オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

食べて寝て、少し愛して糞するべ

2023-02-20 10:06:32 | 地球と生きる

 

 日光を開山した修験者の勝道上人は、古峯神社界隈を居場所にして、連山を修行の場としていたと言う。

 男体山そのものが神の山で、戦場ヶ原では男体山に棲む大蛇が、赤城山の大ムカデと戦った訳だが、どちらの山にもその傷を癒したという血の池がある。

 聞いているうちは楽しいが、そこになんども身を置いてみると、馬鹿馬鹿しくもなる。

 修験者の祖は、役小角と言われ、古来の山岳信仰に仏教の密教的な部分が混ざり合わさって、修験者・山伏という流浪の衆が登場したことになっているが、江戸から明治の大転換時に、天皇家すら入れ替わって、修験者や山伏も廃止・定住という掟が出来た。

 どこの古い山に登っても、日本武尊の話は出て来るように、山体そのものが信仰の対象になっていたことは本当だろうが、では日本武尊が実存したのか? については怪しいものだろう。

 開山500年そこそこの山や神社でも、日本武尊が開山したとか、笑える由緒があったりする。

 日本各地に、もともとぶっ飛んだ価値観で生きて居る山岳信仰に身を捧げる熱烈猛者の信者がいて、近隣の人たちがそれを噂の日本武尊ではないのか? 生まれ変わり? とヒソヒソやってるうちに真実になってしまったとか、変わった形の山や岩や渓谷を、昔話にしてダイダラボッチの仕業だとか、コロボックルの仕業だとか、そもそも読み書きが社会には習慣のなかった時代に、庶民が信じてしまうような寓話を仏教の伝来とともに最初に知識として得た連中が、日本独自の話として作り上げたのが本当だろう。

 堅苦しく、おどろおどろしい話ばかりだと面白くないから、奇岩や奇木を男根だと注連縄を張ったり、滝の形が濡れた女陰だとほざいたり、愉快な話もどこにでもある。

 そうやって人民を奴隷化し、管理統治する方策として、ガス抜きの笑い話を散りばめてるだけ。

 ここで修行をした? ならばもっと向こうの山の方が良かっただろうに、なんで?

 あちこちの山に登っていると、そんな作り話の安易な嘘が、すべて丸見えになってしまう。

 いつの時代も、自らは動かず、欲望に丸々と太った連中は、だんだんに安易な嘘を作りあげて怠惰な生活に身を窶すようになることが、それで解ってくる。

 馬脚を顕わすと言う。

 一般社会でも、多くの経験を現場で積み重ねて生きて居ると、嘘は丸見えになってくる。

 即座に見抜けるとも言える。

 毎週まいしゅう日本中の山に登っていると、1000年以上は続く古い寺や神社に立ち寄るのも、日課みたいなことになっているが、実際に山に登っての帰り道、なんども立ち寄っているうちに、辻褄が合わないと知ることも多々あるわけで、そんな由緒や歴史の捏造の上に胡坐をかいて修行もせずに暮らしている今の僧侶や神主が聞けば死活問題にもなるような、そんな話は五万とある訳だ。

 学者や専門家も、食いはぐれることになる。

 地元の商売もあがったりになる。

 経済の活性化や村おこしの妨げになる。

 だから俺は黙って笑っているが、仕事柄、口伝喋りは達者なまんまだ。

 すぐに日本武尊を騙るような寺社や観光地は、やめといた方がいいし、嘘はじきに解ることだし、嘘や虚飾が酷いほど、振り子のようにダメージも酷くなる。

 閉鎖的に、隔離して淫靡な日常に浸っている組織やグループは、いつの時代も内部から壊れはじめ、独尊がただの孤立に変わってゆくさ。

 その後に連綿と続く厳しい修行僧でもおればまだしも、ただただ山奥で生きる為の糧として、安易に歴史を捏造して胡坐をかいている寺社も多くあると、言っておこうか。

 いま、そこにいる坊主や神主は、どんな厳しい日常を送っているのかを問えば、嘘は即座に解ってしまう。

 そんな場所に、ノコノコ阿呆面下げて心を清めに行くだとか、生まれ変わったとほざいてるだとか、それはそれで良いことなんだろうが、日常に戻ればすぐに俗社会の糞にまみれ、おなじ過ちを繰り返しているのが人間だ。

 

 簡単な話を、ひとつ。

 言葉やその使い方、ひとつひとつの意味や解釈、それらを反復作業で洗脳教育されるのが義務教育だが、俺のように小学校だけでも6回転校をしていると、その洗脳を受けずに自由自在に生きてしまい、逆に集団のおかしな生態だけが笑える喜劇として目に見えるようになる。

 こういう事件や事故が起きる、その解釈や反応は画一化され、そこで泣いたり怒ったり笑ったり、幸せを感じてみたり満たされたりも、すべておなじ動きになるように、義務教育で仕上げられている。

 突発性のアクシデントや、予期しないトラブルが起きると、単細胞に洗脳された多くの国民は、動転し、混乱する、マニュアルに無い事象が起きると、すぐに金で解決しようとし、他人に頼って法律に訴える。

 会話はなんのためにしているの?

 自分を認めて欲しい話ばかり? 自慢話? 他人の悪口? 新聞・テレビにネットメディアの話題の退屈な垂れ流し? なんか違うと考えて、なぜ生きるのか? 楽しく生きるとはどういうことなのか? 考えてメディアを介して情報を探しているうちに今度はマルチや宗教が入り込んで来て、虜にさせられている。

 常にメディアに頼って受け身で生きて居ると、現代社会では玩具にされて消費に利用されるだけ。

 メディアなど介さずに、大事な話の出来る身内ではない近親者がどれほどいるのか?

 聞いてみたい。

 そのまんまで生きて行けば、老後は悲惨なことになるだろう。

 世界中の国家ですら、フラフラしている時代に、腹の底から笑い飛ばして生きて行くことなど、夢で終わるぜよ。