秋

   連勤10日目。 今日は5コマだった。 ホームページや掲示、ミーティングもあり、なかなか忙しい1日になった。 睡眠不足に加え、天気も悪く、なかなか疲れがたまってきているが、気分はいい。 なかなか書くことが見つからないが、今日1日で思い出すのは高2の英語の授業2時間。 センター対策の長文の解説で、ニュージーランドの夜行性の飛べないオウム「カカポ」のお話だった。 ヨーロッパからやってきた人々とそのペットのせいで、絶滅の危機に瀕している。 生徒もよく発言してくれ、楽しい時間だった。

   話が変わるが、数年前から無人になっている隣の家が今まさに崩されようとしている。 新しい家が建つようだ。 小学6年生の頃、隣には小学2年生のお友達が住んでいた。 その庭で、ビー玉を使って「天国と地獄」をしたり、家に上がって、一緒にファミコンをしたものだ。 ジョンという名の紀州犬もいて、一緒に散歩に行ったのを思い出す。 その年下のお友達は近くに住んでいるものの30年以上交流がない。 理由はないが、そんなものなのかもしれない。 いろんな人達といつの間にか疎遠になってしまう。 自分を含め、今を生きることに精一杯なのだと思う。 いつの日か、関わってきたいろんな人達と昔話に花を咲かせたいものだ。 もう二階のベランダから隣の青い屋根を見ることはない。 いずれ形あるものはなくなってしまう。 毎日、周りにある全てのものをしっかり目に焼きつけておこう。 父親にもう二度と相談することもできないし、勇姿を見せ褒めてもらえることもない。 物だけでなく、人との別れも突然やってくる。 「カカポ」から話が膨らんでしまったが、悔いの残らぬよう、毎日を過ごしたいものだ。 明日は平成最後の冬の日。 どんな1日が待っているだろう。


6年前の僕

2016年11月27日 22時05分57秒 | 回想録


昨夜はテニスの疲れと薬湯の湯が効いたのか、夜中も目覚めず、ノンストップで10時間眠り続けた。

今日は雨の中、軽く一人でドライブした以外、家でゆっくりと過ごした。

映画をゲオに借りに行ったが、今日は見ない。

明日からゆっくりとみようと思う。

明日行けば、明後日から期末テスト。

そして12月になって、冬休み、お正月、センター試験、卒業式…

あっという間に学校生活の2年目が終わる。

焦っても仕方がないが、何か成し遂げねばと思う。

人生一回きり。二度と時は戻らない。

勝負しなければと思う。

そういえば、海外ドラマのDVDを探していたら、自分が塾で教えていた時の映像DVDが出てきた。

ほんの6年前か7年前の熊本時代の映像だと思う。本当に頑張っていた。

言葉に勢いがある。やりたいようにやっていたのがわかる。

生徒もよく笑っている。










もう一度仕切り直しだ。頑張ろう。

13年前の思い出!

2015年05月22日 19時49分58秒 | 回想録

昨日も爆睡!
日に日に調子が上がっていく。
授業も楽しかった!

そして今日も教頭と前の会社の延岡校へ!

知り合いはいないと思っていたら、びっくり。

あの大きな事務室に入ったのは13年ぶり。

昨日と同様いろんな思い出が甦ってきた。

延岡校には1年しかいなかったけれど、コツコツと頑張って、毎日、質問にきてくれる生徒がいた。

東大に行かなくちゃねとよく声をかけていた。

出迎えをしていると、満月が東の空から上がって来たのをその生徒と一緒にみたことを思い出す。

その後、その生徒は卒業し、その年の6月に僕は鹿児島の隼人に転勤になった。
唯一、職場に電話をくれた生徒だった。
何故黙って行ったのかと文句を言われ、嬉しかった。
その生徒ともそれを最後に音信が途絶えた。

そして…

とにかく1年1年に多くの思い出がある。

一生懸命頑張っていた時の思い出は生涯、褪せることはない。

これからも自分の道を信じ、たまに涙を流しながら、頑張り続けようと思う。

そして、やはり頑張るためには健康が一番!

そして、継続すること。

あきらめないこと。

一喜一憂しないこと。

自分を信じ、前進すること。
頑張ろう!!
頑張ろう!!

 

満月のパワーをまさに袋とじ「フルムーンプリントキャンバス2wayトートバッグ」
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十四年前の僕

2014年06月11日 11時06分01秒 | 回想録

昨日は雨のせいか、一昨日の熟睡のせいかわからないが、朝まで眠れなかった。眠れぬ時には無理に寝る必要はない。
そう思い、本を読んだり、勉強したり、十四年前の日記を読んだりしていた。
日記を読みながら、今の自分と比べてみる。
この一回りで、ずいぶん小さくまとまったなと残念に思ってしまう反面、若い頃の危うさから逃れてほっとする自分もいる。
とにかく時は戻らないのでどうしようもないが、不器用なりに一生懸命生きてきたと思う。
これからもいろいろ失敗しながらも前向きに生きていこうと思う。
もう一回りした時、どんな人間になっているか楽しみだ。

 

ミドリ 日記 3年連用 洋風
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満月の日の思い出

2013年09月20日 01時05分18秒 | 回想録

今日は十五夜で満月!!
鹿児島市内は桜島の灰が降っていて、結局空を見上げなかった。
来月の満月に期待しよう。
僕は昔から月を眺めるのが好きで、満月の日は露天風呂で月光浴をしたり、田舎道をよくドライブしたりしたものだ。
鬼束ちひろの月光を聴きながら田舎道を夜中に車を走らせると何とも不思議な気持ちになったのを思い出す。

満月の日はいつもより血の気が多くなり、事件も多いと本で読んだことがある。
僕は右脳人間で直感や科学で証明されていないものを信じることが多い。

データで物事を明確に判断する人には生涯、右脳人間のことや虫の知らせの感覚は分からないと思う。

いろんな人間がいるから面白い。人を型にはめようとするのはよくないと思う。それぞれの個性を活かしながら同じ方向を目指して、何かを成し遂げれば、それにこしたことはない。

話が戻るが、八年前、地元の日向市にいた頃、一橋大学出身の二つ上の先輩と働いていたことがある。
性格ができている反面、気の弱い先輩であったが、満月の日に鬼束ちひろの月光を何度もリピートしながら、日向から西都に向かう田舎道を一緒にドライブしたことを思い出す。
彼は体重があり、ヘビースモーカーで、ジャンクフードを好み、たまに心臓を抑えていた。
熊本で働き始めた時、心配になり、携帯に電話をしたけれど、携帯は解約されていた。
仕事を辞め、公認会計士を目指していたので、勉強のために携帯を解約したのだと信じたい。
今頃、公認会計士になっていて、どこかで今日の満月を眺め、あの時の田舎道でのドライブのことを思い出していると信じたい。

明日は会社のライセンステスト。
朝起きて、見直しをしようと思う。
今日は思い出に浸ろう。

月光
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蛇に睨まれた蛙

2013年06月18日 02時40分12秒 | 回想録

蛇に睨まれた蛙という言葉を皆知っていると思う。
ただほとんどの人がそういう場面に出くわしたことがないと思う。
つい最近、夢を見た時にそのことを思い出したので、ブログに書こうと思う。
どういう夢だったのか思いだせないが、目覚めた時、昨日のように、その場面がよみがえった。
大学一年の時、福岡の南区の花畑の個別の塾でアルバイトをしていた時のこと。休み時間に外で生徒とキャッチボールをしていると、生徒が暴投をして溝にボールが落ちた。
溝からボールを拾おうとした時、目の前に蛇が攻撃の姿勢でいた。
びっくりして、その生徒を呼んだ。
蛇は動かない。
蛇の目の先には蛙がいた。蛙も全く動けない。
正直、怖かった。
蛙の気持ちになると、震えてきた。
どうなるんだろうとドキドキしていた時、蛙が反対方向にとんだ!
その瞬間、後ろ向きの姿で蛇にくわえられた。

そのまま呑み込まれ万事休す!
衝撃の休み時間だった。
もうそういう経験をすることはないだろう!

ちなみに写真は昨日の錦江湾公園で畑中さんが撮ってくれたもの!

Schleich シュライヒ コブラ 14733
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シュライヒ

童心

2012年12月22日 02時52分42秒 | 回想録
小学何年生だったか、定かではないが、3、4年生だったと思う。
父方の祖母が亡くなった。亡くなる間際、みんなでおばあちゃんの手を握ったのを覚えている。
初めて通夜を経験し、なかなか眠れなかった記憶がある。
今は亡くなってしまった叔父のいびきがうるさく、1人で起きていた。
骨を拾いに行くのも初めてだった。
従兄弟達と霊柩車に乗り、焼き場に向かう途中、何とも言えない気持ちになったのを覚えている。
悲しい感覚はなく、涙は出なかった。
それからしばらくして、冬のある日、夕方4時くらいだと思う。
こたつの中でうとうとしながら、初めて人の死について考えた。
死んでしまったらどこに行くのだろう。
そんなことを考えると恐ろしくてたまらなくなった。それから毎日、夕方、こたつに入りうとうとすると、必ず死について考えるようになった。
何よりも母親が先に亡くなることがたまらなくつらく思えた。
二度と母親と話せなくなる。そんなことを考え、こたつの中で1人泣くことがあった。
母親に泣いているのを見つかり、腹が痛いと嘘をついた。
当時は自分1人だけが色々考え、悩んでいると思っていた。

今になってわかることだが、みんな二十四時間いろんなことを考えていて、悩んでいない人などいない。
いつもニコニコして何も考えていないような人でも、空気を読まず、人が嫌がる発言をする人でも、種類は違うにせよ、悩んでいる。
話が脱線したが、とにもかくも、悩み深い少年だったと思う。

その頃、宇宙についても考えるようになった。いつか地球の寿命が尽きることを知り、何もかもなくなることを考えると苦しくてたまらなくなった。

その悩みを決して人に話すことはなかった。
いつの頃からか、そんな悩みから解放され、現実的になっていった。
学校のことやらで忙しくなったからだと思う。
前にもブログに書いたことがあるが、その当時は予知能力があった。電話が鳴ると誰からかわかったし、従兄弟や叔母が来る前は予感がしていた。

小さい頃に比べ、大人になるにつれ直感力やインスピレーションから見放される。
世の中に出て、経験を重ね、最初から無理だという気持ちが先行し始める。

悲しいことだと思う。40才の今、なかなか現実的になり、あの頃の気持ちを忘れつつある。

うとうとしながら、本を読んでいると突然、昔のことが頭に浮かんだ。

いつもならそのまま眠り、朝になると記憶から消えてしまう。
今日は記憶に残すべく、うとうとから覚醒した。

童心に帰れという啓示かもしれない。

いろんなことを思い出しながら、将来について考えようと思う。

人生一回きり、宇宙の中の限りある地球に人間として、しかも豊かな日本に生まれたのは奇跡以外の何ものでもない。

何か大きなことをやらかしたいものだ。きっと出来ると思う。
でないと、もったいない。
さあ、本でも読みながら眠ろう。

Life goes on.

2012年08月25日 13時47分49秒 | 回想録
昨日、授業中に中3に言った。
「何時間もだらだら眠る人はよくない。」

今日は、久々の休みで、目覚ましをセットしていなかった。
目覚めると午後1時…。
目を疑った。
それでもまだ眠く、眠らないように、ブログを書き始めた。書き終わる頃には完全に目が覚めていることだろう。
よほど疲れていたのだろう。でも、十時間眠れるってまだ若い証拠?
とにかく、40才の夏が終わったわけで、今までの人生に感謝する意味も込め、だらだらと昔のことを書きたい。
僕は日向市の細島に生まれ、両親と小さな貸家に3歳まで住んでいた。
確かな記憶はないが、頭を打って流血し、大泣きしたことだけは覚えている。

その後、日向市日知屋に引っ越す。5歳までそこに住んでいた。
その頃の記憶は鮮明で、部屋の間取りまで完全に頭に入っている。
以前ブログにも書いたことがあるが、ぼっとん便所に仮面ライダーの人形を落としてしまったのもこの時だ。
他にも、父の空手をしている時の姿。白黒テレビ。おんぼろの車に両親が緑のペンキを塗っている姿。休みの日は、ほとんどの家に日の丸の旗が飾ってあったこと。親や親戚が隣の部屋で飲み会をしている姿が、襖の間から見え、そこに行こうと頑張ったが睡魔に負け、そのまま眠ってしまったこと。マジンガーZの形のシャンプー…。
いろいろと思い出す。
その後、年少の時、日向市の中でも最も田舎といえる塩見というところに小5まで住むことになった。
ここでの話は、愛猫のレオの話だけでも語りきれない。また、書きたい衝動がおそってきた時に、昔を振り返ろうと思う。

さあ、完全に目が覚め、腹がグゥーと言っている。シャワーを浴びて、飯でも食べに出かけよう。

生きていることに感謝!まだまだ楽しい人生は続く。Life goes on.

ピエロ

2012年02月18日 13時19分44秒 | 回想録
最近は睡眠時間が長い。
休みの日はいつまでも眠ってしまう。
夢を見て、覚えている時もあれば、忘れてしまう時もある。
覚えていない時のほうが、熟睡した感がある。
熊本に来て、ついに7年目を迎える。
すっかり熊本の人になってしまった。
熊本に来て間もないころはレオパレスの入居がすぐにできず、1週間、ホテル暮らしだった。
不安でいっぱいだった。何よりも、進路指導が不安だった。

あれから3校目。今年は転勤はないものの、転勤すればいろんな人に出会える。
悲しいけれど、よき思い出になる。

大学を卒業して、某会社に就職した。
福岡市内でデビューし、何がなんでも、この会社で一番になって、金持ちになることを夢見ていた。
小学生に社会を教えていた。
転勤が突然言い渡された日は、涙をこらえきれず、自転車で泣きながら帰った。
福岡の春日に転勤になり、社会と英語を教えることになった。
中3の3クラス、中2の2クラス、中1の1クラス、小6の1クラスの担任を任せられて、人間とは思えない生活を送った。
給料はとにかくよかった。湯水のように使っても、余っていた。

でも何かが違うと思っていた時、地元日向に今の会社が進出してきた。

給料は普通でも、人間らしい会社だった。
その後、延岡や鹿児島に転勤になり、いろんな人に出会えた。

その間、亡くなった人もいれば、辞めていった人もいる。

その間、昇格になった人もいれば、降格になった人もいる。

僕は人を地位で判断したくない。
お世話になった人には生涯、頭をさげる。

人間として残念な人には、どんなに地位が高かろが、頭をさげない。

そんな生き方を生涯、貫こうと思う。

この先、何が起こるかわからない。
必要とされなくなるまで、信念を貫き、ピエロでありたいと思う。

笑ってもらえる。これ以上の幸せはない。

青い思い出

2012年02月09日 02時01分23秒 | 回想録
今日は映画を見ずに、布団の中でブログを書いている。
まだ、何を書くか決めていない。
昨日から雪が降ったりして、外は寒い。
カーテンの向こうから冷気が押し寄せてくる。

暖房の音が異常に大きく聞こえる。

目を閉じてみた。
一番最初に思い浮かんだことを書こうと思う。

やはり生徒の顔が次々に浮かんでくる。

今の生徒もいれば過去の生徒もいる。

何故か笑顔しか思い浮かばない。
そんなものかもしれない。
20年前になるだろうか?

昔、大学一年の時、塾のアルバイトを始めた。

その時、中3の女の子がちょっとしたことでいじけてしまったことがある。

僕が悪かったのだが、謝っても謝っても、話をしてくれない。

勉強のことはしっかり聞くけれど、それ以外のことは全く無視だった。
3ヶ月、話をしなかったと思う。
正直、苦しかった。

ある日、アルバイトに出かける前、その女の子と話をする夢を見た。

自転車置き場の前で話をする夢で、嬉しくて仕方なかった。

目覚めると、夢だとわかってがっかりしてしまった記憶がある。

それでも気をとりなおし、自転車でアルバイトに向かった。

その日も、その女の子とは話をせず、彼女はサヨナラと言って、帰って行った。
30分後、終わりのミーティングが始まろうとした時、その生徒が、夢で見たように、一人で自転車置き場にいるような気がした。

塾長にちょっとだけミーティングを待ってもらい、階段をかけ降りて、自転車置き場へ向かった。

やはり、その女の子が一人で立っていた。

思いきって話かけると、夢で見たのと同じ笑顔で話してくれた。

とてつもない喜びがこみ上げたのを覚えている。

当時は予知能力に似た予感とも呼べる力が備わっていた。
よく夢と同じようになり、驚くことが多かった。

次の日からはその女の子と一番仲良くなった気がする。

それが恋と呼べるものか、わからないが、その女の子と話すだけで嬉しかった気がする。

高校の合格発表から一度も彼女を見かけたことがない。
それでも、若き頃の青い思い出として心に残っている。

一人一人にたくさんの思い出がある。
目を閉じればいろんな人に会える。
そして映画のように甦る。
本当にありがたい仕事だと思う。

煩雑な業務、理不尽なこと、思うようにいかないこと、いろいろある。

それでも、人と出会える。それだけで幸せなのかもしれない。

そんなことを考えている。

昔の友達

2011年12月17日 12時26分56秒 | 回想録
最近、よく昔の友達の夢を見る。

彼は頭もよく、運動神経抜群で、バスケ部のキャプテンだった。
大学も一流で、今何をしているのかわからない。

ルックスもよく、全て揃っていた気がする。

ただユーモアのセンスはなかったかもしれない。

そんな完璧に近い彼とも、小学生の頃は仲がよく、たまに遊んだりしていた。

中学になると、「類は友を呼ぶ」ではないけれど、グループが別れ、話すことはなくなる。

僕はプロレスが異常に好きだったので、いつも休み時間、教室で騒いでいた。

中学一年の最初のテストで彼は学年一番だった。
僕も三番で、大差はなく、自分で、もしかすると僕も天才?なんて勘違いをしたものだ。

彼は卒業するまで、ずっと一番あたりをうろうろする一方、僕は転げるように成績が落ちていき、しまいには高校まで落ちてしまった。
以前ブログに書いたように、高校を失敗したおかげでまた復活することができたが、彼の場合はどうだろうと思ってしまう。

絶えず努力をして、失敗を知らないエリート。凄い人物になっているのではと、ヤフーで名前を検索するも、ヒットしない。

もしかすると地道に幸せに暮らしているのかもしれない。

中学の時に光っていなかった人が、成功している例も多い。挫折も必要なのかもしれない。

昨日、夢の中で、彼と話をした時、嬉しくてしょうがなかった。
僕が塾で英語を教えているというと驚いていた。
彼は水泳のインストラクターをしているという。

目覚めた時、夢とは思えなかった。

いつか彼と話す日がくるかどうかわからない。

ほとんどの友達とは縁が切れる。
それでも友達は少なければ少ないほどよい。

いろんな人とつきあいながら、数少ない友達と夢を語る。
それでいいと思う。

夢に出てきた彼が幸せに暮らしていることを願う。

クリスマスツリー

2011年12月03日 04時11分55秒 | 回想録
12月になると、いつも思い出すことがある。
人に言うには恥ずかしく、情けない話だが、10年たった今、その時のことを紹介しようと思う。
同感してくれる人もいれば、情けないやつだと思う人もいるかもしれない。

10年前、中学3年の担任をしていたことがある。
当時150人くらいの中3生がいて、6コースに分かれていた。
毎日のようにクレームを言ってくる保護者がいたし、学校間でのトラブルも尽きず、毎日が運動会だった。

夏は朝から夜まで授業があり、11月から全員の保護者と面談をすることになっていた。
当然、毎日朝早くから面談があり、そのまま授業へ滑りこむという日が続いた。
休み時間は質問攻めで、授業の空き時間は一つもなかった。
授業から降りてくると、何枚も「折り返し電話お願いします」のメモ書きが机に張りつけてあり、本当に体がもう一つ欲しいと思ったものだ。

そんな状況だから、他の社員に厳しいこともあった。どうしても我慢できず、休憩室に社員の襟首を掴んで連れていき、椅子をけとばしながら叫ぶこともあった。

そんなこんなの12月、休みもなく、疲れがピークに達していた日曜のこと。

一睡もしておらず、一食も食べる時間がない中、夜の8時くらいに、進路相談に保護者が現れた。

もう限界に達していたけれど、教室に通して面談をした。
保護者の方は子供のことで悩み、涙を流していた。

やっとなだめて、教室から出てくると、残りのスタッフ全員で大笑いしながら、クリスマスツリーに飾りつけをしていた。
面談が終わったことにも気づかず、大声で話しをしていた。
その時の笑い声が悔しくて悔しくて…

僕はみんなに顔も合わせずに、「お疲れ様でした」と言って、建物をあとにした。
車に乗り込むと、止めどなく涙がこぼれた。嗚咽していたと思う。
ツリーを壊したくてたまらなかった。もう二度とこんな職場に行くものかと思った。
帰っている時、1人の社員から電話があり、「どうしたのですか?体調が悪いのですか?」と聞かれた。
僕は涙をこらえ、体調が悪いと嘘をついた。

次の日も1人で朝早く、出社して、いつものように、面談をした。
昼過ぎに、みんなが出社してきて、「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。
僕も頑張って、みんなに言った。
「もうすぐ、クリスマスだね。昨日はツリーを飾ってくれて、ありがとう。」

みんな微笑んでいた。