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おもしろき ー熊本、鹿児島、宮崎で過ごした日々🌟🌟🌟

おもしろきことのなき世をおもしろく!Carpe Diem. 人間万事塞翁が馬。人生いろいろあるから、おもしろい!

布団の中で

2011年11月26日 02時42分30秒 | 回想録
寒いので、
布団に入り、ブログを書いている。

とりとめもなく、昔を振り返えろうと思う。

小6の頃から中3にかけて、とても仲のよい友達がいた。

高校が別々になり、少しずつ疎遠になっていったが、相当仲がよかったと思う。
当時は、携帯などない。受験前、お互いに起きているかどうかを確認するために、12時から一時間ごとに、懐中電灯で連絡をとりあった。

それが結構、励みになった。
近辺の友達達もそうしていたので、1時くらいは、どこそこから懐中電灯の光が飛びかっていたと思う。

当時はみんなラジオを聞いていて、翌日はラジオの話題になることも多かった。
今ほど豊かな時代ではなかったが、みんな心は健康だった気がする。

中森明菜が全盛期で二年連続レコード大賞をとった。
今でも、ミアモーレを泣きながら歌っている姿を思い出す。
たまに、ミアモーレが流れてくると、物凄いノスタルジックな何かが僕を襲う。

僕の世代は皆、そうだと思う。暖房でなくストーブの世代だ。

皆、ストーブの上で餅を焼いていた。

鍋に缶コーヒーを入れて、ストーブの上で沸かしていたはずだ。

ミアモーレはその状況にリンクする。

さみしいようで、せつないようで、何か温かみのあるようなあの時代。

僕の中学時代はまさに昭和が終わろうとしていた頃だ。
消費税もなかったし、自動販売機にお茶もなかった。
水が売られるようになるなんて、当時からすると考えられない。

アイスクリームは全て50円。果汁百パーセントのジュースはほとんどなく、あったとしても、破格の値段で、みんな、薄めて砂糖を入れて飲んでいた。

当然、コンビニはなく、8時になると真っ暗で、不便な時代だったと思う。

最近はすっかり便利な暮らしに慣れてしまって、もうあの頃の生活には戻れない。
それでも、あの頃には皆、夢があった。右肩上がりで経済が発展していたので、皆、裕福へと向かっていた。
今は便利な世の中になったけれど、貧困へと向かっている。

もうすぐ、超格差社会になり、ほとんどの人が食えなくなる時代になる。

さあどうしたものか?

あんまり考えてもしょうがない。
精一杯生きているうちに劇的な何かを思いつきたいものだ。

さあ、眠ろう。いい夢見ようと思う。グッドナイト。

誰も知らない僕

2011年11月10日 02時34分42秒 | 回想録
11月10日は僕にとっては、思い出深い日である。
19年前の平成4年に初めて、自らの意志で、日記を書いた日である。
3ページにわたる長さで、いろんな出来事や心境が綴ってある。
日記は「誰も知らない僕」というタイトルで、人に見せられるものではない。

二十歳の頃はしょぼいかな、好きになった女の子と目があっただけで、淡い期待を抱いたりしている。
女友達はたくさんいても、好きな女の子とは話せない。情けない限りだ。

他にも、学園祭のこと、授業のこと、聞いている音楽のこと、友達のことなど、盛りだくさんな内容だ。

せっかくだから、11月10日の日記から、最後の一段落だけ、紹介する。

「家に帰ると貧乏暮らしが待っていた。ぶーきち(友達)はうちに1ヶ月泊まっていて、いちもんなし。なけなしの金で二人ぶんの、のり弁を買いに行く。それでも腹がへり、オージ(友達)にパンを買ってきてもらう。そこへ柳沢(友達)が現れた。柳沢は貧乏の極致だった。
財布には300円しかなかったが、200円と冷蔵庫の中のご飯ですよを柳沢にあげた。
明日は明日の風がふく。金は天下のまわりもの。そんなことをいいながら、みんなでテレビを見た。
みんなが帰っていくと、寂しさが込み上げてきた。
ぶーきちはもういびきをかいている。
土曜日は熊本のマッキー(友達)のところにしんいち(友達)と泊まりに行く。それまでにお金をゲットしなくては。
まあ、どうにかなるだろう。
やばい3時になろうとしている。明日の一時間はゼミ。もう寝ることにする。
明日こそは忍ちゃん(好きだった女の子)に話しかけよう。」

日記はいい。記憶が甦る。恥ずかしいこともしょぼい自分もまた人生の一ページ。昔の自分に会える。

毎日でなくともよい。大学ノートに書きたい時に書けば、必ず後で、よかったと思える時がくると思う。

誰も知らない僕(私)、是非トライして欲しい。何かが変わると思う。

教育実習

2011年10月28日 10時01分52秒 | 回想録
教育実習に行った時の夢を見た。

大学の時、学校の先生になるつもりはなかったが、気が変わるといけないと思い、教職課程をとった。
四年の頃、教育実習で母校を訪れた。
高校3年のホームルームを任せられ、緊張しながらも、大いに楽しんだ記憶がある。
一番早く出勤して、一番遅くに帰った。十二時間は学校にいて、雑用などすべてやった。

最後の研究授業では、校長、教頭など10人の先生が見に来た。
奈良時代の政治史のところで、道鏡などが出てくるところだ。
緊張したけれど、スイッチが入って気分がよかった。根っからの目立ちたがりやかもしれない。

夕方、みんなが帰った後、ホームルームのクラスの机を並べていると、女の子達が手伝ってくれるようになった。
学校の先生になるのもまんざらでもないなと思ったりもしたが、結局その道は選らばなかった。
青春の一ページとして、教育実習を生涯、忘れることはないだろう。

夢がまた昔を思い出させてくれた。ありがたい。

不思議の国のアリス

2011年10月20日 00時52分38秒 | 回想録
小学生低学年の頃、遠足で、小学校の近くにある、カッパの湖という名の湖に行ったことがある。

ずっと、そう思っていた。
グリーングリーンをみんなで歌いながら、山の上を目指す。
その緑色の湖は、底なし沼だとか、恐竜や河童などが棲んでいるとか、噂の絶えない湖だと記憶していた…つもりだった。

高校になって、ふとそのことを思いだし、弟と自転車でその湖を目指した。

しかしどこにもそれらしき湖はない。
弟に言われた。
「兄ちゃん、その湖、夢の中でみたんじゃないの?」
不安になって、数人の同級生に、その存在について尋ねると、誰も知らない。

みんなの記憶がなくなっているに違いない。そう思っていた。

大人になって、そのことをまた思いだし、友達を連れて、昔の小学校を訪れた。車を停め、記憶をたどりながら、一日中、近くの山を探してみた。
いくら探しても、そんな湖は存在しない。
駄菓子屋さんで、昔、この辺りに湖がなかったか尋ねるも、手がかり一つない。
正直、夢だったのかと自分を疑い始めた。
確かに、僕はリアルな夢を見るし、低学年の時だから、妄想していた可能性はある。
それでも、河童の湖という看板、グリーングリーンの合唱、友達との湖についての会話、それ以上にあの湖の色。
それらが全て夢だとはどうしても思えない。

もしかすると、僕は不思議の国のアリスで、僕だけが経験したのかもしれない。

失敗談-大学編

2011年10月07日 01時53分44秒 | 回想録
大学時代、塾のバイトを始め、稼いだお金はすべてお酒に消えた。
友達、後輩、教授などいろんな人と飲みに行った。
当時、三人以上集まると、古今東西というゲームが始まり、罰ゲームはお酒の一気飲みだった。
今の大学生と違って、ほとんどの学生がお酒を飲んでいた気がする。
もしかすると、僕の周りだけかもしれないが…。

20代前半はお酒に飲まれ、美味しく飲むということを知らない。
酔いたいだけのために飲むと言っても過言ではない。
若い時、酒で失敗したことがある人も多いと思う。

僕もその1人だ。恥ずかしいが語らねばなるまい。

大学3年の時だったと思う。サークルでログハウスに泊まることになり、夜はやはり飲み会になった。
定かではないが、男五人、女五人くらいだったと思う。
いつものように古今東西が始まった。
最初に負けると一気飲みで酔いが回り、負け続けることになる。
最初が肝心なゲームだ。
結論から言えば、負けてしまった。そして、負け続けた。
幹事の威厳などもはやそこにはない。
トイレが近くなり、何度も用を足しにログハウスの外にでた。
何度目だったかわからないが、ログハウスを出てから、記憶がなくなった。
そして突然の吐き気で記憶が戻った。
なんと、知らない女の子達とトランプをしている自分がいた。
どうも、ログハウスを間違えたようだ。
自分のログハウスに戻ると後輩達に責められた。
心配して、随分探してくれたようだ。
しきりに、何処にいたのか尋ねられたので、気持ち悪くなって、山のなかで、ずっと戻していたと嘘をついた。
三時間近く、知らない女の子達のログハウスでトランプをしていたみたいだ。
次の日、カレーをみんなで作っていると、トランプを一緒にした女の子達が手を振ってきた。
よそよそしく手を振り返すと、後輩達にどんな知り合いか聞かれたので、昔の知り合いとまた嘘をついた。
若い時のお酒の一気飲みはよくない。
宮崎にも、飲む度に記憶がなくなる友達がいるが、たまにトラブルに巻き込まれてしまう。
記憶がなくなっても全く変わらない友達もいる。

これからも、お酒との縁は続く。
飲んで、楽しい。いつでもそうありたいものだ。

大学時代の失敗もその時は焦るものの、よき思い出だ。
失敗を重ねながら、人間力を高めていけばよい。
失敗したらまた、やり直せばいい。妙なプライドはいらない。
そうやって生きたいものだ。

失敗談-高校編

2011年10月03日 13時06分59秒 | 回想録
高校生の時は毎日三時間から五時間しか眠る時間がなかった。
今からすると、とてつもなくきつい生活だったと思う。
それでも毎日、心花があり、楽しい日々だったと思う。
高校の頃は起きている時間も長く、いい意味でも悪い意味でも、行動力が身についたおかげで、たくさんの失敗を経験した。

今、思いつくものを一つ紹介したい。

高校は公立に落ち、30㎞離れた私立高校に二次募集で合格した。
朝課外に間に合うJRはなく、自転車通であることは前にも述べた。
毎日、往復四時間、自転車に乗っていることになる。いろいろあって当然といえば当然だ。

大雨の次の日、学校の近くの田んぼ道は水がなかなか退かず、小川と田んぼの境界がわからなくなる。
僕は性格的に一番近い道で帰らず、いろんな道を試したくなる。
田んぼ道が水で見えなくなっているという事実がまた僕のトライ精神を掻き立てる。
200メートル先に出口が見える。
そこを目指し、水しぶきをあげながら…。
自転車は小川の中に沈んでいった。
その日は近くの友達の家に泊めてもらった。
辞書をドライヤーで乾かすと二倍の大きさになった。
自動車専用の場所を自転車で走ってしまい、警察に捕まったこともある。
次の日、職員室で先生達に大笑いされた。
昔から天然だった。

楽しい日々だった。本気で人を好きになったのもこの時期だったし、勉強も本当に大変だった。
それでも、実績のないこの高校から、何がなんでも、大学に行きたいという夢があった。
僕の中では世界一素敵な高校であった。
闇から救ってくれた先生達のことを心から尊敬している。
感謝の気持ちを忘れず、失敗を恐れず、前を向いて歩こうと思う。

失敗談-中学編

2011年10月02日 00時02分46秒 | 回想録
昔から、笑い出したら止まらない。
笑ってはいけない場面で、はまってしまったら、最悪だ。
緊張した場面であるほど、笑いは止まらなくなる。
そういう経験をしたことがある人も多いと思う。
笑いたくて笑っているわけではない。
それでも、笑いは込み上げてくる。

僕の場合は、公立高校入試という人生の分岐点で、それは起こった。

集団面接の一番緊張した場面で、友達の一人がかみまくり、隣の親友が一生懸命、笑いをこらえていた。
その顔を見ると、もう駄目だった。
我慢しようとすればするほど、込み上げてくる。
質問のほとんどに答えられなかった。
注意も受けた。背中から冷や汗が流れるのがわかった。
それでも、一度はまるとその地獄から抜け出すことはできない。

今、考えれば、そんなふざけた、真剣さに欠けるやつを誰が合格させるだろう。
それでも、僕は楽観的で、合格するものと思っていた。
あの時、笑ったおかげで、素晴らしい先生達に巡り会えた。
一番苦手だった英語を一からやり直してくれた。
まさか今、英語を教えることになるとは、あの頃からは想像だにできない。

公立高校に合格できなかったことをひきずっていた時期もあったことは否めない。
『禍転じて福と成す』
幾度、この言葉に力をもらったことか。

こういう経験にも懲りず、今でも、笑いが止まらなくなる。些細なことで笑い始め、波に乗ると、世の中全てがおかしくなる。

10年前、野口くんという会社の後輩がいて、夜中に、よく朝まで、英語の勉強会をしていた。
4時くらいになると、ちょっとしたことで笑いが止まらなくなり、よく涙を流していた。

これからも、いろんな失敗を重ねるだろう。
それでも、もしかすると、それは神様がいい方向へ僕を導いているのかもしれない。
そう信じて、失敗を恐れず、思いきって生きていこうと思う。
小さくまとまってはだめだ。大きく生きるのだ。

失敗談-小学編

2011年10月01日 06時10分55秒 | 回想録
小学5年まで、とてつもない田舎に住んでいた。

一度、さらに田舎の奥野という地に住む友達の家へ遊びに行き、一人で帰ったことがある。その友達の名を那須くんという。
余談だが、宮崎の県北の山の方は平家の落人が多く、那須や椎葉に名を変えて、生き延びたという。
彼も山に住んでいるものの、凛としたところがあり、平家の血をひくものであろう。

話を戻す。
彼の家から帰る途中、川が流れていた。何故かわからないが、向こうに橋があるというのに、どうしても川を歩いて横切りたい衝動にかられた。
靴をはいたまま、渡り始めた。泥の中に足がめり込んで、なかなか進まない。
川の真ん中あたりで左足の靴が抜けて、そのまま泥の餌に。
引き返すべきか進むべきか迷いに迷い、進むことにした。
何度も、足をとられて、身体中が泥まみれになった。
多分、秋だったと思う。ぶるぶる震えながら、片足裸足で家に着いた。
無論、母親にこっぴどく怒られた。

今、考えると、不思議な少年だったと思う。
好奇心の塊だったような気がする。
それは、今でもそうだ。日常から離れなければ何も変わらない。
繰り返しは面白みに欠ける。思いついたらトライする。それが僕の生き方だ。

失敗談-幼児編

2011年09月30日 03時09分31秒 | 回想録
3歳の頃からの記憶があることは以前このブログに書いた。
生まれてから、記憶する中で、初めての失敗談と呼べるのは、何歳であったか定かではないが、幼稚園に通う前であったのは間違いない。
当時、トイレはほとんどの家が汲み取り式、いわゆるぼっとん便所で、小さな子供一人で行くには危険過ぎた。
ある日、用を足すために、母親にトイレに連れて行ってもらった時のこと、僕は左手に仮面ライダーブイスリーの人形を持っていて…。
あとは推測に任せる。

とにかく、泣いて、母親にアピールしたが、母親はその事件に気づかないまま、今にいたっている。

失敗談と言うより、初めてショックを受けた日かもしれない。
余談だが、雪が初めて積もったのもこの年で、初めての雪に感動しっぱなしだった。
テレビは白黒で、ほとんどテレビをつけることはなかった。
皆、貧乏だったが、夢のある時代だったと思う。

幼稚園は市営のバスで通った。当時の幼稚園児は逞しく、迎えなどなかった。遠くの児童は自分でバスに乗って帰っていた。
帰りのバスの中で、事件は起こった。
何と、バスを止める時に押すボタンが見当たらない。初めて見る内装で、当然焦る。岩田くんという友達と一緒に帰っていたが、彼もわからない。
自分が降りるバス停で、誰かボタンを押してくれることを切に願ったが、そのままバスは通り過ぎた。
次のバス停で、岩田くんは降りることになっている。今度は、誰もボタンを押してくれないことを願ったが、ピンポーンという音が耳に鳴り響いた。
岩田くんは僕から去り、ついに一人になった。
運転手の後ろに行き、説明しようとしても、言葉が出なかった。
ただ泣くしかなかった。
結局、終点まで行くことになり、両親が車で迎えに来てくれた。
何故、岩田くんと一緒に降りなかったのかなど、責められたが、どうして幼稚園児にそんな機転がきくだろうか。
とにもかくにも、幼稚園児にとって、一人しか乗っていないバスで、見たこともない終点まで行かなければならない心細さは、経験してみなければ解るまい。

遠い記憶をたどってみるのもまた面白い。
さあ、今から読書だ。魂が震えるような本に出会いたいものだ。

行縢山

2011年09月26日 12時20分20秒 | 回想録
亡くなった知り合いが夢に出てくることがある。
目覚めるとすぐ、彼のことを思い出したので、夢に現れたのかもしれない。
昨日は疲れていたせいか、夢の記憶がない。

彼は同じ会社で働く2つ下の社員で、10年くらい前に会社を辞めた。
その後、コンタクトをとることはなかったが、数年前ファミレスで食事をとっている時、倒れ、そのまま亡くなったっと風の噂で聞いた。
何故彼のことを思い出したのか、わからない。
あまり、接点はなかったが、一度だけ、彼を含めた3人で山登りに行ったことがある。
山の名前を行縢山(むかばきやま)という。
岩肌むき出しの険しい山で遭難して亡くなった噂をよく耳にしたことがあった。
登山初体験の僕達は何も知らず、昼の3時くらいに登り始めた。
頂上に着いたのは6時前だったと思う。
夕陽がきれいで、今でもあの光景は目に焼きついている。
無論、周りには誰もいなかった。3人で陽気に夕陽を眺めていると、ふと、僕はあることに気がついた。
この太陽が沈んだら、この電気一つないこの山をどうやって帰るのだろう。
その旨を二人に伝えると、理解して、小走りで山を下り始めた。
案の定、10分もすると、もう見えなくなった。
道を覚えるのが得意な僕を先頭に下り始めたが、残り二人が道で滑ったり、倒れたりして、なかなか進まない。彼がついに泣きはじめ、マッチに火をつけながらゆっくり帰ることにした。マッチがなくなると、彼は座りこんでしまった。
しょうがないので、もう一人の年輩(久保先生)に彼を預け、僕は一人で山を下り、ふもとの車の中から懐中電灯を持ってきて、彼らを迎えに行くことにした。
どんどん山勘で下っていく。一人になるといろんなうめき声めいたものが聞こえた。どんな生物の鳴き声なのか、よもや霊なのか不思議に思ったが、何故か怖くなかった。
懐中電灯のことだけ考え、気合いで山を降りた。2、3回は転んだと思う。
車が見えた時は自分の才能に驚いた。
正直、山勘だったので、半分は諦めて、一人で朝を待とうなんて考えたりもしていた。
懐中電灯をとると、英雄気取りで、再び山を登った。
これまた奇跡的に彼らを発見。3人でゆっくり山を下った。
貴重な経験をしたものだと、年輩の久保先生と語り、飲みにいく話になったが、彼は、少し腹をたてた様子で、すぐに家に帰って行った。
久保先生に待っていた時のことを聞くと、相当、怖かったらしく、ずっと泣いていたようだ。
かわいそうなことをしたと反省しながら、結局、飲んだくれた。
その久保先生も数年前、会社を去り、鹿児島で個人塾を経営している。
ほんの数日前、数年ぶりに彼からの電話が携帯の履歴に残っていたが、電話を返さなかった。
他意はない。トラブルに巻き込まれそうな気がしたからだ。
大体、僕の予感は当たる。
彼は性格もよく、大胆で、話していて楽しいことが多かったが、トラブルをもたらすことも多かった。

話はすっかり変わってしまったが、亡くなった彼と久保先生と3人で登った行縢山のことを生涯、忘れることはないだろう。

ふと目が覚めて、誰かのことを思い出すことがあるかもしれない。
夢の中で、重要な会話をしているのかもしれない。それをほとんどの人は覚えていない。

あらためて思うが、夢は不思議だ。次はどんな夢が僕の記憶をよみがえらせてくれるだろう?
楽しみだ。

コオロギの合唱

2011年09月09日 02時39分59秒 | 回想録
勉強が一段落したので、携帯でブログを書きはじめる。
何を書こうか決めていない。
書きながら、何か思いつくのを期待している。
耳をすますと、コオロギの合唱が聞こえる。

今の会社で、新入社員だった時、配属は日向で、そこの長が海老原先生であったことは以前このブログにも書いた。

当時、僕と同期の新入社員がいて、彼は今、宮崎の教室で責任者をしている。

同期というのは、年も近く、仲がよい時もあれば、もめることもある。
考え方の違いで、腹をたてたこともあるが、今になれば、彼の気持ちがよくわかる。
おおざっぱで、気持ちだけで仕事をする右脳人間だった僕に対して、彼は、パソコンを駆使して、細かい仕事を確実にこなす左脳人間だったと思う。
若い時というのは、自分ばかりが正しくて、他人の仕事を認めない傾向にある。
僕も例外ではなく、パソコンばかりしている彼の姿によく腹をたてたものだ。

今では、僕もパソコンなしでは仕事ができない。

話を変えるが、海老原先生達とよく彼のアパートで焼き肉をした。

数人で集まり、決して仕事の話はせずに、野球の話や馬鹿話ばかりしていた記憶がある。

そして毎回、近くのカラオケボックスにみんなで、歩いて行った。
田んぼ道で、コオロギが合唱していた。
こんなにも大きな音が出せるのかと驚いた記憶がある。

今聞こえるコオロギの合唱が、遠い記憶を運んでくれた。

ふとしたことで、昔を振り返ることが皆にもあると思う。
思い出したくない思い出なんてない。
悲しいことも、苦しいことも、眠れぬほど悩んだことも、時が経てば、素晴らしい宝物と思えるはずだ。

ふと立ち止まり、昔を振り返る時があってもよいと思う。
さあ、また勉強を再開しよう。そして限界がきたら、寝ることにする。

頑張ろう。それが大事だ。



2000年イン日向

2011年09月02日 02時44分19秒 | 回想録
共通テストは明日、国理英。
僕の役目はとりあえず、今日で終わり。
質問受けは楽しかった。必要とされるだけで生きる価値がある。

家に帰り、2000年の日記を開けてみる。

写真が一枚入っていた。懐かしく、涙がこぼれた。
職場が日向の時の写真だ。
300人近く生徒がいたと思う。
写真に写っている七人はそれぞれの道を歩んでいる。
二人は学校の先生になり、一人は町役場に勤めている。
一人は亡くなり、もう二人の消息はわからない。
僕だけが今の会社にいる。
人間塞翁が馬だ。
予測できない。

精一杯生きて、天下をとりたいものだ。

活水舎

2011年08月23日 11時32分16秒 | 回想録
昔の夢を見た。記憶が甦った。
中学2年の時、若葉塾という寺子屋のような小さな塾に通っていた。
学年トップの生徒が通うような塾ではなく、補習塾だったと思う。
若い男の先生が、四畳半の部屋で小さな黒板を使って教えてくれた。
ほんと分かりやすい優しい先生だった気がする。
当時は成績もよく、学年で一桁だったが、テスト勉強をさぼって、30番くらいをとってしまった。
情けないことに、親に塾を変えるように勧められ、同意してしまった。
変えた塾は、確かに学年トップの生徒がいろんな学校から来ていたが、授業は全くわからなかった。
後悔したが、言い訳になるので口にだせなかった。ただ、この塾でできた友達との友情は今でも続いている。
たまに思う。もし塾を変えずにいたら、高校は合格しただろうか?どんな人生をその後、送っていただろうか?
失敗も経験で、大切なことだけれど、人生の選択を間違ったのではと思うことが誰しもあると思う。
でも、高校に落ちたおかげで、きっといい人生がおくれているとも思う。
終わったことは仕方がない。今からどう生きるかだ。
さあ、頑張ろう。明日はまた休みだ。
ちなみに変わった塾を活水舎という。
今、あるかどうかはわからない。
若葉塾も活水舎もまだ、存続していてることを願う。

2011年07月20日 13時01分25秒 | 回想録
蝉がなく。

この合唱を聞くと、小学校の時のラジオ体操を思い出す。

朝起きるのがつらかった。
あれはいじめだ。

スイカ、かき氷、川遊び、キャンプ、祭り…

蝉の声はいろんなものを思い起こさせてくれる。
今日は涼しい風が吹いている。

いろいろ頑張らなくちゃね。

流行

2011年06月26日 07時01分38秒 | 回想録
15年くらい前だと思う。プリクラが流行し始めたのは。
たまごっちやAIRシューズをみんな持っていた。

就職したての頃だったので鮮明に覚えている。

まだバブルがはじけていなかったと思う。

AIRシューズは数万していたのに、当時の生徒はみんな持っていた。

当時の服は異常な値段で、一つ買うと、お金がなくなった。

今、ずいぶん、物価が安くなったような気がする。\(^-^)/

給料が貰える。
使い方を間違わなければ、少々の贅沢はできる。

時代にあわせて、生きなければ駄目だ。

変わらなきゃも変わらなきゃの標語が流行した時もあったが、本当にそう思う。

今の社会にあった生き方をしよう。

でも僕がプリクラにはまったのは流行の3年後だったと思う。

その時の一枚を掲載。

ブログって本当に便利だと思う。
続けよう。