こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

総合学習と生きる力(私のパートナーの言葉より抜粋)

2005年01月20日 | 教育
伴侶が、今回の動きに関して、
とても身近な視点で、
女性らしいお母さんらしい視点で、
深く洞察しておりますのでここに抜粋します。

「導入から3年 ゆとり路線転換 総合学習見直しに着手
    文科省 基礎的教科重視へ」
  

えっ?なぬ?
内容を読むと、この意見ばかりではなさそうで、ほっ!

「ゆとり教育」というキャッチに、以前から疑問はある。
”ゆとり”というより、”生きる力”の方が好き。
総合学習は、その大きな担い手だと思っている。

個々の先生の生き様が、伝達できる場であり、
また、核家族で育つ現代の子が、地域とふれあう場であると思う。

総合学習は、
 人が人の中で生きていくことを学ぶ場でもあると思うから・・・。
 基礎学力は、訓練だと思う。
 総合学習は伝達
 地域の方を手助けを計画するのも、先生の伝達力
 パソコンに使われるのではなく、使う事を学ぶのも伝達力。
 それぞれの先生の伝達力があっていい。

子供が6年間で、6人の先生の伝達を学んだら、
 そこにこそ、「生きる力」は育つと思うのだけど・・・。

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次男が、総合学習で班ごとに、地域の施設を学んだ。
その時、学んだのは、礼儀。
同時に地域の方が、子供達がかわいいという印象をも植え付けた。
 練習しただろうけど、緊張な面もちでの挨拶が、
 地域の方の心をほぐし、丁寧に対応してくださる。
 おかげで、子どもも自然と言葉遣いが丁寧になり、
 お礼の挨拶まで清々しく終わる。
教室では学べないよね・・・こんなことと思う。

長男の同級生に心根はいいけど、勉強嫌いな子がいた。
趣味は、魚釣りで魚のことならおまかせ。
この子は、ひょんな事から基礎学力が付いてきた。
それは、家庭学習に魚辞典を写すことを始めたときに・・・
 漢字の練習はしないのに、
 漢字いっぱいでも、魚の説明文なら読んで書き写す。
学ぶことの楽しみに気付いた時に、子どもは変わる。
 基礎学力は時間数だけの問題ではないのだと
  この子にきづかさせられた。
 子どもの柔軟な脳味噌は、
  意欲が伴えば短時間で吸収できるのだとも・・・。

昨年のことだけど、
 昼休み学校に行ったとき、
この子が、走ってきて、教室まで手を引っ張って行く。
作文を見せたいという。
原稿用紙1枚書くのが精一杯だったのに、
 3枚書いたよ。読んで・・・と(^^)
この嬉しそうな表情が、”生きる力”に通じるのだと思う。

やっぱり、総合学習は”生きる力”の伝達で、
基礎学力は、訓練。
 それは、時間数で計れるものではないと・・・・


我が子はどうかって?
あぁ~~我が子は・・・(^^;)聞かないでぇ~
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自立を促すモノ、阻害するモノ・・・

2005年01月20日 | 教育
>親の教育能力の欠如 (菴摩羅果) 2005-01-19 22:48:26

>どう考えても今は物が溢れ、節約とか、物を大事にするとか
>、一瞬学校で教えても、まわりの現実は、消費を当たり前にしている。
>お金が全てとは言いませんが、それに近い状態になっていると思うのですよ。
>多分我々親が悪いのでしょうね。そんなことすら子供に理解させられない。
>能力が無い親が増えた。

自分のことを振り返ると、身につまされます。
抱いている理想と、実際の行動とのギャップがありすぎて、
恥ずかしい限りです。
ついつい世の中の便利さに追随している私です。
(例:ファーストフードに否定的な私は、その思いとは裏腹の行動をしているのです。)

ハングリーさや、好奇心を伸ばせるような環境が大切だと、
頭でわかっていながら、それが実行できていない親。
結構多く居そうな気がします。
さらに、そんなこと全く頭にない、ただ目先のことだけ、
欲望の赴くままの親もいるでしょう。

どちらにしても、ご指摘の「親の教育能力の欠如」ズバリだと思いました。

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改名届け

2005年01月20日 | つれづれ
山寺日記を書く人のハンドルネームが「管理人」では面白くないので、
これより、

さくらんぼう

と、よりお坊さんらしく?改名いたします。

以後よろしくお見知り置きをお願い申し上げます。
コメント (3)
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長老は広角レンズで世間を見据える

2005年01月19日 | つれづれ
今日は山寺の初縁日。
観音様がご本尊さまということで、
日頃お寺を支えてくれているお世話人さんや婦人部の方々が一堂に集まって、
祝祷祈願祭が執り行われました。

祝宴の席で、総代長さんが、
「今年は、戦後から数えてちょうど60年の歳。還暦の歳に当たります。
昭和二十年も乙(きのと)の酉歳。そんなことを思いますと、
何かとても大切な節目の歳であるような予感が致しております。
災いの非常に多い近年ですが、今年を一つの分岐点ととらえて、
よりよい方向へ向かっていくことを願っております。
また、団塊の世代といわれた年齢層の人たちが現役を退職し始める
年代にもさしかかりました。都市部で生活していた多くの団塊世代が、
地方へ、ふるさとへ帰ってくることも予想されています。この方々が、
地方の原動力となって、新しい地域ができていくことにも、
何か予想のできない期待を抱かせてくれるものであります。
本日のこの佳き日が、今年の好縁となりますことを心から願っております。
・・・省略」

と述べられました。
80歳前半の総代長さんです。
毎日農作業(畜産、ミカン、水稲)で汗を流されています。
冷静沈着。
会議の時の理解力と判断力には、いつも感服します。

本日の、広い時間の流れの中で、物事をとらえ見据えていらっしゃる
その姿勢に、私はまたまた胸を打たれてしまいました。
えてして、自分に直接関わりのある目先のことにしか関心を注ぐことをしない
私たちです。

こんな風に、物事を広く見据えることのできる人が、
行政や議会の指導者であれば、市町村合併の問題も・・・などと、
門外漢なことをぼんやり思ったことでした。



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社会の中の自分

2005年01月17日 | 教育
■社会人として自立できない大人たち(若者)の状況を、
  どんな風にとらえたらいいのか?

社会と自分との関係はどうあるべきなのかを、
体と頭で理解しなくてはなりません。

生きるということが前提ですから、
まずは食べること。
食べるためには、自分は社会の中で
どのような関わりを持って生きればいいのだろうか、
ということですよね。

基本は、
働かなければ食べることができない、ということ。
だから必死に働くことを考えるし、
そのための準備を怠ることはなかった、
はずなんですよね。昔は。(ちょっと漠然として表現ですが)

ところが、現状は、無理に働かなくても、
両親や祖父母、もしくは兄弟親戚。
または、福祉行政が食わせてくれる。
結果、食えるんだったら・・・まあいいか。
ってな具合なのかしら?

社会との関係性やその目的は、
まずは食うことに始まって、と同時に、
より高次元の価値を付加していく。
たとえば、端を楽にするとかいった信念を持つことや、
家族と共に人生を歩むとか。
ボランティア的な精神を持つとか、
社会的な貢献を目標に持つとか、いろいろ。

一番大切なことは、
その人がその人なりに輝きながら
充実した人生を歩んでいくことが
できるのかどうか。
これにかかってるよね。

社会との関わり方も、
多種多様であって当然だろうから、
たとえば、
アーティストといわれる人たちの中には、
活動そのものが直接経済に結びつかなくても、
その芸術家を一生支えてくれるような存在が
あったりもしますし、そんなこと思ってると、
私や私の家族だって、お寺という空間の中で、
宗教的な事柄に携わることで、
それを支える多くの檀徒さんに支えられながら
結構忙しく生かされています。

そんなことを考えると、
自立した人間、すなわち大人といえる人は、
表面的にはいろんな形があったとしても、
何らかの目標を持って、
一生懸命生きている人。
そしてそれは、支えられてこそ可能であることを
自覚している人。
さらに、自らの責任と強い意志を伴うものである
ということをわかっている人。

っていうこともできるかも知れません。
なんだか、ありきたりな結びですが。

・・・後日は、以下の点について、
思いを巡らしてみましょうか。

■自立を阻害する要因は何なのか?

■子どもが大人になるために、
 周囲は、学校は、家庭は、どうすればいいのか?


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