長井こうすけのたたかい日記 

【地域主権・岡山モデル】の構築を先頭に立って提唱する、北区選出の民主党岡山市議会議員・長井孝介の日々の記録です。

あり方の定義。

2012-02-23 12:09:40 | Weblog
可愛い、かわいいと可愛がっているウチの“そうり”くん(ウサギ)。
ネザーランドとして大きさの成長はもう止まり、あとは精神的?成長…
落ち着きや慣つき…という部分が期待される、期待のホープ。
今年は初めて「コタツ」というものを体験し、すっかりお気に入りで
ゲージから出すとすぐに、自分の縄張りのように潜り込み、温まった後も
出てこず中で寛いでいます。。。

嫌なことあっても、しんどい毎日が続いても、彼がいつも変わらず居て
くれることでどれほど癒されてきたか…どんなペットにも共通することでしょうが、
彼の存在に感謝しながら時には意地悪してみたり、悪戯されて叱ってみたり
しながら共に過ごす毎日です。
可愛がっていながらも、彼の爪が伸びっ放しになっています。
切ってあげる技術を持たない私は、一日も早くショップに連れて行って
適切な長さにしてやらなければなりません。
…毛繕いにも、若干影響するでしょうから。

さて、たとえば街中を歩いていて傍らに転がっている石があるとします。
それがいわゆる“あるべき姿”であるのであれば良いのですが、
“なんでこんな所に?”と思わせるような石も、たまには転がっているでしょう。
そんな時、果たして自分は立ち止まれるだろうか?
立ち止まって、立ち戻って、あるべき所に戻せる/運べるだろうか?

道端に落ちているゴミだったらどうだろうか?

ゴミ箱に捨てようとして、悪気なく箱内に入れ損なったとき、
果たして立ち戻ってきちんと入れ直せるだろうか?

“まぁいいか…”
この積み上がりが、誰かの、何処かの、社会の負担になってはいないだろうか?

人との会話でも、意図せず言い過ぎたり、誤ったり、何らかの引っ掛かりが
生じたとしても、
“まぁいいか”と思い、判断し、やり過ごしていることはないだろうか。
その積み重ねが、対人関係にマイナスの要素を作っていないだろうか。

ストレス。
現代社会において常識のように受け入れられている対象物。
こと“受け手”にとっての問題と捉えられているように感じますが、じつは先述したような
流れで、受け手に限らず“与え手”にも巣食っていると確信します。
“まぁいいか”
は、頭では思っていても流していても、心には確かに残っていて、それが溜まって
加害という一つの可視化を成してしまう。…かな、と思うのです。

“まぁいいか”と思いそうになった時、
どれだけ“まぁいい”にせず振り返れるか。
気になったことをどれだけ流さず忘れずいられるか。
違うと感じた物事にどれだけ食いついていけるか。
間違ったかな…と感じた時にいかに素直になれるか。

それを成せたなら、心の“溜まり”は無くなり、ストレスは解消され、
加害に転じる機会もより失われることにはならないでしょうか。

たとえば子どもたち。
たとえば可愛い動物たち。
彼らの姿を目にしながら、“いいなぁ”と感じる心の理由を考えるのです。
たとえば、
ぶつかりを避けることが大人の知恵であり社会の不文律のように生きても、
そこで抑えた摩擦はどこにも消えていないのだ。姿形を変え、必ず表に出る。
ちょうど「エネルギー交換の法則」と同様に。
ぶつかるべき時はぶつかり、怒るべき時は怒り、戦うべき時は戦っておくほうがじつは、
人間として社会として、男として女として、正常に機能し生きていけるように思うのです。

ウチのそうりくんは
とても可愛い姿をしていながら、方々から可愛がられながらも、
いつまで経っても凛とし、ご飯の時だけ愛想を振り撒き、しかしトイレだけはきちんと
決まった場所でし、な~んにも考えてないような風体で僕たちに安らぎを与えてくれる
んです。すごいですね。

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