こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

本当の精進努力は、自己を正当化しない

2014年05月20日 | 仏教

 私たちは、ちょっと都合の悪いことがあると、すぐ自分のことを正当化しようとあれこれ策を講じてしまう生き物です。自己防衛本能といえるかも知れませんね。私たちの経験も考え方もたかだか知れてるし、この大きな世界からすればミクロの粒よりちっちゃいはずなのに、自分の価値観や思いは「善」であると思い込みがちなんで、気をつけないといけません。子どもの頃、担任の先生からよく言われてました。「言い訳をするんじゃないっ!」と。その頃は、「そんな事言われても、〇〇〇だからしょうがない。」と、必ず理由を考えて私の正当性を心の中でつぶやいていましたね。いい大人になった今でも、似たような事象は時折・・・。(苦笑
 
 「我慢」という言葉の「慢」は、「自己にとらわれる心」ということです。自己にとらわれるわけですから、世界の中心は自分なんです。地球は、私を中心に回っています。自己正当化です。自己中です。他者を見下す心を「高慢」「傲慢(ごうまん)」という言い方をします。これも、極度な自己愛の現れかも知れません。逆に、「卑下慢(ひげまん)」という言葉があって、これは、文字通り自分を卑下して劣等感に陥らせる心です。陥らせると言っても、自分で自分を落とし込むのですけどね。「郵便ポストが赤いのも、全部私が悪いのよっ!」という卑下です。この「卑下慢」も、やはり自分を中心に置いています。これも、自己を正当化したいという心理から産まれる心だと思います。

 人には、愛されたいとか、ほめられたいとか、お役に立ちたいとか、正当に評価されたいとか、そんの欲求があります。だから、そんな欲求を充足させるために、皆それなりの努力をするわけです。頑張るわけです。で、その過程において、時に「こんなに我慢してやってるのに」とくさったりします。でも、その心の奥底に、「誰もわかってくれないじゃないか」「私の言うことを聞いてくれない」「ちっとも誉めてくれない」「誰も認めてくれない」という気持ちがあるのかも知れません。そんな気持ち、正直私もよくわかります。でもね、自己中心・自己正当化した上に立つその思いに、誰が共感してくれますでしょうか?誰も振り向いてはくれないはずです。

 「我慢」するという言葉・・・、現代的な意味合いとはだいぶ差異がありますけど、人の自己正当化の心理を表す言葉だったんだということだけでも知っておいて損はないと思いますよ。それだけでも貴重な仏縁です。

 ご静聴、ありがとうございます。因みに、慢心を7種類に分けてある仏教の分別を紹介しておきます。

<七慢>

1.慢(まん)・・・自分より劣っている人に対しては自分が勝っているとうぬぼれ、同等の人         には自分と等しいと心を高ぶらせる。

2.過慢(かまん)・・・自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は自分           と同等と見る。

3.慢過慢(まんかまん)・・・勝っている人を見て、自分はもっと勝っている、とうぬぼれ               る。

4.我慢(がまん)・・・自負心が強く、自分本位、自己中心的。

5.増上慢(ぞうじょうまん)・・・達成できていないのにクリアしたと思い、得ていないのに                得たと思い、おごり高ぶる。

6.卑下慢(ひげまん)・・・非常に勝れている人を見て、どうせ自分はダメなんだ、と思う。

7.邪慢(じゃまん)・・・間違ったことをしても、正しいことをしたと言い張り、能力が無い            のに有ると言い張る。

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